第二十四話

「元帥!」


 昼を回り、約束通りにジョナスが救世主の執務室へとやって来た。

 鞄に詰めた万能薬がジョナスの歩幅に合わせ、カチャカチャと音を立てている。


「ああ、来たか。聖獣の方は救助済みだ。あんたの奥さんに預けてある」

「おお、そうですか! ありがとうございます!」


 徹夜明けなのだろう、ジョナスの目の下にはくっきりと隈が出来ている。そして気分が高揚しているのか、酷く大げさに腕を広げて感謝の言葉を口にした。


「元帥、万能薬をお持ちしました。まだまだ沢山あるのですが、全部は無理だったので、ひとまず鞄に入るだけ持ってきました」

「そうか。まあ、先ずは魔物退治からだから、それくらいで十分だろう」

「ええ。魔物を退治した後に、この薬を試してみてください。その後、どれくらい追加で作ればいいのか、算出しますので」

「ああ、分かった」

「よろしくお願いいたします」


 自分の作った薬に余程の自信があるのか、死んだ大地を元に戻せると疑わないジョナスに、救世主は苦笑いを零す。だがそうでなくては困ると、救世主はジョナスのその自信に期待した。


「精霊界へ行くのは、俺とセラフィーナだけだが、異論はないな?」

「えっ! セラフィーナを連れて行かれるのですか?」

「ああ。本人たっての希望だ。あんたの奥さんも同意している」


 聖獣を助け出した後、すぐにセラフィーナの家に転移し、セシリーとコリンに託した。程なくして目覚めた聖獣とセシリーは感動の再会を果たし、精霊界の話へと移行した。

 精霊界へ渡るには、精霊族の力が必要だと、最初はセシリーがその役目を担うと言い出した。だが、救世主は魔物を退治しなくてはいけないことを考慮し、士官学校に通っているセラフィーナの弟であるキースが適任だと提案する。ただ、提案したはいいが、混血でも精霊界へ渡れるのか疑問だった救世主は、余り強く出ることが出来なかった。だがここで、セラフィーナが声を上げる。自分が行くと。救世主はそれに反発し、説得を試みたが、セラフィーナの意見を曲げることは出来なかった。自分が今出来ることを、精一杯やりたいと真摯に告げるセラフィーナに、救世主は折れたのだ。そして改めて、そのセラフィーナの芯の強さに惚れ直していた。

 命を賭けてセラフィーナを守ると、救世主は母親であるセシリーに誓う。顔を真っ赤にしたセラフィーナを思い浮かべ、救世主はニヤけそうになる頬を何とか我慢した。


「大丈夫だ。絶対に傷一つ付けさせやしねえよ」

「ええ、そこは心配していませんが……。セラフィーナが精霊界へ行けるのかと、そちらの方が心配で……」

「ああ、それなら問題ないらしい。元々の魂は、精霊界へ強く結びついているとかで、導がなくても自然と辿り着けるって話だった」

「ああ……なるほど……」


 ジョナスはセシリーの弟だった精霊族の少年を思い出していた。目が覚めたら、少年が着ていた服と持っていた奇跡の実を残し、忽然と姿を消した少年のことを。魂と肉体が精霊界へ還ったのだと後にセシリーから聞き、助けられなかった無念と、故郷に還れたのだという安堵に似た気持ちとで、複雑な想いを抱いたことをジョナスは覚えている。

 セラフィーナが混血だとしても、魂は精霊界のものなのだと認識し、ジョナスは少しばかり寂しくなってしまった。だが、魔物を排除し、精霊界で共に暮らすのだからと、その気持ちを押し込める。


「いつ、あちらへ?」

「今からだ」

「そ、そうですか」


 ジョナスが救世主を急かした筈なのに、いざ出発となると急に落ち着かなくなってしまう。そんな自分を恥ずかしく思いながらも、ジョナスは救世主に希望を託した。


「元帥、どうか精霊界を救ってください」

「俺だけの力じゃない。あんたの万能薬がなけりゃ、何も始まらないだろ。あんたも一緒に救うんだ」

「はい、確かにその通りですね。まだまだ万能薬は足りないと思いますので、この後も引き続き作っておきます」

「とりあえず、仮眠は取ったほうがいい」


 本来はぽっちゃりとした体型のはずのジョナスは、今はやつれて折れてしまいそうになっている。目の下の隈も随分と濃くなっていることに、救世主はいたたまれなくなってしまう。


