第4話 藤の傅役「皇子さまは、若にそっくりですね」


 この国の政治では、すめらぎを頂点とした三官制度を据えている。

 最高行政機関たる太政官、祀官しかんや法官など、職事官しきじかんを統括する神祇官、そして軍事を掌る軍務官だ。

 この軍務官の長には、帝に最も近しい皇子が選ばれる。東国の将軍家と比肩する血筋が求められ、今上の御代にあっては、皇の次に古い氏族である藤家から選ばれることが必然となりつつあった。

 次代の軍務官を担うのは、昨年生まれた春宮の同母弟・二の宮──稚秋の甥である。

 その甥を、稚秋は暇さえあれば背負って外へ連れ歩いていた。

 大人しく思慮深い春宮にくらべ、その弟宮は生まれたときから活発な赤子であった。

 ともかく泣き声がすごい。小さな身体に、どれだけの力が宿っているのかと不思議になるほど力強い声で泣く。

 左大臣家で産声をあげたとき、一番離れた対の屋で寝ていた稚秋が飛び起きたほどだ。

 その二の宮が、最近這い回ることを覚えた。予想していたことだが、元気に泣いてはどこへでも這っていくので、姉の女御から下仕えの針女しんにょに至るまで、みな寝不足で疲れきっていた。

 稚秋が後宮の外へ皇子を連れていきたいと帝に頼むと、苦笑交じりに是を頂くぐらいに。

 幸い、やんちゃな甥は稚秋に懐いた。それはひとえに、稚秋がこころゆくまで相手をする体力を持っていたからだといえよう。

 母の女御や兄の春宮の懐き方とはどこか違う。言ってみれば「おれに付き合えるこいつすげえ!」というやつだ。

 

 このような経緯ゆくたてから、今日も稚秋は甥を背負って御所を歩いた。背負い紐を結ぶのも慣れたものである。

「今日はおまえ起きてんだな」

「あー」

 いつもは昼餉のあとぐっすり寝ている甥が、ぱっちりと目をひらいて稚秋を見ている。どうやら、稚秋が背負うといつもより遠くへ出かけられるということを学習したようだ。

 行き先はたいてい学堂なのだが、今日は南の禁苑へ向かう。黒丸は女御御殿で引き留められて、お留守番だ。

 二の宮が生まれてから、黒丸は藤殿の憩い役として求められることが多くなった。

 黒丸の毛並みは絶妙な手触りで、気性も穏やかだ。女人でも膝にのせられるほどの大きさで、半ばお座敷犬の扱いである。

 子育てはとても大変で、癒やしが必要なんだな、と稚秋なりに理解している。

 その二の宮はというと。稚秋におぶわれながら、きらきらした眼でいつもと違う景色を楽しんでいる。乳母である常磐から、午睡ひるねをさせるよう頼まれたが、この調子では無理そうだ。

