第5話 星の舟「それで、何を落ち込んでいたのさ」

 

 手鏡の中に、しょんぼりと眉を落とす少女がいる。

(どうしよう、稚秋をさけちゃった)

 沙良は小さくため息をついた。真礼に文を託した後、学堂で稚秋と顔を合わせづらくなってしまったのだ。

 ついには今日、稚秋に声をかけられても逃げるようにその場から去ってしまった。

 自分でも、どうしてああいう態度をってしまったのか分からない。

 再びため息を吐いた沙良の背中に、姉のおっとりした声が届く。

「せっかくの乞巧奠きこうでんの日に、ため息ばかりとは切ないこと」

「あねさま……」

「他の子は髪を飾る花を摘みに行ったわ。楓はいいの?」

 空木、笹百合、夏椿、紫陽花。たちばなは指を折りながら花の名をあげる。

 後宮の宴において、女官は楽しむ側ではなくもてなす側だ。何かあったときのために、袿袴姿けいこすがたをとり、絹布で作られた靴を履いて身軽でいなくてはならない。

 典侍や権の典侍までになると、同じ袿袴でも総柄模様だとか、宝飾品で髪を飾ることが許される。掌侍以下となると、簪一本だけとか、自身で摘んだ花と結い紐ぐらいだ。

 それでも、普段よりもお洒落のできる機会だ。みな浮き足立っている。

 きっと内侍直曹の庭で、姉花室たちはああでもないこうでもないと花を選んでいるのだろう。

かえでは、あねさまの結い紐をお借りしたので、いいです」

「あらまあ。ではあたしが髪を結っても構わなくて?」

 と、言うやいなや、橘は櫛を持って沙良の後ろに座る。妹がびっくりしている間にさっとお下げをといてくしけずる。

「ここに来た頃より、ずいぶん伸びたわ。湿気でうねることもないし、とても素直な髪よ」

 手鏡越しに目が合うと、橘が沙良に微笑みかける。ほんの少し椿油を含ませてから根元から毛先まで梳ると艶が増すのがはっきりと分かった。

 丁寧に髪をすかれる心地よさに、沈んでいた気持ちが浮上する。沙良は迷いながら口を開いた。

「学堂で、お手本を書いてくれる子がいるんです」

「楓が毎晩写している詩のこと?」

 こく、と頷けば橘は驚いたように目を丸くした。

「ちらりと見た時、博士のものだとばかり思ったのよ。学堂の生徒さんの手蹟なのね」

 やはり稚秋の手蹟は大人が眺めても見事らしい。それに、書物を読み込んだ者ならではの教養の深さは隠しきれない。

 そんな子どもは、きっと数えるほどしかいないだろう。

(……たぶん、あねさまなら稚秋のことをごぞんじだわ)

