Μ 神仕 Gottesdienst 1948,5,6(THU)

その曲をもう一度やってくれ。――絶えているような調べだった。

おお、わしの耳にはすみれ咲く堤を吹き渡り、

花の香を取りつ与えつする、心地よい、

南風のようにきこえたものだ。――いや、もうよい。

もうさきほどのように心地よくないわ。

                  ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』

  

 太陽は中天に昇り、歪んだ群雲が光を翳ませる。地に這う陰翳は陽光にその存在を頼る。白めば翳み、黒めば滅する。太陽は、じわり、じわりと地に這うものを追い詰めていた。影は逃げ続けていた。逃げて、逃げて、逃げ続けていた。いつしか影は逃げることに心地良さを感じていた。逃げているからこそ影なのだと。

 岩田は中天の太陽と歪んだ影、真綿で絞めるような重苦しい空気に顔を顰めながら久流水の城壁を沿って歩いていた。今朝の葬式、直弓の遺体の喧騒はもう消えていた。時計台の遺体発見の後、御堂は平戸警部に付き合って、何やらむつかしい顔をしていた。岩田は部屋に戻って泥眠を貪っていた。数時間の睡眠の後、ぼんやりとした脳髄を覚醒させんと漫ろに歩いていた。

 岩田が城壁の円状の内側に沿って歩いていると、赤と白の花の咲き乱れる南の墓地に近付いていた。墓地の方から死者の床の重苦しい空気に似合わぬ希望に満ちた弦楽の調が聴こえてきた。ベートーヴェンのヴァイオリン ソナタ・第五番・『春』だ。

 調の主を探してみると、墓地の側にある四阿――あの直弓と清枝が教司神父を目撃したあの四阿――からであることに気付いた。四阿には二つの人影が窺えた。一人はおそらく初日にヴァイオリンを披露していた百合子であろう。その人影はヴァイオリンを肩に挟み、優美な調を奏でていた。人影のもう一つは四阿の中で座って聴き入っているようだが、その正体は判別し難かった。オヤッ、あれは誰だ? 岩田はその影の主を見極めようと四阿に近付いていった。岩田が近付いていくと、ぴたりと調が止まった。

「岩田さんですか」

 百合子が手を止めて振り返った。百合子は相変わらず薄いヴェールを掛けた喪服の姿だった。百合子は肩に掛けていたヴァイオリンを下ろした。

 百合子が岩田に声を掛けると、隣にいた男も振り返った。隻眼のつぶれ掛けた歪んだ顔、丸まった背中。その男は傴僂の下男、主流帥彦だった。

「拙い演奏をお聞かせしてしまって」

 百合子は申し訳なさそうに言った。

「いいえ、そんなことは。『荒野のうるほひなき地とはたのしみ 砂漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲きかゞやかん』。すさんだ時こそ、『春』の調は干天の慈雨、雑踏の乙女、荒野の花。素晴らしい演奏でしたよ。文化はすべてを癒す。文化文明こそは人間至上の創造物。貴女のヴァイオリンはまさしく妙薬です!」

「買い被りすぎですわ。妾の音楽なんて詰まらないですもの。失われたものを埋めようとして拙い演奏を続けているだけです。埋りっこないポッカリとした穴をただただ埋めようとして」

 百合子はおそらくあの新型爆弾に遣られて、鎮魂歌を奏でているのだろう。

放射線の遺伝的影響――。放射線に被曝した本人ではなく、その子に起こる影響。放射線により遺伝子が損傷を受けることで、遺伝子が正常に受け継がれなくなる影響。

「妾が苦しむのは構わないのです。ですが自分の子にその苦しむが及ぶのは何より辛いものです。ああ、妾の天使が地上に降臨していたら、どんな笑顔をしただろう。どんな風に成長しただろう。どんな恋をしただろう。どんな風に妾を困らせただろう。どんな風に妾を慰めてくれただろう。どんな風に妾に笑ってくれただろう。

 妾は神の玉座の側にいる我が子の鎮魂のために、ヴァイオリンを弾いているのです。拙い子守唄を唄っているのです。帥彦には妾の我儘に付き合って貰っています。いつも稚拙なヴァイオリンに耐えてくれています」