「ええ、そうですね。少し休んでからにします」


 そう言いながら、そそくさと執務室を後にしようと扉へ向かったジョナスは、途中で立ち止まり、救世主へと顔を向けた。


「必要のない言葉かもしれませんが、どうかご無事で。娘のことも、どうぞよろしくお願いします」

「ああ、任せておけ」


 力強く頷いた救世主に、ジョナスは足取り軽く部屋を出て行った。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「セラフィーナ、準備はいいか?」

「はい、大丈夫です」


 緊張した面持ちで、セラフィーナはゆっくりと頷く。それを確認して、救世主はセシリーへと顔を向けた。


「行ってくる。セラフィーナのことは、絶対に守るから安心してくれ」


 何度も口にした言葉を、念を押すようにもう一度言う。そんな救世主に笑顔を浮かべ、セシリーは「お願いします」と頭を下げた。次いで、救世主は二体の聖獣に顔を向ける。


「すぐに戻る。楽しみに待っていろ」


 その場にしゃがんで、二体の聖獣の頭を交互に撫でる。くすぐったそうに目を細める聖獣たちに、救世主は破顔した。


「重くねえか?」


 立ち上がり、セラフィーナへと視線を向けると、万能薬の入った重そうな鞄が目を引く。精霊界に着いたらすぐ、魔物との戦闘に入るかもしれないと、セラフィーナが荷物持ちを買って出た。こういうこともあり、救世主はセラフィーナの弟と一緒に精霊界へと渡りたかったのだが、セラフィーナの意思は固かった。


「よし、行くぞ」


 セラフィーナの手を、救世主が握る。そのことに、セラフィーナはドキリと心臓を跳ね上げた。家族以外の異性との突然の触れ合いに、セラフィーナは動揺し、狼狽えた。その余りの動揺ぶりに、救世主は思わず言い訳を口にする。


「亜空間ではぐれちまったら大変だろ? こうしておけば、はぐれる心配もない」「は、はい」


 顔を赤らめながら、セラフィーナは何度も首を縦に振る。そして、セシリーと聖獣たちが見ていることに気付き、居たたまれなくなった。


「それと、今のうちに結界を張っておく。向こうがどうなっているか、分からねえからな」

「ありがとうございます」


 先程とは打って変わって真剣な表情になったセラフィーナは、大きく頷きながら礼を言った。


「行ってきます」


 見送りのために、屋敷の庭へと出て来てくれていた両親と聖獣たちに目を向け、セラフィーナが静かに告げた。そして、覚悟を決める。この温かく、穏やかな日常が、今日のこの日を最期に、崩れてしまうというかもしれないという現実を受け止めるために。

 救世主の手をギュッと握り返し、セラフィーナは空間魔法を展開する。大きく開いた空間の歪みへと、二人一緒に飛び込んだ。


「セラフィーナ……」 


 飛び込む瞬間、セシリーの声がセラフィーナに届く。母親の声を忘れてしまわないように、セラフィーナは強くその声を脳裏に焼き付けた。

 生きて帰れるか分からないこの人間界に、未練を残しながら。

 

 そしてセシリーもまた、その娘の姿を目に焼きつける。その姿をその声を、命が尽きるその日まで、神殿の中で『夢』を見るために。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「……どうなってやがる……」


 一面に広がる灰色の世界は、救世主を大いに驚かせた。

亜空間に入り、然程時間もかからずに辿り着いた場所は、救世主の想像を遥かに超えた景色が広がっていた。


「おい、セラフィーナ! ここは本当に精霊界なのか!」


 灰色の中に、黒い靄があちこちに立ち込めている。あれが瘴気だということは、普段から魔物と対峙している救世主にはすぐに理解できた。だが、何故精霊界に瘴気が立ち込めているのかが理解出来ない。だからこそ、救世主はここが精霊界だとは思えなかったのだ。


「救世主様。ここは間違いなく、精霊界です」


 そう言って、セラフィーナは遠くの方へと視線を向ける。


「あそこに見えるのが、神殿です」


 セラフィーナが、指をさす。その指の先には、大きな建物が見えた。随分と遠くに見えるその神殿は、輪郭が酷くぼやけている。それが何故なのか分かった時、救世主は戦慄した。

