利光からの電話

 奏平はベッドの上で仰向けになって、じっと天井を見つめていた。あんなところに染みあったんだな。どうでもいいことを考え続ける。一向に鳴りやまないスマホの着信音は、本当に耳障りだ。


「くそが」


 しびれを切らしてスマホを手に取る。利光だ。苛立ちはピークに達した。


「もしもし」

『おう、ようやく出てくれたか』

「今度はなんだよ」

『おいおい、なんでそんなに不機嫌なんだよー』


 利光の嬉しそうな声が、腹で飼っている不機嫌という名の虫を蠢かせる。


「別に。ってか早く要件を話せ」

『急かすな急かすな』

「なら切る」

『待て待て。言うから言うから』


 利光は小さく息を吐いた後、淡々と言った。


『実はさ、俺が奪ったんだよ。奈々の恋心。女神から与えられた【強奪】を使って』

「は?」


 恋心を……奪う?


 強奪って。


 まさか、それで奈々は……。


『りんのためだよ。奈々と奏平が一緒にいると、りんが辛い思いをするからさ』

「なんでそんなこと!」


 奏平はスマホをぐっと握りしめた。


「利光には俺たちの関係が偽装だって伝えたよな」

『もちろん』

「だったら」

『りんがお前のことを本当に好きだと言ったら?』

「は? 正気か? そんなわけないだろ」


『お前はそれを本気で言ってるのか?』

「当然だ。互いのメリットのために」

『本当に分かってないのな』

「分かってないのは利光だろ? 俺はりんがそれでいいと言ったから、りんのために偽装を受け入れたんだ」

『違うな。奏平がやってることは全部、自分のためじゃないか』

「誰かを傷つけるこの血は俺で途絶えさせないといけないんだよ!」


 煽られていると分かっていながら声を張り上げてしまった。


 自分のため、と言われたのが許せなかった。


 この血のせいでどれだけ他人に気をつかって生きてきたか。どれだけ自分の感情を押し殺して生きているか。


 すべてを説明している利光なら分かってくれると思ったのに。


『それは全部、お前の妄想だ』

「血のつながりは紛れもない現実なんだ!」


 利光の声が聞こえなくなった。どうやら口論に勝ったようだ。全く嬉しくない。虚しさばかりが体内に降り積もっていく。


「もういいか? 話すことがないなら切るぞ」


 これ以上話しても意味がない。


 スマホを耳から離そうとした時。


『お前は、りんにも奈々にもまっすぐ向き合っていない最低野郎だ』

「は?」

『お前は二人に暴力を振るっている最低野郎だって言ったんだ』


 顔が炙られているかのように熱くなる。


 なのに胸の内側はひどく冷たい。


「俺が、いつ二人を殴ったかよ」

『そういうことじゃない。俺が言っているのは精神的な話だ』

「精神的? 意味分かんねぇから」

『お前は好かれていることに甘えている。今のお前は、DV野郎だったお前の父親より最低だ』

「冗談もたいがいにしろよ」


 ――好意に甘えているから、こいつは裏切らないと思っているから、暴力を振るってしまうんです。家族や恋人ってその代表例なんですよ。父は赤の他人を決して殴らなかった。私もそうだった。甘えの成れの果てがDVなんです。


 沢崎さんの記事に書かれていた内容を思い出す。好意に甘えたことなんかない。ってかなんで利光がDVのことを?


「俺が、父さんより下だと?」

『今の奏平はな』

「言っていいことと悪いことがあるぞ」

『奏平。傷つけることを恐れるなよ。壊れることを恐れるなよ』


 なにを言ってるんだ。


 人を傷つけるのを恐れるのは当然だ。


 だって、それは父さんみたいな最低の人間がすることだから。


『俺は奏平がずっと羨ましかったんだ。なんでお前ばっかり、そんなに好かれるんだってな』

「俺なんか羨ましがってもなにもないぞ。それに、だったらりんのこと譲るよ。利光、好きなんだろ?」


 確証があったわけではないけど、なんとなくそうかなと思っていた。


 それを言えば利光が動揺すると思っていた。


『ばれてたのか。たしかに俺はりんのことが好きだよ』

「ほ、ほらな。やっぱり」


 利光がすんなり認めたため、奏平の方が動揺してしまった。


『俺はもう自分に嘘をつくのはやめたんだ。だから奏平も正直になれよ。自分に対して。みんなに対して』

「いい加減にしろ!」


 利光はなにも分かっちゃいない。


「正直になれ? そんなの無理だ。この穢れた血が流れてる限りな!」

『そっか。ならもうどうでもいいや。奏平以外のみんなはもう前に進んでるから。お前に拒否権はない』

「拒否権?」


 なんの話だ?


