第十九話

「回復薬窃盗事件の報告が、上がってきています」


 元帥という立場でありながら、重要な報告ほど救世主のところに上がって来なかったが、今回の騒動は早い段階で救世主の耳に入ったこともあり、しっかりとした報告書が手元に届いた。


「ああ、回復薬な」


 今まで忘れていたかのような救世主の返事に、エグバートは報告をしなくても良かったのではないかと思ってしまう。


「薬学部の主任である、プラチフォード卿が、何者かに誘拐拉致されたようです」「は?」


 エグバートの言葉に、救世主は何を言われたのか一瞬理解出来なかった。そんな救世主の様子を無視するように、エグバートは淡々と報告を続ける。


「回復薬が盗まれた後、薬学部の主任であるプラチフォード卿がすぐに回復薬を全て水に変えたのは元帥もご存知かと思います。それを実行して一日も経たず、薬学部の研究所からプラチフォード卿が忽然と姿を消しました。回復薬を盗んだ者による誘拐だと断定し、捜査が行われ、結果カルガァード卿の関与が浮上し、屋敷を捜索。侍従の話から、プラチフォード卿が拉致されたのは事実でしたが、その後行方が分からなくなっています」

「は?」


 エグバートから報告を受け、救世主は困惑する。万能薬の説明会の時に、誘拐などの対策は万全だと豪語していたジョナスを思い出し、首を傾げた。それでも、姿を消したということは、空間魔法でその場を脱したのだと理解する。

 問題は行方が分からなくなっていることだった。空間魔法の厄介な部分が頭を過り、救世主は途端に心配になる。この後、セラフィーナに会いに行く予定がある救世主は、ジョナスのことも聞いておかなければと、気を引き締めた。


「カルガァード卿は捕縛され、軍が身柄を預かる形になりました。窃盗以外にも余罪があるようです」


 厳しい表情でそう言ったエグバートに、救世主は『余罪』という言葉に、ハドリーのことを思い浮かべた。エグバートとハドリーは幼馴染で、ハドリーの兄とも親しかったのだろう。それが家族を殺し、弟を死霊魔法で操っていたと知り、心中は穏やかではないはずで、救世主は敢えて知っていてもそのことには触れずにいた。


 「ハドリーの遺体は、見つからなかったそうです。ですが、地下にある部屋の一室に、黒い灰のような塊が三つ確認されました。恐らく、それが……」


 言葉を詰まらせたエグバートに、救世主は何も声をかけなかった。今回の大穴のせいで、沢山の若い命が奪われた。だがそんな名誉の死とは違い、ハドリーは命を『弄ばれた』のだ。

 孤児だった自分を育てたのは、赤の他人だった。今回、ハドリーとその両親を殺したのは血を分けた肉親だった。人間の愚かさと悍ましさに、救世主は嫌気がさす。そんな自分もまた人間なのだと思うと、吐き気がした。


「報告、ご苦労」


 そう言ってこの話を終わらせた救世主に、エグバートは腰を折って執務室を退室した。

 残された救世主は、その後黙々と執務をこなす。午後にはセラフィーナに会えると、自分を鼓舞しながら。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 昼を回って、救世主の仕事も順調に終わり、一度宿舎へと戻ると、聖獣が嬉しそうに出迎えた。


『キキッ』


 その場で数回、小さく跳ねる姿は、「おかえり」と言っているようで、救世主は思わず笑みを零す。


「おう、待たせて悪かったな。今からセラフィーナに会いに行く。そうすりゃきっと、仲間に会える。後、昼飯にありつけるぞ」

『キキッ』


 どちらかというと、昼食の方で大きく反応を示した聖獣に、救世主は苦笑した。


「よし、行くか」


 足元まで来ていた聖獣と共に、学園のいつもの裏庭にいるであろう、セラフィーナの許へと転移する。

 室内から、木々の生い茂る場所へと景色が変わり、聖獣は驚いたように目を見開く。そして、黄金色の水晶のような瞳が煌めいた。その場で飛び跳ね、聖獣は無邪気に喜んだ。そして、辺りをキョロキョロと見回した後、救世主を見上げる。


