エピローグ

 草津旅行を終えて、少しばかり軽くなったカラダで、きくの湯まで歩いていく。今日はゴールデンウィーク最終日。久しぶりに湯けむり部の四人が揃う日でもある。久々に湯けむりのメンバーが揃うので、私のテンションは上がっていた。

 アスファルトを眺めながら、通いなれた道を歩く。大通りを渡って、住宅街に入っていく。代り映えのしない家が何軒も並んだ道を数分歩くと、きくの湯が段々と近づいてくる。藍色の暖簾が遠くに見えて、私の歩みは早くなった。

 建付けの悪いガラス戸を開けて、きくの湯の暖簾をくぐる。


「いらっしゃいませ! お、ゆい! いらっしゃい!」

「やっほー、手伝いに来たよ。これ、草津土産」

「おぉ! ありがとぉ!」


 番頭台に座った桜に声を掛ける。草津土産の温泉卵を渡し、靴を下駄箱に入れた。


「ゆい、なんかあった?」

「え?」


 荷物を桜の部屋まで置きに行こうと、関係者以外立ち入り禁止の暖簾のかかったドアの方まで歩いていくと、いきなり桜に声を掛けられた。


「いつもと違う感じがする。なんかいいことあった?」

「分かる?」

「何、何! 彼氏でもできたの!?」

「ないしょ」


 私のテンションが高い理由は、四人が久々に揃うこと以外にもあった。

 ギシギシと軋む廊下を歩いて、桜の部屋のドアを開けた。


「わっ、ビックリした」

「あれ、リオちゃん。来てたんだ」


 ドアを開けるとリオちゃんがローテーブルの前で三角座りして、テレビの台本らしき冊子を読みこんでいた。


「ゆいちゃんか。今日は一日オフだから、お客さんがあんまりいない内に、朝風呂頂いたんだ」

「朝風呂って、何時からいるのさ」

「七時くらい?」


 今は午前十時だ。三時間もこの子はこの部屋に引きこもっていたんだろうか。


「それじゃ、私は桜のこと手伝ってくるから」

「ごめんね、私は手伝えなくて」

「たまには外出てみる? 客寄せパンダやってみなよ」

「あはは、それは遠慮しとくよ」


 リオちゃんは乾いた笑いを部屋に響かせた。


「また後でね。ばいびー」

「うん。うん? ゆいゆい、なんかあった?」


 私が荷物を下ろして部屋を出ていこうとすると、リオちゃんも私の雰囲気が変わったと言ってきた。


「なんで二人とも分かるの?」

「口調、変だよ。いつもよりテンション高くない?」

「そうかな」

「そうだよ」


 リオちゃんは台本に目を落としながら言う。私は曖昧に笑って部屋を出た。

 電気のついてない暗く短い廊下を抜けて、銭湯に戻ってくる。桜は常連のおば様と楽しそうに話していた。

 私は清掃道具を取り出して、女湯に向かう。暖簾をくぐって脱衣所に入れば、身になじんだ湿気に包まれた。床を軽く掃除して、貸し出し用のバスタオルの返却口から濡れたタオルを引っ張り出す。裏口の近くにある業務用の洗濯機に放り込んでスイッチを押した。

 洗濯機が回り始めたのを確認して、休憩室の掃除を始めた。


 ◇


 すぐに時間は過ぎて、もう時計の針はお昼の時間を指していた。


「ゆいちゃん、お昼食べてきなさいな」

「はーい」


 桜のお母さんに声を掛けられて、掃除道具を片づけた。住居スペースの方に入ると、台所の方からはいい匂いがしてきた。もう桜がご飯を作ってくれているらしい。

 洗面所で手を入念に洗ってダイニングのドアを開けた。


「ゆいー! お疲れ! 今日のご飯はおうどんだよー」

「ありがと」

「ゆいゆい、お疲れー」

「ん」


 もう席についていたリオちゃんが手を振る。


「カスミンまだかな」


 リオちゃんはダイニングの入り口の方を気にしながら、そわそわしていた。


「さっき来てたよ。部活の汗流すって言ってたから、そろそろ上がってくるんじゃないかな」

「やっほー、リオン久しぶりー!」


 噂をすればなんとやら。風呂から上がってきた香澄が、首から下げたタオルで髪を拭きながらダイニングに入って来た。


「カスミン! 髪はちゃんと乾かしてから来なきゃダメじゃん! 髪は女の命だよ!」


 リオちゃんが女子力の違いを香澄ちゃんに叩きつけていた。


「いいのいいの。どうせ伸ばすこともないしさ」


 香澄は今年の夏の大会に向けて、その茶髪をかなり短くしていた。肩にも届かないショートカットは、香澄のスポーティさをより引き立てていてよく似合っていた。


「あれ、香澄ちゃん来てたの? ご飯多めに作っといてよかったぁ。食べてくよね?」

「うん。ありがとね」


 タオルを背もたれに引っかけて、香澄は私の隣の席に腰掛けた。香澄が席に着くとすぐに桜が大皿いっぱいのうどんを運んできて、四人でそのうどんを囲んだ。

 食事が終わった後は四人で手分けして片づけた。午後からは桜のおじいちゃんが店番をやるので、私たちはリビングで寛ぐことにした。


「あれ、ゆいゆい何書いてるの? 課題?」


 机に向かう私にリオちゃんが話しかけてきた。


「これ? 漫画」

「えっ! ゆいゆい漫画描いてるの!?」


 リオちゃんが大きな声で言う。私はなんだか恥ずかしくなってきて、耳が熱くなった。


「どうしたのゆい。漫画家にでもなるの?」


 桜が尋てきた。


「うん。目指してみようかなって」

「へー。だからなんかウキウキした顔してたのか」


 私そんな顔してたかな。


「それでか! なんか嬉しそうだなって思ってたんだよねぇ」


 今度は香澄が私の近くまで来て言う。

 私は三人に囲まれてしまい、益々顔が熱くなって首もとの毛穴がプツプツと開いていく感じがした。

 頑張ってね、と口を揃えて言う三人の顔は見れなかった。


 ◇


 結局、私は変われたんだろうか。いささか疑問ではあるが、夢はできた。

 漫画家になること。

 気恥ずかしくって、あの三人には当分触れてほしくない話題ではあるけれど。これでようやく私もスタートラインに立てたのだ。

 きくの湯からの帰り道、私は一人で夕暮れの道を歩いていた。茜差す西の空を背に、道路を見下げて歩く。こうやって下を向いて歩く癖もずっと変わらない。下向いて歩いていると、列をなして進む蟻の群れが道を横切っていた。

 そういえば、私の話し相手ってお前たちだけだったよなぁ。蟻たちは私の呟きに立ち止まることもなく、一心不乱に巣へ帰っていく。

 話し相手は増えたんだな。桜に香澄にリオちゃん。今じゃ大切な友達だ。――そんな言葉は、臭すぎて面と向かってなんて到底言えないけど。

 私は蟻の行列を跨いで、薄暗くなり始めた道を歩いていった。

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いわこう湯けむり部! 雨田キヨマサ @fpeta

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