第7話 橘の女「お待ちなさい。恥知らず」


 ──ぼくのを貸す。そう長くは保たないから、みあやまるなよ。

 

 稚秋が水にもぐると、驚いたように逃げていく鯉の尾ひれがいくつも見えた。

 夜の住みすみかを荒らす狼藉者をとがめるように、魚の群れが稚秋の視界を遮る。

 ひどく焦りながら首をめぐらせば、浮かび上がろうと藻掻く沙良の姿が視えた。


 だめだ。もがけばもがくほど、身体に力が入り沈んでしまう。

 

 そう伝えたいのに、声が届かない。

 泳ぎは得意なはずなのに、沙良の近くまで辿り着くのがひどく遅く感じた。

 何度も失敗して、やっとの思いで沙良の手を掴んだ。しかし、引き上げられない。小さな身体がとてつもなく重い。

 稚秋の息も、そう長くは続かない。

 このままでは二人そろって溺れてしまう。半ば絶望したその時だ。

 

 深く潜水した人影が、沙良の身体を後ろから抱え込んだ。そのまま稚秋の腕をも引き、またたく間に二人を水面に押し出した。

「ここだ! はやく引き上げろ!」

 と、二人を抱えた隆臣が声を張る。

 いつの間にか駆けつけた舟から幾人もの手が伸びる。

 稚秋と沙良を逞しい武官が四人がかりで引っ張り上げる。船床に引き上げられて、稚秋は沙良に手を伸ばした。

「……さら?」

 慎重に額にはりついた濡れた髪をかきあげて、頬を軽くたたく。

 いつも薄紅色に染まっている頬が、今は白く、冷たい。両手で頬をつつみ、稚秋はひときわ強く呼んだ。

「沙良! おきろ!」

 その声に、導かれるように。

 稚秋の手のひらの下で、沙良が、ゆっくりと瞳をひらき、ひどく咳き込んだ。

 浅葱色の瞳から、ころころと零れる涙は温かい。稚秋は安堵で泣きたくなった。

 自身も寒さに震えながら、できるだけ優しく小さな背をさすってやる。

「ち、あき?」

「もう、だいじょうぶだ。こわかったな」

 沙良は稚秋の言葉に、ぷつんと箍が切れたように泣きじゃくった。細く、小さな、胸が詰まるような泣き声だった。

 手のひらを強く握れば、弱々しく握り返して、また涙をこぼす。

(よかった。間に合った。沙良は生きてる)

