第3話 墜死


 目の前も脳裡も暗闇に塗り潰され、何も分からなくなった。

 次にミカエラが認識したのは、自分が眠っているラファエラに馬乗りになり、首を絞めていることだった。夜更けだった。あれからジャスティンとどうやって別れ、家に帰ったのだろう。帰宅してからどのように過ごしたのだろう。

 けれどそんなことはどうでも良かった。憎い。ラファエラ。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い! この子がいなければわたしはお父さまとお母さまに愛された。この子がいなければわたしはジャスティンに愛された!

「お前さえいなければお前さえいなければお前さえっ」

 ラファエラが苦しげに目を覚ました。抵抗されると思い更に体重をかけたが、妹はただ――微笑した。聖母のように安らかに。

 不可解さに思わず、手が止まる。

 ひとしきり咳こんだあと、ラファエラは口を開いた。ああ……となぜか安心したような、彼女らしさのない、声が洩れる。

「……遅いわ、遅すぎるわぁ」

 意味が分からず、ミカエラは眉を顰めた。

「なに……何を言ってるの、ラファエラ……」

「のろまで愚図ぐずな、ミカエラ……やぁっとワタシを殺す気になったのね」

 ラファエラは哄笑した。ひび割れた声と、涙に滲んだ眸で。

「ミカエラのお馬鹿さぁん、まだ分からないの? ワタシはずうっと言っていたでしょう? 蝶は片翅の姿がうつくしいのぉ。だから翅を捥がないと駄目なのよぅ。その練習を何度も何度もさせてあげたでしょう?」

 分からないのなら、教えてあげるわぁ、と。彼女は。

 ワタシはね、と彼女は。

「ずうっと。そのために、、赦そうとするなんて。でも、やっと殺してくれるのねぇ……」

 ラファエラは愕然とするミカエラの手を取って、再び自分の首に回させる。恍惚として。

「さあ、早く殺して、ミカエラ。ずっと死にたかったの……こんな体で生きていくのは、いや。憐れまれながら生きるくらいなら、憎まれて殺される方がずっといいわぁ」

 声が、出なかった。何も言葉が、頭の中にすら、浮かばない。

「殺したかったんでしょぉ? ずぅっと、ワタシさえいなければと思ってきたんでしょぉ? だったら、早くするのよぉ」

 女王さまが命令している。抗うことのできない声。ずっとずっと、そうだった。解放されたと思っていた。でも、でも、でも、けっきょく、わたし、は……


 背に大きな翼を広げた天使。甲冑を纏い、剣を持っている。そんな図像が、唐突に脳裡を包み込んだ。

 わたしの名前の由来の天使さま。

 生まれた時から体が弱かったラファエラは、癒しを司る天使さまの名前をいただいた。

 天使の純白の翼が、いつしか蝶の翅に変化していた。天使は手にした剣で、自らの翅を斬り落とす――


 ――翌日、自室の窓から落ちた少女の遺体が、庭で発見された。


 結果として、その死は事故とされた。自殺の可能性も考慮されたが、結婚を控えた幸せな少女が自殺をする理由はないと判断されたのだ。その理由を知る二人の人間は口を噤んでいた。

 その二人のうちの一人であるジャスティンは、双子の片割れを失った少女を優しく慰めた。少女の許に熱心に通い、頃合いを見て求婚した。その少女もまた、彼と同じく罪を秘めているとも知らずに。

 二人の結婚に、互いの家も異論はなかった。ライリー子爵家は名家だが金がなく、トーマス家は裕福だが名誉がない。後継ぎさえ産めるのならば、他に何も問題はなかった。


「ミカエラったら本当にお馬鹿さぁん……」

 墓地からの帰り道、ジャスティンに車椅子を押されながら少女は呟いた。

「何か言ったかい、ラファエラ?」

 少女は首を横に振って笑顔を作りながら、心の中で彼を侮蔑する。

 ジャスティン、アナタもお馬鹿さんだわぁ。アナタは、可哀想なワタシと結婚してあげる自分に酔っているだけ。外に出たことのないワタシを車椅子で連れ出して、自分一人で満足しているだけ。ワタシは――

 

 ミカエラの部屋から墜死したのは、ラファエラだった。ミカエラがラファエラを自室まで引きずって運び、妹を突き落としたのだ。

 妹の首を絞めることを拒んだミカエラに、彼女はこう言った。

 ――それじゃあこうしましょう? これでワタシたちは、お互いの望みを叶え合って、ひとつになるのぉ。

 ラファエラは自由を。ミカエラは愛を。

 ラファエラはミカエラとして死に、ミカエラはラファエラとして、両親とジャスティンの心を手に入れる。

 二人はひとつになって、平等になる。

 結局、ラファエラを溺愛していた筈の両親も、かつてミカエラを愛し、今はラファエラの騎士を自負するジャスティンも、他の誰も二人の入れ替わりに気付かなかった。

 手に入れてみればくだらない。だけど、手に入れてみるまでは決して分からない。

 手の中に優しく握っていた、片翅の蝶を見つめる。早くこうしていれば良かったのだ。両翅を広げた醜い蛾のままではいけなかった。

 やはり、片翅の蝶こそ、うつくしい。

 ――ほぅら、ワタシの言った通りでしょう?

 ラファエラの声が、聞こえた気がした。


     *


「ま、待って……!」

 ミカエラはラファエラから飛び退いた。自分の両手を愕然と見つめ、今しがた起ころうとしたことを思い出し、恐ろしさに全身が震えた。

「じゃ、じゃあ何なの、わたしたちの、わたしの今までは何なの。あなたはわたしに自分を殺させようとして、そのためだけに、ずっとあんなことをしてきたっていうの?」

 顔を上げると、ラファエラは半身を起しているところだった。常と変わらぬ笑みと、冷めた眸が自分を映している。

「それなら、わたしたちは憎み合う必要なんてなかったの? ねぇ、ラファエラ、どういうことなの? でもあなたは、わたしを人殺しにしようとして……?」

 思考がもつれ、麻痺していく。混乱と焦燥で世界が歪み、剥離していく。渦巻くのは憎しみと殺意と、そして、僅かに残された、とうに失われたと思っていたもの。そのたった一雫で、ミカエラの世界を色づかせ、輝かせるもの。本当はずっとずっと希い、欲していたもの――

 ああ、ラファエラ。

「お願い、一つだけ教えて。あなたはわたしのことをずっと、本当に、本当はどう思っていたの?」

 ええそうよね、ラファエラ。わたしたちに、憎み合う理由なんて本当はなかったの。すべては神さまの気まぐれが起こした不平等のせい。でもそれは、わたしたちのせいじゃない。だから、これからやり直しましょう。可哀想なわたしの妹、たったひとりのわたしの妹。そう、だってわたしたちは、かけがえのない姉妹、生まれる前からの――


 ラファエラは答えた。


「アナタのことなんて、生まれる前から、大っ嫌いだったわぁ」



The End

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片翅の蝶こそ、うつくしい 千夜野 @Chiyono_k

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