『実は今な、奈々は高校の体育館裏に、りんは南校舎の裏口にいるんだ』

「へぇ、それが?」


 だからなんの話だよ!


『りんからは大事な話がしたいから奏平を呼び出して欲しいって言われてる。これはそのための電話だったんだ』


 ふーん。それがどうした。


『そして、これは今のお前には全く関係ないけど、奈々には、俺の友達のいい男を紹介するからそこで待ってろって言ってある』


 は?


『奈々から言ってきたんだ。先に進みたいから誰かいい人いないか? ってな。ま、奈々も彼氏の一人や二人欲しいお年ごろってことだ』


 それを聞いた瞬間、奏平は奈々が名前も知らない男と手をつないで歩いている背中を想像していた。昨日の笑顔を別の男に見せている姿を想像していた。


『どうした? 驚いたか?』

「別に……なんも」

『今の奏平の声、動揺しているように聞こえるけどな』

「なわけあるか」


 否定すると、口の中が酸っぱくなった。色んな思いと一緒に酸味を飲み込んで胃の中に押し返す。奈々のことも、りんのことも青天の霹靂だ。彼氏を作りたいお年ごろ? 大事な話がある? そんなのは決して認められない。


『そっか。だったら俺の勘違いだ。すまん』

「別に謝ることじゃねぇから」

『サンキュ。でも、じゃあ勘違いついでにもう一つ聞いて欲しいんだけど』


 利光の低く重くなっていく声を聞きながら、奏平は下唇をわずかに舐めた。


『奏平はさ、りんの本当の気持に気づいてたんじゃないか?』


 これは正直に答えてくれよ、と利光の声に静かな威圧感が混じる。そのせいかどうかは分からないが、


「ああ、そうだよ」


 弁解の言葉を考えていたのに肯定してしまった。図星だ、もう疲れたんだ、という感覚が強く、否定する気力が湧かなかった。


「りんが俺のこと好きだって知ってたさ。だから偽装という明確な関係を持たせて、りんが本当に告白してこないようにした。りんとつき合っていることにすれば、奈々だって告白してこないしな」


 それが、高麗奏平として産まれ落ちた宿命だ。


「だってそうだろ? 本当の意味で告白されたら俺は断らないといけない。傷つけるのは嫌なんだ。それに偽装関係はりんから提案してきたんだ。もってこいだった。りんが望んだ。その状況こそが、この血を持った俺のやるべきことだ」

『違うな』


 見えていないのに、利光が電話をぎゅっと握りしめる姿が明確に想像できた。


『お前は、恵まれない父を持った可哀想な自分が奈々に好かれて、りんにも好かれているっていう状況に浸りたいだけだ』


 冷房ガンガンの室内にいるはずなのに背中が汗まみれだ。


 庭から聞こえてくる蝉たちのけたたましい大合唱は、利光の声をかき消してくれない。


『りんが本当のカップルになってやるって意気込んでることも、心のどこかで見透かしてたはずだ。奈々が諦められずに好意を寄せ続けるってことも見透かしてたはずだ』


 いつの間にか溜まっていた唾液が、口の端から垂れていく。


『他人からの好意ってのは、自分を肯定するのに便利だからな』


 俺もそうだったから、と利光は笑ったが、すぐに真剣な声に戻る。


『お前はりんの気持ちをすべて知ったうえで偽装関係を受け入れた。りんに好意を向け続けてもらいたいから、可能性を残し続けるために、好きになった場合は奏平から告白するって取り決めて』


 違う、と奏平はたしかに言ったはずなのに、利光はその言葉が聞こえていないかのように話し続ける。


『奈々に対しても、好きでい続けもらうために今みたいに思わせぶりに優しくする。まだつき合える可能性はあるよって。りんとつき合ってるって状況でも諦めて欲しくないから。好意を向けたままでいて欲しいから』


 違う!


