第十章 後はもう、みんなを信じるだけなんだ 松園りん2
私たち
りんは、自室の姿見の前でポーズをとっていた。
撮影の時と同じように、カメラの向こうに奏平がいると思って表情を作っているが、今日は眉毛も、目元も、口角も、頬も、思い通りに動かせない。こうなることが分かっていたからこそ、今日は撮影場所の表参道に行かなかった。
仕事をさぼってしまったのは今日が初めてだ。
「もう無理」
ベッドにバタンと倒れてスマホをぽちぽち。いつもは十連鎖くらいできるのに今日はたった三連鎖。スタミナがなくなってミッションに行けなくなったのでアプリを終了させた。黒くなった画面に向かって笑顔を作るが、やはりしっくりこない。
ちなみに、川端さんには熱が出たとの嘘のメールをしている。
《おだいじに。仕事の調整は任せといて》
と返信がきたけど、たぶん嘘だと見抜かれていると思う。
「あなたが言ったから、モデルになったんだよ」
自分の細くて長い手の指を見ながら呟く。
奏平が、セレーナ・ジョーダンがタイプだと言ったからモデルになろうと思った。モデルになってしまったばかりに、奏平といられる時間は少なくなって、みんなと遊べる時間が少なくなって、心の中の空白は増す一方だ。
「もう、モデルやめようかな」
膝を抱える。「否定しろよ私」という自分の声がおかしくて噴き出した。
本当に、なにも分からない。
利光が奈々の恋心を奪ったと連絡してきた時からずっとこうだ。いや、生まれてこのかたずっと自分が分からない。「なんとかして」と利光に頼んだのは自分なのに、実際になんとかしてくれた利光にわけも分からず怒鳴ってしまった。
「りん! 開けなさい!」
お母さんがドアをノックしながらなにか言っている。
どうでもいい。
りんはさらに体を丸める。
松園りんという人間は、勝手に抱いた不安をみんなにぶつけるばかりだ。頼るばかりだ。しかも昨日奈々に最低なことを言ってしまった。こんな自分を利光は見捨てないで、なんとかしてくれると言ってくれた。その利光にも逆切れした。
「私は、もう……」
ぎぎぎと、ドアがゆっくりと開いていく音がする。しびれを切らしたお母さんが部屋に入ってきたのだろう。ムカつく。こんな姿見られたくない。出ていけ。今すぐ出ていけ。
「勝手に入るんじゃねぇよクソババア!」
汚い言葉で怒鳴り散らす。顔を上げて睨みを利かせようとした…………え?
お母さんじゃなかった。
廊下に立っていた奈々を見て、気を失いそうになった。
「急で、ごめんね」
奈々のこんなにも強く気高い表情は初めてかもしれない。その懸命さの中に含まれている包み込むような優しさや頼もしさが、すごく眩しい。
「なん、で?」
自分の顔が引きつっていくのが手に取るように分かる。
「ごめん奈々。私、奈々だと思わなくて、ひどいこと」
謝る。最低だ。また自分勝手に奈々にひどい言葉をぶつけてしまった。
「ううん。大丈夫」
奈々は笑いながら首を横に振った。
「私の方こそごめんね。今まで」
「どうして」
奈々がなんに対して謝罪してくれたのかさっぱり分からなかった。
謝らなければいけないのは私の方だ。
「どうして奈々がそう言うの?」
奏平と偽装の恋人関係を作ることで、奈々の気持ちをないがしろにしていることは分かっていた。
それでも自分の感情を押し殺せなくてやってしまった。
思いやりの塊である奈々なら――いいや、謙遜を優しさだと勘違いしている奈々なら気をつかって奏平を諦めてくれる。
その間に、奏平を落としてみせるつもりだった。
「どうしてって、だって私、ずっと勘違いしてたから」
奈々は一歩一歩確実に近づいてくる。
最低な人間に寄り添おうとしてくれる。
「やだ、私、だって」
りんは両手を前に突き出し、顔をぶんぶん振って抵抗した。惨めさと醜さで満たされたこの部屋の空気を奈々に吸い込んで欲しくなかった。
しかし奈々は気にせずに歩を進め、目の前までやってきた。
「りん。私ね、ずっと前からりんに伝えたかったことがあるの」
ガラス細工のように繊細で綺麗な声が心に突き刺さる。笑顔の奈々と目が合う。慈愛に満ちた奈々の瞳から、宝石のように輝く涙が一粒、こぼれ落ちた。
「私、奏平のことが好き」
奈々の頬は少し紅潮している。
奈々から〝奏平が好き〟だと始めて言われた。
「……え」
りんの頭の中は、即座にパニック状態へ。
だって、奈々の恋心は利光が奪ったはずじゃ……。