「この先だ」


 視線だけでセラフィーナのいる方向を示し、救世主が歩き出す。その後を追い、一歩を踏み出した聖獣は、既にセラフィーナの『気配』を感じ取っていた。逸る気持ちを抑え、救世主の後ろ歩く聖獣は、ポロポロと涙を零し始める。

 

 木々の間から、セラフィーナの姿が見える。まだ少し遠い距離にいるセラフィーナが、顔を上げた。こちらを伺うように向けられた美しい顔に、救世主は眩しそうに目を細める。

 救世主が振り返り、聖獣に、彼女がセラフィーナだと教えようとしたが、聖獣は既に走り出していた。

 セラフィーナへと一直線に向かって走る聖獣を、セラフィーナは両腕を広げて受け入れる。差し出されたセラフィーナの腕を伝い、肩まで駆け上がった聖獣は、今度は後ろ首を伝い、反対の肩へと回る。そして涙を流しながらセラフィーナの頬へと頭を擦りつける。

 セラフィーナもまた、目に涙を浮かべる。まるで長年離れていて、やっとの想いで再会したかのようなその出逢いは、救世主を驚かせるのには十分だった。


「どういうことだ?」


 一人呟いた救世主はすっかり蚊帳の外だ。それでも、ぎこちないセラフィーナの仕草に、奇跡の実を食べた後なのだろうと考えた。本来ならば、感情の機微さえ分からない程なのに、今は涙さえも隠しきれていない。そのことに、聖獣を連れて来たのは正解だったなと、救世主は心の中でほくそ笑む。


「あー、感動の再会中に申し訳ないんだが、余り時間がないんでな。話を進めていいか?」


 救世主が気まずそうにそう言うと、途端にセラフィーナの感情が抜け落ちた。涙も引っ込み、完全に無表情になってしまったセラフィーナを残念に思いながら、救世主は話を続ける。


「親父さんが行方不明だって聞いたが、家にも戻ってねえのか?」

「行方不明?」


 目を見開いたセラフィーナに、救世主は慌てた。まさか、家族に情報が伝わっていないとは思ってもみなかったのだ。救世主は、誤魔化すことも出来ないだろうと、自分の失態に焦る。


「家には帰って来てないのか?」


 確認だけはしておこうと、改めて問いかけるが、救世主はすぐに後悔した。


「いえ……いえ……帰って来てません」


 みるみる感情が戻ったセラフィーナは、酷く狼狽える。その様子に救世主は、自分自身に舌打ちしたくなったが、ぐっと堪える。聖獣もまた、セラフィーナの肩の上で、耳を垂らしていた。


「親父さんも空間魔法が使えるんだよな。もしまだ亜空間に居るのなら、こっちから喚ぶことは出来るはずだ」


 まだ居ればの話だが、という言葉を、救世主は呑み込んだ。セラフィーナの顔が青ざめる。奇跡の実を食べていないのかと思う程に、感情が戻っていることを訝しむ救世主だったが、今はジョナスのことが先だと、提案をする。


「一度、家に帰ってみるか?」


 その提案に戸惑いながら、セラフィーナが問いかけた。


「その……いつから、行方不明なのでしょうか?」

「一昨日の昼に誘拐されて、その日の夕方に誘拐された場所から姿を消したらしい」「誘拐!」


 詳しい事情を知らないセラフィーナからしてみれば、衝撃的な内容に、悲鳴に近い声を出す。だが、一昨日に亜空間に入ったであろう父親が、まだ戻らないという事実がセラフィーナを絶望に叩き落とした。


「ああ……」


 既に違う空間へと放り出されてしまった可能性が高いことに、セラフィーナはどうしたらいいのか分からず、項垂れた。そんなセラフィーナに、寄り添うように聖獣が頬を寄せる。