 そして、いつもは感じられない魔力を、セラフィーナから感じ取り、ここが間違いなく精霊界なのだと思い知る。セラフィーナの魂がこちらのものだから、魔力を感じることができるのかと、世界の理に触れた気がした救世主は、思わず震えそうになった。


「救世主様。あなたは今年でいくつになられましたか? 育ての親である長老様が、あなたに話していた『お伽噺』は、もう二十年以上も前のお話しです。そしてあなたが聞いていた『計画』は既に実行されました」


 『計画』と聞き、救世主は確信する。ジョナスに話した、人柱の話だと理解して、青褪める。


「神殿を亜空間に閉じ込めたのは、長老様が精霊界から居なくなって、すぐのことだったと聞いています」

「聞いた? 誰から?」

「二つの大穴が開いた際、先に開いた大穴から聖獣が人間界に送られました。その聖獣は、仲間の精霊族に保護され、精霊界の現況を語ってくれたそうです」

「おい、ちょっと待て! 聖獣は、大穴から出て来たのか?」

「ええ、そうです。私たちが保護した二体の聖獣も、大穴から出て来ました」


 だとしたら、と救世主は考えた。育ての親とセラフィーナの母親のセシリー、そして他の精霊族もそうなのかと。


「二十八年前に、空に大穴が開いたと報告を受けた。その時に、じじいやセラフィーナの母親も人間界に来たってことか?」

「はい。その通りです。精霊界に居ついた魔物が、故郷に帰るために、空間魔法を展開した結果が、人間界に開いた大穴です」


 魔物が精霊界へと迷い込んだ理由は、空間魔法のせいである。聖属性しかない精霊界は、魔物にとっては酷く居心地の悪い場所だった。挙げ句、魔力を貯める魔石を飲み込んでしまい、否が応でも属性を変えざるおえなくなった魔物は随分と苦しむことになった。

 そんな魔物が考えることは一つだ。どうにかして故郷に帰ること。もしくは、聖属性だけではない違う空間へと入ることだ。聖属性を軀に取り込んだせいか、上手く魔法が使えなくなった魔物は、それでも強引に空間魔法を展開した。それは魔物の思惑とは違い、周りにいた精霊族のみを呑み込んだ。魔物の展開する空間魔法は、魔界へと続く亜空間へと繋がれる。だが、精霊界で空間魔法を使用する場合、出口は表裏一体である人間界へと続いてしまう。

 結果、魔界を経て、人間界へと続く亜空間は『大穴』となって人間界へ出口を繋いだ。大量の魔物と共に、人間界へと飛ばされた精霊族は、弱い者ほど命を落とした。魔界という異なる世界の空気に触れ、邪気を取り込んでしまった精霊族は、亜空間の中で亡くなる者も少なくなかった。その多くの魂は精霊界へと戻ることなく、今もまだ、亜空間の中で漂っているのだと、セラフィーナは言う。


「大穴が開く理由は、大きく二つあります。一つは今言ったように、魔物によって作り出される大穴です。そしてもう一つは、邪気が溜まり、それが溢れた時に、大地を割って大穴が出現します。救世主様が見捨てたと言われていた彼の大国は、貴族ばかりが贅を尽くし、下々の者を虐げ、餓死させ続けました。死に逝く者は、早くこの苦しみから開放されたいと、強く死を望んだことでしょう。そして、そうなった原因を作った国に、強い不満を抱きながら亡くなりました。その強い負の感情が邪気となり、結果、大穴を開けることになりました」

「……見捨てた訳じゃねえ」


 苦しそうに、救世主が呟く。セラフィーナにだけはそう思われたくはないと、救世主は弁解しようとした。だがそれよりも早く、セラフィーナは、救世主の心に寄り添った。


「はい、分かっています。そうする他、なかったということは、分かっています。あの状態で助けたところで、民は苦しみから開放されることはありません。寧ろ、苦しみを長引かせるだけですから」


 セラフィーナの瞳をまっすぐに見つめ、救世主は頷いた。その想いがセラフィーナに届いていたという事実が、救世主の心を軽くした。だがそれと同時に、まるであの国の惨状を見て来たかの言いように、疑問を抱いた。


「何故、知っている?」

「大地を蘇らせる薬を試すために、何度か行ったことがあります。ですが、大地が蘇ったところで、人々にはもう、立ち上がる気力を持つ者はいませんでした」


 救世主はひとつ息を吐き出す。最後に見た彼の国は、本当に酷かったなと、目を伏せた。そんな感傷に浸っている救世主を見遣り、セラフィーナは辺りを見まわす。今、目の前に広がるこの光景に、ただただ絶望した。