「あー!」

 池に浮かぶいくつもの舟をみると、稚秋の髪を掴んで、指をさす。赤子とは思えない強さで引っぱるので、稚秋はとりあえず叱った。

つるぎ他人ひとの髪を引っぱったらだめだ」

 真名に次ぐ化名あだしなで呼べば、二の宮はじっと稚秋を見上げる。

 その瞳は、紫水晶かと見紛うほど美しい。皇だけに伝わる色の瞳を見つめて、稚秋は丁寧に言って聞かせた。

「引っぱったら、痛いだろ? とくに女の子にはするんじゃねーぞ。そんな奴はオトコじゃないからな」

 二の宮と目線を合わせていると首が疲れるが、ここは譲ってはいけないところだ。じっと反応を待っていると、二の宮は稚秋の髪から手を離した。

「めーしゃ」

 ぺちんと自分のまるい額に両の手をあてる。彼なりの反省の姿勢らしい。

 女たちは手を焼いて、この皇子をきかん坊のように扱うけれど、そんなことはない。生まれて一年が過ぎ、ちゃんと他人の言うことに耳を傾けられるほど成長している。

 まあ、出来るときと出来ないときがあるのはご愛敬だ。

「あれは舟。櫂でこいで進む。今度の乞巧奠きこうでんで使うんだ」

「う?」

「昨日、春宮が梶の葉っぱに歌を書いてたろ? あれも、乞巧奠──七夕の準備だ」

 春宮、という言葉に、二の宮は笑顔を浮かべる。その言葉が兄を指すことを、二の宮はもう知っている。

 春宮は親王御殿に住んでいるが、二の宮が生まれてから、なるべく女御御殿に顔を出している。

 初めて出来た弟だと、それはそれは可愛がっているので、二の宮はすっかりお兄ちゃん子だ。

 春宮が居れば、その後ろをついて回って、なんでも真似をしたがる。昨日も梶の葉を頭にのっけて、得意満面でたっぷり墨をたたえた硯に手をつっこんでいた。

 その惨状を見た常磐の悲鳴を思いだし、稚秋は笑った。二の宮が不思議そうに首を傾ける。

「剣はすごいな。おれでも常磐をあそこまでおどろかせたことねえぞ」

「禁苑までつるぎ皇子みこさまを連れだしたと知れたら、驚くどころじゃありませんよ」

 と、言ったのはもちろん二の宮ではない。穏やかながらもどこか迫力のある口調を、稚秋はよく知っている。

「た、隆臣」

 おそるおそる振り返った先には、稚秋の傅役が立っていた。紫黒の軍衣に身を包み、五位を示す緋の懸け帯を下げている。

「若、剣の皇子みこさまがおひろい(※散歩)あそばすのは御学問所まで。そう、主上とお約束したのでは?」

「ええと、それは」

 稚秋は何かを言おうと試みて、諦めた。

 決まり悪げに黙り込み、立ち尽くす稚秋の前に、隆臣が片膝をつく。

 今年十八歳を迎える隆臣は背が高く、稚秋はというと、あまり伸びていない。それもなんだか悲しくてますます口を引き結ぶ。隆臣は稚秋と目線を合わせて穏やかに尋ねた。

「それでも、こちらへ来られたわけを、俺に教えて下さい」

 これが父の左大臣であれば、頭ごなしに怒鳴られ、稚秋の事情など知ろうともしないだろう。

 稚秋も、そんなやりとりに疲れてきていた。だから、大人に怒られると、むっつりと黙り込んでしまう。

 けれど、この傅役は違う。稚秋から言葉を引き出そうと促し、辛抱強く待ってくれる。

 稚秋が完全にひねくれなくて済んでいるのは、この傅役のおかげだといっても過言ではない。

「……今年の乞巧奠は禁苑で盛大にやるって、姉上から聞いて」

「はい」

「宴は夜だろ?」

「そうですね」

「剣は寝ちゃうだろうから、準備だけでも見せたかったんだ」

「……そうですか」

 なるほど、と隆臣は顎に手をかける。

「若、俺はいま二つのことで貴方を叱っています。聴いてくれますか?」

 と、尋ねられて稚秋は頷いた。隆臣は目線を合わせたまま、ゆっくりと口を開く。

「まず、主上との約束を破ったこと。次に、御所の外へ出たいと、俺に相談してくれなかったことです。……言ったら止められると思いましたか?」

「……うん」

 と、稚秋が肯定すれば、隆臣は苦笑して続ける。

「もちろん、まずは止めたでしょう。俺はお二人の無事を考えることが生業なりわいですから。しかし、若が剣の皇子みこさまを連れて行きたい理由を知ったら、考え直したと思います。皇子さまが祭儀の準備を見ることは必要な経験です。そのうえで、俺がふたりの護衛として一緒に行くと願い出れば、主上からお許しを得ることができたでしょう」

