Ξ 影の病 Identity 1948,5,7(FRI)

Ⅰ人世 Tilvaerelse.


アルタシヤスタ王の書の稿をレホムおよび書記官シムシヤイとその同僚に讀み挙げれば彼らすなはちエルサレムに奔せゆきてユダヤ人に就き腕力と權勢をもて之を止めたり                     エズラ書第四章二三節


「『死の蔭を變じて朝となし』か……。毎日死の蔭に覆われようとも、変わらず朝は来る。神は『晝と夜を司らしめ』て、アダムの子孫達に平等に日を注ぐ。夜しか知らぬままに陰府に召される者がいて、日しか浴びぬままに一度の夜だけを迎える者もいる。憂世とは不思議に充ちたものだ。久流水家には朝が来るか?」

 岩田が眼を覚ますと、御堂が客間にある唯一の窓の桟に頬杖を付いて、昇り始めた旭日を眺めて独りごちていた。

「やっと起きたか。飯は食い終わったぞ。扁豆は美味かったぞ」

 気配で岩田が眼を覚ましたことに気付いたのだろう。御堂は窓の外を見たまま、岩田に話しかけた。

「ああ、そんなに眠っていたか」

 岩田が寝惚け眼を擦りながら寝台から飛び降りた。

「魘されていたな。マリヤと何かあったのか? お前のフィオレッティには何も書かれていないが……」

 御堂は手に持っている原稿用紙をひらひら揺らした。それは岩田が次回の小説の資料のために、教司神父が滅亡町教会を訪れたときからの出来事について書き綴っていたものだった。岩田はそれに仮の題として『神殺しの黄昏』と付けて日記のように日毎の出来事を記していた。マリヤとの別れの事は書く気になれずに昨夜の部分はまだ白紙のままだった。

「いつもと変らずに昼と夜を繰り返しているだけだよ」

 岩田は昨晩マリヤに別れを切出されたことを御堂に言う気になれなかった。夜を迎えなければならないような気がした。夜の闇よ、消え去れ。

 御堂はくるりと岩田の方に振り返って、窓から臨む旭日を背にした。御堂はそれ以上追求する心算はないらしく話題を変えた。

「まあいい。ラジオを点けてみろ。面白いものが聞けるぞ」

 岩田は言われるままに寝台の脇にある小さな丸卓子の上にあるラジオに手を伸ばした。久流水家に電灯はないのになぜラジオは各部屋にある? 明りはなくとも世界はあるのか? ラジオを付けて暫くすると、次のようなことが報じられた。

『岡山県鬼首村、元華族古神家での猟奇的な殺人事件に、かの名探偵金田一耕助氏が密かに解決に乗り出していることが優秀なる三津木記者によって判明した』

 戦前の岡山県の一柳家密室事件の解決を皮切りに、瀬戸内の小島『獄門島』での鬼頭家三姉妹連続殺人事件を解決して名探偵の代名詞となった金田一耕助。

 御堂は窓の桟に背を凭れ掛けされたまま、嘲笑気味に言った。御堂は逆光に中っており、岩田は眩しさに眼を細めた。

「単なる知的欲求で態々怪奇事件に首を突っ込むとはね。自分自身が危険な目に会う可能性があるというのに。俺は『糧食を水の上に投げ』るなんてことは趣味じゃあないからな。世の中には下半身と足元の秘部があるのだから、探偵は危険を背負い込まなくとも日銭を稼げるものなのに……」

「ならば次々に人が死ぬようなこの事件を引き受けたのだ?」

 岩田は当初からの違和感をぶつけた。御堂は基本的に素行調査や浮気調査を全国に無数に張り巡らされた疎にして漏らさない天網をもってして調べ上げるのが殆どで探偵小説的な事件には関わりたがらない。それにも拘らず、御堂は渋ることもなく久流水家殺人事件を引き受けている。

「対した理由ではない。俺は戦時中に久流水哲幹に世話になっていたことがあったのだよ」

「初めて聴いたぞ!」

「莫迦か? 初めて言ったからな」

 岩田は仰天した。御堂が戦時中から久流水家に関わっていたというのか。その縁がある故に今回の事件を引き受けたのか。

「どんな繋がりだ?」

 岩田が訊くと、御堂は額に垂れた長髪を指で捻りながら応えた。

「別に大したことじゃない。久流水哲幹は戦前、戦中の日本の黒幕だぞ。俺みたいにいかがわしい生業をしていると哲幹は魅力的なものだからな。哲幹に近付いて情報収集をしていた。俺のコネクションの一部は哲幹を介して得たものだ」

 御堂の説明に岩田は驚嘆しつつも納得がいった。考えてみれば御堂が社会のあらゆる所に顔が利くにはそれなりの後ろ盾がなくてはあり得ないのだ。久流水哲幹はその意味で最も適当な人材ではないか。日本の黒幕との繋がりは情報収集には欠かせない。

「そんなことはどうでもいい。ラジオでもう一つ気づかないか?」

 御堂は話を切り替えた。しばらく聞いてみたが、ラジオから流れてくるのは経済、政治と下衆な下半身の話の話題ばかり。特段何もなかった

「否、いつものとおりだが?」

 岩田が言うと、御堂は鼻で笑った。

「お前は今どこにいる?」

 久流水家!そうだ、この久流水家の事件の報道がない!報道がされている内容ではない、報道自体がない!真逆か。

「おいッ、真逆か!」

 御堂はニヤリとした。

「そうだよ。箝口令ってあるのだね。哲幹の遺産だろう」

  いくら地方の新興宗教の中の殺人とはいえ、警察が踏み込んでいる。そんな莫迦なことがあろうか。この奇妙な連続殺人事件が報じられないとは。箝口令が引かれているということしか考えられない。外聞もあろうが、何故この事件に箝口令が?哲幹が日本の黒幕、その遺族の久流水家にはそのくらいの力はあるかもしれぬ。否、しかし。