 花弁が宙空に舞っていた。百合子の顔には真っ黒な影が潜んでいた。中天の太陽は花弁と婦人に影を与えていた。

「耐えるなんて――。あたしは決して百合子様のヴァイオリンが辛いものだなんて思ったことはありません。あたしには輝ける太陽。百合子様のヴァイオリンは心の安寧です」

「貴方は妾の調を聴き終わった後、貴方はいつも溜息を付いているではありませんか」

「そりゃあ……」

「フフッ、妾の調はどんなに陽気な曲であっても悲愴を帯びていますからね。どんな優美でどんな華麗なものでも、悲愴が一滴、ぽつり加わっている」

 花が揺れた。蒼天には墓辺の赤と白の花は、死色の花は不釣合いだった。暫く中空に沈黙が流れた。百合子と帥彦の間に一瞬の澱みが岩田には見えたような気がした。岩田は二人の僅かな隔たりを見て尻の座りの悪い思いをした。同時にこの二人の間の澱を覗き込んでみたいとも思った。百合子と帥彦、岩田や御堂と同じ頃の歳の者の間にあるものを覗き込んでみたかった。亜里沙の死を知り、マリヤを知った自分。流転する間、立ち代わり、揺れ動く世界。岩田の心底に横たわり、翻弄するものは、彼らの中にはあるのだろうか。

「警察から二人は貴女の施しの際に出逢ったと聞きましたが、そのときの出逢いはどのようなものだったのですか?」

 百合子は質問に一瞬怪訝そうな顔をしたが、莞爾として応えた。

「妾は子を失った空白の心を埋めるために福祉に使えようと考えました。聖なる奉仕に身を捧げようと思いました。妾は街に出て、貧民窟を巡り、施しを与えようと思いました。妾は善を尽くそう。『すべて正しく生きている人びとに、お前の持ち物の中から施しをしなさい。施しをするときには、物惜しみするような目付きでしてはいけない。貧しい人から顔をそむけてはならない。そうすれば神もお前からみ顔をそむけないであろう。もしお前が多くの富を持っている場合には、それ相当の施しをしなさい。かりに、財産が少ないときでも、その貧しい中からわずかでも与えることを恐れてはならない』……。『トビト書』にある様に妾は貧しい者に施そうと思いました。

 妾は貧民窟に入り、施しを与えようとしました。まずは貧しくみすぼらしい子供に小さな甘い洋菓子を妾の掌に載せて、『お食べ』と差し出しました。その子供ははじめ妾を恐れていましたが、恐る恐る手を伸ばすと、パッと盗人のような浅ましい眼をして取り上げて貪る様にして食べていました。妾はその姿に始めは眉を潜めましたが、次第にそうならざるを得なかった子供の状況に同情し、貧民窟の子供が愛おしく感じるようになりました。妾は知らず知らずの内に妾の子と重ね合わせていたのでしょうね。妾は嬉しくなって善を希求し始めました。子供から、老人、大人と妾は奉仕をしていきました。妾は善に身を委ねていきました。私の心は充たされていきました。貧民の方々は妾に感謝をして涙を流してくれました。

妾が貧民窟に入ってどれ程経った頃でしょうか。妾がいつもの様に貧民窟に入って奉仕をしようとした日のことです。妾は貧民窟への曲り角を回ろうとした時でした。その時、妾の耳に貧民窟の住民の会話が聞こえてきました。『あの久流水百合子とかいう女は何処まで御人好しなんだ。言えば、何でも持ってきやがる』。『御蔭で俺らはグータラに過ごせる。莫迦な女の前で無知の振りさえしていれば、腹が膨れるのだからなァ』。

 妾の善意は、妾の自己満足と貧民の堕落でした

 妾は鉛色の郡雲の渦巻いた空の下を一人、貧民窟を出て行きました。妾は街を蹌踉として、いつの間にか遺灰色の川の辺りに蹲っていました。留まらない涙とともに」

 花が蒼空に舞った。黒土から伸びた真ッ赤な薔薇と白百合が。

 百合子は言葉を区切った。百合子は左手をヴェールの下に持っていき、そっと撫でた。帥彦は百合子の悲愴の様子に不安げな顔をしていたが潰れ掛けた隻眼に生気を込めて百合子の言葉を引き継いだ。

「あたしは身内を失って身の置き場もなく、この笊を背負ったような体では貧困の世をどうしようもなくいました。前日にはやっと在り付いた日雇いのヨイトマケの仕事も首になって、僅かばかりのパンと水を握り締めて遺灰色の川をぼんやりと歩いていました。自分ははどうして生きてゆこうか。飢えるべきか、盗むべきか。死体の髪の毛でも毟って、鬘でも作ろうか。あたしは真ッ暗な未来を嘆きながら歩いて行くと河畔で一人の身なりの良い女性が蹲って泣いているではありませんか。あたしはそれをやり過ごそうと思いましたが、どうしてでしょうかね、あたしはその女性がどうしようもなく気になってしまいました。その女性の涙に、あたしの姿を投影したのでしょうか。今にして思えば神様の思し召しだったのでしょうねェ。あたしは思わず声を掛けました」

