第6話 星合ひの空「あねさまに、近寄らないでください」


 宴もたけなわ。祭の喧噪から離れた橋の袂で、内侍のかかり交代が行われた。

 挨拶を交わし、花室から花室へ紅躑躅べにつつじが描かれた雪洞が渡る。

 やっと訪れた自由時間に、沙良は安堵でほっと息をつく。

「楓、おつかれさま」

 労いの言葉とともに、懐紙に包まれた策餅さくべいが差し出される。沙良は目を輝かせた。

「あねさま、この策餅がきらきらしているのはどうしてですか?」

「それはね、お砂糖をかけているからよ。典薬寮から少しわけて頂いたの」

「おさとう……!」

 砂糖はとても高価な薬だ。それを菓子に使うようになったのはここ十年ほどの話である。

 市井で砂糖を使った菓子が売られるようになったのも、大陸からの輸入量が増えたからだと授業で習った。しかし、それらはとても高い。もちろん、沙良は食べたことがない。

「ちょっとお行儀が悪いけれど、お池をながめながら食べましょうか」

 策餅に釘付けになっている妹が可愛くて、橘はそう提案した。

「いま食べていいのですか?」

「もちろんよ。ここは御座おましとはずいぶん離れているし、舟もめったに来ないから、大丈夫」

 禁苑の池は広大で、勾玉のような形をしている。内侍や武官の交代に使われる丹塗りの橋は、宴の雑踏からは遠のいた場所にかかっていた。

 橋の上からは、水上をゆきかう舟がよくみえた。色とりどりの灯火を揺らめかせ進む舟の軌跡は、まるで蛍の群舞のようだった。

 そして、きれいな景色を眺めながら食べる策餅はうんと美味しかった。今まで味わったことのない甘さは疲れを吹き飛ばした。

「おいしいです!」

 と、隣の姉を見上げれば、橘も幸せそうに策餅を味わっている。そして、懐かしそうに目を細めた。

「あたしが楓くらいの頃ね、幼なじみの男の子と市井の七夕祭りに行ったことがあるの」

右兵衛佐うひょうえのすけさまと?」

 と、沙良が尋ねれば、橘ははにかんだ。

「そう。二人でお金を出しあって、屋台で売っている策餅を半分こしたの。おいしかったわ」

 千本通には大きな笹が飾られ、五色の糸をかけて裁縫上達を願ったこと。幼い右兵衛佐は、かけるなら高いところが良いだろうと、つま先立ちで手伝ってくれたこと。

 橘は慈しみに満ちた眼差しで沙良に語る。聞いているだけで、とっても仲良しさんだったことがうかがえた。

「だからね、楓──」

「これは橘の内侍。ごきげんよう」

 沙良の背後から割って入った声は、知らない男の声だった。

 振り返る前に、わずかに表情をかたくした橘が沙良を引き寄せる。

「ごきげんよう、蔵人の弁さま」

 沙良を背後に庇った橘は、少し緊張した声で挨拶を返した。沙良はおそるおそる姉越しに男を見た。

 年は二十歳に届くか、届かないか。背の高い、全体的にほっそりとした青年だ。その傍らにいる少年を見て、沙良は無意識に橘の袖を強く握りしめた。

「そちらが、三位さまの娘御ですね。弟からよく聞いています。桃内、可愛らしい花室じゃあないか」

「ふん、しめ縄に花をつけたってかわいかないやい」

 沙良はきっと睨む。桃内はことあるごとに沙良のお下げを馬鹿にして引っ張るのだ。しかも、稚秋のいない所をみはからって。

 そのことは稚秋にも、橘にも言ったことはない。しかし、橘は短いやりとりで察するものがあったらしい。

「わたくしどもは御用がありますので、お許しあそばせ」

 と、優雅にお辞儀をして立ち去ろうとする。

「──先ほど春宮さまにお伝えました。君がわたしの恋人だと」

「は……?」

 恋人? 誰が、誰の。

 言葉をかわさずとも、姉妹の脳裏に同じ疑問が浮かんだ。

「わたくしは、あなたのお申し出を断ったはずです」

「君は、橘の本家の許しなしに夫を決めることはないと仰った」

 一歩、蔵人の弁が距離を詰める。同じ言葉を話しているのに、まったく意思疎通がかなっていないやりとりに、沙良はなんだか怖くなった。