「おやッ、百合子さんが帥彦を連れて桐人のいる聖堂に飯を運んでいる。何時も、ああやって朝昼晩に運んでいるらしいぞ」

御堂は窓の桟に背を凭れ掛けさせながら、外を見て言った。

 御堂に言われて岩田が窓外を見ると、視線の下にいつもの様にヴェールを被った百合子と傴僂の帥彦の姿があった。傴僂の帥彦は手に盆に載せた朝食を持って歩いていた。

「そうそう。朝食後に阿見がまたしても『真相に近付いた』と言ったぞ。今度は本気の本気だとさ」

 御堂が百合子と帥彦を見ながら言った。御堂の科白をぼんやりと聴きながら、岩田は聖女と従者の行進を眺めていた。


肉体のこの刺は自分のうちに非常に深く刺さりこんでいるのでとうていそれを引き抜くことはできないものと彼は確信している、そこで彼はいわばそれを永遠に自分の身に引き受けようと欲するのである。

                      キェルケゴール『死に至る病』



Ⅱ楽園喪失 Lost Paradise


プラトン主義は「現実」という観念をひっくりかえして次のように主張する。「君たちが現実と思っているのは、一つの誤謬である。われわれ《イデア》に近づけば近づくほど、それだけ《真実》に近づくのだ」と。――おわかりであろうか? これは名前のつけ方をかえた最大の再洗礼だった。これがキリスト教に採用されたところから、この驚くべき事柄の真相をわれわれは見落としたのである。プラトンは、真実よりも嘘と空想に優先権を与えたのだ! 目の前にあるものよりも非現実的なものに!       フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志』


 岩田と御堂が連れ立って聖餐の間に向かうと、阿紀良とマリヤが既に長卓子の椅子に腰掛けていた。阿紀良は能面の様な役者顔で背筋を伸ばして冷然と虚空を見詰めていた。マリヤは無表情で入室した岩田たちを一瞥すると視線を下に向けた。昨日の悲しき別れを一切顔に出すことなく、冷然としていた。岩田はマリヤに昨晩の真意を確かめたい衝動に駆られたが、マリヤは近寄り難い雰囲気を出していた。岩田は仕方なく静かに聖餐の間に入った。

 岩田と御堂は二人に軽く会釈をして卓子の末席を汚した。岩田はマリヤのほうを向くことが阻まれ、何気なく一面の壁に書かれている最後の晩餐をモティーフとした絵画をぼんやりと眺めた。はじめてこの部屋に招かれた時から、まだ四日しか経っていない。入城から四日しか経ってないのに何人かは既に冥府に発っている。神父に直弓。彼等はもう此処で食欲を満たす事は無い。雄人氏に深見重治。生前の二人は知らないが、彼らの死も久流水家に重く圧し掛かっていた。

 岩田は最後の晩餐の絵画を見る。イエスは泰然と裏切りの予告をして一一人の使徒は恐れ慄く。銀貨を握ったユダは独り憮然とイエスを見詰めていた。

 阿見は事件の謎解きをするために岩田と御堂を聖餐の間に呼び出した。あの演出好きな阿見が謎解きショウに観客を呼ばないわけがない。この絵画の様に大勢の前で口舌を奮う。それこそが探偵小説の醍醐味。だがこの現実の観客の少なさはどういうことだろう。聖餐の間には四人しかいない。しかも主役であるべき阿見さえ来ていない。

 岩田が思案していると聖餐の間の扉が開いた。扉から気障な白の背広に、油を塗って輝いた髪を持った阿見光治と平戸警部が入って来た。

「やあ、諸君。待たせたネ。早速に真実を教えて差し上げよう」

 阿見は入ってくるなりに悠然と行った。観客は五人なのか? 岩田は呆気にとられた。いつもの阿見らしくないではいか。

「早速に? 他には観客様はいないのか?」

 岩田が素朴に訊ねると、阿見はニイッと哂った。

「何を期待しているのかネ、岩田君。残念ながら今回は僕の大団円ショウではないよ。君が僕の勇姿を観たいのは判るがラストシーンはまだ先さ。でも僕がこれから明かさんとすることはこの事件の終結には重要な事柄ですネ」

 阿見は悠然と公言するなり、虚構と現実の境界線の絵画の前に陣を構えた。阿見は境界線を越えることが可能なのだろうか。

 御堂が阿見の悠然とした様子に頬杖を付きながら横目で阿見を見ていた。聖餐の間には重苦しい空気が張り詰めていた。岩田の向かいに座った平戸警部はその圧制に耐えかねたかのように言った。

「さっさと始めてくれないか。その重要な事柄の究明を」

 阿見は平戸警部の言葉に応えず、油で確り固まった髪をてらてら輝かせて口角を上げた。阿見の背面には使徒トマスの訝しげな顔が描かれていた。

「童子が自我を持ち、他者との差異を気付く。その時、童子は童子から青年となる。何故自分は此処にいるのか、何故自分は今に生きているのかと様様な想念が湧き上がる。そこで青年は愕然とするのだ。自己の脳髄の中で描かれた自身の至極の理想型と今此処にいる現実の自分との乖離。なぜ俺はこの姿なのだろう? 何故これほど苦しいのだろう? 俺はこんな姿は望んでいなかったはずだ。なぜ俺はこうしている? 肉の裏を流れる血のせいか? 苦み奔った幸辛い世のせいか? 俺は悪くなかったはずだ。だが俺の隣にいる者は俺よりも賢明に生きてないのに、俺より遥かにいい人生を送ってやがる。俺が泥濘を貪っているときにあいつは獣の肉を美味そうに食べやがる。しかも俺の鼻を擽る甘い匂いをさせて俺に涎を垂らせる。俺の人生は救われぬのか? 狡賢く蛇のように日和見の蝙蝠の様に生きた方が人生は得ではないのか? 『こはわれ惡しきものの榮ゆるを見てその誇れる者をねたみしによる かれらは死ぬるに苦しみなく そのちからは反りてかたし かれらは人のごとく憂にをらず人のごとく患難にあふことなし』。俺も蛇になるべきか? 否々、俺にはそんな度胸はない。それに俺はもう自由が効かぬ程のモノを背負っているのだ。蛇になれるはずがない。俺は劣っているのか? 否、俺は劣ってなどいない! そんなはずはない! 『蛇の如く慧く、鳩の如く素直なれ』!