「ああ、えっとね」
奈々は恥ずかしそうに頬をかきながら続ける。
「利光から全部聞いたの」
「全部、って?」
「利光が私の恋心を奪ったこと。昨日までの私が奏平のことを好きだったんだってこと。奏平とりんの関係が偽装だってことも」
「偽装、まで」
りんはすべてを悟った。全部バレたんだ。なんだよそれ。今までずっと必死で隠してきたのに、こうなってむしろよかったと思っている自分がいる。
「ごめんね。りん。同じ人を好きになってて」
「そんなことないよ」
りんは奈々を抱きしめていた。
ようやく自分の本当の気持が理解できた気がした。
「私は奈々に、その言葉を言われてしまうのが怖いと思ってた」
――私、奏平のことが好き。
りんは、それを絶望の言葉だと思い込んでいた。
「だけどね、それぜんぜん違った」
奈々の体は本当に暖かくて、まるで太陽みたいだと思った。自分の血管の中を流れているどす黒い血液が、その陽光によって浄化されている気がする。
「だって私、奈々が奏平のこと好きなの、ずっと前から知ってたから」
そっか。
「だから私は、奈々にその言葉をずっと言って欲しかったんだ」
奏平に嘘の関係を持ち出した日から続いていた胸のしこりが、きれいさっぱり無くなっている。
「奈々だけが気をつかうなんて、そんなの本当の友達じゃないよ」
松園りんという存在はその美貌から、いつも特別扱いを受けてきた。自身がその扱われ方をどれだけ嫌っていたとしても、りんは特別扱いされる生き方を受け入れなければいけなかった。特別な存在にならなければいけない運命のもとに生まれたのだと、りん自身も自覚していた。
だからこそ素の自分を見せられる、気を張らずにいろんなことを話せるみんなが好きだった。
居心地がよかった。
「私は、みんなが大好き」
なのにあの日、自分からそれを手放した。
素のままでいられる間柄が心地よかったのに、奈々の感情だけを押さえつけた。
特別扱いという甘い蜜に、自分はなんでも手に入れられる存在であるというプライドに、自分でも気づかないうちに毒されていたのだと、りんはようやく自覚したのだ。
「りんは、もう私のこと恨んでないの?」
そう問うてきた奈々の声はひどく震えていた。
そんな奈々を安心させようと、りんは奈々の耳元で優しくささやく。
「恨むわけないよ。むしろ嬉しい。同じ人を好きになれて、その奇跡が、私はすごく嬉しいの」
だからね、奈々、と続けてからりんは少しだけためらう。
いや、もう大丈夫。
これは、先ほどまでの松園りんでは決して言うことができなかった言葉だ。
奈々が勇気を出して会いに来てくれたから、りんは今、晴れ渡るような心模様でそれを言うことができる。
「私たち、これからはライバルだ。同じ土俵で戦うライバルなんだよ」
敗北確定の宣戦布告。
だけど、これでようやくスタートラインに立てたのだ。すぐに失恋するだろうけど後悔はない。むしろ奈々と奏平のことを純粋に応援できる。奈々とは対等の関係なのだから、最初からこうでないといけなかった。
「……うん。私たちはライバルだ。……でも」
「どうしたの? 自信ないの?」
「ううん。なんていうか、奏平が好きだったことを信じてるのも本当だし、前の私はそうだったんだろうなぁと思ってるけど。やっぱりまだ戸惑ってるっていうか。心にぽっかり穴が空いてるみたいな状態が続いてて」
「そういうことね、ちょっと待ってて」
りんは奈々を抱きしめたまま、心を落ち着けるために息を吐く。まだ対等じゃなかった。危ない危ない。奢れるものは久しからずっていうもんね。
「りん? 待って、って?」
「いいからいいから」
その決断に後悔などあろうはずがありません……ってかっこいいから言ってみたかったんだ。すごい人っぽくなれるじゃん? 親友と同じ人を好きになって、その恋愛勝負には始まる前から負けていて、でも本当に未練はない。奈々には負けてしまっても、りんはもう自分自身に絶対に負けたくなかった。
だから、これは負け惜しみじゃない。
「あーあ! 奈々の恋心がずっと奪われたままだったらいいのに!」
吹っ切れたように叫ぶと、心がざわついた。
神経が筆でなぞられているかのようにこそばゆい。
せっかくの貴重な能力だったのに。
なんでも叶えられたのに。
対等にこだわって、負けるのが分かってて、それでも親友の奈々のために使えるって最高じゃね?