「先ほど、春宮さまのところに橘の右兵衛佐どのもいらっしゃいましたが、特に何も言ってきませんでしたよ」

 それまで冷静さを欠くことのなかった橘が大きくその身を震わせた。

 いま彼女が立っていられるのは、沙良の存在があるからだった。妹の前でみっともないことはすまい、と息を整えて蔵人の弁を睨む。

「……本家の許しが出たら、蔵人の弁さまを選ぶとは言っておりません」

「もちろん、ただの恋人で済ますつもりはありません。私は君を妻に迎えたい。君の身分から考えれば、これは破格の申し出のはずだ。武家の、しかも分家の姫が、公家の御簾中ごれんちゅう(※正室)になれるのだから」

 蔵人の弁は、不思議そうに返した。隣では桃内がうんうんと頷いている。みるみる血の気がさがる姉の顔をみて、沙良はもどかしくなる。

 どうしてこの人は、姉の言葉を聞こうとしないのだろう。好きだと、恋人にしたいといいながら、自分より身分の劣る橘に発言権はないように振る舞う。

 その言動こそが、姉の心を離れさせている。それになぜ気づけないのだろう。

 再び、距離を詰めようとする男の前に、沙良は走り出ていた。

「あねさまに、近寄らないでください」

「花室、こういうときは気を利かせて二人きりにするものだよ」

 と窘められるように言われ、怒りの炎が燃え上がった。

「ひきょうな方と姉をふたりきりになどさせません。春宮さまに嘘を申し上げて、おどして、それがえらい文官のやることですか?」

「嘘にするつもりはないよ」

 蔵人の弁はなんてことのない口調で続けた。

「今宵、真にしてしまえばいい」

 蔵人の弁が桃内に目配せをする。桃内はにやりと笑って、立ちはだかる沙良のお下げを強く引っ張った。

「いたい! はなしてっ」

「やめて、楓になにをするの!」

 たまらず二人を離そうとする橘の細腕を、蔵人の弁が掴んだ。そのまま、橘を羽交い締めするようにして反対の岸へ向かう。

 人気の無い場所に引きずり込み、今の言葉を現実にするつもりなのだ。

 口元を塞がれ恐怖にひきつった橘の顔をみたとたん、沙良の中で何かが切れた。

 お下げを強く引っ張る桃内の腕に、思い切り噛みついた。

「うわあっ」

 桃内が痛みにひるんだ隙に、もみ合う二人のもとへと走って行く。

 拳を振り上げ、無我夢中で蔵人の弁の衣を引っ張り、叩き、叫んだ。

「あねさまに、さわらないで!」

「邪魔をするな!」

 蔵人の弁が沙良の身体を追い払おうと腕を横薙ぎに振った。沙良の全身に痛みが走る。

 小さな身体はその衝撃に耐えきれず、空に投げ出されてしまう。


 最初、何が起こったのか分からなかった。


 欄干の向こうで、橘が目を見開いて手を伸ばしている。

「──沙良!」

 と、真名で呼ばれて、とっさに右手をのばした。けれど、指先がわずかに触れあっただけで、ずるりと身体が下に落ちる。

 欄干の外に投げ出された沙良の身体は、池に吸いこまれるように、あっけなく水面にたたきつけられた。

 

 激しい水しぶきがあがり、蔵人の弁と桃内は蒼白になった。木偶になった二人をおしやり、橘が欄干にすがりつく。

「沙良!! いや、沙良!! 返事をして!」

 叫んでも、水面に浮いているのは立葵の花びらだけだ。橘はぞっとした。

 橘も沙良も、今宵は色目を出すために衣を何枚か重ねている。泳げない沙良が、浮かび上がるには晴れ着は重すぎる。

 なりふり構わず、橘が池に飛び込もうとしたときだ。


 目の前に、小柄な影が降り立った。

 赤い組紐で髪を一つに括り挙げた少年だった。

 その瞳の色に、橘は息を呑む。

 初夏の緑とあでやかな紫が混ざり合い、宵闇のなかで綺羅と輝いている。

「内侍は岸へ」

 と、短く言って。

 少年は両手で、橘の肩を強く押し返した。そして、小天狗かと見紛うほどの身軽さでそこから飛び降りたのだ。


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