 蒼天には真ッ白な鳩が数羽、旋回していた。地上には真白な花が数厘、旋回していた。

 帥彦が一息置くと、百合子がそれに続けた。

「それが帥彦でした。帥彦はギコチナイ笑みをたたえて、『お譲さん、どうしたのですかい?』と言いました。妾は驚嘆しました。今まで妾が得意げになって施しを与えたいた乞食の様な者に慰めの言葉を掛けられたのですから。その乞食ははにかんだような顔をして、――それも恐ろしい顔から辛うじて読み取れる程度でしたが、妾に『これでも食べて元気を出すがいいです』と言ってパンを差し出しました。

 水に浮く糧食を乞食が差し出したのです。彼も空腹のはずなのに、乞食は自分よりも恵まれている妾にパンを差し出した。 妾は己の奢りを知りました。大理石を歩くべき硝子の靴で泥濘を歩いていたことを。妾は何と愚かなのか。妾は貧民から感謝されたい為に施しをしていたのか。妾の心を充たすために、オナンの神の供物のために施しをして、善人であることに酔っていたのか。妾の涙袋からぶわりッと懺悔の涙が流れ落ちました」

「あたしは百合子さんが突然と涙を流したのを見て、下賎なる者が高貴な方に汚れたパンを与えたせいだと恥じて狼狽しました。なんと身分違いな失礼をしてしまったのだろう、と」

 帥彦の潰れ掛けた隻眼に薄らと光るものが見えた。その光は蒼空と白と赤の花に吸い込まれていった。

「妾には目の前にいる乞食が聖人のように見えました。噫々、この人は妾の道標だと。妾の心の支えだ。妾は彼の精神を見習おう。彼に学ぼう、と。

 『ねえ、貴方、妾の側で働いて下さらない? 妾に奉仕を教えて下さらない?』。妾は彼に思い切って誘ってみました。すると、彼は唖然とした顔で逡巡しました。それに彼は『自分には名前すらない、名前を捨ててしまった男です』と。彼はどういう事情からか名前を捨てていました。過去のない男。妾は彼に名前を着けて上げよう。妾は一所懸命に考えました。

『主流……、主流帥彦。主流帥彦と名乗りなさい』

『スリュウ? スリュウソツヒコ?』

『ええ、良い名前よ』」

 風がびゅうッと吹いた。花がさっと揺れて、ぴたりと止まった。蒼空には真ッ白な鳩がくるりと飛んでいた。ひょうひょう。

「帥彦さん、貴方は何者なのですか?」

 岩田は百合子の長広舌を遮った。名前がなく 過去がない。帥彦は本名でなく、偽名ということか。岩田は傴僂男の歪んだ顔、鈍く光る瞳に惧れを抱いた。

 帥彦は怯えた顔をして岩田を盗み見た。どうしようもない卑屈で、薄気味悪い八方睨みを利かせて。

「へぇ、それは……。そのう」

 帥彦は口籠もり、百合子を窺った。すると百合子は遮るように、否、岩田の質問がなかったかのように続けた。

「人の過去が何であれ、それに拘るのは悪しきことですわ。彼が過ちによって泥濘を食べていた事なんて今をどうするものでもありませんね」

 純粋な、あくまでも純粋な白鳩が底の無い蒼空で回転を繰り返した。百合子は次いで言った。

「岩田さんは聖イシドロをご存知?」

「農夫の聖イシドロですか?」

「いいえ。農夫でなく、セリヴィアの大司教の聖イシドロですわ。彼は文字も読めず、愚鈍で無知の者でしたが、雨垂れが石を穿つ様に苦学を重ねて大司教の座に就き、『語源』、『神学命題集』といった名著を数々残した聖人です。妾は帥彦に聖イシドロの様になって貰いたいのです。善行の師として彼を仰いでいきたいのです。ずっと、ずっと、善を追い駆けて行きたいのです」

 蒼空の白鳩は弧を描いて黒土の死者の眠る墓に降り立っていった。赤と白の花の満ちる冥府に向かって。

ひょうひょう。


すべて求むる者に與へ、なんぢの物を奪ふ者に復求むな。なんぢら人に爲られんと思ふとごく、人にも然せよ。なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等己に善を爲す者に善を爲すとも、何の嘉すべきことあらん、罪人にても然するなり。なんぢら得る事あらんと思ひて人に貸すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても均しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈あるなり。      ルカ傳福音書第六章三〇―三五節

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る