「彼の国の大地は、確かに枯れていました。ですが、まだ救いはありました。それなのに、ここは……」


 セラフィーナの表情は暗く、今にも泣き出しそうだった。


「この瘴気は、人間界から来てるのか? この状態になってからどれくらい経っているんだ? こんな瘴気が溢れた場所で、よく聖獣たちは生き残っていたな」

「聖獣は、自身の体内で魔力を作ることができます。そのお陰か、飲食をせずとも、何十年と生きられるそうです。魔物が去りさえすれば、聖獣の魔力で少しずつ大地に魔力を注ぎ、精霊界を復活させることが出来る筈でした」


 本来ならば、人間界から溢れた瘴気をこの精霊界で浄化するのだが、二十八年前に大穴が開いた頃には、既にその機能は失われてしまっていた。魔物が現れて、神殿を隔離してから二十年は経っている。その間、聖獣だけでは瘴気を浄化することは出来ず、徐々に汚染されていった。聖獣は、自身に結界を張りながら、魔物が去るのをずっと待っていた。そう説明を付け加えたセラフィーナは、救世主が張ってくれた結界がなければ、この瘴気に呑まれ、命を落としていただろうと恐ろしくなる。

 それでも今、精霊界へ『戻って来れた』ことに、『魂』が震えるほどに歓喜していることを、セラフィーナは感じていた。


 「まずは魔物だ。話はそれからだ」


 話し込んでいた二人に、少しずつ近づいてくる影があった。それを認識し、救世主の意識はそちらに向く。真っ黒な軀を、酷く重そうに動かしながら、魔物が二人に近づいて来ていた。瘴気の立ち込めるこの場所は、既に精霊族の気配はまるでない。居るのは魔物だけだった。


「随分と小さいな」


 お伽噺に出てきた魔物は、とても大きく、太刀打ち出来ない程の魔力を持っていた筈だった。だが今、目の前に現れた魔物は、救世主よりも少し大きいくらいの、昆虫のような魔物だった。魔力も然程強くなく、これならば精霊族であっても倒せるのではないかと思うほどだった。口らしきところから、ヒューヒューと音が聞こえる。それが苦しんでいるようにも見える。そんな魔物を前に、セラフィーナは哀れみの目を向けた。


「この魔物は、きっと私たちと同じように、ただ故郷へ帰りたかったのだと思います」


 そんなことを言い出したセラフィーナに、救世主は今すぐにでも魔物を殺そうと思っていたのだが、躊躇してしまう。


「この魔物が初めて大穴を開けた時、多くの精霊族が、この魔物の願望を強く感じたそうです」

「願望?」

「故郷へ帰りたい。その感情が、強く強く流れ込んで来たと母は言っていました。大穴が開いた際に、そこから出て来た魔物は、恐らくこの魔物が作り出した『産物』だと思われます。仲間が欲しかったのかもしれません」


 たくさんの同胞を死に追いやった魔物に対し、同情しているだろうセラフィーナに、救世主は訝しげな目を向ける。


「こいつは、精霊族にとっては憎むべき存在だろう? そんなことを言ったら、同胞の怒りを買うぞ」


 尤もな意見だと、セラフィーナは頷いた。それでも、母親や他の精霊族からは、憎しみよりも憐れむ声が多かった。人間界に渡り、三十年近く経つ。故郷への想いを募らせた精霊族にとって、故郷に帰れない魔物と、自分たちの境遇を重ね合わせ、ただただ憐れんでいた。


『…グーイー…』


 魔物が、弱々しく鳴いた。


「もう、動くのもやっとって感じだな」

「おそらく、自分の死期を悟り、大穴を開けたのでしょう」


 一つ目の大穴で失敗し、二つの大穴を開けた。それはどうしても帰りたかったからなのだろうと、セラフィーナは考えた。精霊族もまた、そう思って日々を生きてきたから。


 苦しそうにヒューヒューと息をする魔物に、早く楽にしてやるべきだろうと、救世主は手を翳した。ヒュッと音を立てて、魔物の腹から、丸い何かが飛び出して来る。それを掌に収めた救世主は、そっと呟く。