「もしかしたら、また亜空間に入っている可能性がある。そうすればこっちに呼び戻すことも出来るはずだ」


 そう断言する救世主に、セラフィーナは神妙な面持ちで頷いた。だが、最初に亜空間に入った時に何故、戻って来れなかったのかと疑問が浮かぶ。父の導は母自身だと改めて考えてから、ひとつの可能性に行き着いた。それは益々セラフィーナの心を沈ませた。


「怪我を……しているのかもしれません。父は回復魔法を使えるのですが、少し厄介で……。自身の身体を自動で回復してしまうのです。それが原因で、魔力が尽きてしまっている可能性があります。だから、導に向かえなかったのではないかと」

「動けないにしても、もし命に関わる程の大怪我だとしたら……。くそっ、もう一度亜空間に入るどころか、下手したら死んじまうじゃねえか」


 そう言ってから、救世主は余計なことを言ったとすぐに口を噤む。ガタガタと震えだしたセラフィーナに、想定とはいえ言ってはいけない一言だったと、申し訳ない気持ちが押し寄せた。


「一度、家に帰ります。母にこのことを話さなければ……」


 堪え切れず、涙が零れ落ちる。その雫を舐め取った聖獣は、心配そうにセラフィーナを覗き込んだ。


「送っていく。自分の家を思い浮かべてくれ」


 その刹那、視界が歪む。だがそれは一瞬のことで、すぐに視界が戻ると、景色が変わっていた。ここが自分の家の裏庭だと気づくのに、時間はかからなかった。そこには、奇跡の実がたわわになる木があったからだ。聖獣がそれにいち早く気づくも、セラフィーナのことが心配なのだろう、空腹を我慢してその場に留まっていた。


「へえ、小さいんだな」


 奇跡の実をなす木を見つけ、救世主が呟くように言った。セラフィーナが他国へ持って行くと言っていたから、そんなに大きくはないのだろうとは思っていたが、想像以上の小ささに思わず驚いてしまう。


「お母様!」


 そんな救世主を他所に、セラフィーナが声を上げた。母親の姿が目に入ったのだろうが、それよりも先に、聖獣がセラフィーナの肩から飛び降りる。そして、母親目掛けて飛びついた。先程見せたセラフィーナとの感動の再会を再現するように、涙を流し喜んでいる。違うことといえば、セラフィーナの母親であるセシリーが、聖獣の名を呼んだことだろう。


「コリン! 良く無事で!」

『キキッ』


 だがここで、救世主が驚きに目を瞠る。それはセラフィーナの母親が、明らかに『人間』ではなかっからだ。聖獣と同じように、白目はなく、水晶が嵌め込まれたような蒼い目をしていた。

 身体は発光しているわけではなかったが、その存在は随分と眩しく感じられる。そして、これほどまでに神秘的で在りながら、魔力が一切感じられないことに、『精霊族』という言葉が、救世主の頭に浮かんだ。

 かつて自分を育ててくれた老人もまた、魔法を使っていながらも、魔力を感じることはできなかった。そして、セラフィーナによると、その育ての親も『精霊族』なのだという。だが、セラフィーナの母親のような目ではなく、ごく普通の、人間のような目だったと思い至り、疑問が深まる。それでも今は、違うことに意識が向いていた。それは救世主が、ずっと思っていたことでもあったため、するりと言葉が口から飛び出した。


「セラフィーナは、精霊と人間の混血なのか?」


 救世主は何気なく、疑問を口にする。だがそれは、セラフィーナにとっては、酷く残酷な問に聞こえた。そのせいか、今まで発動をやめていた傀儡魔法を、すぐに自身にかける。感情の変化で、あらぬ方向へ話を進ませないためであったが、それが逆効果になってしまう。


「その魔法は、誰がかけている?」


 急に感情の抜け落ちたセラフィーナに、不機嫌にそう告げた救世主は、セラフィーナの母親へと顔を向けた。もし魔法をかけているのが母親ならば、その人物を見れば勝手に魔法の情報が流れ込んで来る筈だと、そう思ったからだ。だが、情報は一向に入って来ない。精霊族故か、魔力も一切感じないことに、救世主は剣呑な目を向けた。その表情に、セシリーは息を呑む。


