Ν 紫書館の黄昏 On Golden Pond 1948,5,6(THU)

Ⅰ生キルハ戦イ vivere est militare.


或一群の藝術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅していない。いや、藝術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。

                       芥川龍之介『侏儒の言葉』 


 紫書館は堅牢な佇いを魅せていた。図書館から西方を見ると正面を僅かに右側に外れた所に聖堂が見え、聖堂より手前の左の方に工房と髑髏の丘が窺える。他の建築物と同じ様に石造りで、正面の上方にはシンメトリーに窓が配置されてその縁は紫色で彩られていた。西に傾き始めた陽光が紫書館を正面から照らして重厚さを色付かせている。正面の扉は七尺程のもので、扉の上方には傳道之書の『わが子よ是等より訓戒をうけよ 多く書をつくれば竟なし 多く學べば體疲る』が書かれていた。阿見光治は重厚な扉を押して一歩足を踏み入れた。

 中には四方の壁には何万冊もあろうかという書籍が収められた本棚が備え付けられていた。一部に空白があるものの殆どの棚は書籍で埋っていた。全ての人類の叡智が内包されている。図書館の四方の全ての壁という壁には古今東西のあらゆる書物が配列されていた。所蔵されている書物は何万冊に及び、この世に存在するすべての学問が網羅されているようであった。埃及の大図書館ムサイオンの様に人類の叡智という叡智が収められていた。『神学大全』、『大聖堂の秘密』、『悦ばしき知識』、『コンテンツス・ムンヂ』、『ニーベルングの指輪』、『種の起源』、『ヘーゲル法哲学批判』、『神秘学の方法論』、『ヘルメス文書』、『陽気な人物の伴侶』、『キリストにならいて』、『天上の位階』、『数の書』、『マウルスの宇宙論』、『ボイニッチ写本』、『ハムレットの東洋的材料』、『メタモルフォセス』、『カンディード』、『バビロンの王女』。

 久流水家の文庫には数多くの先人が艱難辛苦の中で思索した知識のすべてが収まっている。阿見は眩暈を覚えた。人類の叡智に酔わされた気がした。

 紫書館の中央には錫製の香炉が三尺ほどの四方を鏡で囲った台に置かれて馥郁たる薫香を館中に漂わせていた。薫香が阿見の嗅覚を狂わせていた。

 阿見はその香炉に向けて、こつッ、こつと乾いた足音を立てて文字と記号が描かれた白い石床を進んでいった。香炉の僅か向こう側には一人の男が立っており、本を片手に読み耽っていた。

「穂邑さん、やはり此処でしたか」

 穂邑は阿見に呼びかけられると、はッとして本から視線を上げた。穂邑は相変わらず着崩した喪服に身を包んで、藝術家らしい洒脱さを窺わせていた。穂邑のズボンのポケットからは懐中時計だろうか、金の鎖が覘いていた。鎖は陽光に照らされて綺羅綺羅と輝き阿見の目を眩ませた。

「何を熱心に読んでらっしゃったのですかネ?」

「ロバート・ダッジョンの『コリンビア』」

「海底生活に適応した異人類を描いた空想科学小説ですネ。あの海底生活では弱い子供はさっさと殺されるのでしたネ。ニーチェの『悦ばしき知識』七三番にも不具の子供の子供を抱えて高僧に泣きついた母に向かって、『そんな子供は殺してしまえ!』という件がありましたネ。僕は大好きなのですよ。『悦ばしき知識』も『コリンビア』も、人間の甘ったれた精神を吹き飛ばしてくれてネ」

「探偵小説家の口からそんな言葉が出るとはね。俺に何か用が会ってきたのだろ。でなければ『やはり此処でしたか』など言うわけないからな」

「貴方も探偵の才能がありますよ、藝術家さん。少しばかり聞きたいことがありましてネ。実は久流水義人氏のことです」

 阿見が訊くと、穂邑は眉間に皴を寄せて怪訝そうな顔をしたが、直ぐ様口角をキュッ上げて哂った。

「何が訊きたい? 探偵小説ではこういった人物はレッドへリングではないか」

「そんな科白を言ってしまった以上、レッドへリングはレッドへリングではなくなってしまいました。久流水義人がエーテル体として登場しかねない。言葉があるから現実がある。探偵小説は現実を反転させる。怪しくない者が怪しくて、怪しい者が怪しくない。探偵小説は不思議なものですネ」

「表が嘘で、裏が本当。現実なんてそんなもの。醜女は白粉を塗って、美女は驕慢となって薄暗い心を持つ。男は皆同じ服を着て自分を覆って己を消す。消した己に次第に苛立ち、消させた己の外を怨む。現実なんてそんなもの。外面が善良で内側は悪に満ちる。『羊の扮装して來れども、内は奪ひ掠むる豺狼なり』。現実は常に真偽が反転している。現実なんてそんなもの。探偵小説が現実を反転させるなんてありはしない。現実が反転しているのだから。現実なんてそんなもの」

「だからこそ、探偵小説は求められる。反転した真偽の現実をもう一度反転させあるべき姿に戻す。だから人は探偵小説を読むのですよ。そこには反転していない真偽があるのですから」

「それは探偵小説の仕事ではない。純文学や俺の手懸ける藝術の仕事だ。探偵小説は反転した世界を反転させるフリをして反転させず、読者に反転していない世界を見た気にさせる代物だ。読んだ人間は自力で反転してない世界を見たと思い込んで勘違いする。藝術こそが反転しない真実を魅せる数少ない方法だ。ミロのビーナス像を見てみろ。あれには腕がない。現実にあるべき腕がない。世界を反転させるために自ら腕を捥いだのさ。捥いだからこそ、あれには反転した現実世界にない究極の美が存在している。俺の才能がなぜ悪鬼を対象としたものに発揮されるのか判るだろ。聖なる神よりも反転した現実から遠ざかっているからな。その分だけ反転していない真実に近付いているのさ」

「そう言って、誤魔化しているだけではないですかネ。この現実を」

「お前こそ現実を誤魔化しているのではないか」

 頭蓋骨の眼窩から入る黄昏の陽光が二人の周辺を切り取った。二人は暫し睨み合っていたが、お互いに果々しさに気付いたのか、二人とも自嘲した。穂邑は自嘲した。

「久流水義人の事を訊きたかったのじゃあないのかい。義人の何を聞きたいのだ? 陶器職人の畑で経緯は話したはずだ」

「ええ、美しき薔薇と優しき聖霊が確かに知らせてくれましたネ。しかし、それは一人の女と二人の男の愛の睦言。僕が知りたいのは、なぜ哲幹が義人ではなく、貴方に百合子さんを与えようとしたのかですネ」

「言ったはずだ。俺の親父が辣腕政治家。哲幹氏が自身の政治的地位を上げようとせんがために俺を百合子に充てた。有史以来の有触れた事象さ。あのメディチ家のようにな」

「ならば奇異しいのですよ。義人というのは桐人君が現れたからこそ影が薄くはなったが、哲幹に最も近い素質を持った預言者であったわけですよネ。ならば義人の存在を表舞台に出せば、政治家と血縁関係を持たずとも充分に政界での久流水家の地位を磐石にできる。あの場合は貴方より義人氏の方に価値があったように思われるのですネ。なぜ哲幹は義人の気持ちを優先させず、貴方を百合子さんにあてようとしたのですか?」

 穂邑は眉間に皴を寄せて哂った。

「あはは。俺が義人より哲幹氏に選ばれたのは俺が気に入られたからじゃあない。義人が疎まれたからだ」

 穂邑はそう言うなり、くるりと体を反転させて阿見に背を向けた。阿見は肩を震えさせる穂邑の背中を見ながら静かに言った。

「人間関係は相対関係。一方が落つればもう一方が昇る。月と太陽が同じ空に上がらぬ様に人間の世界に同じ輝けるものが上がることはない。だからこそ人は絶対を求める。自身が絶対になるしか術がないというのに。弱き者は夢幻に遊戯する。貴方の地位を上げる機会を作った義人の落下とは一体何ですかネ?」