「これが元凶か」


 救世主の手の平の上にある、丸い小さな物は、魔物が呑み込んだ魔石だった。

 淡く白い光を放っていたそれは、やがて光を失い、灰色のただの石に成り下がる。それと同時に、魔物の軀が崩れ始めた。黒い灰となり、サラサラと崩れて逝くその様子を、救世主とセラフィーナはただ黙って見つめていた。


「呆気ないもんだ」


 やがて跡形もなく灰になってしまった魔物に、救世主が小さく言葉を零す。三十年近く、精霊族を苦しめ続けた魔物の最期は、酷く惨めなものだと、救世主は安堵と共に、虚しさも感じていた。


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げるセラフィーナに、救世主は破顔する。魔物が居なくなり、いよいよセラフィーナとの未来が拓けたことに、ただ嬉しさが込み上げた。それとは対象的に、セラフィーナの表情は暗いままだった。そのことに気づき、救世主がセラフィーナへと声をかけようとしたときだった。手の中にあった魔石が、光り出す。それと同時に、救世主の身体が傾いだ。


「なんだっ!」


 急激に魔力が引きずり出される感覚に、戸惑いながらも何とか抗う。その救世主の様子に、セラフィーナは慌てて鞄の中に手を突っ込んだ。


「救世主様、これを!」


 クラクラとする頭を抑え、片膝をついた救世主の目の前に差し出されたものは、色とりどりの縦縞模様のある奇跡の実だった。毒々しいと表現していたその実を差し出され、食べろと言われても、救世主は容易に頷くことは出来ない。


「……いや、大丈夫だ……」

「駄目です! 魔石に魔力を吸われているのです! このままでは意識を失ってしまいます!」


 それは困るなと、救世主は唸った。セラフィーナへかけている結界が解けてしまっては大変だ。それにこの後、まだまだやることがあるのだ。例え何とか持ち堪えられたとしても、魔力量が減って上手く立ち回れなくなっては意味がないと、救世主は覚悟を決める。


「……分かった」


 言うが早いか、了承のために口を開いた救世主の口の中に、セラフィーナは無理矢理奇跡の実をねじ込んだ。


「うぐっ!」


 驚きながらも咀嚼した瞬間、口内に広がった爽やかな甘みに、救世主は思わず言葉を零す。


「美味い……」


 同時に一気に魔力が回復し、魔石も魔力を最大限に溜め込んだのか、強かった光は、淡い光へと落ち着き救世主の手の中で、何事もなかったように収まっている。


「ああ、良かった……」


 慌てていたセラフィーナも、ホッと息を吐き出した。


「なるほど、随分と厄介な魔石だな」


 立ち上がりながら、救世主は手の中の魔石を苦々しく握りしめた。


「この魔石は、亡くなった精霊族の亡骸の、成れの果てだと言い伝えられています」


 その言葉に、ぎゅっと握り込んでいた手を救世主は慌てて緩めた。


「死んだら魔石になるのか?」

「ただの迷信です。魂が肉体から抜けると、亡骸は消えてしまうそうです。肉体から抜け出た魂は神殿へと向かい、送りの儀式を行って、天に還ると言われています。神殿にはたくさんの魔石があり、それが増えていっているようだと、誰かが口にしたのがこの迷信の始まりだそうです」

「神殿にこの魔石が? じゃあ、あの中はどうなってるんだ? 魔力を吸い取られてるのに、あそこで人柱になっている連中は大丈夫なのか?」

「神殿は元々、聖獣そのものなのです。聖獣は自ら魔力を作り出すことが出来るので、魔石に吸われても、問題ありません」

「聖獣が神殿って、どういうことだ?」

「人間界から溢れ出た瘴気が、こちらへと流れる量が多くなり、何体かの聖獣が神殿へと姿を変えることで、一気に瘴気を浄化することにしたそうです。それでも瘴気の量が増すばかりで、精霊族全員の聖魔力を神殿へ集め、浄化を行っていたと聞いています」

「そうか……」


 痛々しげな表情をする救世主に、セラフィーナは俯きながら言葉を付け足した。


「もうずっと昔の話です」


 だがセラフィーナの表情もまた、酷く辛そうなものになる。しんみりとしてしまった空気は、この瘴気に満ちた精霊界の風景と相まって、救世主の心をざわつかせた。それを払拭するように、救世主は声をあげる。