 隆臣は舟の縁に手をつき、そんな二人の様子を窺っていた。ふたりが落ち着くのをみはからい、一息で舟に乗り移る。

「そろそろ岸に戻りましょう。内侍がたが気になさっている」

 と、言う隆臣の呼吸はもう整っている。

 岸辺に舟が近づくと、橘は裾が濡れるのも構わず走り寄って沙良を抱きしめた。

「あねさま……」

「沙良、沙良……! どこか、痛いところは? いまお医者さじがくるからね」

 ごめんなさい、と悲痛な声で橘が何度も謝る。沙良も謝ろうとしたが、まだ池に落ちた恐怖が喉につっかえて、言葉が出てこなかった。

 彼女たちの一歩後ろに居た稚秋は、あることに気付いた。

 件の西桃兄妹が、人混みにまぎれて橋の下からこそこそ立ち去ろうとしている。

「あいつら──」

 その行く手を阻んだのは、橘の冷たい声だった。


「お待ちなさい。恥知らず」


 いまだ震えている沙良を女性武官に任せ、すっくと橘が立ち上がる。その顔に、いつもの優しい笑みはない。

 彼女は殺気じみた様子で蔵人の弁に近づくやいなや、白い手を振り上げた。

 右手で蔵人の弁の頬を打ち、返し手で逆の頬を鮮やかに打った。それはもう見事な音が、高らかに響いた。

 おいらかな彼女らしからぬ行動に、武官も内侍たちも固まった。辺りが静まりかえる。

 誰よりも混乱しているのは、蔵人の弁だ。

 妻問いをしたのは、控えめで激昂などしない少女のはずだ。男にたてつき、暴力を振るうなんてもってのほかだ。

 目の前の少女は、濡れて乱れた髪をそのままに、血走った眼で蔵人の弁を睨んでいる。

「腕力で勝てない女をいたぶって、楽しかったかしら」

 蔵人の弁はぽかんとしている。橘はもう一度手を振り上げようとして、止めた。そして乾いた笑みをこぼす。

「一度頬を打っただけで、手が腫れてしまうなんて、女人は本当にもどかしいわね」

 真っ赤に腫れ上がった手を袖の下に隠し、橘は桃内を見下ろす。

 恐ろしい形相で睨まれて、桃内はヒッと喉をひきつらせて兄にとびついた。

「妹が死んでいたら、あなたたちは人殺しよ」

「お、大げさな」

 蔵人の弁がたどたどしく反論するが、それは橘の逆鱗に触れた。

「大げさ? 自分たちがどれだけひどいことをしたか、懇切丁寧に教えてあげないとわからない?」

 と言いながら、橘が懐から取り出したのは黒漆拵えの短刀だ。岸辺に集まっていた内侍たちから細い悲鳴が上がる。

 さすがに、周囲の武官が動こうとした。それを、隆臣が手で制す。

「やめてください。き、君らしくない。どうか落ち着いて……」

 みっともなく狼狽える蔵人の弁に比べて、橘の声はどんどん静かに、鋭さを帯びていく。

「あたしはあなたが夢見るような上品な女ではないの。一方的な暴力を受けたことは決して忘れない。橘の女は、みな小太刀や短刀の扱いを心得ているわ。……妹の身に一生のこるような傷があったら、」

 言葉を切り、鞘を鳴らして抜き身の刃を構える。

 蔵人の弁はぞっとした。今の距離で懐に飛び込まれたら、間違いなく怪我を負う。

 橘は、それは美しく微笑んで、花色の唇を動かす。

「あたしはあなたを傷つけることをためらわない。非力なあたしでも、急所を心得ていれば、腕力はあまり関係ないわ。それとも、あなたのご自慢の顔に一生のこる傷をつけてやる方が良いかしら」

 橘の目は本気だった。本気で、蔵人の弁を狙い定めていた。

 こんな女、知らない。

「貴様のような恐ろしい女、こちらからお断りだ!」

「朝堂の間で顔を合わせるときは、どうぞお気を付けになってね。橘の女は受けた恩にも、もたらされた辱めにも三倍返しをするのがならいなの」

「に、兄ちゃん置いてかないで!」

 反論もせず尻尾を巻いて逃げる兄を、桃内がすがるように追いかける。

 橘はもう止めなかった。兄弟が杉木立の闇に紛れてしまうと、へなりと腰を抜かしたように座り込んでしまう。

 そんな橘の様子に、沙良が顔をくしゃりとゆがめ、稚秋が心配そうに眉を下げる。

 二人に大丈夫だと宥めて、彼女の傍らにゆっくり膝をついたのは、隆臣だ。

 柄を握りしめる細い手は硬直して、力をこめ過ぎてあちこち血が滲んでいた。

「──あや

 そっと、隆臣だけが知る名で呼ぶ。蒼白だった橘──彩の顔に血の気が戻る。彩は隆臣と目が合うと、ぎこちなく笑った。

「隆臣兄さまに、構えだけでも教えて頂いたかいがあったでしょう?」

 そういう彩の声は震えている。

 隆臣の硬い手のひらが、彩のかたく強張った指を一本一本ていねいにこじあけた。

 やがて、砂利のうえに短刀が転がる。月明かりを弾き、鈍色の刃が冷たく光った。

 彩はおそろしさに身震いをした。

 短刀は持つのが精一杯で、ふるうこともできない。刃も怖くて見ていると血の気が引いてしまう。そんな彩は、武家の姫らしからぬと、両親に嘆かれたぐらい武術はからっきしだ。

 幼い頃、構えだけでもそれらしく見せることを、隆臣から教わった。ただそれはあくまで牽制や護身──時間稼ぎのためだ。

 ようは、はったりをかましたのである。

 相手が武道の心構えのない西桃兄弟だから通じた。背後にいた武官たちは途中から気付いて、黙って事の成り行きを見守っていたのである。

「あたし、おそろしい女になってしまった。だから、兄さまとはもうお会いしたくなかったのに」

 と、かぼそく言って、血に染まった両手で顔を覆う。

「おそろしくなんかないよ。でも、彩がじつは怒りっぽいことは、よく知っている」

 刃を鞘におさめて、隆臣が穏やかに笑う。

 納刀とともに、彩の身の内で暴れ回っていた激しい怒りも鎮まっていく。

 そこでやっと、彩は十五歳の少女に戻り、思う存分泣くことができたのである。



 稚秋は、詰めていた息を吐き出した。

 いつも温厚なひとほど、怒らせてはいけないということが、身にしみて分かった。

 ふと、袖を弱々しく引かれた。

「沙良、どうした?」

 稚秋の袖を引いた沙良は、ためらいながら真っ直ぐ見つめてくる。

「あの……あのね……」

 まだ涙のあとが残る声は、弱々しい。何度もつっかえながら、沙良はやっとの思いで心のしこりを言葉にする。

「……ごめんなさい」

 それから、沙良はほんのり笑った。めったに見せることのない、小さな花のような笑みだった。

「たすけてくれて、ありがとう」

 無防備な笑顔を向けられ、稚秋はたちまち落ち着かない気持ちになった。

 早鐘を打つ心臓をおさえ、なんとか笑い返す。



 この笑顔を守りたい。できれば、一番近くで。

 芽生えた気持ちの名を、稚秋はまだ知らない。

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