「これは私が、自分自身に魔法をかけています」


 セシリーの強張った表情を見遣り、セラフィーナが救世主の問に答える。


「自分に? いったい何の魔法なんだ」

「……傀儡魔法です」


 躊躇いながら、セラフィーナが小さく言う。そのあり得ない魔法の名を聞いて、救世主は眉を潜めた。


「傀儡魔法を自分に? そんなことが出来るのか?」

「出来ます。むしろ他人の言動を操るよりも、自分にかける方が簡単です」


 感情のない、淡々としたその物言いは、初めて会った時のセラフィーナと同じで、嘘は言っていないのだと確信する。そして救世主の中で、色々なことが繋がっていく。

 何故育ての親の目は、人間と同じだったのか。それは育ての親が、自身にそういう魔法をかけていたからだと気づく。そして自分自身の『内側』にかけている場合は、魔法の情報が流れて来ないという事実にいきついた。

 黙り込んだ救世主に、セラフィーナは嫌な予感を抱く。そして危惧する。このまま拘束されて、国の道具にされてしまうのではないかと。そんな最悪の場面を、セラフィーナは想像した。それは以前、懸念として母親であるセシリーに話した内容だった。この魔法のことを知られれば、国にいいように使われ、死ぬまで監禁されてしまう。そんな未来を頭で考え、『他者に使うのは難しい』と匂わせた。それでも、そんなことは、ささいなことなのかもしれないとセラフィーナは思う。傀儡魔法を使える事実は消えないのだから。


「だとしても、何のためにそんなことを?」

「私の性格の問題です」

「性格?」

「はい。私は、とても臆病なので」


 だから、とセラフィーナは覚悟を決める。このことが救世主の耳に入った以上、母親と自分が国に捕まってしまうことは明白だと諦めた。そっと母親であるセシリーに、目を向ける。次いで初めて出逢えた同胞である聖獣にも視線を合わせた。悔いが残るとしたならば、父親に別れを告げられないことだろうかと、セラフィーナは目を閉じる。

 父親の無事を確認出来ないままではあるが、無事でいてほしいと願うことしか出来ないとセラフィーナは自分に言い聞かせた。

 

 音もなく、セラフィーナの足元に魔法陣が広がる。淡い緑色の光を放つ魔法陣には、文字のようなものが、外側から中心へと、渦を巻いて展開されていく。


「セラフィーナ!」


 セシリーが大声を張り上げる。その声に、思わず救世主は振り返った。大声でセラフィーナの名を呼んだセシリーは、酷く険しい表情をしていた。だがその表情の中に、悲しみが混じっていることに救世主は気がついた。セシリーの肩に乗っている聖獣もまた、耳を垂らし、悲痛な表情を浮かべていた。それを見遣り、救世主はセラフィーナへと向き直る。

 今現在、展開されている魔法が何なのか、じっとその魔法陣を観察した。ふと、頭の中に情報が流れ込む。


『忘却魔法』


 その言葉と共に、その魔法の特性が次々に浮かぶ。その内容に、救世主は戦慄した。

 セラフィーナがこの世に存在した事実が、消失する。関わった全ての者からセラフィーナの存在を、記憶を、消滅させる。この魔法が発動すると、同胞である精霊族には行動制限がかかり、止めることが出来ない。

 この魔法はセラフィーナの『外側』にかけられている。だからこそ、その情報が流れ込んできたのだ。 

 救いはセラフィーナの命にはなんら影響しないという点だけだった。だがそれは、家族だった者たちにとっては死と同じ意味を持つ。質が悪いのは、その事実さえも消失し、家族を失ったことさえ認識出来ないことだ。それは残されたセラフィーナにとって、どれ程の苦痛なのか、救世主には容易に想像出来た。唯一の家族だった育ての親を失った時、嫌と言う程に味わった孤独は、救世主の心に深い傷を残し、今尚燻っているのだから。

 

 救世主がセラフィーナを観察している間に、その魔法は様相を変えていく。文字の書かれた帯が、中心からセラフィーナの足へと絡みつき、徐々に上へと向かって行く。その様に、『止めなければ』と救世主は強く思う。