 けれども相変わらず現実の俺は憂世の下層にある。今後も泥を喰うままだ。俺は救われぬ。もう現世では駄目だ。

 だが来世があったらどうだろう? 来世があるならば必ず俺は現世より幸福だ。なぜなら俺は現世で苦労している。来世も辛いはずがない。現世で苦労している俺こそが素晴らしいのだ。来世が救われるならば肉を食う奴より現世だって幸せだ。そうさ、俺は幸せさ。どんな奴よりも俺は幸せさ。

『視よなんぢに遠きものは滅びん 汝をはなれて姦淫をおこなふ者はみななんぢ之をほろぼしたまひたり 神にちかづき奉るは我によきことなり われは主ヱホバを避所としてそのもろもろの事跡をのべつたへん』。あはは、あはは。

 可笑しいねェ。何というニヒリズムだ。クダラナイ! 人間という奴はなんて勝手なのだろう。己の力のなさを認めずに外の世界を否定する。何と自己愛の凄まじきの動物か。否定したところで、現実なんて変わりはしない。悲しき小市民よ。堕落した者よ。超越せねばならぬことを放棄した虚け者よ。人は超越せねばならぬのさ」

 阿見が高笑いをすると、御堂は堪り兼ねたように憮然として声を上げた。

「阿見、お前の無神論的思考はどうだっていい。畢竟、何が言いたい?」

 阿見はちらりと御堂を一瞥して、少し俯くと忍び笑った。

「人間というヤツは自己否定の一塊に過ぎないということさ。そうせねば生きていけぬ悲しい存在ということだ」

「お前も悲しき存在だろ。悲しき存在が悲しき存在を悲しき存在と嘯くのも充分悲しきことだ。相当なニヒリズムだ」

「君らと一緒にしないでくれ給えよ。僕は人間の本来あるべき真剣さと無限の可能性を抱いて現実を認識しているさ。さて、僕が明らかにせんものはその人間の自己否定の典型的一例さ」

 阿見はそう言うとぐるりと見回した。すると今まで黙視していた阿紀良が憮然として言った。

「自己否定の一塊? 貴方こそ自身の無能力さを否定して名探偵を気取っている物乞いではないですか。人間は現実を受け入れようとはしないものです。同時にすべてを肯定しようと思っていてもできないものなのです。人間の本来あるべき真剣さと無限の可能性を信じていくべきかもしれません。けれどそのあるべき姿もまた理想像なのです。その理想像を見る限り人間は理想でない現実を否定しなければならない。 人に現実を見せつけることが貴方自身の理想像に近付くとでも考えているのですか? 人を否定するだけで終わる貴方はなにものだ?人間は弱い。自己を否定しようとする。それでもなお、懸命に憂世を生きている。貴方は何の権利をもって不幸の燐粉を振り巻く毒蝶となったのですか」

 阿紀良が一気に捲し立てると阿見は再び口角を上げた。

「何か後ろ暗い所があるのですか? ははは、貴方は人間の自己否定の塊を抱えているのですネ。鈍色の重苦しい塊を!」

「何を莫迦なことを! 私にはそんなものはありません」

 阿紀良はやや狼狽していた。額には薄らとぽつぽつ汗が浮び、顔色は青褪めているようだった。これは今までの阿見の世迷言ではない。

「阿見君ッ、何を明らかにする心算なのですかね?」

 平戸警部が苦言を呈すると、阿見はその様子に満足したように莞爾として笑った。

「ははは。順を追って教えて上げますよ。人間の薄暗い自己否定の側面をネ。誰の自己否定なのか? ははは。そうさ、此処にいらっしゃる久流水阿紀良氏さ!」

 岩田が改めて阿紀良に眼をやると、阿紀良の顔色は益々青褪め、額には玉のような汗がびっちり浮かんでいた。唇は乾き、僅かに震えていた。

「僕が人間の、この阿紀良氏の弱さに気付いたのは昨日の図書館の件ですネ。昨日のことを覚えていますか? 昨日、御堂君に横槍を入れられて呆れて部屋を出て行こうと図書館の扉を開けた時さ。僕は阿紀良氏とぶつかって一緒に転倒させられた? そのとき悟ったのです。久流水阿紀良の弱き本性を。ははは。阿紀良氏の顔色は、どんどん青ざめていっているではないか。ははは、御堂君は苦虫を噛んだような顔だね。岩田君、君は知っているかい?一九三四年に発表された『ひげのある女の冒険』を知っているかい?」

 岩田は阿見に言われて、戦後間も無くに古本屋で見付けた、読み捨てられた『ひげのある女の冒険』の内容を思い出そうとした。今まで憮然と腕を組み、黙っていた御堂が面倒そうに岩田に代って応えた。