 誰か違うと言ってくれ!


『なぁ、それってぜんぜん優しくねぇじゃん。自分の掌の上で踊っている二人を見て、他人を使って、自分を安心させてるだけじゃん』


 あれだけうるさかった蝉の音がぷつりと消えた。


『どうなんだ奏平? そうじゃないのか? だから今、奏平は俺のさっきの言葉を聞いて動揺してるんだろ?』


 ――りんからは、大事な話がしたいから奏平を呼び出して欲しいって言われてる。


 ――奈々には、俺の友達のいい男を紹介するからそこで待ってろって言ってある。


 心の中に浮かんできたのは、不敵に笑いながら手招きをしている父さんの姿だ。


『りんが覚悟を決めて本気の告白をしてくると思ってるから。奈々が自分のことを好きじゃなくなって他人を選ぼうとしてるから。好意が、安心感が揺らぐと思って動揺してるんだ』

「俺はそうしないと生きていけないんだ! この血のせいで!」


 自然とそんな叫びが口からこぼれていた。


『そんなわけないだろ!』

「そんなことあるんだよ! 俺には呪われた血が流れてる。他人からの好意を求めてなにが悪い! 好意を向けられる人間だって思いたいんだよ」


 そうしないと俺は立っていられないんだ、と奏平は肩を震わせた。


「でもその好意に報いてしまったら、俺は、俺の血が暴走して、きっと親父と同じ道をたどる。もうわかんねぇんだよ!」


 ――好意に甘えているから、こいつは裏切らないと思っているから、暴力を振るってしまうんです。


 あの記事が忘れられない。好意を受け入れることはできないけど、でもそれを感じていないと苦しすぎて生きていけない。


『どうしてだよ!』


 スマホ越しなのに、利光の声は熱かった。


『俺はお前のことを大切な友達だと思ってるのに、お前が俺とつき合えるのは、大切に思ってないからなんだよな。大切だと思う人ができたら、お前は暴力を振るわないために壁を作るんだろ? お前は俺たちに対してそれをしないんだから、そういうことだな』

「知るかよそんなの!」


 だって、みんなのことを手放したくないから。大事だから。


 沢崎さんの記事に友達は入ってなかったから。


『人は人、奏平は奏平だろ!』

「俺だってもうわけわかんねぇんだよ!」


 でも、利光の言うとおりだ。


 高麗奏平という人間は、自分のためにみんなの気持ちを踏みにじっている。


 高麗奏平という人間は、どうやって生きてもみんなを傷つけてしまうんだ!


「だから利光も、俺なんかと一緒にいると、傷つくだけだぞ。……いや、りんのことでもう傷つけてきたか」


 嘲るように笑い、奥歯をぐっと噛みしめる。


『そうかもしれないな。だけど俺は、少なくともお情けで奏平と遊んできたわけじゃない。みんなの中に奏平がいるんじゃなくて、奏平だからみんなが集まったんだ。それは間違いなく言える』

「綺麗ごとだな」

『みんなのことを信じろよ。奏平は、みんなが好きになった奏平のことを好きになるべきだ。そんな奏平の決断ならみんなも――』

「もういいんだ。じゃ」


 奏平はそのまま電話を切った。どうでもよくないけど、どうでもよかった。我慢していた涙が溢れ出してくる。


「ふざけんなよぉお!」


 高麗奏平という男は、みんなを傷つけてしまう前にみんなから離れなければならなかった。今までそれができなかった。沢崎さんの記事に友達がなかったから、なんて小学生でも思いつきそうな幼稚すぎる屁理屈だ。このままみんなから嫌われて、一人になって、奈々の好きになった人の体を【憑依】で乗っ取れば血の呪いからも……。


「……最低だよ」


 奏平はベッドの上に座って、額を何度も膝にぶつけた。

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