「セラフィーナ、やめろ!」


 救世主はセラフィーナへと一歩を踏み出す。それを見たセラフィーナは慌てて救世主へと魔法を放つ。

 傀儡魔法をかけられて、救世主の足が止まった。


「ぐっ……」


 他人にかける方が大変だと言っていた通り、救世主にかけられた傀儡魔法は、完全には機能しないようで、救世主の意識はかろうじて保たれていた。そうしてまた一歩を踏み出す。それと同時に、セラフィーナの魔法が強まる。それでも完全には支配されない救世主は、少しずつセラフィーナへと近づいて行った。


「セラ……フィーナ……」


 苦しそうに名を呼ぶ救世主に、セラフィーナは尚も魔法を強めた。それに抗うように、手を伸ばした救世主は、そこで足を止める。それは、セラフィーナに異変が起こったからだった。

 つうっと右眼から、血が流れる。次いで左眼からも流れ始めた。苦しそうに顔を歪めたセラフィーナは、泣いているようにも見える。実際、泣いているのだろう。自分が抗うことで、セラフィーナの肉体に負荷がかかっているのだと理解した救世主は、動きを止めた。だが、意識は保ったままだ。ここでセラフィーナの魔法に屈すれば、記憶が消されてしまう。

 セラフィーナとの思い出が走馬灯のように蘇り、何とか意識だけは手放さないように耐え続けた。だがそれが、セラフィーナの身体を痛めつけているのだと思うと、救世主はいたたまれなくなる。

 魔法陣の帯が、ゆっくりとセラフィーナの上半身へとのぼって行く。ぎりっと奥歯を噛んだ救世主は、再び歩み始めた。もう少し腕を伸ばせば届くという距離まで近づき、止められるかもしれないと、救世主は希望を見出す。だがここで、セラフィーナは覚悟を決める。思いの外救世主には魔法が効かず、セラフィーナは焦り、そして決意する。


「……どうか……家族……だけは……」


 呟かれたセラフィーナの言葉に、救世主が恐怖した。

 死を覚悟した者の表情を、救世主は知っている。それが今、セラフィーナの表情と重なった。


「やめ……ろ……」


 救世主の頭の中で、セラフィーナからの命令が流れてくる。それは随分と朧げで、何を命令されたのか、救世主には分からなかった。だが不思議なことに、身体が勝手に動き始める。

 懐に手を入れて、取り出した短剣に救世主は目を瞠る。その短剣で一体何をしようというのか、そう考えるよりも先に、短剣を握った腕がセラフィーナへと向けられた。


「なに……を……」


 苦し紛れに言葉を零した救世主は、口からごぽりと血を吐き出したセラフィーナに、どうしたら助けられるのかと焦る。このままではセラフィーナの身体が耐えきれずに事切れるか、短剣で命を落とすかのどちらかしかない。


「やめてくれ……セラフィーナ……」


 懇願する救世主の声は、悲痛なものだった。少しずつ距離を縮めながら、短剣の先はセラフィーナの首元へ向かう。反対の腕でセラフィーナを拘束したいが、身体はいうことをきかない。

 非情にも短剣の切先がセラフィーナの首に当てられた。セラフィーナの目を見据え、救世主はもう一度言葉を繰り返す。


「やめてくれ」


 セラフィーナの目には、血に混ざり涙が流れている。もう立っているのも限界なのだろうと、今すぐにでも抱きしめたいという感情が救世主の中に湧く。この現状を打破出来ない今、どちらに転んでもセラフィーナを失うことになるのだろうと、救世主は絶望した。


 そんな時だった。


 パリンっと、薄いガラスが割れる甲高い音が響く。

 そこには、セラフィーナの父親であるジョナスの姿があった。ジョナスの足が、文字の書かれた帯を踏み抜いたのだと救世主が気づいたのは、淡く発光していた魔法陣がガラスのように砕け散ってからのことだった。そして、セラフィーナの身体が傾ぐ。