「あの事件はクイーンが訪れた惨劇の屋敷の女主人が実はその弟で女装をしていたのだろ」

 御堂がそう言うと、阿見は満足気な顔をして莞爾とした。

 女装した女主人の弟が実は犯人。なぜ阿見は『ひげのある女の冒険』の真相を尋ねるのか?髭のある女? 久流水家には髭のある女がいた。だがその直弓も今は彼岸。

 岩田は改めて阿紀良を見た。先程青褪めた顔をしていた阿紀良はもう既に観念したかのように肩を落として椅子に座り込んでいた。阿見は口元を船形にしてニイッと哂った。

 青褪める阿紀良、焦点の定まらぬままに虚空を見詰めるマリヤ、憮然とする御堂、傍観する平戸警部、岩田。皆が阿見の次なる言葉を待っていた。 だが阿見はそのような皆の心象を無視したかの様に構わず全く違う話を始めた。

「 あの小説ではなぜ故人々は弟を女主人として間違ったのでしょうか。男は女装をしていたからこそ、男を女と思ったのです。『ひげのある女の冒険』では、男は喉仏を隠すために、喉の隠れる舞台衣装を着込んだ。貴方はローマンカラーを着ている。喉を隠す詰襟ですネ。逆もまた真なり!男が女の姿をして、女が男の姿をする。阿紀良さん、男の衣服を纏っているのではありませんか? 貴女の本性は女性ですネ!」

 すると阿見は勝ち誇ったような笑みを見せて辺りをぐるりと見渡した。岩田も阿見の視線に合わせて周囲の人物を見た。マリヤは当初と変わらず、視点の定まらぬ瞳を揺らせて折り、御堂は組んでいた右手を額に充てて眉を顰めていた。

 阿紀良は先ほどの青褪めた頬からさらに血の気が失せて澄白色となり、真っ青な唇を震わせて額に汗していた。もう何も言う気力もないらしく、肩を落として項垂れて椅子に腰を掛けていた。阿見の指摘が的確であるものだと判った。

「僕は何故この奇怪なる世界の反転を知るに至ったのかを教えて上げましょう。僕が阿紀良さんと図書館の入口でぶつかった時にすべてを悟ったのですネ。あの時、阿紀良氏は胸に数冊の本を胸に抱えて入室して来た。阿紀良氏が真に男ならば奇妙に見える行動をしていたのですよ」

 奇異しな行動?

「修道女の持ち物の中にしばしばイエスの人形があることを知っていますかネ。ちょうど赤子大のイエスの人形ですネ。なぜ修道女はイエスの似姿を抱きかかえているのでしょうネ。女性には本性的に隠せない母性というものが存在でしょうかね。修道女はイエスの似姿を胸に抱きしめることによって自身の隠すことが出来ない母性を慰撫しているのですかネ」

「いい加減にしろ! お前は何が言いたい。さっきから回りくど過ぎるぞ!」

 岩田は辟易して阿見に対して怒鳴った。阿見は口角を上げた。

「女の性ですかネ。それが如実に表れる振舞いを阿紀良氏は行っていたのですよ。僕とぶつかったあの時に。阿紀良氏はあの時数冊の本を胸に抱えて図書館に入ってきましたネ。本を胸に抱える、あれこそが母性の表れなのです。知っていますか、人が数冊の本を持つ時、性別によって持ち方が違うことを。脳科学の研究によると、数冊の本を持つ場合、男性の九五パーセントが片手にぶら下げるか、脇に挟むのに対して、女性の九二パーセントが胸の前に抱きかかえるのです。母が子を抱きかかえるという母性が女性に本を胸に抱えるという動作をさせるのです。阿紀良氏はあの時、『大暗号』等の数冊の本を胸で抱きかかえていましたネ。阿紀良さん、いくら姿を男に見せかけても、女の本性を隠すことはできません。そして何より、貴方の身体は柔らかかった」

 阿見は青褪めて視線を落としたまま項垂れる阿紀良に近付いた。

「そろそろ女に戻る時間ですよ。貴女と大地に横たわった時、女の隠しきれぬ肉体の柔らかさを感じました。ヴァイオラよ、目を覚ませ」

 阿見はグッと阿紀良の胸座を掴むなり、阿紀良の制止の間も無く、胸元の留具を引き千切った。

 なんと言うことだ。ローマンカラーの肌蹴た先にはサラシに巻かれた女性特有の膨らみがあった! 阿紀良は慌てて胸元を両腕で隠した。岩田は目の前の現実に狼狽えた。だが辺りを見ると狼狽しているのは岩田だけであってマリヤは素知らぬ顔をして、御堂は眉間に皴を寄せて黒眼鏡越しに八方睨みを効かせていた。

「何をするのです!」

 阿紀良は胸を押さえて叫んだ。その声は甲高い女の声だった。

「明治六年の太政官布告『違式詿違条例』六二条にこうありますネ。『男ニシテ女粧シ、女ニシテ男装シ、或ハ奇怪ノ扮装ヲ為シテ醜体ヲ露ス者』は一円五〇銭以下七五銭以上の科料に処すと。貴女はなぜこんな真似をしたのです?」

 阿見が勢い付いて捲し立てると、御堂が急に立ち上がり、阿見と阿紀良の間に立ち入ると言った。

「もういいだろ。扮装した理由がなんであろうと。久流水家の人々が何ら違和感なく生活しているところから見ると生まれながら阿紀良氏は男として生活していたのだろう。なぜ幻想を壊そうとする。壊したところでその真の姿が人々に安寧を齎すとは限らないだろ。幻想によって僥倖に恵まれる人がいるならよいではないか。その真実の解明は必ずしも事件の解決に直結しない」

 御堂が阿見に食って掛かると阿見はシニカルに哂った。

「真実の究明が解決には繋がらないと? 莫迦だな、御堂君。真実ってやつは明らかにさせなければいけないものなのだよ。そいつが破壊を齎すものであったとしても、それで破壊される人間の弱さのせいさ。真実の解明は必ずしも事件の解決に直結しないだって? そうではないだろ。御堂君、懇願し給え。『友に涙を流させないで下さい』、と」

 阿見がそう言うと御堂は眉を顰めてチョッと舌打をした。友に涙を流させないで下さい? 何を言っているのだ? 岩田は阿見の発言を怪訝に思った。阿見が指している『友』は自分しか考えられない。何故阿紀良氏が実は女だったことがこの岩田梅吉が涙を流すことになるのだ?