「……あ」

 そうか、と稚秋は納得した。二の宮を危険にさらして叱られているのだと思い込んでいたが、違ったようだ。

「次は真っ先に相談すると約束してもらえますか? 俺は、若の傅役なんですから」

 と、隆臣は言う。稚秋もまた、皇子と同じように守るべき対象なのである。

 この傅役は、藤北家の嫡男としてではなく、稚秋自身を心配してくれる。稚秋はしょんぼりとうな垂れた。

「……分かった。ごめんなさい」

「よろしい」

 隆臣は朗らかに笑って稚秋の頭を撫でた。そして、きょとんとしている二の宮の小さな手を握り、優しく言った。

「剣の皇子みこさま、俺も仲間に入れて頂けますか?」

「あう!」

 二の宮は両腕を振りあげて応えた。皇子らしからぬ威勢の良い返事に、稚秋と隆臣は笑ってしまった。

「皇子さまは、若にそっくりですね」

「え? おれ、こんなまつげ長くないけど」

「お顔立ちではなく、元気の有り余ったご様子がです。若もこのぐらいの時はどこまでも這い回ったり猛々しく泣いたりで、屋敷中が寝不足になったんですよ。子守女中の体力が保たなくて、俺がどこまでも背負っていったものでした」

 懐かしいです、と隆臣が目を細める。稚秋は覚えていないので首を傾げる。

「ええー……そうなのか?」

「はい。おかげで、大分鍛えられました。さて、お二人とも、もう少し近くで舟をご覧になりますか?」

「うんっ。剣、やったな」

「うきゃ!」

 稚秋が喜んで飛び跳ねれば、二の宮も笑ってじたばたと手足を動かした。

 隆臣と一緒に釣殿まで行くと、そこには男の子たちがこぞって見物に集まっていた。みな、舟に乗りたいと武官や工人にねだっているのだ。

「あ! 隆にいちゃん、藤太にいちゃん!」

 その騒ぎのなかで、真礼がこちらに気付いて駆け寄ってくる。そして、ぷっくりと頬を膨らませる。丸顔なので、そうすると大福餅のようだった。

「おいら、隆にいちゃんをさがしてたんだぜ。どこいってたんだよう」

「そうだったのか、ごめん。何か用事かな?」

 と、隆臣が膝をかがめて尋ねる。真礼は袂を探ると、丁寧に折りたたまれた白い料紙を取り出して、隆臣に差し出す。

 隆臣が受け取ると、たちまちほっとした顔つきになった。

「楓からあずかったんだ。楓の姉ちゃん女官からだって。あーよかった。こんなにきれーな紙もってたら、思いっきり舟に乗れないものな」

 真礼の中で舟に乗ることは決定事項らしい。渡すだけ渡すと、くるりと踵を返して、釣殿にむらがる男の子たちに混ざってしまう。

 稚秋はというと、舟のことはすっかり興味がさめてしまった。

 なぜなら。

(なんで、真礼にたのむんだよ)

 と、非常におもしろくない気分でいっぱいになったからだ。

 午前中は自分だって学堂にいたというのに、沙良は稚秋ではなく真礼に渡したのだ。よく分からないが、むかむかしてしまう。

 隣で不穏な表情を浮かべる稚秋を窺いつつ、隆臣ははらりと文を広げる。

 そこには記憶にあるより少し大人びた手蹟で、時候の挨拶と隆臣の身体を気遣う内容が綴られていた。ひととおり眺めて、隆臣は柔らかく笑う。

 文を懐にしまって隣を見下ろすと、稚秋は不機嫌そうに小石を蹴っていた。

「ありがとうございます。若が届けてくれたおかげで、幼なじみの様子を知ることが出来ました」

「……でも、返事が」

 橘の妹女官が稚秋に文を託さなかったことが、随分気に食わないらしい。やれやれと隆臣は小さく肩をすくめる。

「ただ時機が合わなかっただけかもしれませんよ。また次があれば、若にお願いしますね」

「うん、そーだな。分かった」

 と、稚秋は自分の両頬を軽くはたく。あまり嫌な感情に引きずられても仕方が無いと、気分を切り替える。その姿勢は、傅役としてたいへん好ましい。

 大きくなったなあ、と隆臣は穏やかに微笑むのだった。

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