「よし、次は大地の復活だ!」


 救世主はまだこれからやらなければならないことがあると、気を引き締めた。

意気揚々と宣言し、セラフィーナの手を掴む。

 一瞬、視界が歪み、瞬きを一つした後に、違う景色が眼前に広がった。


「これが神殿か……」


 救世主の言葉に、セラフィーナも初めて目にする神殿を見上げた。幾重にも重なった亜空間の中にある大きな神殿は、その輪郭はとても曖昧で、建物自体もぼやけて見えている。

 だがそれでも、確かに見えているその姿に、胸が締めつけられるほどの懐かしさに目を瞠る。


「あの聖獣は、コリンの仲間か?」

「え?」


 建物にばかり気を取られていたセラフィーナは、救世主の言葉に、その目線を追う。するとそこには、救世主が保護した聖獣、コリンと瓜二つの聖獣がいた。

 静かに歩み寄り、それ以上先に進めないという場所まで来ると、救世主は聖獣の瞳をまっすぐに見つめた。セラフィーナもまた、聖獣の側近くまで足を進める。そして、聖獣がセラフィーナの姿を認めると、前足を透明な壁へと掛けた。途端に、聖獣の目から涙が溢れる。静かに、だがそれでも、目を逸らすことなくじっとセラフィーナを見つめ続ける聖獣は、ただただ涙を流した。


「どんな想いで、ここで一人で待ってたんだろうな」


 二十年以上、ずっと、ずっと。待ち焦がれた瞬間が漸く訪れたのだ。

 一緒に待っていてくれた聖獣たちも姿を消し、きっともう諦めていたのかもしれない。そんな考えが浮かび、救世主は奥歯を噛みしめた。もっと早く、セラフィーナと出会えていればと、強くそう思ってしまう。


「さあ、始めるぞ」


 セラフィーナに手を差し出し、鞄を受け取る。中に入っている万能薬の瓶を掴み、上へと放り投げた。宙を舞う瓶に救世主が小さな魔法を当て、瓶を砕く。すると中の液体は大きく弾け、霧雨のように辺りに舞い降る。キラキラと金色に輝き、大地へと吸い込まれていく様は、とても幻想的で、美しかった。


「どれくらいで、復活するんだろうな?」


 まだ一本だけしか万能薬を使っていないのに、救世主は明るくそうセラフィーナに問いかけた。そんな救世主に、セラフィーナは辛そうに言葉を紡ぐ。


「この世界は、きっともう、元には戻りません」

「は?」

「よく見て下さい、救世主様。この瘴気を、死んだ大地を。これでどうやって、生き返ると?」


 ずっと我慢していた涙が、堪えきれずに溢れ出た。現実的に考えれば、とても無理だと容易に結論が出る。それなのに、救世主は態と明るく、大地の再生はこれからだと息巻いている。その姿が、セラフィーナにはどうしようもなく虚しく感じ、怒りさえも覚えてしまっていた。