「阿見ッ、なぜ僕が涙を流さなければならない?」

 岩田は阿見の発言に反駁した。声が震えているのが自分にも判った。阿見は岩田の狼狽した様子を見ると満足気に頷いた。

「ははは。岩田君、まだ気付かないのかネ? 愚鈍な小猿だネ。いいかい、考えて見給え、君が今涙を流してしまう出来事は何かをネ。君は何を失ったら怖い?」

 久流水マリヤだ。失って最も恐ろしいものは! マリヤはそこにいるではないか! 岩田は先程から何ら表情を変えないマリヤを見た。岩田梅吉の最も愛しい人。昨晩、岩田に悲しみを与えた女。もう既に涙は流している、大海を溢れさすほどに。そうか、阿見は知らない、二人が別れてしまったことを。

「涙を流すことなどとうにない。涙は大海を溢れさせて悲しみは大地を揺るがした。阿見ッ、何も悲しむことなど僕にはない」

 妻亜里沙を失って久流水マリヤと別れる。これ以上、何を悲しもうか。阿見は冷笑を顔面に浮かべて岩田に視線を投げ掛けた。

「岩田君が何を思い浮かべているかは知らないがたとえ悲しみが終わった後であっても、嵐の後に暫くは海に波が立ち続けるように悲しみの波も中々収まることはない。岩田君、君は久流水直弓が殺害された晩にアリバイのある数少ない人物だったネ。君と久流水マリヤは逢瀬を重ねていて直弓の殺害時のアリバイは保障されたのでしょ。だけどネ、そのアリバイは本当かね?」

 二人の逢瀬の後、マリヤと別れて、御堂と合流した直後に時計台から直弓の首が上空から転がって来た。医師によって直弓の殺害時間はマリヤとの逢瀬の時であることが判明して二人のアリバイが証明された。それが証明されていないというのか。

「阿紀良氏は男装した女性。そして岩田君によって、久流水マリヤのアリバイが証明された。これらの点は線で結び付くのだよ。判るかい? ははは。君が逢瀬を重ねていた相手、それは男装を解いた久流水阿紀良だ!」

 岩田の視線の先には冷然としたイエスの顔と、畏怖したユダの顔があった。岩田梅吉の中で何かが崩れ去った。


ヱホバ神彼をエデンの園よりいだし其取りて造られたるところの土を耕へさしめ給えり                        創世記第三章二三節



Ⅲ友情論 De Amicitia


多分、他の幾つかの太陽にも

それぞれに月が伴っており、互いにいわば男性と女性の光を

交えているのをお前も認めるはずだ。この男性、女性という

二つの大いなる性が、……

宇宙を跳躍せしめているのであろう。 

                           ミルトン『失楽園』


 太陽は中天に昇り、大地には影が無くなった。窓外とは対照的に部屋の中は薄闇が支配していた。岩田には窓の外の光が眩し過ぎた。

「阿紀良氏はジャンヌダルクを気取って男装していたのは何故だ? なぜ阿紀良氏はその男装を解いて、僕の前に現れて、久流水マリヤを名乗った? なぜ僕に無限の喜びと、永遠の悲しみを与えたのだ?」

 阿見が久流水阿紀良の男装を明らかにして、岩田と毎晩会っていた『マリヤ』のがその阿紀良の男装を解いた姿であることを披露した後、聖餐の間は混沌となった。平戸警部は直ぐ様阿紀良氏への事情聴取を始めた。阿紀良氏は双肩を落として泣き崩れた。久流水マリヤはそれを見届けると焦点の定まらぬ瞳で静かに席から離れると聖餐の間から姿を消した。阿見は憮然としたまま腕を組んでいる御堂に対して嘲笑を浴びせていた。岩田は錯乱していた。岩田と御堂はその混沌から抜け出して、漸く客間に戻ったところだった。

 御堂は岩田の質問に寝台に寝転がりながら応えた。

「アンチオキア生まれの元娼婦ペラギアは司教ノアヌによって改宗して男装して経験な信者となって後に禁欲と実徳で讃仰される聖者となっている。その他にも『黄金伝説』にも多く書かれているが特に有名な男装聖女は女教皇ジャンスだろうね。一六世紀にその存在が疑問視されるようになったがね。ドイツのフルダイ修道院の修道士と恋に落ち、彼に逢うために男装して女禁制の修道院に潜入する。だが、その修道士はまもなく死んでしまう。その後彼女は男装を解くことなく教皇の地位にまで登り詰める。しかし男装の女教皇の前に死んだ男に似たベネディクト会士が現れ、恋に落ちて子を身籠ってしまい、男装が白日の下に曝されてしまう。

 では阿紀良氏は自ら進んで服装倒錯をやらかしたのだろうか。否、久流水哲幹の尺金ではないかと考えられる。哲幹は子供が順に生まれて来るにつれてある苦悩に襲われ始めた。淑子、由紀子、阿紀良と女児が立て続けに生まれた。異端とはいえ基督教であるのだから女性は耶蘇久流水教の祭司になることはできない。哲幹は苦悩した。これでは久流水教を継ぐ者がいないではないか。哲幹は考えたのだろう。女子の中の一人を男として育てようと。おそらく当時産まれたばかりであった阿紀良を男性として育て始めたのではないか。久流水教の維持のせいに久流水阿紀良は女として産まれ、男として育てられるようになった。性という頭蓋骨の中の幻想、生殖活動の役割の差により深い原罪意識から逃れるために己の姿を変容させる。これが服装倒錯の正体さ」