 穂邑は阿見に背を向けたまま数歩前に進んだ。窓からの黄昏の陽光の溜まりから外れてほの暗い闇に移行した。

「阿見よ、お前は先の戦争にはどうしていた?」

「僕は戦争なんて野蛮なもの参加しませんでしたよ。父が資産持ちなので徴兵を免れるようにして貰いましたからネ」

 穂邑は更に数歩進んで闇の中に姿を入れた。

「俺と百合子の間に結婚話が持ち上がったころ、この国は世界から孤立し始めていた。俺の父親を含む国のお偉方はこの国を世界の方向ベクトルから外れさせて一つの点とさせた。蚤の脚の毛のようなこの国が宇宙の銀河のような世界の国々に牙を剥き始めた。泥沼化する戦争が続く中、この国は国民に軍国主義へ向かわせた。久流水家や俺の実家はその政治の中枢にいたことからその急先鋒として積極的に参加していった。内心は望んではいなかったさ。当然だ。だがどうする。その様なことを表に出せば、忽ちこの国に我々は迫害を受けざるを得ない。生き抜くためには仕方がなかった。『凡そ活ける者の中に列なる者は望みあり 其は活ける犬は死せる獅子に愈ればなり』。世相が一方向に向かおうとしていたときだった。義人はこれに異を唱え始めたのだ。マタイ傳にある『剣をとる者は剣にて亡ぶるなり』を掲げて、この流れに乗るべきではないと言い出した。だが世相に逆らって生きる道があるか。仕方が無かったのだ。義人は久流水家で疎まれ始めたさ。奴の言うことに従うことは生きる道を無くすことだ。あの当時久流水義人は生きていく上で邪魔な存在だった。俺を義人より地位を上げた訳だ」

 穂邑は振り返り闇から再び窓からの黄昏の溜まりに戻った。窓の窓の桟が穂邑の顔に十字の影を附けていた。穂邑はキュッと口角を上げて哂っていた。

「『もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ』ということですね。随分と都合が良いことで……」

 小鬢を掻きながら阿見が静かにそう言うと穂邑は猛然として阿見の胸倉を掴んで怒鳴った。

「お前に何が判る。金で買った地位で戦争を遣り過ごして、終われば平和主義者。何様だ! 俺は大陸で従軍していた。親父が周囲に己の戦争への心意気を見るために率先して俺を戦場に送り出したのさ。辣腕政治家にとっては息子も政治の材料だった訳だ。それに赤い空の下では藝術家は最も必要とされない者だったし。『戦争の間、芸術の女神ムーサは沈黙する』とはよく言ったものだ。

 戦争が終らんとしているときのことだ。俺たちの軍は敵軍の突然の襲撃にあった。その夜は前日の戦勝を祝って皆が気分良く転寝をしている時だったさ。俺たちはあまりにも突然のことに体勢を崩して、一師団は散り散りになってしまった。逃げるさなか、一緒に寝食をともにした朋友が次々と凶弾に倒れていった。農家の息子も板金工も漁師も学生も臓物や脳漿をぶちまけて、どんどん死んでいったさ。肩に腿に弾丸を受けつつも必死に走って、走って、走り続けた。

 どうにか敵の弾雨の中を切り抜けて生き延びることができた。数日、俺は藪の中に身を隠して敵が遠退くのをひたすら待ち続けた。傷だらけの肉体で待ったさ。血がどくどく流れて気が遠くなりそうになっても恐怖が俺を支え続けていた。更に数日、敵の軍靴の足音が聞こえなくなったとき、俺はやっと藪から這い出した。

 俺は自分の陣地に戻った。だがそこには死臭しかなかった。すべてが、すべての兵隊が、仲間が人とは呼べぬ姿で、死とは呼べぬ死を迎えていた。俺は独りきりになった。襤褸を纏って、あはは、と哂いながら、神は死んだ、と確信したさ。俺の世界は無味乾燥となってしまった。

 俺は満身創痍、心神喪失を程近い友好的な現地の村に世話になって癒していった。苦しみながら毎夜毎夜に悪夢を見ながら。そうしている内に戦争は終結を迎えた。大陸に残った兵は復員船で帰国するようになった。俺は世話になった村人に別れを告げて、復員船に乗った。

 大陸から復員船が出発する直前に俺は見たのだ。亜麻色の髪の支那服の少女が潤んだ瞳で胸に抱えた、真ッ赤な薔薇を。その少女は俺が独りきりになったときに、俺の額に涙を流してくれた少女だった。少女が俺の傷を癒してくれた。その少女と今生の別れとなろうとしたときに、真ッ赤な薔薇を抱えていた。別れ惜しそうに首を傾けて林檎色の頬で青磁の様な透き通った肌で、水蜜桃のような肩で。俺の瞳にはあの情景が妬き付いている。何と美しい薔薇なのか。何と愛らしい乙女なのか、と。

 俺は大陸に来る前も藝術家だったさ。美を求めていた。だがな、子供の飯事だった。奇抜なことをして、人との差異を一面に出して、ただ優越に浸りたかっただけの子供じみた莫迦な振る舞いだった。少女と薔薇の美しさには到底及ばない、自己顕示欲の産物だった。俺には人とは違う個性があって、創造性がある。そういう人間はクリエイティヴに生きなければならない。自己表現をなさない奴は塵芥だ。『お前の道を進め、人には勝手に言わせておけ』。ダンテの言葉を換骨奪胎して自分を偉大だと鼓舞していたさ。あはは。何という幼い感情か。頭を撫でられたくて、注目して貰いたくて、高い楢の木に這い登る幼子と何ら変わらない感情。そいつにアートなんて聞こえの良い横文字を使っているだけのクダラナイ幼稚性。自己表現なんて考えていない純朴な少女と、ただあるだけの薔薇にすら、俺の美術は及んでいない。その癖に得意げにアーティストなんて気取った肩書きを自称する。

 俺は自分の小手先の美に絶望をした。だが同時に究極の美を追求したいと、不衛生な、死の臭いから未だ逃れ切れていない復員船の中で考え始めた。『俺』の美ではない。『俺』なんてものはいらない。『俺』の要らない、俺がやる美術。 俺が思いあぐねていると復員船で思わぬ者と邂逅した。俺と同じ部隊に配属されて、既に死んだと思っていた同期の桜だった。そいつは俺と同じように皆が死んだと思って、独りで大陸に燻ぶっていたというじゃあないか。俺らは泣いた。互いを哀れんで、喜んで。俺は彼と語り合ったさ。深い至極の友としてな。

『君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ』。愉しかった時間は、あッという間に過ぎて行く。時間は主観だ。

 翌日に帰国を向かえた復員船で過ごす最後の夜だった。友は明日、再び祖国の地を踏む事を無上の喜びと感じつつ、スヤスヤと寝息を立てて早めに寝入った。俺はその友との別れを惜しみながら友と別れて平生に戻った後の身の振り方を再び考え始めた。俺の手による至極の美とは何。再び俺の思念に美の中の美が支配し始めた。そもそも美とは何だ。究極の先に本当に美があるのか?

