第十八話

 大穴の騒動が一段落ついたところで、軍は通常の業務に戻りつつあった。

 大穴が開いた原因は分からず、いつまた出現するかもしれないという恐怖が、国全体を覆っていた。そんな中、救世主は大穴が開いた場所へと足を運ぶ。既に入念に調べられた後ではあるが、何かしら得るものがあるかもしれないと、東の砦から森の方へと足を進めた。

 

 鬱蒼と茂る木々は太陽の光を遮り、少しばかり視界は陰る。それでも澄んだ森の空気と静寂は、救世主の気分を上向かせた。森の中を歩きながら、瘴気の残渣を浄化する。

 それを繰り返していた最中、救世主の視界の隅に小さな白色が映った。この森に白い動物などいただろうかと疑問が浮かぶ。そう思う反面、動物ではない、違う何かだと本能が告げた。気付けばそれを追って駆け出していた救世主は、得体の知れない焦燥感に襲われいた。白い何かをしっかりと視界に捉えた救世主は、もう一つの物体を認識する。それは『影』と言われている魔物だった。滅多にお目にかかることのない魔物が追いかけているのは白い何かで、その事実に救世主は小さく舌打ちした。


「厄介だな⋯⋯」


 影という魔物の特性を思い出し、つい言葉が漏れた。実体のない影には物理攻撃も魔法攻撃も効かない。強い光を当てて影を消滅させる方法はあれど、森の中ではそれも難しい。木の陰に入るだけで光を防げてしまうのでは意味がないからだ。残る方法としては影と同じ領域へ入り、浄化することだ。


「空間魔法か」


 余り得意ではない魔法に、救世主は白い何かを追いかけながら、苦い顔をした。

 その時、影が救世主に気付いた。黒い瘴気を吐き出し襲いかかる影に、迷わず空間魔法で影と同じ領域へと入る。ぐらりと歪む視界に次いで、方向感覚が失われた。人間の身で足を踏み入れるには酷く面倒な亜空間に、救世主は忌々し気に浄化魔法を放った。影を狙いたくとも、狂った感覚では仕留めきれないと、広範囲にわたって繰り出された浄化魔法は、呆気なく影を浄化し霧散させる。だが、空間魔法の本当に厄介なところは、別にある。導がなければ、元の空間に戻れないという点だ。その導というのも、とても強力な心の繋がりや、物に対しての執着など、救世主には馴染みのないものばかりだ。既に方向感覚もなければ、出口さえも見つけられない救世主は、早々に諦めた。


「まあ、これもまた一興だな。何か面白いものでも出てくればいいが」


 それでも亜空間には異物を排除する性質がある。次第にどこか一定方向へと流され始めた救世主は、小さく希望を口にした。


「どこに出るのか楽しみでもあるな。出来れば過去に戻りたいものだが」


 育ての親の最期を看取れなかったことは、未だに救世主の心に深い蟠りを残していた。セラフィーナによって知らされた真実もあり、もう一度会って話がしたいとも思っていた。ならば、これは好機なのではないかと、前向きに考える。そんな救世主を他所に、眼前に眩い光が押し寄せた。それはほんの一瞬で、気付けば先ほどの森へと戻っていた。


「なんだ? 何故戻ってこれた?」


 呆然とそう呟いた救世主に、白い何かが襲い掛かる。気配はまるでなく、不意を突かれた救世主は、それを振り払おうとした。だが、先ほどの影と同様に、姿は見えど実体がないのか救世主の振り上げた腕をするりと摺り抜け、首元へと向かって飛びかかる。その時初めて、白い何かが獣の姿をしていることに救世主は気が付いた。獣特有の、首元を狙う本能を目の当たりにし、戦慄した。


「くそっ!」


 言葉を吐き出したが、痛みは襲ってこない。不思議に思っていると、白い獣は救世主の後ろで着地した。そして、何かにしきりに頬を擦り付けている。それが育ての親の形見である首飾りだと気付くのに時間はかからなかった。バッと首元に手をやり、そこに形見がないことを確かめる。救世主は酷く戸惑った。自分の首から首飾りが外された実感がなかったからだ。

 白い獣は触れたものの実体をも曖昧にできるのかと、疑問に思う反面、その獣の様子にただ茫然と立ち尽くすことしか出来ないでいた。

 白い小さな獣は、形見の銀盤に頬を擦り付け、ぽろぽろと涙を零していた。黄金色の大きな瞳から、とめどなく溢れてくる涙は森の大地に吸い込まれていく。声もなく、ただひたすらに涙を流すその獣は、身体中が傷だらけで所々血が滲んでいた。身体の痛みよりも心の方が痛いらしい。