 御堂が異性装の衒学的な知識を披瀝すると黒眼鏡を指でクッと挙げた。岩田は中頃からぼんやりと段々聴覚が閉ざし始めていた。だが訊かねばならないことは沢山あった。知りたくなくとも知らなければならないことが飽和する。岩田は御堂に継続して訊ねた。

「阿紀良氏が何故男装をしていたかのかは判った。なぜ阿紀良氏はその男装を解いて僕の前に姿を現したのだ? それに御堂、なぜ阿紀良氏は自分を『久流水マリヤ』なんて名を偽った? 『汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ』とモーセの十戒にあるように、虚言を述べることは御法度だろ。久流水阿紀良氏は何故十戒を破ってまで『久流水マリヤ』を名乗った? 彼、否、彼女は何故マリヤの振りをしたのだ?」

 もし阿紀良がマリヤと名乗らずに素直に名乗っていたら、岩田の今は充実したものとなっていただろう。愛していた人が昼と夜とで別人だったなどという悲喜劇が訪れることは無かっただろう。なぜ虚妄が生まれたのだ。  

「阿紀良氏は『汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ』を破っていなかったさ。彼若しくは彼女は嘘をついてはいないよ。思い出してみろ、あの直弓の遺体が発見された後の朝のことを。お前は見ていたはずだ。教司神父と雄人氏の葬式を。あの時は益田老人が教司神父に代って葬式を取り仕切っていただろ。そのとき益田老人はどんなことを唱えていた?」

 岩田は御堂に訊ねられてあの時計台から見下ろした風景を思い出そうとした。併し思い出そうにも、あの時はマリヤ実は阿紀良からの愛の証である接吻を受けた余韻と直弓の壮絶な遺体と愛する人のアリバイを証明出来たことの安堵感によって記憶がぼんやりとしている事に気付いた。

「あの時、老人はこう唱えていた。『……久流水ヨセフ雄人と久流水パウロ教司は、原罪から解放されて、天国で安らぎを覚えるだろう……』と。久流水ヨセフ雄人? 久流水パウロ教司? ヨセフ? パウロ? 何故に日本名にミドルネームがあるのだ?」

 ヨセフ? パウロ? ミドルネーム? 岩田は御堂に指摘されてハッとなった、

岩田が驚愕の表情を顔に表すと御堂は静かな声で続けた。

「そうだ、ヨセフ、パウロというヤツは『洗礼名』だ、この久流水教は旧教の影響を受けた異端基督教だったよな。旧教では幼児洗礼が行なわれ、同時に洗礼名が与えられる。久流水家の一族は皆、洗礼名を持っているのではないか。ならば久流水阿紀良の洗礼名は何か? 久流水阿紀良の洗礼名、それは阿紀良の妹の本名、マリヤと同じ『マリヤ』だったのじゃあないか」

 阿紀良は嘘を付いていない。岩田はその事実に驚嘆するとともに安堵した。阿紀良は嘘を付いていなかった。阿紀良は常に誠実だったのだ。

 窓外では季節外れの太陽が地面をじりじりと照射していた。無風、無音。室内は薄闇を孕んだ間を持っていた。室内にいる者に真綿で絞める様な息苦しさを齎していた。御堂は言葉を切り、暫し無言となった。否、無言にしたのだろう。岩田の周りには重々しい空気が取り巻いていただろう。岩田の心は混沌の中にあった。懊悩、安堵、諦観……。阿紀良は嘘を付いてはいなかった。男装も幼少の頃からのものだった。だが岩田は闇夜に阿紀良を愛して白昼にマリヤに見惚れていたことになる。岩田が愛していたのは誰だったのか。会話をしていたのは阿紀良である以上は阿紀良を愛していたとは言い易い。しかし岩田は白日のマリヤが孕んでいた処女の純潔さを知っていたからこそ、阿紀良、実は『マリヤ』にある神秘性を感じて『マリヤ』に惹かれていたのだ。その神秘性が一〇年間という時間によって美化された亜里沙への憧憬が処女マリヤ、神の子の母マリヤと結び付いて、『マリヤ』に心奪われたのだ。純愛は何だったのか? 不純だったのか?

「いくら男として育てられようとも本性は女性。阿見の言う通りに阿紀良氏はその本性と外見の男装との乖離に懊悩し始めた。阿紀良さんはその本性を夜の間だけでも開放していた。否、僕と出逢ったのは浴場だった。浴場では幾らなんでも男であるわけにはいかない。偶々男装を解いた時に僕が出会ったかもしれない」

 岩田は御堂に続けて静かに言った。項垂れて肩を落としたままで。飛び去ろうとした理性を震わせて……。中天の太陽が薄闇に消えてしまわぬように。

「お前に毎夜変装を解いたままの姿で出会い続けたのは阿紀良氏がお前を気に入ったからだ。男として育てられ、おそらくは恋することも憚った人生を歩んできたであろう阿紀良氏がお前と毎夜逢瀬を重ねていたのだ。実際は阿紀良氏がどう思ってお前と接していたのかは解らない。だがな、逢瀬を交わした時間があったことは否定できない」

「でもそれは真実だったのかい。愛する人の愛した部分が愛した人のものではなく他人のものだったのに。愛した人の中に愛した人の本質を見ずに他人の本質の一部を幻影していた事が真実の愛なのか? 僕には何だかよく判らないよ。真実ってなんだい? 愛ってなんだい? 愛するってことはその人のすべてを受け入れることじゃあないのかい? 巷間じゃあそう言っているよ!でも僕が受け入れていたのは愛する人と第三者の二人の部分で造られた者だったのだろ! 阿紀良の体にマリヤの神秘性を持った幻想人格『マリヤ』を愛していたのだろ! 僕の愛は何だったのだい! 僕が『マリヤ』に向けていた愛情は阿紀良氏へ奉げたものだったのかい? でも『マリヤ』実は阿紀良氏は僕に愛情を向けていたのだろ。僕は知らずに二人の女に愛情を向けていて、阿紀良氏は一人に向けていた。それって純愛なのかい?」