 そんな時だった。俺は何気に隣で眠る友を見た。俺はふと奇異しなものに気付いた。隣の友の懐から写真の一部が覗いていた。別に復員兵が写真を持っていることなんて驚くことじゃあない。だが俺を驚かせたのはその写真に写っている人物だった。友の懐からは写真の一部しか見えなかったが、写真の人物の顔だけははっきりと窺えた。写真の人物の顔、それは俺を世話していたあの薔薇の少女の顔だった。なぜ、友の懐に少女の写真がある? 俺の頭の中であることが思い出された。友と連日語り合っていた日々を。

友も部隊が壊滅した時、俺と同じように独りきりとなってしまったと勘違いしたらしい。復員することになるまで、俺と同じ様に現地の少女に面倒を看て貰っていたと。真逆か、俺を面倒見ていた少女が同時に友の面倒を看ていたということなのか。そんな偶然あり得るのか。俺と友は同じ地点で、それぞれ独りきりとなってしまったと思い込んだ。俺と友は復員船で顔を再び合わせたが、実は大陸では目と鼻の先にいたのかもしれない。近くにいながら互いにそれに気付かなかっただけかもしれない。

 何と奇遇なことか。俺は呆れると同時に嬉しくなった。目の前にいる友とあの乙女の清純さを共有できるのだからな。俺は嬉しくなってもっとしっかり写真の少女の顔を拝みたくなった。あの清純で柔らかな笑顔を。俺は寝ている友の懐から少女の写真を拝借した。

 俺は何という先走ったことをしてしまったのだろう。写真の全体を見ようと考えなければ、過去は美しく、現在は華やかに、将来は光り輝いていたのに。

 俺が見たものは悪夢だった。

 写真の中の少女は一糸纏わぬ裸身だった。そして少女の大事な、柔らかな丘には男の本能が挟まっていた。少女は幼い乳首を、ぴィんッと立てて、官能、恍惚の表情を浮かべていた。自ら進んで男のナニを受け入れていた。至極の喜びを、嗜好の歓喜を、好んで感じていた。清純な乙女は淫乱な娼婦だった。

 別れの時のあの美しさはどこに行った? あの美しさは偽者だったのか? あの柔らかな微笑み、潤んだ瞳、真ッ赤な薔薇。手の温もり、澄んだ声、真ッ赤な唇。すべてが嘘だったのか? 俺に身勝手な、自意識過剰な美を改めさせた、あの美しさは嘘だったのか?

 否、違う。あの美しさは本物だった。偽者であって堪るか。本物に違いない。あの時の美しさは本物だ。ただ少女が偽者だったのだ。肉体を持つ少女は穢れた存在だったのだ。現実なんてそんなもの。

 だがその現実が無ければ、至極の美を見ることができない。なぜこんなにも世の中はまどろっこしい?面倒でも俺は進んでいかねばならない。俺にはそれしかないのだから。至極の美を求めることしか。

 あの美しさを、実態のある肉体を離れたところに美はあるのだ。超天の場所がどこかにある。俺は理解した。その醜悪の中に埋もれる小さな小さな結晶を永遠に可視化させることこそが藝術なのだと。俺はあの戦争で学んださ。あの残酷な戦争で。人間の、世の、世界の、宇宙の、存在の本質の一片を。そして美を。お前に何が分かる? 金で買った地位で平和主義面しているお前に」

「地獄を知った者しか地獄を語ってはならぬと? 拒むこともしなかった愚か者」

 阿見と穂邑の間には奇妙な間が生まれた。懊悩、改悛、嘲笑、怨嗟、諦観。

 かつッ、かつッ、かかつッ。

「イエス様も仰っている、『われ平和を投ぜんために來れりと思ふな、平和にあらず、反つて剣を投ぜん爲に來れり』とね。俺はあの戦争に進んで参加したが後悔はしていない」

 阿見と穂邑は突然の声に同時に声がした紫書館の入口の方を振り返った。黄昏の日溜りの外、かつッ、かつッと足音が近付いてくる。足音も二人。重い音と軽い足音。闇の中から次第に音を大きくしてくる。闇と黄昏と境界線を足音の主が踏み越える。二人の男の姿が顕わになる。御堂と岩田の二人だった。

「御堂君か。君も人が悪いですネ。否、趣味が悪いと言うべき。それに聖書の意図を違った解釈をしているのも趣味が悪い。いつから聴いていたのですか?」

 阿見が問うと、御堂は少し間を置いて応えた。

「ついさっきから。なかなか面白かったよ、戦後、自由になったにもかかわらず、戦争の話は不自由になってしまったからな。手を汚さなかった者と、手を汚させられたと思っている者の専売特許となったからね」

 穂邑は御堂の静かな声を聴くと、懐中時計を取り出し、文字盤を覗いた。

「あはは。詰まらんことを話しすぎたようだな。失礼するよ」

 穂邑はそう言うなり、扉に歩みを向けて去って行った。


汝等の鋤を劍に打かへ汝らの鎌を槍に打かへよ弱き者も我は強しと言へ

                          ヨエル書第三章一〇節



Ⅱ神の拘束 Gotteszwang


我らは奥義を解きて神の智慧を語る、即ち隱れたる智慧にして、神われらの榮光のために、世の創の先より預じめ定め給ひしもの成。

                     コリント人への前の書第二章七節


「『求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり』。探して尋ねて門を調べれば、密室の謎は解ける。首尾はどうだ?」

 穂邑が紫書館から去るなり、御堂は阿見に尋ねた。岩田は御堂の言葉の内容に反して口振りは嘲弄しているように感ぜられた。阿見はいつものように白の背広を着て胸を張って大きな態度でいた。

「君のせいで半分も聞き出せなかったじゃあないか。まったく君という凡人は僕を邪魔して愉しいですかネ」

「愉しかないさ。だがな、莫迦な奴の振る舞いを放って置くことはできないものでね。お前の早とちりで久流水家の人間に苦労を掛けたくはないからね」

「もう僕は真相に近付きつつあるのだよ。君が鈍間に遣っている内にあと一手でチェックメイトだ」

 阿見が自信満々に言うと、御堂は長い髪を掻き揚げて続けた。

「お前は穂邑と益田老人の共犯説を考えているのだろ?」

 岩田は御堂の発言に驚嘆した。穂邑と老人は共に教司神父殺害の際に疑われ、容疑から外された二人ではないか。阿見も岩田と同じく御堂の発言に驚いたらしく、顔色に赤味を差して目を見開いていた。

「御堂、どういう意味だ。穂邑と老人の共犯説なんて」

 御堂は尋ねられると黒眼鏡を縁に指をやって、クッと上げた。

「おやッ、岩田。お前はとうに考え付いていると思っていたけどな。なァに、簡単なことさ、お前の好きな探偵小説の考えとルールを持ってすれば、この推理に帰結する。

教司神父の事件について考えてみろ。あの事件からは犯人、つまりは嘘を付いている人間が一人ではなく複数という結論になる。あの事件がたった一人の嘘で不可能性がなくなることはない。複数の証言で事件が成立していて一人だけの嘘の証言では不可能性が解決されはしないからな。また神父の事件に関わらなかったマリヤは直弓の事件でアリバイがある。桐人は平戸警部がアリバイの証人となっている。これら二人も単独犯では無理だ。だが全員ではない。全員が嘘を付いていないという前提に立たねば事件が成立しないだったな。けれども単独犯人説は難しい。ならば犯人は二人以上で、登場人物の人数未満という結論になる。

 すると神父の事件ではどの組み合わせになるだが、ここでもまた制約がある。これも万里雄と阿紀良の組み合わせ、清枝と直弓の組み合わせ、穂邑と百合子帥彦の組み合わせという風にすると結局は不可能犯罪であることが崩れて、誰でも可能性があるようになって犯人が絞り込めなくなってしまう。同時刻にいた人間同士の共犯説は捨てたほうがいい。ならば時間を越えた組み合わせでなくてはならない。ある一つの組み合わせが思いつく。穂邑と益田老人の組み合わせ」

 御堂がそこまで言うと、ふうッと息を吐いて首を廻した。一気に離して少し疲れたのだろう。続けて御堂は阿見をちらりと見た。

「阿見、お前の考えていることを言ってやろうか」

 御堂はそう言うと、阿見を視界の隅に置いて続けた。

「鳩を出したり、予言をしたり、手品というヤツは実に不思議だ。だが手品を突き詰めていくと二つの動作に還元されることを知っているか。二つの動作、『出現』と『消失』だ。この『出現』と『消失』を考慮すれば手品のタネの大半が見破れる。手品師が両手をひらひらさせて手に何もないことを示す。手品師は右手で胸ポケットからコインを出す。手品師は右手でコインを握り、再び手を開くと右手からコインが消えている。続けて手品師が左手を開くとそこには先程までなかったコインがある。これを見た人間はこう思うだろう。右手のコインが左手に移動したと。そして右手と左手の間で受け渡しがなかったことを再び思い興して驚嘆する。コインが瞬間移動した!

