第21話 蟻と温泉と夢

 一人でいることの方が、好きだった気がする。歩くときは、いつも下を見ていた気がする。

 ゆいは変わったよ。桜や香澄、リオちゃんにそう言われることが増えた。

 本当に私は変われているんだろうか。前に進めているのだろうか。あの三人だけが前に進んで、私を見る視点が変わったから私が変わったように感じるだけ、なんじゃなかろうか。


 ◇


 父親の運転で草津に行くことになった。巷ではゴールデンウィーク半ばだが、私の予定は何もなかったから、父親に頼み込んだのだ。

 桜が家の手伝いで、香澄が今日から陸上部の合宿、リオちゃんがテレビの収録があるそうで、湯けむり部は活動休止中だった。と言っても、昨日は香澄と一緒に桜の家に手伝いに行っているし、リオちゃんも一昨日銭湯に入りに来てたから、あの三人と全く会っていないわけではない。

 しかし、以前より会う機会が減ったのは間違いない。桜とはクラスも同じで、放課後にきくの湯の手伝いへ行くから、毎日一緒にいるものの、香澄とリオちゃんに会う頻度は決して高くない。特にリオちゃんは休日に会うことはほぼなくなっていた。

 三人とも、自分の夢に向かって進んでいる結果だ。仕方ないとは思うが、それでもやっぱり寂しさは拭えなかった。単純に三人に会えない寂しさと、私だけ取り残されてしまったような、悔しさにも似た虚しさとが混ざって、とどろとして胸に居座っていた。

 劣等感。一言でまとめてしまえばこれに尽きる。私も三人と同じように追える夢でもあればなぁ。

 鼻からため息を細長く吐いて、バスタオルとフェイスタオル、それから携帯とお風呂セットだけを持って父親の車に乗り込んだ。


「コンビニかどこか、寄るか?」


 お父さんが低い声を響かせてそう聞いてきた。


「うん」


 私は一言だけ返事して、車の外を眺めていた。遠くに桜の家の煙突が見える。あの煙突ともしばしの別れだ、心の中ですぐ帰ってくるからねと唱えた。

 コンビニは家の近くにあったので、すぐに車は止まった。父親はおにぎりを買って、私はカフェラテだけを買った。

 また車が動き出す。車は高速道路に乗って、黙々と走り続けていた。

 景色がどんどん通り過ぎていく。そういえば物理基礎の授業で相対速度がどうとか習ったなぁ、なんて考えながらすっ飛んでいく景色を眺めていた。

 川を何本か越えると、山端が段々とハッキリしてくる。私の住む街からは見えない山々だ。お父さんはあれが何山でそっちが何山だ、なんて言っているが、私にはどれも同じように見えて仕方なかった。

 さらに進むと山の影の薄群青色が濃さを増してきた。高速から見下ろせる街並みも変わってきた。あんな建物はこっちにはないなとか、あの大きな建物は何のための建物だろうとか、外を見ているだけでも飽きなかった。一年前も草津に行ったけど、三人で話し込んでいたからか、外の様子なんて気にも留めなかったが、こうも面白いのなら少しでも見ておけばよかった。


 ◇


 お父さんの運転する車は高速道路を降りた。お父さんはなにも話さず、車内にはラジオから流れてくるパーソナリティの陽気な声だけが響いていた。高速を降りると市街地に入ったが、所々に温泉地の看板が見えた。渋川、伊香保といえば有名な温泉地だ。なるほど、この辺りがそうなのか。ゴールデンウィークというのもあって、道は混んでいて他県ナンバーばかりだった。

 車はどんどん進んでいく。

 市街地を抜けて、山道になった。薄群青だった山は完全にハッキリと浮かび上がって、目の前に鎮座していた。川と並走している道路を進んでいくと、気がついたら線路とも並走していた。少し先には、オレンジと緑のラインの電車が走っている。私たちが高崎から乗り換えた、JR吾妻線だ。と言っても、私たちが乗った特急ではなく、数両編成の普通の電車だった。お父さんはカボチャみたいな色だな、と笑った。

 カボチャ電車とはしばらく並走していた。線路の下を潜ったり、線路の上を越えたりして、電車は右へ来たり左へ来たりする。お父さんも私が電車を見ていることに気が付いたのか、あえて電車にスピードを合わせてくれた。それでも信号で抜かれたり、追い越したりする。私は少しの間のレースを楽しんだ。

 そうしてずっと電車を目で追っていると、視界のはしに薄紫色がちらつくようになった。


「お父さん、あの薄紫の花何?」

「ヤマフジだな」


 あれがヤマフジなのか。普段私の暮らす街では見かけないが、この辺りには多くあるらしい。そのことをお父さんに話すと、私たちの街にも咲いているらしい。私が気づかないだけだった。道路のわきの崖の木々にはフジのツタが巻き付いて、斜面を紫色に薄く化粧していた。緑色の水彩絵の具を濃淡を変えて塗り重ね、その上から水で薄めた藤色の絵の具を塗り広げたようで、いつまでも見ていたい日本の原風景だった。