 どれくらいそうしていたのだろう。そう長い時間ではなかったが、救世主にはとても長い時間のように感じられた。泣き疲れたのか、それとも元々体力の限界だったのか、白い獣は首飾りの上に崩れるように倒れてしまう。少し遠くから獣を見守っていた救世主は、そっと獣に近づき、治癒魔法をかけた。


「精霊獣……聖獣⋯⋯なのか?」


 身体からは淡い光が放たれていた。森の中でいち早くこの存在に気づけたのも、この光のお陰だろうと、普通の動物とは明らかに違う様相の白い獣を撫でながら思った。最初は白兎か何かだと思っていた救世主だったが、まじまじと観察すると、その姿は限りなく猫に近かった。


「小さいな。これで成獣なのか?」


 色々と疑問が溢れてくる中、聖獣の下にある首飾りに目をやった。首から強引に取られた首飾りだが、鎖は切れていない。空間魔法の一種だろうと結論付け、自分が亜空間から抜け出せたのも、この聖獣のお陰なのではないかと考えた。


「じじいの知り合いか?」


 涙を流し続けた聖獣の姿と、首飾りを見た時のセラフィーナの泣きそうな表情とが重なった。


 聖獣を抱え、救世主は兵宿舎の自室へと向かう。元帥という立場のせいか、部屋はかなり広い。寝台の上に幾重にもタオルを重ね、そこへそっと聖獣を下ろした。大き目のタオルを身体に被せ、直ぐ脇には形見の首飾りも置いておく。規則正しい寝息を見ながら、救世主は一つ小さく息を吐いた。

 先日開かれた薬学部の説明会でもらった回復薬を棚から取り出す。回復薬は既に水になってはいるが、元は聖水に奇跡の実を調合したものだ。ただの水になったのではなく、聖水になっている事実を知る者は少ない。次いで王城で宰相からもらった奇跡の実も取り出しテーブルへ置いた皿に並べた。

 今ここにある物を、まじまじと眺める。まるでこの日が来ることが分かっていたかのような間の良さに、救世主は形見の首飾りに目を向けた。


「じじいの導きか? それとも、運命ってやつなのか?」


 自嘲気味に笑い、まさかなと思いながら首を振る。

 ゆっくりと聖獣に近づき、ぎしりと小さな音を立てて寝台の隅に腰掛ける。その振動と音とで覚醒したのか、聖獣の瞼が細く開けられた。


「起きたのか?」


 驚かさないように小さく声をかける救世主。そちらに顔を向けようと、もぞもぞと身動ぎした聖獣はいきなりバッと全身で飛び起きた。毛を逆立てたのはほんの数秒で、前足に当たった形見の首飾りに気付き動きを止めた。


『キキッ』


 小さな鳴き声はその姿に見合った可愛らしい高い声だった。


「その首飾りは、俺を育ててくれたじじいの形見だ。お前、じじいのこと知ってんのか?」


 救世主がそう問えば、聖獣は肯定するようにその場で小さく数回飛び跳ねた。


『キキッ』


 小さく鳴いた聖獣に、救世主は首を傾げる。何かを言いたいのだろうと思うのだが、その意志は伝わらない。


「悪りいな、お前の言うことは俺には分かんねえんだ」

『キキッ』


 あからさまにしゅんと聖獣の耳が垂れる。その様子に、こちらの言葉は理解出来るのかと、救世主は目を瞠る。


「腹減ってねえか? 飯を用意してあるから食えよ」


 こちらの言葉が分かるならばと、救世主は気兼ねなく聖獣に話しかける。そしてテーブルへと足を向けると、聖獣も寝台から飛び降り、テーブルへと向かった。身体能力は獣そのもので、テーブルへと難なく飛び移った。身体が発光してさえいなければ、どこからどう見ても猫だなと、救世主は改めて思う。


『キキッ』


 テーブルの上で数回飛び跳ねた後、勢い良く果物に飛びついた聖獣に、救世主は苦笑しながら聖水を新しい皿へと注ぐ。すると今度は聖水に飛びつき一生懸命に飲んでいた。


「良い食いっぷりだ」


 安心したようにそう呟き、腕を組んだ。何故、聖獣がこちら側に、そして森の中にいたのだろうかと疑問を浮かべる。だが言葉が分からない以上、聞きようがない。ふとそこで救世主は思い出した。育ての親が消えてしまった原因をセラフィーナが「知り合いの精霊族」から聞いたと言っていたのを。ならばセラフィーナに聞いてみようと、また新たな『会う口実』が出来たことにほくそ笑んだ。

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