だが実際は移動なんかしていない。右手のコインが消失したことと左手にコインが出現したことの事象が続けて起こったに過ぎない。コインは二つあったのだよ。そのコインを右手では隠して左手では出現した様に見せかける。この二つの独立した動作を同時に行うことで恰も瞬間移動が行われたと思わせる。手品のトリックを暴こうと思えば一連の動作を小さく分解してみればいいのだよ。そうすればトリックの解明に近付く。探偵小説における様々なトリックも同じさ。一連の不可解の事象はそれを分解していけばヒントが得られる」

「その分解した先が、穂邑と益田老人ということなのか」

 岩田は御堂に続いて言った。阿見は唇を噛締めながら御堂の話を聞いていた。見るからに悄然としていた。御堂は阿見の様子を横目に見ながら泰然としていた。窓から射す日は岩田が紫書館に入った頃よりも傾いて、先程まで三人の足元を照らしていたのにいつの間にか陽光は岩田と御堂だけを照らしていた。

「老人は四尺もあろうかという凶器を持ち運べないことから除外される。穂邑氏は死亡推定時間の関係から殺人ができないとして除外された。だがそれは一人で一連の事を行っていると考えているから除外される。阿見は一連の事件を老人と穂邑氏で分離すれば解決きると考えているのだよ。老人に殺害をさせて、穂邑氏が四尺の剣を運んだとね」

「写字室に訪れたのは老人が先でその後に穂邑氏が帥彦や百合子さんを連れてやってきたのだろ。老人がまず凶器を運び、穂邑氏がその後、凶器で殺害したのなら解る。だがお前の言っていることは凶器を後に運び、殺人はその前ということになる。凶器なくして殺人ができるか?」

 岩田は反論した。鈴の香炉からは紫書館に入場した時よりも部屋を強い芳香で満たして噎せんばかりであった。岩田にはその芳香の分子が部屋の空気を歪ませているようだった。

「莫迦か? さっき言っただろ、コインは実は二枚あった、と」

「真逆か、凶器も二つあった!」

 岩田が対すると、じッと焦燥しながら聞いていた阿見が大きく息を吐き出すと、静かで物憂げな声で呟いた。

「もういい、僕が続けましょう。『探偵は皆揃ってさてと言い』というわけにはいかないのが残念ですけどネ。凶器は二つあったのですよ。教司神父の殺害には二つの凶器が使われたのです。一本は益田老人が所持していた神父の命を実際に絶った刃物、もう一つは穂邑氏が持っていた発見された四尺の剣です」

「老人が手を掛けて、穂邑が剣を持つとは?」 

 岩田が訊ねると先程までの物憂げな表情を消して阿見は余裕に満ちた表情になった。阿見は岩田の一歩前に出た。窓からの陽光が阿見の足元を再び照らした。

「益田老人が写字室に向かうときに老人はダルマティカの内に発見された剣とは違う凶器を隠し持っていたのですよ。そいつは発見された赤の剣とは違って四尺もないものだったのでしょう。益田老人が教司神父事件で最も神父に近付き、殺害の機会が充分にあったにもかかわらず、容疑者から真っ先に外された理由は何でしょう。老人が四尺もの凶器を持ち運んでいる様子がなかったということですね。小躯の老人が四尺もの剣を持って写字室に向かえば、直弓や清枝が見逃す筈はない。更に予め写字室に赤の剣を隠し持って窓越しに凶行に至ったことも証言で否定されていますネ。益田老人が容疑から外れた理由は四尺の剣を持ち歩いていないという一点に懸かっているのですよ。 

 岩田君。解ってくれたようですね。凶器が四尺だったことだけが老人を犯人たらしめなかったのですネ。ならばこうは言えるでしょ。凶器が四尺でなければ老人は犯人である、と。老人は四尺よりも遥かに小さい剣を持って神父を刺したのです。窓越しに胸の内に隠し持っていた小さな凶器を使って神父を殺したのです」

「四尺足らない剣が使われていたなら、益田老人による犯行が可能になる。発見時に刺さっていた赤の剣は、穂邑氏が遺体発見の時に改めて神父の胸に刺したということか!」

 岩田は阿見の言わんとしようとしていることを読み取り驚嘆した。阿見は岩田の様子に得意気になったのか莞爾とした。御堂はいつものように黙って腕を組んで黒眼鏡越しに阿見をじッと見詰めていた。

「前に僕は穂邑氏が遺体発見時に部屋に隠し持っていた剣を以てして神父を殺したと推理したネ。あの推理は強ち外れていなかったのですよ。僕はかなり惜しいところ間で深層に近付いていたのですよ。ただあの時の推理が違っていたのは神父が生きていたか、死んでいたかの一点だけだったのです!

 穂邑氏が写字室の書斎に入ったときには教司神父はもう既に遺体となっていたのですよ。老人の兇刃によって神父は殺害されていたのです。穂邑氏は遺体を発見した時に書斎に予め隠していた四尺の剣を取り出して既に遺体となっている神父に剣を突き刺した。突き刺した箇所は当然益田老人が凶器を刺した時にできた創傷に重ねる様にして突き刺したのです。そうして神父の命を絶った凶器は四尺の剣であると皆に思い込ませた。

 穂邑氏が容疑者から外れた理由は死亡推定時間の問題でしたネ。遺体の死亡推定時間が遺体発見時とはほど遠く、はるか以前であったことからでしたネ。穂邑氏が写字室に訪れた時には既に遺体になっていたのですから、容疑から外れます。この方法を使うと益田老人と穂邑氏の両者とも一旦は容疑が掛けられるものの、間もなく外されますネ。両者にとってこれほど利益のあることがありましょうか。御堂君が喩えたように一見不可解の事象でも分割してしまえば単純になってしまうのです」

 複数の証言者によって犯行をした者が存在しなくなった事件、犯人の出入りが不可能だった事件。それが『分割』という手段によって解決されようとは。殺した者と凶器を衝き立てた者が別人。殺害した後で再び凶器を突き刺す。そうする事によって殺した者と凶器を衝き立てた者の両者が補完し合って不可解な事象を作り出して相互に容疑から外れさせる。不可解な事件も分割によって解決されるのか。

 岩田が阿見の推理に驚嘆していると、御堂は無言で、すッと阿見の前に近付いた。真ッ赤な支那服が陽光に照らされて更に赤味を帯びさせていた。

「莫迦か? 無理があるだろ。お前はまた現場を見ていなかったから、判らなくて当然だが少なくとも、警察伝てでも確認しておかねばならぬことがあっただろ。お前は以前と同じ過ちをしていることに気付いていないのか」

「御堂君ッ、負け惜しみなら止して下さいネ」

「誤った二つの推理を編んで新たに道を見付けんことが道理ならば、二つの反証を編んで反証するもまた道理。益田老人単独犯説と、穂邑氏単独犯説の反証を忘れてはおるまいな。老人単独犯説の反証は遺体の位置、穂邑氏単独犯説の反証は鮮血の淵の乾き。

 もしお前のいう通りの凶行があったならば、益田老人が神父殺害後の遺体の位置は窓の側になっていたはずた。お前の考えていることはわかるぞ。穂邑氏が書斎に入室した際、四尺の剣を刺さんとする前に遺体を椅子の上に移動させたと言いたいのだろう。だが、それはあり得ない。お前の推理の下では老人が窓越しの殺人を行った後から、穂邑氏に発見されるまで、ずッと神父の遺体は窓の下に転がっていたことになるのだろ。数時間も窓の下に転がされた遺体。それにはどんな変化が起こる? 消え去る生気? 紫色の死斑? 死後硬直? 眼球の濁り? 世界の消失? 生まれし土に返るアダム? アブラハムの懐に求める寝床? 否、もっと単純なことがあるじゃあないか。そうだ。鮮血は大地を濡らすのだ。刃物で栓がしてあったから漏れることはない? 真逆かそんなわけないだろう?