「何言ってんだ、セラフィーナ? そりゃあ今すぐどうこうは出来ないだろうが、まだ始まったばかりだろう?」


 まだたったの一本しか万能薬を使っていないというのに、随分と悲観的になっているセラフィーナに、救世主は思わず首を傾げてしまう。


「救世主様、どんなに万能薬を使ったところで、大地は復活しません」

「何故、言い切れる?」


 この精霊界へと渡ったことが、まるで無意味だと言いたげなセラフィーナに、救世主は少しばかり声を低くする。


「精霊族は、この地を捨てたからです」

「……捨てた?」


 言っている意味が分からないと、訝しげに眉を寄せた救世主は、その言葉を何度も頭の中で反芻する。


「はい。精霊族はこの地を捨て、人間界に新たな『神殿』を築くことになりました」「は? 神殿?」


 眼前に広がる神殿とセラフィーナとを交互に見遣り、救世主は一つの結論を出す。


「あの神殿を、人間界へ持っていくのか?」


 今は亜空間に収まっている神殿を、人間界へと繋ぐのだと思い、救世主は目を瞠る。それならば、もっと早くにやれば良かったはずなのに、何故『今』なのかと疑問が浮かぶ。


「いいえ。新たに神殿を造り、その場所を精霊族の住処にします」


 その言葉を聞いたとき、救世主の中には色々な疑問が吹き出した。

 では、今目の前にある、あの神殿はどうするのか。

 神殿を造るのに、どれくらいの費用が必要になるのか。

 その費用はどこから調達するのか。

 どこを拠点にするのか。今現在、精霊族はどれくらいの人数が残っているのか。


 そして、何故『今』なのか。


 ようやく費用が準備できて、それで今になったのか。

 いや、それよりも、神殿は聖獣が姿を変えたものだと言っていた。

 では、新たに造る神殿とはどういうことなのか。


 混乱していた救世主の思考が纏まり始める。そして答えが出た。何故『今』なのか。その答えが。


「人間界に、聖獣たちが来たからか?」

「……」


 セラフィーナは答えない。俯いたまま、ただ涙を流すのみだった。


「答えろ、セラフィーナ!」

「……そのとおりです。ここにはもう、精霊族は一人もいません。そして人間界に、全ての精霊族が集まりました。一番重要である聖獣たちも、今は人間界にいます」「一人もいない? 何言ってやがる! いるじゃねえか、目の前に!」


 救世主はばっと腕を神殿の方へ向け、尚叫ぶ。


「よく見ろ、セラフィーナ! 空間魔法はまだ展開されたままだ! それはまだ、人柱になっている仲間が生きているっていう何よりの証拠だ! 二十年以上、ここでひたすら未来を願っている仲間は、今もまだ確かに生きている!」


 必死に救世主が言い募る。だがその甲斐虚しく、セラフィーナは小さく言葉を零した。


「もう、決まったことです」


 最初から決まっていたことだと、セラフィーナは付け足した。神殿を隔離する計画の中に、この案はしっかりと組み込まれれていた。人柱になる者と、人間界へ渡る者を決め、もし魔物を排除できず、大地が死に、再起不能に陥った場合、人間界へと渡った精霊族と聖獣とで、新たな神殿を造り、精霊界の役割を担うのだと、元々はそういう計画だったのだと言う。予期せず、魔物の展開した空間魔法で人間界へと飛ばされた精霊族は、一気に数を減らしてしまい、神殿の隔離を早めることになった。人間界に渡った精霊族は精霊界に帰ることはせず、この計画のために敢えて人間界に留まった。またいつ魔物に空間魔法を展開されるかわからず、これ以上人数を減らされるわけにはいかなかったからだ。


「そんなこと!」

「未来を見ることの出来る精霊族が、いたそうです。未来にはいくつかの分岐があり、その中の一つにこの未来が含まれていました。分岐の始まりは、精霊界の大地が死んだあと、瘴気が溢れるところから始まったと言われています」


 今のこの状態がまさにそれだと、セラフィーナの目が訴えた。


「人間界へと渡った精霊族は、全員がその計画を知っているそうです。そうして、その時が来てしまいました」

「ああ、だからか。おかしいと思っていた。セラフィーナが精霊界に渡れると聞いたとき、なぜ人間界にいる精霊族は、精霊界に帰れるのに帰らなかったのか、疑問だったんだ」


 精霊界に来てすぐに、セラフィーナから聞いた、魔物の作り出す空間魔法でまた命を落とすかもしれないという恐怖があったからかと始めはそう思っていた。だが、育ての親である長老の故郷への想いは、それを凌駕するほどに強かったと救世主は認識していた。命があるうちに、もう一度あの地へ戻りたいと、何度もそう言っていたお伽噺の主人公は、帰る方法がないが故に、恋焦がれているのだと、救世主は思い込んでいた。それが実際は、もっとずっと残酷で悲惨な終焉へと向かう未来があったのだと、セラフィーナは言う。諦めたような表情をするセラフィーナに、救世主はそれでも納得がいかないと、声を絞り出した。


「精霊界が復活する未来は、あるんだろう?」

「その分岐は、既になくなりました」

「じゃあ、もうこの大地は復活しないのか?」

「それは……分かりません。先見を行った精霊族の方は、二十八年前の大穴で、命を落してしまったそうなので……」


 それ以後の先見は出来ていない。そうセラフィーナは俯きながら言った。


「俺はじじいから、聞いている。この大地のことを。強い心に反応するこの大地は、強く望めば、そして願えば、それに呼応してくれると」


 救世主は残りの万能薬を手に取り、一つずつ上に放り投げ、瓶を壊していく。霧雨が絶え間なく降り注ぐ中で、セラフィーナは朧気に見える神殿を見上げた。そして、薄い膜の向こうで、未だに泣き続けている聖獣へと目を向ける。眠り続ける仲間たちを見守り、死にゆく大地に残った聖獣たちをも見守り、そしてとうとう一人になってしまった。