「りん……ありがとう」
ね?
こうやって顔を真っ赤にさせて抱き着いてくる奈々って、ほんと可愛いでしょ?
「奈々。私の方こそありがとう。出会ってくれてありがとう」
「やったな。りん」
扉の方から声がしたので、奈々と一緒に視線を向ける。
「おいおい、奈々まで驚くなよ。知ってるだろ?」
笑顔の利光がそこにいた。
「利光まで、なんで」
「ここに来る時、偶然に一緒になってさ」
「ってかなにその顔! 大丈夫?」
りんが利光のもとへ駆け寄ると、利光は「へーきへーき」とぼこぼこの顔を隠すように俯いた。
「平気なわけないでしょ」
「ほんとに平気だって」
なぜか恥ずかしそうにしている利光は、「それよりも……」と神妙な面持ちで言ってから、深々と頭を下げた。
「ほんとにごめん。俺、りんのこと分かってるつもりで、みんなのこと分かってるつもりで、みんなのことを一番信用してなかった」
利光のまっすぐな謝罪にりんは呆気にとられた。普段あれだけふざけまくっている利光が真剣に謝罪しているという状況がおかしくなってきて、こらえきれずに噴き出した。
「やばっ、なんか利光、キャラ違くない?」
「え、そこで笑うのかよ。こっちは真剣に」
「もう気にしてないんだって。それに利光に分かられる程、私は単純じゃありません」
そう蔑むように言ってやると、利光はようやく笑いだした。
「それでこそいつものりんだ。はぁーあ。なんか安心したら涙出てきたわ」
「なんかその言葉も分かられてる感じがして嫌なんですけど」
「そりゃ恋愛マスターの俺からしたら、女心を理解するのなんて造作もないからな」
「じゃあ今、私がなに考えてるか分かる?」
「そりゃもちろん。利光かっけーなー! だろ?」
「違いますー。正解は、パンケーキ食べたいでしたぁー」
りんが利光と軽口をたたき合っていると、奈々がくすくすと笑い始めた。それが本当に嬉しくて、利光としばらくの間ふざけ合う。
「そういえばさ、俺にすっごくいい考えがあるんだけど、聞いてくれるか?」
「私だってすっごくい考えを思いついたんだけど、それすぐに聞かせて」
りんが利光に一歩近づくと、利光は奈々にも近づくように手招きする。
「実はな――――どうだ? いいと思わないか?」
利光の提案は、りんの決意をより一層強めてくれるものだった。
迷いなくりんは同意する。
「この際だもんね。いろいろはっきりさせちゃおう!」
「え、でも……」
奈々が少しだけ難色を示す。
「奏平にとっては……」
「大丈夫だよ。だって〝私たち〟なんだから」
りんがくしゃりと笑いかけると、奈々は「……うん、そうだね」と安心したように頷いた。
「じゃあ、二人ともよろしく頼むな。大丈夫。奏平だって男だ。男にゃいつかやらなきゃいけない時があるんだから」
「なんで利光が自慢げなのよ」
利光にそうツッコみながら、りんは利光の提案に乗ることとは別の、とある覚悟を固めていた。
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