 血は神父の創傷から、じくりッと溢れ出て大地に拡がる。大地に広がりし鮮血は干天の渇きを潤す。乾いた血は時を刻む。

 窓下に乾いた血なんてものはなかった。お前の推理なんて夢なんだよ。阿見ッ、それに老人と穂邑氏の二人が共犯ならば工房に現れたリリトに涙を流させた怪人は誰だ? あの怪人は穂邑氏でも老人でもあり得ない」

 陽光が傾く。叡智の背表紙の金糸が綺羅綺羅と輝く。阿見の上半身は薄闇に覆われて、明るいのは足元のみだった。

阿見は唇を噛締めて、眉宇に皴を寄せていた。

「フンッ、調子に乗らないで下さいよネ。君は現場検証に立ち会えたけれど、僕は現場検証に立ち会えなかったのですよ。血の乾きなんてわかりはしないさ。君に運があっただけです」

 阿見は御堂を睨み付けると、香炉の台座を蹴飛ばして扉に向かって傲然と歩を進めた。扉に向かう阿見の背は闇に消えた。御堂は立ち去り行く阿見と背を互いに向け合いながら、静かに言った。

「阿見ッ、探偵小説や幻想小説を総称してミステリというそうだな。『mystery』を希臘語と羅典語で何というか知っているか?」

 阿見の歩みが、ぴたりッと止まった。

「『mystery』という単語は希臘語では『mysterion』。羅典語にすると『sacramentum』という。あの天草四郎の旗にも描かれていたヤツだ。元々はキリスト、教会、聖餐、洗礼を指して使われた言葉だ。お前の好きな『mystery』も元は信仰なんだよ。いいかい、ミステリは信仰なのだよ。探偵小説は信仰なのだよ。

 なあ、お前は何を信じて生きている? お前はどんな約束事に縛られているのか? 縛られなければ人は自由に動けぬものだよ。お前をここに縛り付けるものは何だ?」

 陽光が御堂の黒眼鏡の縁を輝かせる。御堂の長く黒い髪は陽光で亜麻色に変わっていた。阿見は僅かに足を止めていたが、そのまま振り返らなかった。

「君らこそ何を信じている? 世迷言の純愛か? 物理理論の統一論か? 母の手の温もりか? 赤子の頬の柔らかさか? オイディプスの苦悩か? 闇を無視して光を見据える未来への展望か? 唯名論か? 唯物論か? それとも姿を現さぬ神か?」

 かつッ、かつッ。

 阿見は止まっていた歩みを静かに進めた。窓から刺す陽光は阿見の背中には当たっていない。阿見は扉の外、黄昏が平等に降り注ぐ處へ向かっていった。

 かつッ、かつッ、かかつッ……。


第七の御使の吹かんとするラツパの聲の出づる時に至りて、神の僕なる預言者たちに示し給ひし如く、その奥義は成就せらるべし

                       ヨハネの默示録第一〇章七節



Ⅲ声消エ文字残ル Verba volant, scripta manent.


シェイクスピアがフランス人やドイツ人みたいに、ロールパンとコーヒーで一日を始めたなんてこと想像できませんよ。ベーコンか燻製にしんで始めたにちがいありません。おや、ひらめきましたよ。例のギャラップ夫人と謎の文字、シェイクスピアはフランシス・ベーコンだったというほんとうの意味がやっとわかりました。あれはただ固有名詞と普通名詞の間違いだったんですな。私は反論をひっこめます。全部認めましょう。たしかにベーコンがシェイクスピアを書いたんです

             ジョージ・キース・チェスタトン『棒大なる針小』


 阿見が紫書館の扉の取手に手を掛けた時だった。阿見が扉を手前に引く前に外側から扉が押された。

 扉が開くと同時に阿紀良が阿見の上に倒れこんできた。阿見と阿紀良は絡まるように床にも連れ込むようにして倒れた。下になった阿見は直ぐに上に圧し掛かった阿紀良を跳ね除けると立ち上がった。立ち上がると、ニヤリと哂って、「失礼、狂信なる(LUNATIC)者よ」と阿紀良に言って、床に散らばった本を数冊重ねて阿紀良に渡した。阿紀良は数冊の図書を持っていたらしく阿見と倒れこんだ際にそれらを床にばら撒いたらしい。阿紀良は阿見から束になった本を受け取って胸に抱えた。阿見はそれを見ると足早に扉から出て行った。阿見が扉から出て行くのとすれ違いに扉から平戸警部が顔を覗かせていた。どうやら阿紀良は平戸警部を紫書館に案内して来たらしい。

「ああ、平戸警部ではないですか。御堂に何か用があるのですか」

 岩田が訊ねると平戸警部と阿紀良はこちらに歩みを進めた。

「やあ、岩田君。深見重治のことをお教えておこうと思ってね。なかなか大変なことが判りましたよ」

「大変なこと?」

 岩田と警部の遣り取りを聴いてないかのように御堂は阿紀良に話し掛けていた。

「阿紀良さん、一体何の本です。胸に抱きかかえたその本は?」

 阿紀良は胸に抱えている数冊の本に眼を遣って応えた。

「イグネシアス・ドネリーの『大暗号』ですよ」

「ああ、『大暗号』というのは、確かシェイクスピアの正体が同時代の哲学者フランシス・ベーコンであったという奇説を説いた怪書でしたよね。確か一四年前にもムーアの『シェイクスピア?』でも同じような説を提唱していましたね。例えば『恋の骨折り損』第五幕第一場の『honorificabilitudinitatibus』をアナグラムすると、『Hi ludi F.Bacons nati tuit orbi』という文が顕われるなんてことが書いてありましたね。そういえばG・K・チェスタトンの『膨大なる針小』にも、この珍説の揶揄がありましたね。真逆かこの図書館にそんな珍品があったとはね」

「この紫書館には人類の叡智が何でもありますよ。宇宙の無限の拡がりから、蚤の脛毛までね。この図書館で調べられないものがあるとするならば、それは人類の文明と科学が発達していない、未熟な空白の部分でしょうね」

 阿紀良はそう言うと、胸に抱えた数冊の本を左隅の本棚に戻して、踵を返して図書館の扉に向かった。阿紀良の背中が夕陽に溶け込んで扉の向こうの橙の陽溜に消えて行った。月型の釦が岩田の瞳を眩ませた。

 岩田は御堂が警部の発言を意に介していないのが気になった。久流水家の事件の本当の最初の被害者深見重治。重治の事を御堂は気にならないのか。

「御堂。深見重治氏が何者で久流水家に何の用があったとか気にならないのか」

「深見重治。内縁の妻の職業は助産婦。ここには久流水雄人から金を掠めに来たというところじゃあないのか?」

 平戸警部は驚いたような表情をして御堂を見た。

「その通りですよ、御堂さん。深見重治の内縁の妻の名前は浅井ハル。かつて助産婦をしていました。重治はハルに養われていた、所謂ヒモだったそうです。ですがハルはここ一〇数年、助産婦としての仕事もせずに働いてすらいなかったそうです。それにもかかわらず生活費を得ていた。警察ではおそらく浅井ハルに何らかのパトロンがあったのではないか、もしくは犯罪めいたことをしているのではないかと睨んでいます。久流水家で重治の遺体が見つかったから、パトロンは久流水家の何者でではないかと。おそらく重治が尋ねていた久流水雄人ではないか。でもなぜお解かりに? 真逆か戦時中の情報収集能力が健在ですか?」