 手本をきちんと見せれば、橘の右兵衛佐うひょうえのすけと手蹟が似通っていることに気付くはず。

 しかし、姉に尋ねるのは少し違うような気がした。

 知りたいのなら、本人に聞くべきだ。沙良だって母のことや生家のことを話したのだし、稚秋だって聞けば教えてくれる、と思いたい。

 ためらってしまうのは、稚秋が自身の長名おさなについて嫌いだと語っていたからだ。

 瞳は暗く、迷い子のように眉をくもらせる。そんな表情をみたのは、後にも先にもあの一度だけだ。

 ふだんが闊達なだけに、その落差は沙良を動揺させた。

「たくさんあそんでるのに、どこのお家の子か、知らないんです。前は、そんなこと気にならなかったんですけど」

 漠然と、このままの関係が続いていくと思っていた。

 でも、文の一件で気付いてしまった。沙良は女の子で、稚秋は男の子だ。大人になれば疎遠にならざるを得ない。

 黒丸をまんなかにして、一緒に外で駆け回る時間は、そのうち終わりが来てしまう。沙良が思うより、ずっと早く。

 知らないままでいたら、学堂を卒業したらそれきり会えない。ならば、尋ねた方がいいのか。

「そうしたら、うまく話せなくなって。今日はさけちゃいました。楓は、いやな子です」

「それで、落ち込んでいたのね」

 橘は結い紐と髪をからませて編み込みを作りながら苦笑する。

「そういう事情なら、なおのこと可愛くしないと」

 と、橘が張り切りはじめたので沙良はきょとんとした。傍らの折敷おしきには橘が摘んできた花が並べられている。

 橘はたっぷりと露をふくんだ立葵を手に取り、沙良の髪に挿頭かざした。

 念入りに整えた黒髪は艶を増し、薄紅の花は沙良の顔色を明るくみせた。

「すごい」

 感嘆の声をあげると、橘はにっこり笑う。

「お洒落は大事よ。負けそうな時ほど、綺麗にしなさい」

 と、橘は言って、沙良の肩を柔らかく叩く。

「今宵その子に会ったら、まず微笑みかけるの」

「ほほえむ、ですか?」

「仲直りをしたいと伝えることは大事よ。楓に微笑まれて、嫌な気分になる男の子なんていやしないわ」

 橘は胸を張った。それは謝ることよりも難しいと感じたが、そんなことより。

「お、男の子って、どうしてわかったんですか?」

「分かるわよ。あたしは貴女のお姉さまですもの」

 姉の返しはかろやかで、沙良は真っ赤になって俯くしかなかった。


 ※※※


 たそがれ時。

 禁苑の鏡池にはいくつも舟が浮かび、横笛の合図とともにへさきに吊された飾り灯籠へと一斉に灯りがともる。

 帝と四人の后妃の御座である露台にも、篝火がともった。春夏秋冬を冠するキサキたちは、五行にならった色目の晴れ着に身を包み、宝飾品でその身を飾り立てている。

 付き従う女房たちも、きらびやかな装いでキサキを引き立てる。

 色目が揃っているかわりに、彼女たちは長い髪を天女のように結い上げたり、造花をつけて編み込んだりと工夫をしていた。

「麗しき天女のごとき皆さまのお姿に、息子は言葉も出ないようです」

 やはり男の子ですな、などと勝手に言っているのは稚秋の父・左大臣だ。

 月並みの挨拶だけで、あとは黙り込んでいる息子にしびれを切らしたらしい。稚秋は半ばなげやりな気持ちで頷いておく。 

「藤太、先ほどの弓射は見事だったね。なかなかの小冠者こかじゃぶりだったよ」

 と、穏やかに声をかけたのは今上の帝だ。隣に座る春宮も頷いている。

「風が強いなか、舟の上の扇を三つ続けて打ち抜くのだもの。叔父御どのはすばらしいね」

「ありがとうございます。練習した甲斐がありました」

 今度は、さきほどよりも素直な気持ちでお礼が言えた。隣の左大臣が感極まったように続ける。

「まこと、もったいなきお言葉。息子は春宮さまの近侍として、ますます精進いたしましょう」

 さすがは藤北家の嫡男と、桟敷席の公卿たちが持ち上げる。

 追い打ちをかけるような大人達の笑い声に、稚秋はげんなりした。

 元服後は太学の学生がくしょうとなり、有能な文官を目指し、やがては春宮の一の近侍となる。

 生まれたときから、稚秋の未来は定められている。それは、稚秋の意思などお構いなしに敷かれた道だ。それが、歯がゆくて仕方ない。


(何一つじぶんで決めずに、自分の人生なんて言えるかよ)