 どれほど絶望したのだろう。計画の最期に立ち会うことになったこの聖獣は、ゆっくりと死にゆく仲間たちを見守りながら、自身も死んでいくのだろうか。そう考えながら、セラフィーナは涙する。


「信じてやれよ、親父さんのことを」


 全ての万能薬が大地に染み込み、その様子をじっと見つめていた救世主がポツリと言葉を零した。


「この大地は、必ず元に戻る」


 そう断言する救世主は、強く一点だけを睨みつける。そして、目を瞠る。その表情の変化に、セラフィーナも救世主が見続けていた場所に視線を移した。


「えっ!」


 口元に手を当て、驚いた声を上げたセラフィーナは、次いで膝から崩れ落ちた。

眼の前にある、小さな緑の葉を見つめながら。


「こんなことって…」


 ふるふると震えながら、セラフィーナはポロポロと大粒の涙を流す。


「精霊族ってのは、みんな諦めが早すぎんだよ。人間は、強欲だからな。親父さんも俺も諦めが悪いんだ」


 ニカッと笑った救世主は、神殿を守る聖獣へと視線を向ける。幾重にも重なった亜空間では、声は届かないのかもしれない。それでも、救世主は声をかけずにはいられなかった。


「聞こえてるのか分からねえが、もうすぐだ、待ってろよ」


 そうして、徐に頭上へと手を翳す。聖魔法を放ち、救世主の掌から大きな魔法陣が宙に浮かび上がる。それが浄化魔法だと分かると、セラフィーナは慌てて救世主を止めに入った。


「救世主様、お止めください! 大地に魔力ごと引きずり込まれてしまいます!」


 先程の魔石の件を思い出し、セラフィーナは青褪めた。死んだ大地が息を吹き返そうと、与えられた魔力を過剰に摂取する可能性があると思ったからだ。だが、その心配は杞憂に終わる。


「大丈夫だ。この大地はまだ死んだままだ。俺を取り込む力さえ、残っちゃいねえ。だから少しずつ、生き返れば良い」


 穏やかにそう言った救世主は、翳していた手を下ろし、頭上高くに展開する魔法陣を見上げた。ゆっくりと回転しながら、瘴気を浄化していることを確認する。そして今度は、足元にある、緑の新芽に目を向けた。


「セラフィーナ。今出来ることは全てやった。それで……どうする?」


 ちらりと神殿の方へと視線をやり、救世主は聖獣を指し示す。ここに聖獣を残していかなければならない事実に、救世主は胸を痛めた。


「……一度報告のために戻った方がいいと思います」


 セラフィーナもまた、聖獣のことを思い、救世主の質問に答えながらも、ここを去ることを躊躇った。


「俺はここに、残ろうと思う。だからセラフィーナ。一人で向こうへ帰って、報告して来てくれねえか」

「ですが……」


 救世主の提案に、セラフィーナは即答出来ずにいた。それは、救世主を一人ここに置いていく心苦しさと、上手く報告が出来るかという心配、そして聖獣の存在がセラフィーナの足を動かそうとはしなかった。そんなセラフィーナの様子に気付かず、救世主は尚も言葉を続けた。


「それで、親父さんから万能薬を受け取って、またこっちに戻って来てくれ」


 救世主としては、一日でも早く、神殿の中にいる精霊族たちを開放したかった。今この瞬間も、彼等は命を魔力に変えて神殿を守っているのだ。寿命が少ないにしろ、生きて再びこの大地を踏みしめられるのならば、そうしてやりたいと、救世主は焦りにも似た感覚に突き動かされる。


「……分かりました」


 セラフィーナもまた、同じ気持ちだった。万能薬をと聞いた時点で想いが固まる。生まれた時からずっと聞かされていた故郷の話はどこか朧げで、救世主と同様、お伽噺のような感覚だった。だが今、眼の前に広がる光景は話に聞くよりも酷く残酷で、セラフィーナの心に暗く深い陰を落とした。それを払拭する術が存在し、それを成し遂げる未来も見えて来た今、迅速に行動を取らなければと、セラフィーナもまた焦燥感に襲われる。


「すぐに戻ります」


 救世主にしっかりと視線を合わせ、セラフィーナが告げる。聖獣へ顔を向けようとしたが、罪悪感から俯いてしまう。それでもと、空間魔法を展開し、人間界へとセラフィーナは急いだ。導であるセラフィーナの母、セシリーのもとを目指して。

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