 岩田には判らなかった、己の感情の行先が。岩田の心は日溜りと影との境界線の、白と黒が混じった部分の苦汁と希望が攪拌していた。岩田は肩を寝台にばたりと横たわると肩腕で瞳を覆った。瞳の熱量を分散させるために。

 御堂は岩田の自棄になっている様子を見て嘆息し、同じように寝台に横たわった。真っ黒な長髪がサッと揺れた。

 次第に五月の熱い太陽がジリジリと薄闇の室内に侵入してきた。暫しの時が岩田の心を落ち着けたらしい。ほんのわずかではあるが岩田の心に薄らとした冷静さが戻ってきた。先程の御堂の談義を思い返すと、岩田にある疑問が湧き上がってきた。岩田は身を起こしてその疑問を御堂にぶつけてみた。

「なあ、御堂。お前さっきの談義のときにこんなこと言っていたよな。『壊したところでその真の姿が人々に安寧を齎すとは限らないだろ。幻想によって僥倖に恵まれるならばよいではないか』と。幻想とはどういうことなのだ? ひょっとして『マリヤ』が阿紀良氏であるということを阿見が指摘する前から気付いていたのじゃあないか?」

 岩田が疑問を呈すると御堂は横になったまま暫し無言でいたが、岩田が御堂をじっと睨み付けたままでいると身を起こした。

「『神光を晝と名け暗を夜と名け給へり夕あり朝ありき是首の日なり』。世界を見詰めるときはその原初を探ればよい。世界の始めが昼と夜の創造ならば認識の誤解も昼と夜によって開かれる」

「昼と夜? 昼がマリヤで夜が『マリヤ』だと?」

 岩田は寝台から御堂の方に乗り出した。

「お前は覚えているか、夜の『マリヤ』の首に掛かっていたものを?」

「ああ、覚えている。太陽の首飾りだったと思う」

 岩田は初めて『マリヤ』に邂逅した時のことを思い出した。浴場の前で出逢った『マリヤ』は確か太陽の形をした首飾りをしていた。岩田は首飾りの反射する光に目が眩んだ。

「そうだ。ならば昼の阿紀良氏の袖には何があった?」

「阿紀良氏の袖? ああ、確か月型の釦だったと記憶しているが」

 岩田は阿紀良と始めて会ったときのことを思い出した。あの時も確か釦の反射光に目が眩んだと思う。

「なぜ昼に月で夜に太陽なのだ? 」

「一体何だということだ?」

 岩田が訊ねると、御堂は長い黒髪を掻き揚げた。

「月は何を表わすか、太陽は何を表わすか……。太陽は『男性原理』、月は『女性原理』を表わすのだよ!」

「太陽が男性、月が女性。『マリヤ』が男性、マリヤが女性……」

 窓外の太陽が室内に忍び込み、岩田の目を眩ました。岩田は寝台の座り位置を改めて、室内の闇に同化している御堂に再び視線を戻した。御堂の真ッ暗闇の黒眼鏡の金属の縁が半円に細く光った。御堂は嘆息した。

「俺は『マリヤ』が阿紀良ではないかと思ったのだよ。確証は無かったけどな。阿紀良氏が実は女性で男装をしていて、男装を解いた時、『マリヤ』となる。阿紀良氏は自分が『マリヤ』の時は男として日常を過ごしていることを、阿紀良の時は自分が本当は女であることを忘れないために、シンボルを態と反対に身に付けていたのだろうな。

 そしてお前に出逢ってしまった。お前は阿紀良の内心に抑えていた本性が自己否定を続けていた女というものがお前に出逢ってしまったが故にそれが溢れ出した。お前に恋することでお前を愛することで。だがそれと同時に虞れを抱き始めた。幼少の頃から否定してきた何かが一気に溢れ出したのだからな。それをどうしても抑えることができなかった。阿紀良氏はその心苦しさに煩悶した。阿紀良氏は選択したのだ。幼少からの男という性を選ぶことを。そして迷わせるお前に別れを切り出した」

 しばしの沈黙が続いた。窓外の太陽は次第に光を失っていった。薄暗闇の重苦しい暗雲が太陽を覆っていった。群雲は渦を描いてぐるぐる回り始めていた。空は歪み、攪拌されて静かに均衡を喪失していった。歪んだ空はむくむくと黒雲をさらに産む。

 室内は薄闇を更に増していった。御堂と岩田の間には奇妙な間が生まれた。御堂は前傾したまま寝台に腰を落としていた。岩田も同様に前傾して寝台に座っていたが、その根底には沸沸とした何ものかが浮揚して来た。行き場のないやるせ無さ、行き場の無い憤怒。岩田の心底には薄闇色の渦が回り始めた。意識は無意識と攪拌され、理性は野生と恋をしていた。