 自分は誰なのか。何者なのか。どういう人間になりたいのか。

 その答えを、自分で探して、つかみ取りたい。生きるとはそういうことじゃないのか。


 沈む気持ちに負けまいと、稚秋は拳を握った。

「ぼくのお祖父さまは、あいかわらずお気が早くていらっしゃる」

 と、春宮が微笑む。花がほころぶような明るい声は、稚秋の中にあるわだかまりをなごませた。

「七夕の夜ぐらい遊ばせてほしいな。藤太、舟をもっと近くで見ようよ。父上、いいですよね?」

「もちろんだとも。他の子も、酒席は退屈だろう。せっかくの夜だ。好きに過ごしなさい」

 帝の穏やかな声は、不思議とよく通る。

 稚秋と同じように父親や兄に連れられてきた子ども達は歓声をあげた。

 たちまち池の方へ向かう彼らを、若い武官たちがやれやれといった様子で追いかけていく。



「それで、何を落ち込んでいたのさ」

 大人たちの社交場から離れてみれば、春宮の口調はとたんにくだけたものになる。それは稚秋も同様だった。

「べつに、何だっていいだろ」

 結い慣れないみずらをほどきながら答える。赤い組紐で一つにまとめると、全身が軽くなるようだった。

「何それ。せっかく連れだしてあげたのに」

 春宮は頬をふくらませて稚秋をこづく。

 沙良に足を踏まれた方がよほど痛かったので、稚秋は春宮の細腕がちょっと心配になった。

 春宮はくるりと振り返り、当たり前のように二人の背後にいる隆臣に尋ねた。

「隆臣だって、今日の稚秋をおかしいと思わない? ふだんは絶対みずらを結わないのにさ」

「そうですよねえ」

「隆臣……」

 言うなよ、絶対言うなよ。と必死の形相で念じていると、春宮がころころと笑い出す。

「稚秋、それじゃあ何かありましたって白状しているようなものだよ」

「ぜったい言わない」

「ふうん。まあ、いいや。あ、これが渡り?」

 と、春宮が指をさす。

 今夜のために、池の上には〝渡り〟と呼ばれる道が張り巡らされている。

 岸より離れた場所にかけられた渡しは、幅も通常の橋より狭く、さながら迷路のようだ。

 男児にとって、たまらなく好奇心を刺激する造りで、みな好き勝手に走り回っている。

「春宮さま、お足元にお気を付けくださいね」

「ありがとう、隆臣」

 にこりと微笑む少年の横顔は、優等生そのものだ。稚秋はにやっと笑って手を差し出した。

「春宮さま、お手をお貸しいたしましょうか?」

「あはは、稚秋の悪事をぼくの知るかぎり全てお母さまに教えていいのなら、ぜひ」

 完璧な笑顔で言い切られ、稚秋は手を引っ込めた。告げ口先が父ではなく姉というところも、稚秋の弱いところを的確についてくる。

 物心ついてより、体力では負けなしだが、口でこの皇子に勝てたためしがなかった。


「これは春宮さま。ごきげんうるわしゅう」


 と、向かいの渡りから近づいてきたのは、西桃家の兄弟だった。

 声を掛けてきたのは、五位の飾り帯を見せびらかすように揺らす長男の方だ。

蔵人くろうどべん桃内とうない。良い夜だね」

 蔵人の弁は尚書局に務める二十歳の文官だ。

 今年の春に蔵人職も兼務するようになり、文官の出世頭ともてはやされている。

 整っている割にどこか神経質そうな顔つきは、その弟も同じだった。

「桃内、さきほどは惜しかったね。でもすばらしかったよ」

「あれは、舟の漕ぎ手がわるいのです」

 と言って、桃内は稚秋をぎっと睨んだ。稚秋は桃内のこういうところが嫌いだ。

(……的を外したのは自業自得だろ)

 先ほどの弓射は、浮かぶ舟の上から、離れた舟に据えられた竿の扇を狙う余興だった。

 射手と漕ぎ手に分かれ、お互いに呼吸を合わせる競技だというのに、桃内は始まる前から同じ班の奴にえらそうな口をきいていた。

 あげく、全て外したのである。原因は桃内の態度だし、稚秋に絡むのはお門違いだ。

「こら桃内、春宮さまになんて口の利き方をするんだい。申し訳ありません、どうやら班の組員との相性が悪かったようで。藤の太郎君はくじの運がよろしかったようですね」

 弟をたしなめるかのようにみせて、稚秋に嫌味を言ってくる。

 蔵人の弁とは今日が初代面だが、全く気が合いそうにないなかった。できるなら、一生関わり合いを持ちたくない。

「おかげさまで」

 とだけ返して稚秋は黙り込んだ。もっと広い場所にいたら、とっくみあいの喧嘩をしていたのにと思いながら。

 蔵人の弁はかすかに眉尻を上げたが、その視線がふいに稚秋たちの背後に向かう。

「申し訳ありません。恋人を見つけましたので、御前を失礼いたします」

「よい夜を」

 とほがらかに返したのは春宮だ。

 蔵人の弁は隆臣とすれ違って意味深に微笑み、去って行った。その先には丹塗りの橋がある。

 ちょうど、内侍の交代時間のようだ。内侍の持つ雪洞は光が淡く、ここからでは顔がよく見えなかった。

 しかし、春宮ははっきりと内侍の顔が見えたようだ。可愛らしく小首を傾げている。

「女房たちから聞いていた話とちがうな」

 と、言うので、稚秋は尋ねた。

「話って?」

「蔵人の弁は、橘の内侍に何度も振られているはずなのだけれど」

 傍らにいる隆臣の肩がわずかに揺れた、ような気がした。稚秋はあらためて目をこらす。

 内侍の傍らにいる小さな女の子が、雪洞を両手で持っていた。

 いつもと雰囲気は違うが、あれは──沙良だ。

(蔵人の弁の恋人が、橘の内侍?)

 知らない内侍であれば、良い趣味してるなと思って終わりだ。

 しかし、沙良の慕っている姉女官となると、話は違ってくる。それは隆臣も一緒だ。

 同時に息を詰めた二人を、春宮が静かに見つめる。

「君たちが隠していること、そして、ぼくが知っていること。いまここで情報交換した方がいいと思わない?」

 彼が持つ紫水晶の瞳の輝きは特別だ。この国の人間で、この皇帝紫にいどまれて否と言える者などいない。

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