「真逆か。タラント蜘蛛は縦糸すら造っていないさ。簡単な推理さ。重治は内縁の妻の死後に久流水家にやって来たのだろ。久流水家と重治を結ぶ線が重治と久流水家ではなく、その内縁の妻と久流水家と考えるのが適当だ。妻の死後に妻が持っていた糸の端を辿って久流水家に来たと考えるのが最も自然だからな。重治は職に就いていない。ならば重治は妻の収入を当てにして生活していたヒモと考えるべきだろ。妻が持っていた糸は久流水家ではないか。妻の死後に重治は久流水家に入り浸るようになった。

 内縁の妻と久流水家を結ぶ糸は何色か? 赤色? 真逆か。そんなもので死後に及んでも金を遣る価値はなかろう。重治と内縁の妻は死陰谷村外の人間だ。久流水家と村外を結ぶ糸は何だ。思案の末に一つ思い出したことがあった。教司神父が話した久流水家の来歴に『村外』という言葉があったのを思い出したのさ」

「教司神父が? そんなことを言っていたか?」

 岩田が頭を捻ってみたが、思い出せなかった。

「『村外の産婆の手伝いでマリヤは桐人を生んだ』とあったはすだ。内縁の妻ハルは桐人の出生の事で脅していたのではないか」

「そうです。ハルが産婆としての仕事をしなくなったのがちょうど桐人の誕生した年からなのです。警察はハルが桐人の出生の秘密をネタに久流水家を強請っていたのではないかと推察しています」

 平戸警部が報告すると、御堂は腕を組みながら下を向き、長髪を垂らせて言った。

「それで警察はその出生のネタが何かまで探り出したのか?」

「いいえ、ハルの家宅を捜索してみましたが何も。久流水家の人間に訊いても皆知らないと言うばかりで。雑事は雄人氏が請け負っていたらしく、本当に知らないようです。御堂さんは何か判りませんか?」

 岩田が御堂を改めて見ると先程と同じく腕を組んで俯いていた。御堂は平戸の問いには直ぐには応えず、暫くジッと思案していたが、重い口を開いた。

「真実か否かは俺にも解らんが……」

「教えて下さい」

 警部が懇願すると、御堂は組んでいた腕を解いて図書館の床を指差した。岩田と平戸警部は同時に御堂の指差す石造りの床を見た。御堂は静かに呟いた。

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖……」

 石床の一面に系譜図が書かれている。神の生み出した人類の祖アダムからイエス・キリストに至るまでの系圖が床一面に広がっている。岩田は図書館の床の上をぐるりと回り始めた。イエス・キリストが誕生するまでに、どの様な祖先がいて、どの様な血の繋がりがあったか、一目瞭然になる系譜が描かれている。ADAMとその婦EVAから始まって、線で繋がりその下に最初の殺人犯と最初の殉教者CAINとABEL。CAINから線が延びてENOCH、更にIRAD。MEHUJAEL、METHUSAEL……。人類の血脈が延々と続いていた。

 人類の文明と科学の英知が詰まった紫書館の底には、人類の歴史があった。ABRAHAMもISSACもJACOB、ESAUも。DAVIDもSOLOMONも。ANNAもJOACHIMも。聖母MARIAも養父JOSEPHも。最後にJESUS。

 岩田が黄昏に照らされた系圖に驚嘆していると、御堂が言った。

「岩田ッ、香炉側からこちら側に来い。 愚者の鏡を見せてやる」

 岩田がいた位置は香炉を挟んで御堂と対していた。御堂の方には黄昏の日が当たらず真ッ暗になっていた。岩田は御堂の言う通りに黄昏の日溜りを出て薄闇に歩を進めた。

「岩田、ここから系圖の一番終わり、イエスの辺りを見てみろ」

 岩田は御堂の言うままにJESUSの名の描かれている辺りを見た。するとどうだろう。イエスの父JOSEPHと祖父JOACHIMの名前の上に黄金色の光の文字でNABIと書かれているではないか! これはどういうことだ。つい先程、岩田が其処を見た時にはそのような文字は無かった。それが場を移動すると見えるとはどういうことだ。しかも光の文字で。

 岩田が目の前に広がる怪異に驚愕していると、平戸警部も岩田と同じ思いらしく眼を見開いていた。御堂は黒眼鏡越しに二人の顔を見ると解説した。

「香炉が置かれている台座を見ろ。鏡張りだろ。NABIという光の文字はこの台座の鏡に、窓から入った黄金色の陽光が反射してできた像だ。この鏡は魔鏡だよ」

 魔鏡。普通に覗き込むと何の変哲もない鋳物の鏡だが、ある方向から太陽光や灯光を当てて反射光を白壁に投影すると鏡の裏に描かれた絵や模様が像となって映し出される鏡。眼に見えない僅かな傷で描かれた絵が光をあてると像を結ぶ鏡。嘗て隠れ切支丹が自身の信仰の対象のマリヤ観音を鏡の裏に書き込み、密かに暗い部屋で像を浮かび出して懸命に拝んだという隠れ切支丹の信仰の証。

 御堂がこちら側に移動をしろと言った理由はここにあった。岩田が先程いた位置は窓からの魔鏡への陽光を妨げる位置だった。御堂は平戸警部と話している途中にこの魔境の秘密に気が付いたのだろう。先程俯いていたのも、単に床の系圖を見ていたのではなくて、魔鏡の像を見ていたのだ。

 しかし、この文字の意味は何だ? NABIと言うのはヘブライ語で預言者の意味だ。その預言者という文字がイエスの父ヨセフと祖父ヨアキムの名前の上に描かれているのは何故だ? ヨセフやヨアキムが預言者だったという奇説があるのだろうか。否、ない。

「『古今著聞集』や、パウサニアスの『ギリシア記』にあるように鏡というヤツは古くから現世と未来を映すことがあるといわれのある代物だ。鏡占術は取戻せない過去を映すことはない。過去は現在のぼんやりとした不安を払拭してくれるものでないからな。シェイクスピアの『オセロー』にもあるだろ、『過ぎてから帰らぬ不幸を悔やむのは、更に不幸を招く近道だ』とね。だが、久流水教の魔鏡は何故か過去を映している。

 岩田も平戸君もイエスがマリヤとヨセフの子ではなく、マリヤと神の子であることは知っているな。そして最終的には聖母マリヤも祖母アンナと神の交わりの末に生まれた女という伝説が生まれて来てしまった。

一八五四年の教皇ピオ九世による教義で決定された聖母マリヤの無垢受胎にみるようにマリヤはキリストと同じく神の子として扱われるようになっている。

 あはは。つまり神はアンナと実の娘のマリヤの二人を手篭めにしたことになっている。神は実の娘に手を出したことになってしまっている。

まあ、考えようによっては理に適っているのだけどね。神がアンナと交わって出来た子の聖母マリヤには当然として、神の遺伝子が二分の一しか宿っていない。更に神が聖母マリヤと交わってしまえば更に二分の一の遺伝子が子イエスに注がれる。遺伝子学的な立場で見るならば、イエスを神と同格にしよう、人間の部分を消そうとすれば、このような解釈をしければ成り立たないだろうからね。それに詩篇は『なんぢヒソプをもて我をきよめたまへ さればわれ淨まらん 我をあらひたまへ さらばわれ雪よりも白からん なんぢ我によろこびと快樂とをきかせ なんぢが碎きし骨をよろこばせたまへ あゝ神よわがために淸心をつくり わが哀になほき靈をあらたにおこしたまへ』と言っているしね。

 さて、足元に広がる遺伝の系圖を見てみたまえ。光の文字はヨアキムとヨセフに繋っているだろ。だがこの二人は系圖に入るべき人間なのかな? ヨアキムとヨセフは神の手を出した女を預かっているのだ。妻とは性交していないのだぞ。この光の文字は本当の父親を表しているのだよ。それならば光の文字はNABIではなく、神を顕すYHWHやGODではなくてはならないじゃあないか。NABI、預言者が父と祖父とはどういうことだろうねェ」

