幕間 唐桃「あなた、一体どこのだれなの?」

 おそろしい夢をみた。

 闇の中で、姿形の分からないモノから逃げている。

 助けを求めようとしても声は出ず、ただひたすらに走るしかない。

 早く。早く。走らなければ。逃げなければ。

 これ以上はもう、走れない。──アレに、捕まってしまう。

 藻掻くように伸ばした手を、誰かが掴んだ。

 そのまま強く引き寄せられて、帳が取り払われたかのように視界がかわる。


 目の前に広がるのは、果てのない藤のうみだった。


 風にそよぐ藤の下、稚秋がひとりで立っている。

 その横顔が、花陰に隠されてはっきりとしない。そのまま、藤の花にとけて消えてしまいそうだった。

 沙良はすがる思いで声をあげた。

「あなた、一体どこのだれなの?」

 ゆっくり、稚秋がこちらを見た。立ち尽くす沙良を見つけて、とても悲しそうな顔を浮かべて。

「さあ、誰だろうな」

 と、掠れた声で答える。それは沙良をからかうようなものではなかった。

 彼は心底途方に暮れていて、ほんとうに分からないのだと伝わってくる

 次の瞬間、沙良は息を呑んだ。

 彼の周りで揺れる淡い色の花が、すべて紫紺に染まったからだ。

 とっさに手を伸ばすが、花散らす風がそれを阻む。花房が激しく揺れて、視界を遮った。

 とがめるような風の強さに、沙良は思わず瞼を閉じて身体をすくめる。

 そして風が止んだあと顔を上げると、稚秋の姿はそこから消えていた。


「いかないで」


 と、叫ぶ自分の声で目が覚めた。

 鈴虫の鳴き声が聞こえる。見慣れない梁と薬草の匂いに、沙良はやっと自分が寝込んでいることを思い出した。

(池に落ちたあと、熱が出て……)

 典薬寮に担ぎ込まれたあたりで、記憶がぷつりと切れている。

 枕元には誰かが座っていて、優しい手つきで沙良の額に絞った手巾をのせる。

 燭は小さく、その顔貌ははっきりとしない。

 けれど、欲しいものはないか、苦しいところはないか。そう問いかけてくる。

 彼女は、ここにいるはずのない人だ。

(まだ夢をみているんだわ)

 沙良は喉の痛みだけ伝えて、瞼をたたんだ。おそろしい夢ではないものの、いま見ている幻は沙良の抱えている孤独を暴き出そうとする。

 きっと返事をしたら、この幻はかき消えてしまうだろう。──先ほどの稚秋のように。

 沙良は拒絶するように瞼を畳んだ。

 眠っていれば、体中の痛みも息苦しさも、そのうち消える。そうしたら、おそろしい夢も、かなしい幻も見ないだろう。

 枕元に座っていた女人がみじろぐ気配がした。

 しばらくすると、咥内に梅の糖液がかかった削り氷が少しだけはいってきた。

 とてもおいしかったので、悪い夢をみなくてすんだ。


 二度目に目覚めたのは、夜明けだった。一度目よりずっと意識がはっきりと浮上した。

 身体はましになったものの、枕元に変わらず幻がいた。幻は沙良の額に濡れた手ぬぐいを押し当てる。

 これは、夢でも幻でもないのかもしれない。

 優しい手つきに、沙良は泣きたくなった。勇気を出して、彼女を呼ぶ。

「ははうえ」

「沙良、わかるの?」

 ゆるく頷けば、母は目から涙を零した。化粧は落ちており、少女のようなあどけなさがあった。

 沙良の頭を抱き寄せて、よかったと言ってくれる。はつらつとした母しか知らない沙良は戸惑った。

「よかった。あなた、ずいぶん長く意識がはっきりしなかったのよ」

 ここは典薬寮に隣接する療養所で、沙良は肺炎をこじらせたのだという。

 もう暦は秋風月あきはづきだと言われ、沙良は驚いてまばたきをする。

「巫医には、昨夜が峠だといわれて、ほんとうに……」

 母の目元に刻まれた隈は、一日二日で出来たものではなさそうだ。

 沙良にゆっくり薬湯をのませ、母は沙良に頬ずりをした。

「よく頑張ってくれたわね。父上に祈っていたのよ。それが通じたのね」

 心がじわりと熱くなる。

 沙良の父は、沙良が生まれてすぐ亡くなったという。それ以上のことは、知らない。

 母が語らず、沙良も尋ねなかった。今なら聞けそうだと、沙良は喉に力をこめた。

「父上はどこのだれなの?」

 母は涙を拭いて、深呼吸をしてから答えた。

「ごめんなさい。父上から、貴女が十二歳になった時に教えて欲しいと言われているの」

 母は沙良の手を握り、真摯なまなざしでそういった。

 沙良は少し考えてから、母の白い手を握り返す。

「じゃあ、どんな男君おとこぎみだったのか知りたい」

「立派な方よ。ひたむきで、優しくて、沙良にそっくり。あのまなざしで見つめられると、母上はうまくおしゃべりが出来なくなるの」

 語る母の表情は、恋する乙女そのものだ。今も母は父を慕わしく想っていることが分かって、沙良は嬉しくなった。

「そうだわ。沙良に毎日お花が届いているのよ」

「お花?」

 母は微笑んで、枕元の卓から東切子あずまきりこをとった。

 そこには、一輪の萩の花が挿してある。

「白い犬がね、病室の窓の下に置いていくの。私の可愛い娘を射止めようといどんでいるのは、いったいどんな男君かしら」

 茶目っ気たっぷりに言って、母は意味深なまなざしを向けてくる。

 沙良は頬に熱が集まるのを感じた。

「そ、そんなんじゃないもの」

 母の視線から逃れるように衾をかぶって、沙良は目を閉じる。

 そんな娘を、からももの典侍は少しだけ複雑そうに見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る