第十一章  ほら、やっぱり彼らは最高だ 高麗奏平3

正解のルート

 プールで遊んで疲れていたせいか、奏平は昼まで爆睡していた。


 目を覚ますために、ベッドの上でスマホをポチポチ。


 昨日撮った写真を眺めていると、知らぬ間に笑みがこぼれてしまう。


 奈々の水着姿は破壊力抜群だ。前髪が濡れて額に張りついている様は、一生懸命に遊び回った後の子供みたいだ。その隣に映る笑顔の自分は、心から笑っているように見える。


 あの時は、二人でこの小さな画面に入らないといけないから肩を寄せ合った。


 水滴のついた奈々の右肩に触れていた自分の左肩も、座っていたプールサイドも、足だけをつけていた流れるプールの水も、その全てが熱かった。パラソルの下で日焼け止めを塗り直す奈々は、妙に色っぽかった。


「にしても……だよなぁ」


 奏平は頭を抱える。


 どうして利光に、りんとの関係が偽装だと言ってしまったのだろう。必死に説得する利光のことを滑稽に思ったわけではない。勝手に喋っていた、というほかないのだ。たぶん、みんなを騙しているという罪悪感が限界に達したのだろう。


 急に喉が渇いてきた。一階のキッチンへ向かい、麦茶を飲んで水分補給をしてから、ソファに座って昼の情報番組を眺める。グルメリポートのせいでお腹もすいてきた。


 昼ご飯を作るのは奈々の役割だ。泊めてもらっているのになにもしないのは心苦しいと言ってきたので、いくつかの家事を任せてある。


「遅いな」


 しかし、今日は十三時を過ぎているのにまだ起きてこない。


「寝坊……か?」


 まあ仕方がない。奈々からしたら慣れない環境での生活が続いているわけだ。しかも昨日はプールに行って遊びまくったし。


「……さすがに起こすかぁ」


 ソファの背もたれに背中を沿わせるようにして背伸びをすると、背骨がぽきぽき鳴った。すくっと立ち上がって奈々が寝室として使っている一階の客間へと向かう途中で、玄関の扉が開いた。


「あ、出かけてたんだ」


 寝間着姿の奈々が帰ってきた。近くのコンビニ――って言っても駅前まで歩かないといけないが――にでも言ってきたのかな。


「ちょっと、ね」


 奈々は俯いたまま返事をする。そのまま足早に客間の中へ入り、扉をばたんと閉めた。


 え? なにこの反応?


 やけに無愛想だなと思いつつ「昼ごはん、忙しいなら俺が作ろうか?」と声をかける。


 しかし、返事はない。


「ん? 奈々? 聞こえてないのか?」


 客間の扉の前に立ってもう一度声をかけたが、反応なし。中でなにやら音がしているので、気を失ってるなんてことはないようだ。


 嫌な予感が胸をよぎる。


 その予感の正体はわからないけど。


「奈々? だからどうかしたの――お、おう」


 ドアをノックしている途中で扉が開いた。不機嫌そうな顔した奈々が目の前に立っている。しかもキャリーケースまで持って。


「なんだよ。どこか行くのか?」

「行くんじゃない。帰るの」


 奈々の刺々しい声に、奏平は「え」と情けなく返した。


「帰るって、奈々の帰る場所はここだろ?」

「なに言ってるの? 私の家に帰るのよ」


 意味が分からなかった。


 家に帰る?


 そっか。


 一人暮らしの決心がついたのか。


 それが本来のあるべき形だからな。


「ついに、か」

「うん。ついに。褒めてくれる?」

「そりゃ褒めるけど――でもさ」


 奏平は頬をかきながら言葉を続けていた。


「無理はしなくていいぞ。俺たちは迷惑してないから。いつまででもいていいんだ」


 奈々を引き留めるような言葉を口走ってしまった自分が信じられなかった。昨日の撮った写真が脳裏に浮かぶ。あの笑顔の意味は? 昨日からそういうつもりだったのか? 奈々がそばにいる現実に幸せを感じ、それを失ってしまうことに恐怖する自分を、奏平ははっきりと自覚させられた。


「無理なんてしてないよ」


 どうしてそんなことを言うんだ。


「それに、いつまでもここにいたらりんに悪いよ」

「その罪悪感が理由なんだな。だったらもう、りんのことは気にしなくていいよ」

「え? 奏平はりんの彼氏なんでしょ?」

「偽装」


 また、言ってはならない言葉が口から出てきてしまった。


「ぎそう?」


 奈々がその言葉をゆっくりと呟く。それによって奏平は取り返しのつかないことをしてしまったと気がついた。が、後戻りできないならと開き直って、奈々に感情的になって欲しいと必死で説明を続けた。


「そうなんだよ。俺とりんの関係性は偽装なんだよ。つき合ってるフリなんだよ」

「冗談でしょ? なんでそんな面倒なことを二人がしないといけないの?」

「それは互いにメリットがあったからで」

「どんな?」

「それは、まあ、いろいろ……。詳しくは言えないけど……」


 奏平は口籠ってしまった。


 訝しげにこちらを見つめる奈々の瞳から目を逸らす。


「と、とにかくりんのことで奈々が気をつかう必要はないんだよ」

「でもさ、それを私に言って奏平はどうしたいの?」


 平然としている奈々を見て、心までもが冷や汗をかき始める。おかしい。予定していた反応と違う。好きな人から本当は彼女がいないんだと言われたら、目が泳いだり、頬が緩んだりするものじゃないのか?


「なんで奏平が驚いてるの? 二人が本物のカップルだろうとそうじゃなかろうと、私には関係ないよ」

「いや、だから、俺たちの関係は偽装なんだから、りんに気をつかって帰る必要がないんだって」

「ねぇ、奏平」


 奈々の目には、憐みが含まれているような気がした。


「奏平はさ、おかしいと思わないの?」

「なにが?」

「なにがって、本当に気づいてないの? 私にだってすぐ分かったよ」

「俺は鈍感なんだ」

「私、昨日言われたんだよ。りんから、『奏平は私の彼氏なの。そこんとこ考えて行動してよ』って。だからもういいでしょ。どいて」


 その突き放すような声に怯んで、思わず体を開いてしまう。


 なにが〝だから〟なのか分かりたくなかった。


「ありがとう。今まで匿ってくれて」


 淡々と感謝の言葉を述べながら前を横切る奈々。


 奏平は思わずその腕を掴んだ。


「ちょっと待てよ」

「なに? まだなにかあるの?」


 なにもない。あるはずがない。あっては困る。


「ほら、あれだよ、あの……あれだ。双葉も奈々がいて嬉しがってるから」

「だったらみんなでまた遊びに来るし。そもそも一人暮らししたくないって理由だけで奏平の家に泊まってたこと自体おかしかったんだよ」


 奈々の腕がすり抜けていく。足がその場から動かないので、去っていく奈々の背中に手だけを伸ばした。指先が何度も空気をかすめる。奈々が外に出た後も、奏平はその場から動けなかった。


「俺のことが好きじゃなかったのか」


 口に塩辛い液体が侵入してきた。


 膝を抱えてしゃがみ込み、声を上げずに静かに泣き続けた。


 でも、これでよかったんだ。


 奈々から告白される可能性がなくなったから、これが正解のルートなんだ。


 脳裏に浮かんだ父親の笑顔が、本当に憎らしくてたまらなかった。あざなんてもうないはずなのに、口元がずきずきと痛み始める。

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