「おいッ! 真逆か」

 岩田は慄然とした。真逆かそんなことがあっていいのか。

「岩田、勘が良いねェ。この系圖のイエスの名前を桐人君に、ヨセフの名前を雄人氏に、ヨアキムの名前を哲幹に考えてみたまえ。預言者とは誰を指しているのかを考えてみ給え。預言者と呼ばれる者は今まで二人の名前しか出てきていない。久流水哲幹と久流水義人。だが、年の若い義人がこのNABIの意味するものとは思えない。ならばこのNABIは哲幹を表している」

「御堂さん、それは」

 平戸警部が悄然とした顔で御堂に言った。岩田は御堂の口から続きを聞きたくなかった。そんなことがあっていいのか。

 御堂が岩田と平戸にすうっと視線を向けて、囁くような静かな声でありながら、低く稲妻の様に轟く声で言葉を吐き出した。

「哲幹は安和の夫であり、娘マリヤの夫ではないのか?」

 近親相姦の禁。『直系血族又ハ三親等ノ傍系血族ノ間ニ於テハ婚姻ヲナスコトヲ得ス』あのマリヤが実の父哲幹と交わって生んだ子が桐人だった。人類が最もタブー視する重罪ではないか。歴史を観れば弟と結婚した埃及の妖婦クレオパトラの例がある。古事記や日本書紀を当たれば、枚挙に暇がない。聖書を観ればアブラハムの妻サラは彼の姪であったし、ロトも二人の娘と関係を持っている。聖書には確かに近親相姦の事例が窺える。だが聖書全体として見ると、申命記の『十二の呪い』にあるように近親相姦は禁じられている。近親相姦を犯す者は呪われる。基督教から派生した異端宗教の耶蘇久流水教でも禁じられている筈だ。桐人が近親相姦の子ならば、その玉座は神ではなく、呪われた子が座していることになる。何より岩田には信じられなかった。あの聖女マリヤが、愛するマリヤが近親相姦を犯していた。あの柔らかな唇の女が獣のようなことをするわけがない。岩田は愕然としながら、どうしても否定したかった。

「御堂ッ、冗談と言ってくれ。あってはならない、そんなこと!」

 岩田の声は振るえていた。折角見付けた止り木の根っ子が腐っていたなんて岩田には到底信じられない。

「近親相姦の禁。犯すべからずの戒律。特にお前は信じたくはあるまい。俺にも確証はない。だか近親相姦があったと考えた方がすんなりと説明できる事象があるのだよ」

「御堂さん、それは何ですか?」

 平戸警部が訊ねると、御堂はそっと歩みを進めてMARIAとNABIの文字から伸びた線の先、JESUSと書かれた地点で立ち止まった。

「久流水桐人の存在……」

「どういうことだ、御堂ッ」

 岩田が尋ねると、御堂は黄昏で輝く黒眼鏡を指で持ち上げた。

「……メンデルの法則を知っているか?」

「否、何ですか、それは?」

 平戸警部が応えた。

「知らないのか。桐人については少し置いて、そこから話そう」

 御堂は歩みを進めて、JACOBと記されている所で足を止めた。

「旧約聖書創世記第三〇章にこんな記述がある。『茲にヤコブ楊柳と楓と桑の靑枝を執り皮を剥ぎて白紋理を成り枝の白き所をあらはし 其皮はぎたる枝を群れの來りて飮むところの水槽と水鉢にて立てゝ群れに向はしめ群をして水のみに來る時に孕ましむ 群すなはち枝の前に孕みて斑入の者斑駁なる者斑點なる者を産みしかば ヤコブ其羔羊を區分ちラバンの群の面をその群の斑入りなる者と黑き者に對はしめたりしが己の群をば一所に置きてラバンの群の中にいれざりき 又家畜の壯健き者孕みたる時はヤコブ水槽の中にて其家畜の目の前に彼枝を置き枝の傍において孕ましむ 然ど家畜の羸弱かる時は之を置かず是に因りて羸弱者はラバンのとなり壯健者はラバンのとなり壯健者はヤコブのとなれり 是に於て其人大に富饒になりて多くの家畜と婢僕および駱駝驢馬を有つにいたれり』。なぜヤコブは羊の生み分けが出できた。どうして自分の羊を強き羊にして、ラバンには弱き羊を与えることができた? この記述に疑問を持ち、研究をしようと考えた者がいた。それが熱烈な修道士であり、学者であったグレゴア・メンデルだった。メンデルはヤゴブの羊の代わりにエンドウ豆が同じような性質を持っていることに気付き、エンドウ豆による遺伝の実験を始めた。エンドウ豆には代々丸豆を生らす種と、代々に亘ってしわ豆を生らす種の二種類があった。この丸豆としわ豆を掛け合わせてできた子世代の種は全て丸豆の性質を持っていた。更に子世代の種同士を掛け合せると、不思議なことに孫世代の豆は丸豆としわ豆の比率が三対一の割合でなってしまう。なぜ孫世代になると三対一になってしまうのか。メンデルはこの不思議な現象に一つの解決を見出した。それこそがメンデルの世紀の快挙であり、人類の遺伝学の黎明だったのだ!」

 御堂は腰を落として、しゃがみ込むとJACOBの文字を指でなぞった。

「メンデルが発見は次のことだった。遺伝子には性質として表層に表れる優性(顕性)種と表層に表れない劣性(潜性)種があること。遺伝子は常に二対で備わっていること。子に性質が遺伝する際は対になった遺伝子は分離して子には両親から一対ずつ受け継がれることだった。優性遺伝をAとして、劣性遺伝をaとして表すとする。エンドウ豆をもっていうならば、代々の丸豆の遺伝子はAA。代々のしわ豆の遺伝子はaaとして顕される。エンドウ豆では丸豆の性質が優性で、しわ豆の性質が劣性だ。さてこのAAとaaのを掛け合わせると、受け継がれる遺伝子は、AAはAとAに分離して、aaはaとaに分離されて組み合わされる。それぞれから一つずつ提供して、一対の遺伝子を子に与える。その組み合わせのパターンはAa、Aa、Aa、Aaであって、全てAaだ。この場合Aは優性遺伝でaは劣性遺伝だから表装に表れる性質はAの性質である丸豆だ。いくら遺伝子としてしわ豆の性質を持っていたとしても優性遺伝と劣性遺伝が組み合わされた場合、表に現れるのは優性遺伝のみで丸豆しかできない。

 次にこのAaの遺伝子を持つ丸豆同士を掛け合わせると、孫世代の豆が持つ遺伝子のパターンはAA、Aa、Aa、aaの四つ。AAは当然優性遺伝しか持っていないから丸豆。Aaは優性遺伝を持っているから、これも丸豆。aaは劣性遺伝のみしか持っていないから、これはしわ豆。AA、Aa、Aa、aaは丸豆、丸豆、丸豆、しわ豆となり、丸豆としわ豆の比率は三対一となる。判ったかい、平戸君。これがメンデルの発見した法則であり、遺伝学の原点だ

 ちなみに世の中にはA型、B型、AB型、O型の四種類が蔓延り、優性遺伝がAとBであることから考えて、アダムとその妻エバはAO型、BO型の組合せだったと考えられるね。そうでないと二人の人間から四種類の血液型の子孫が生まれるわけないからね。だがエバは、アダムの肋骨から生まれた者だけどね」

 御堂が一気に捲し立てると、平戸警部は納得したのか頷いていた。岩田はただぼんやりと聴いていただけであったが、先程御堂が近親相姦の証があると言ったことが気になり、その意味を訊ねた。