「セラフィーナ!」


 短剣を投げ捨て、素早くセラフィーナを抱き止めた救世主は、すぐに回復魔法をかける。そこにジョナスも加わり、辺りは眩い程の光に包まれた。

 やがて光が収束し、セラフィーナの身体はすっかりと癒える。だが、気を失ってしまったセラフィーナは眠ったままだった。


「セラ……」


 小さな声が、救世主の背後で呟かれた。セラフィーナの母親であるセシリーは、静かに涙を流していた。止めることが出来ないもどかしさと、自分の娘を失う悲しみとで、その心労は計り知れない。極度の緊張感から開放されたセシリーは、セラフィーナが無事だと分かった安堵から、その場に崩折れる。


「セシリー!」


 ジョナスが駆け寄り、身体を支えると、セシリーは泣きながらその腕に縋った。


「何があった? 何故こんなことになっている?」


 静かに涙を流すセシリーに、ジョナスは懸命に疑問を投げかける。だがセシリーはそれには答えず、ただ泣き続けるだけだった。

 それが何を意味するのか、ジョナスは考える。そして救世主の方へと顔を向けた。何故ここに救世主がいるのか。その答えも得られないまま、ジョナスはじっと救世主を見遣る。顔色を青くさせ、セラフィーナを抱きしめる救世主に、声をかけようとしたが、躊躇われた。

 救世主が、震えていたからだ。

 何かに怯えるように、震えながらセラフィーナを抱きしめるその姿に、ジョナスは何も言えなくなってしまった。本当ならば、お前のせいではないのかと問い質したかったのだが、その悲壮な姿がそうさせるのを躊躇わさせた。


「一体どうして……」


 もう一度そう疑問を口にして、ジョナスはセシリーの背を宥めるように撫でた。


「こっちが聞きたいぐらいだ! 何故セラフィーナは忘却魔法を使った!」


 だが救世主は知っている。これはほんの序章だということを。精霊界を救うための計画は、育ての親の御伽話の中にあった。そして、セラフィーナが忘却魔法を使用した際、母親であるセシリーが余り取乱さなかったことも、その計画が進んでいることを裏付けていた。それでも、何故今ここで使う必要があるのか、救世主には皆目見当もつかなかった。

 怒気を含んだ救世主の言葉に、ジョナスは押黙る。そして面倒なことになったと、眉間に皺を寄せた。あの魔法が忘却魔法だと言い当てた救世主に、ジョナスは舌打ちをしたくなる。古の時代であれば人間でも稀に使える者はいたのだろうが、その魔法を実際に見たものはいない筈だった。そして今、その魔法を使えるとすれば、精霊族以外にはいないだろう。そしてここに救世主がいるということは、セシリーが精霊族であるという事実を知られたことに他ならない。そして忘却魔法を使ったセラフィーナも、精霊族だと認識したはずだ。だからといって、セラフィーナが忘却魔法を使う意味がどこにあるのか、ジョナスには分からなかった。セラフィーナの記憶が救世主から消えたとしても、セシリーの記憶は消えないのだから。だとしたら、何を目的に忘却魔法を使用したのか。だが、ひとつの確信に辿り着く。国の中枢にいる救世主に自分たちの正体が知られてしまった以上、平穏な日常が崩れるだろうということを。


「セラフィーナを休ませたい」


 青い顔のまま、救世主がジョナスに向かって言った。その言葉を受け、ジョナスは神妙に頷く。


「こちらへ」


 少し落ち着いたセシリーをゆっくりと立たせ、ジョナスはしっかりと支えた。救世主がセラフィーナを横抱きにするのを確認し、ジョナスは自身の屋敷へと顔を向ける。

 セラフィーナは救世主の腕の中にいる。この状態で、ここからどうやってセラフィーナとセシリーを連れて逃げるかの算段を、ジョナスはとにかく考えた。だが当然のことながら、良い案は浮かばない。せめてセラフィーナの意識があれば、空間魔法で何とかなったかもしれないと思うも、救世主相手に逃げ切れるとも思えず、ジョナスは奥歯を噛んだ。

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