 ヤマフジに気を取られていると、電車を見失った。探してみれば、左の方に小さく見えた。ここでカボチャ電車とはお別れらしい。

 カボチャ電車と別れると、ダム湖が見えてきた。天気の良さも相まって、エメラルドグリーンの水を湛えている。そのエメラルドグリーンは陽の光をキラキラと反射して、複雑な模様を車内の天井に映し出していた。

 標高も随分と高くなって、気温も二、三度落ちてきた。こうも気温が違うと植物たちの様子も変わるようで、麓では葉が生い茂っている木も、同じ種類のはずなのに芽吹いたばかりだ。目の冴えるような鮮やかな萌黄色が眩しい。

 この道はバスで通ったはずだが、湯けむり部のメンバーがいないだけでこうも印象が変わるものだろうか。新鮮さはあるけれど、大分長く感じる。

 ダム湖を通り過ぎると、再び線路が左側に見えてきた。しかしカボチャ電車の気配はない。いつの間に追い越したのか、それとも置いていかれたのか。どこかへ消えてしまった電車に想いを馳せ、流れいく単線を眺める。さび色の

 少し進むと長野原草津口駅が見えた。私たちが去年バスに乗り換えた駅だ。長野原草津口を過ぎると、今度こそカボチャ電車の線路とは離れ、少しばかり傾斜の増した山道に入っていった。この辺りは寒いからか、まだヤマザクラが咲いている。一ヵ月ほど季節が遅れているんだろう。しかし、それ以外に見る物も特にない。外を流れるのも飽きてしまった私は瞠目して思考の海に沈んでいった。


 ◇


 私以外の湯けむり部のメンバーは夢に向かって進んでいて、あの子たちは立ち止まることはあっても、明確なゴールは見えていた。なのに私はスタートラインすら見えてこない。何をしたらいいんだろう。五里霧中。そんな感覚がもう半年以上続いている。

 夢って何? やりたいことって何? 簡単なことのようでちっともピンとこない。教師に聞かれた、あなたは将来何がしたいの、という質問にはなんて答えてやればいいんだろう。安定した職に就くこと? そんなつまらないことでいいの? 小さなころは馬鹿げた夢や目標がポンポンと浮かんできたけど、そんな発想力すら失せて、なにもやりたいことが浮かばない。

 いや、浮かんではくるのだ。箇条書きにして、少し眺めてみて、私には無理と破り捨ててしまう。やってみたいと思っても、それを目指して努力できるほどの熱量があるか、と考えて結局『No』という答えに至ってしまう。一瞬の憧れだけで、一生努力できるような人間でもなかった。

 つまり、やりたいことがあっても夢とまでは至らないんだ。『何もしたくない』が案外、一番正解に近かったりするのかもしれない。

 リターンを考えたときに、リスクにビビってしまう小心者な私がいて、それが前にも後ろにも進めないこの状況を作り上げていた。この葛藤にどう決別すればいいのか。葛藤が葛藤を呼んで、雁字搦めになっている。

 もういくら考えたって動けないよな。

 数分考え、たどり着いた結論はそれだった。何だか全てがどうでもよくなって、草津に着くまで寝ることにした。ふて寝だ。



「ゆい。着いたよ」


 低い声が聞こえてきて、私は夢の世界から脱出した。将来の夢は無いのに、こちらの夢は見れることに気付いておかしくなった。

 旅館の駐車場に停められた車を出て、少ない荷物とスマホをもって旅館の入り口に向かう。私たちが去年来た『大瀑の湯』だった。

 カウンターで料金を払って、下駄箱に靴を放り込んで廊下を突き進む。ロッカーに不要な荷物を入れて、暖簾をくぐる。おば様方の笑い声が浴場から聞こえてきて、私の心はささくれ立った。かなりイライラしている自分に気付き、自分の器の狭さにさらに苛立ちが募った。

 雑に服を脱いで、たたみもせずに籐籠に入れた。ガラス戸を開けるとムワリと湯気が体に張り付く。濡れた岩のタイルに、乾燥した私の足の皮膚がペタリと吸い付いた。何回も経験した温泉に入る感覚だ。硫黄の匂いも少しだけ私の溜飲を下げてくれた。