「その『メンデルの法則』がなぜ近親相姦の証拠となる?」

「思い起こせ、桐人の性質を! 桐人は何者だ? 神か、呪われし子か? 最も注目すべき特徴的なものがあるではないか。桐人の最も特徴的で、神であることを表すもの……。そうだ、桐人の最大の特徴は其イエスに瓜二つの容姿だ」

「それは真逆か……」

 御堂に続いて平戸警部が訊ねた。御堂はそれには直ぐ様答えず、再び歩き出して、JESUSの文字の地点に行った。御堂はその名を無表情にじッと眺めた。

「白子症だ」

 何よりも桐人が神の子の再来として崇められているのは、その性質にある。メラニン色素の先天的欠如によって肌も髪も真ッ白な色をして、瞳は真ッ赤な色をした少年、それが桐人。しかもこの事件がヨハネの默示録の見立てであることが発覚したばかり。桐人の白子症は重要な鍵ではないか。

「全身白子症というヤツは、劣性遺伝の同型接合体によって起こることなのだよ。両親が共にメラニン色素欠乏遺伝子を持って、それが子にそれぞれの父、母から受け継がれて、二つの遺伝子が結びついて初めて白子病は発病するのだよ。父母の片方のみが、欠乏遺伝子を持っていたところで、もう片方の親が健全な遺伝子であったら、発病しない。全身白子症の症状が表現形として表れるためには、父と母、両者が共に白子症の保有者でなくては発病しないのだよ! 両親が揃って同じメラニン色素欠乏遺伝子を持っていないと発病しない。

 だが考えてみろ。両親がともに同じ欠損遺伝子を持っている確率は高くない。低確率もこの世には起こっているさ。しかし同じメラニン欠乏遺伝子を持つ男女が惹かれ会うなんてあるものじゃあないぞ。

 だが親子関係、もしくはかなりの濃い血縁関係である場合はどうだ。父と娘が同じメラニン色素欠損遺伝子を持っていても奇異しくはないだろ。ある研究によると白子症の人間の両親を調べると最も多いのは従兄妹同士の結婚だったそうだ。血縁同士で結婚を繰り返していると、ひょんな切掛けで誕生した欠陥のある遺伝子がいつまで経っても子や孫に受け継がれた儘になってしまう。血縁結婚は遺伝子のホモ接合体の確率が増すことになってしまう。白子症の久流水桐人の存在こそが、近親相姦のあった可能性を示す」

「あくまで可能性だ」

 岩田は信じたくなかった。あのマリヤがそんな浅ましい行いを……。

「そうだ。あくまでも可能性だ。だが、大地に広がる記号はそう語っている。世界がそう回っているのだ。世界が本当に回っているどうかなんて、人間誰も判らないさ」

 いつの間にか黄昏が御堂を包み込んでいた。

黄昏は何故こんなにも悲しいのだ。何故笑ってくれないのだ。黄昏よ、お前は何者だ?


黄昏 (『山羊の歌』より)       中原中也


渋つた仄暗い池の面で、

寄り合つた蓮の葉が揺れる。

蓮の葉は、図太いので

こそこそとしか音をたてない。


音をたてると私の心が揺れる、

目が薄暗い地平線を逐ふ……

黒々と山をのぞきかかるばつかりだ

――失はれたものはかへつて来ない。


なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない

草の根の匂ひが静かに鼻にくる、

畑の土が石といつし様に私を見てゐる。


――竟に私は耕さうとは思はない!

ぢいと茫然黄昏の中に立って、

なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです



Ⅳ君がいない人生なんて無意味だ Ne vivam si abis.


ある暗き夜、愛の炎が私の胸に燃えていた

明るい灯火をたよりに 私は家を出た、

皆が寝静まっているあいだに

おお夜よ、汝は私を導いてくれる、

太陽よりも愛すべき夜よ

愛するものを愛されるものに

結び合わせた夜よ

                        聖十字架のヨハネ『暗夜』


 別れはいつも突然だ。突然でなくては別れではない。人類が始まってどれだけの人間が別れを体験したか。男の震えは大地を揺らしたか。女の涙は大海を溢れさせたか。

「もう会わない? どういうことですか?」

「夜の帳の秘事に朝陽が射すということですわ」

 こうして闇夜に身を任せることは何度目のことか。闇夜は日々を経る毎に段々と深まっていった。闇夜を照らすは堤燈の小さな灯のみ。闇夜に眼が慣れてものが見え出し始めたときだった。マリヤは突然と岩田に別れを告げた。もう会うことはやめませんか、と。

「 僕に過ちがあるならば償います。僕には貴女が必要なのです」

「貴方に非などありません。私の火を消さなければならなくなったからです。貴方に責めるところはありませんわ」

 桜桃の堤燈の灯が風に揺れた。二人の陰が付かず離れず歪む。

「あの接吻は嘘だったのですか。あの愛の証は!」

「嘘ではありませんわ。あれは私の精一杯の真実です。小さな宝石の輝きは太陽よりも眩しい。ですけどね、女の秘め事を続けるのは私には無理。女の心の中心には男よりも強かな硬い何物かがあるのです。それは金剛石よりも硬いもの。だからこそ、女は少女から婦となって、母となれるのです。でも私にはその硬きものが無いのです。私は秘め事を続けるには弱すぎます」

「男は女にその男には解からぬ硬さがあるからこそ男は女に惹かれるのです。僕は貴女に金剛石の様な硬さを真珠の様な柔らかな輝きを感じたから貴女を愛したのです。貴女が必要です。貴女の奥底の輝きが瞬きに魅せられたのです」

 強い風がびょうッと吹いた。灯が一瞬にして、ぼうッと燃え上がった。二人の間の小さな闇が刹那に吹き飛んだ。

「貴方が見ている輝きは真の輝きではありません。眼に見えるものが真実であったことは未だ嘗て無い。真実だったのは蒼穹の太陽と夜宙の星月だけです」

「いいえ、貴方の奥には真実があります。貴方に真実があると信じます」

「どんなに世界が進もうとも信じる真実が真実であるのかは人間の認識の外にあるのです。信じるしかない。信じるしかないのです。ですけれど、私は信じるべき対象ではない:

 桜桃の灯が燃え尽きようとしていた。蝋燭の芯は焦げて苦い薫香が闇に漂っていた。

「『神様、良くご存知の通り、貴方を愛するためには、あの人が必要なのです』」

「アンドレ・ジイド『狭き門』……」

「僕は貴女がいないと、世界を信じることができない。全てが砂漠だ。全てが塵芥だ。僕を愛してください」

 最後の瞬きを、ぽッと迎えて灯が消えた。二人の間とその周りは、突然として真ッ暗な闇となった。初めに会ったあの闇よりも、愛の証を受けたあの闇よりも今日の闇は深かった。見渡す限りに光はない。あるのは冷々とした風だけだった。

「『あなたは一人歩きができるほど強くないの? わたしたちは、一人で神さまの前にたどりつかなくちゃならないのよ』。嗚呼、我が罪をお許し下さい」

 マリヤはここで一呼吸置くと意を決したように言った。

「さようなら」

 マリヤは小さな衣擦れの音を岩田の耳に残して闇の薄暗い闇の部分に消え去っていった。岩田は闇よりも深い絶望を背負った。深い闇に付き合うことはもう僕にはできない。


……そしていまでは、気が思いせいか、この壮麗なる大地も荒涼たる岩山としかみえぬし、この素晴らしい天蓋、大空、見ろ、この頭上をおおうみごとな蒼穹、金色に輝く星を散りばめた大天井も、おれには濁った毒気のあつまりとしか思えぬのだ。それにまた、人間とはなんたる自然の傑作か、理性は気高く、能力はかぎりなく、姿も動きも多様をきわめ、動作は適切にして優雅、直感力はまさに天使、神さながら、この世界の美の真髄、生あるものの鑑、それが人間だ、ところがこのおれには、塵芥としか思えぬ、人間を見ても楽しくはないのだ。

                ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』

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