「なぜ真相に気付いていたのに僕に教えてくれなかった!そりゃあ、確信はなかっただろう でもだ、お前はこの破綻を予測できただろ。なぜ止めてくれなかった! 止めてくれれば僕の世界が破綻することがなかったのに。浅い傷口を時という妙薬だけで治癒されただろうに。そうして僕はいずれ老いて、その薄く残った傷口をそっと慰撫しながら、淡い笑い話として酒を飲んでいただろう。どうしてお前は止めてくれなかったのだ! どうして真相を直ぐに明らかにしてくれなかった。御蔭で僕の被った傷はあまりにも深くなってしまったじゃあないか。長かった恋を忘れることは難しい。僕は一生その治癒することの無い傷口を何かに付けて汚れた指で自虐的に撫でながらその痛みに涙流していかなければならないじゃあないか。亜里沙の死と慰めにならなかった『マリヤ』の横顔を毎夜毎夜、夢に見て永遠に苦しめられなければならないじゃあないか。傷は浅い方がいいに決まっている。お前はその傷が浅い内に僕を救い出せたはずだ。何故友を救ってくれなかったのだ! お前は笑っていたのだな、僕の不幸を、僕の愚かさを! シェイクスピア『から騒ぎ』の『他人の苦しみは誰でも我慢できるもの』だからな!」

 岩田は一気に内に宿るものを吐き出した。

「莫迦か? 恋は盲目。俺が憶測だけの真相を述べたところで、お前は聴き容れたか? 否、お前は聴き容れなかっただろう。夢を見る者は夢が覚めた時に絶望を知る。お前は夢から覚めることを否定しただろう。夢見る者に何を言っても何の意味もないだろ! 人は信じたいことだけを信じる。お前は信じたいことではないことを信じたか? 強制的に阿見の様に覚まされることがない限りお前は信じるものしか信じなかっただろ。耳を持たぬものに言葉は無意味だ。俺はこの真相に気付いた時、真先にお前が教会でマリヤに見惚れていたことを思い出したさ。そして思った。俺にはどうすることも出来ない。お前を悲劇の渦から救うことは出来ないと」

「僕のせいなのか! 僕が愚かだと言いたいのか? 僕が聴く耳を持たないだろうから、放置したのか。僕だって大人だ! 友人の意見を謙虚に聞く位の余裕ぐらいはあったさ! お前はやはり楽しんでいたんだ。本当の友ならば、友が悲劇の渦に身を投擲せんとするときに忠告くらいはしていいはずだ。お前はどうして僕を救ってくれなかったんだ!」 

 岩田の世界は歪んでいた。世界が判らなくなっていた。真実も、愛も、友も、信じることも。心の内に狂々と渦巻く混沌を遠心力で以って外へ外へ吐き出したかった。外になさねば混沌は新たな世界を創造する。その世界は岩田の中に平常として在った世界とは全く違う。岩田を岩田で無くしてしまう世界だ。己を否定することはできない。それは己が無価値であったことを自ら証明することになる。自分は価値ある人間に違いないはずだ。そうでなかったら俺は生きていけない。

「友とはすべてを吐露する間柄では決してないぞ。真相は明らかにすることが必ずしも解決に至らないのは気取った探偵小説の定石だろ。犯人を明らかにしたがその妻と子が涙にくれてしまう。真相がすべてを破壊してしまったのだ。探偵は渋い顔をして終劇。だが渋い顔をした作品の次作ではまた性懲りもなく真実を追究してまた世界を崩壊させる。俺は解決屋だ。探偵ではない。真実を究明するのは俺の仕事じゃあない。お前がどんな世界を描こうと俺はその世界を崩すことはしたくない。友の夢を覚まさせるなど無粋だ」

「詭弁だね。結局お前は何もせずに放置していただけではないか。僕はこんなにも苦しいのだぞ。僕は悲劇の王だぞ!」

「頭を撫でて貰いたいのか。お前は悲劇を装うことで内心的自己陶酔に浸りたいだけじゃあないのか? 悲劇に浸る者を世の人々は同情してくれるからな。悲劇にくれるというのは世の中での最も軽蔑すべき逃避だ。お前は亜里沙さんに『貴方は自分のことしか考えていらっしゃらないのね』と言われたのだったな。お前は自分のことしか考えていない。お前は自分の苦しみを誤魔化すために愛に逃げているだけだ。否、お前の愛なんて愛じゃあない。ただの自己陶酔だ!」

「何だとッ! 僕は真剣に愛していた。純愛だ。純愛以外何ものでもない。僕ほど純愛だった者もいない!」

 岩田は寝台から飛び降りて向かいの寝台の御堂に飛び掛った。

「止せッ! 何をする!」

 岩田は御堂の真ッ黒な長い髪に掴みかかった。御堂は髪を数本引き抜かれた。御堂は顔を顰めて身体の上に覆いかぶさらんとする岩田の胸倉を掴むといっぱいの力をもって岩田の寝台に向かって投げ飛ばした。どすんッ。岩田は寝台に身体ごと投げ飛ばされて全身を寝台に押し付けられた。岩田は痛みに顔を歪めた。

「この莫迦者め!」

 御堂はそう言うと、長髪を手で整えると部屋から出て行った。

 部屋には岩田だけがぽつんと残った。岩田は寝台に倒れたまま起き上がろうとはしなかった。岩田の指には御堂の数条のくるくると髪が絡まっていた。何も判らない、すべてが面倒だ――。岩田は指に絡んだ髪の毛を玩びながら気だるい倦怠感が全身を覆っていくことに身を任せていた。

 友とは何だ?愛とは何だ?僕とは何だ?

 気だるさが全身を襲う。岩田が窓外を見ると空は更に渦巻いていた。くるくる、クルクル、狂々……。亜里沙の言葉がぐるぐると頭を駆け巡った。

 どれ程の時間を陰鬱としていたか。岩田は茫漠と渦巻く群雲を見ていた。すると突然扉が開いて憤然として出て行った御堂が顔を出した。その表情は憮然さでなく、驚愕に充ちていた。息は荒れて肩を揺らしていた。

「謝っても許さないぞ」

 岩田が気だるそうに言うと御堂は声を張った。

「阿見が、阿見光治が殺された!」


汝は面に汗して食物を食ひ終に土に歸らん其は其中より汝は取られたればなり汝は塵なれば塵に皈るべきなりと

                           創世記第三章一九節

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