 かけ湯をして、体を洗う。当たり前の入浴前のルーティーンで段々とささくれ立った感情も落ち着いてきた。

 左腕から石鹸をつけて、胸を経由して右腕。

 そういえば、香澄ちゃんに身体を洗う順番聞かれたっけ。一年も前の思い出に懐かしくなる。

 曇った鏡を右手で拭って顔が見えるようにする。そこには隈のできた不細工が映り込んでいた。

 こんなひどい顔をしていたのか、私。

 あまりにもひどい顔に、笑いがこみあげてくる。そして虚しさも同時に去来した。

 一通り体を洗い流して、湯船に向かう。左足からお湯に浸かると、記憶にあった以上の熱さに驚く。人のいない方へ、湯をかき分けて進んでいく。湯船の角で腰を下ろして肩まで浸かると、浮力が働いて足が浮かびそうになった。

 熱いお湯が身体を通り越して、私の心にまで浸み込んでくるようだった。水圧で胸が苦しくなるのに、それとは違う息苦しさも感じる。

 ホントに熱いな。設定温度ミスってるんじゃないの? 八つ当たりするように心の中で呟いた。内湯を飛び出して露天風呂に向かう。

 笑い声を響かせていたおば様方も露天風呂にいた。そのおば様方の入っている湯とは別の、一段下がったところにある湯に浸かる。露天風呂の温度は内風呂よりはぬるく、ちょうどいい湯加減だった。滑らかな湯が身体をなぞるようで、内風呂よりはましな気分でいられた。

 湯気が滑るようにして水面の上を流れていく。

 太陽光を反射した水面の影が、キラキラと岩の表面で踊っていた。私が動くたびにその影も揺らめいて、不思議な模様がダンスする。飽きるまでその影を躍らせて遊んだけど、私の気分は晴れることはなかった。


 ◇


 水面で反射した光で遊ぶのも飽きてきたころ、私は岩をつたい歩く一匹の蟻を見つけた。

 君はどこから来たの? 心のなかで話しかけても、当然答えは返ってこない。

 蟻はよちよちと岩を進んでいく。彼――働きアリは全部メスだというから、彼女だった――から見たら、この一メートルもない岩の一つも大陸のごとく映るんだろう。その下に広がるのは煮えたぎるマグマだ。岩の隙間をなぞるように進んでいく蟻。群れからはぐれてどこへ向かうつもりだろう。エサを求めるにしたってもっと別の場所があったろうに。

 彼女は少しづつ湯の方へ降りてきて、湯に触れるか触れないかくらいのところで触覚をピコピコと動かしていた。

 ヤマザクラの花びらが落ちてきて、静かな水面の波が立った。私はその花びらを手に取ろうとして腕を伸ばすと、水面が大きく揺らいだ。あっという間に彼女はその波にのまれて、岩から落ちてしまった。


「あ」


 じたばたと必死に藻掻く蟻。しかし岩はどんどん彼女から遠のいて、彼女が脚を動かせば動かすほど、益々状況は悪化していく。

 私は手ですくい上げて、彼女を岩の上に乗せてやった。小さな命を救ってやったという、妙な達成感が私の胸に広がった。

 群れにお帰り。

 私は簡単に彼女を助けてやれたけれど、彼女は自力ではあの状況から抜け出せなかっただろう。それが何だか私と、他の湯けむり部のメンバーの関係に似ているように思えて、必死に触覚を拭う蟻に親近感を覚えた。

 桜や香澄、リオちゃんが私の立場になったら、簡単に解決して勢いのいいスタートダッシュを決めるんだろう。

 誰か私のこともすくってくれないかな。

 蟻は触覚を丹念に拭って、岩の向こうの草むらに消えていった。

 何も考えていなさそうなあの蟻を見て、私がウジウジ悩んでいるのも馬鹿らしくなってくる。

 ふと桜のお母さんの言葉を思い出した。

『好きなことを夢にすればいい』

 私がいつも、一瞬考えてすぐに却下してしまうことだ。

 私の好きなこと。読書。それと絵を描くこと。そういえば桜に一度、私の絵を褒められたことがあった。湯けむり部のビラを描いたときだ。あのビラは、今でも廊下の掲示板に残っている。

 私は小さいころ漫画家になりたかった。暇さえあればずっと絵を描いていた。しかし、ある日同級生の男の子に私の絵を馬鹿にされた。悲しかった。私の全てを否定されてしまったようで、それから人前で絵を描くのが嫌になった。人ともうまく話せなくなった。

 けど、私はまだ絵を描くのが好きだった。

 また、描いてみようかな。

 私は揺れる水面から顔を上げて、上を向いた。散り際のヤマザクラの後ろには萌黄色の若葉が萌えて、青空が広がっていた。

 気付けば、姦しく笑い声を脱衣所まで響かせていたおば様達はいなくなっていた。若いお姉さん集団が楽し気に湯に浸かっている。

 そろそろ出よう。いい湯だった。

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