Λ 象徴学 symbolism 1948,5,6(THU)

Ⅰある愛の証 ad os 


イエス人々を離れ居給ふとき、御許にをる者ども、一二弟子とともに、此等の譬を問ふ。イエス言ひ給ふ『なんぢらには神の國の奥義を與ふれど、外の者には、凡て譬にて敎ふ。これ「見ゆるとき見ゆとも認めず、聽くとき聞ゆとも悟らず、飜へりて赦さるる事なからん」爲なり』

                    マルコ傳福音書第四章一〇ー一二節


 もうどれくらいマリヤと語り合ったか。岩田は安らぎを感じていた。凄惨な事件も亜里沙の笑顔も岩田の心から少しずつ薄れ始めていた。マリヤの柔らかな声が、薄闇に輝く瞳が、微笑が岩田の苦悩を優しく包み込んでいた。

『時よ止まれ、お前は美しい』

 ファウスト博士でなくとも刹那の時間に心奪われて、この科白を胸一杯の声で吐き出したかった。悪魔に魂を奪われようと構わない。この時よ、我が所有物となれ。

「あッ、あの光は何かしら?」

 岩田が感慨に耽っているときだった。岩田は目の前の闇の先にぼんやりとした小さな光を見つけた。

 岩田は思わず立ち上がった。月光も僅かしか射さぬ深淵の闇の彼方に米粒ほどの小さな灯りがあった。灯りはゆらりゆらりと揺れながら次第に大きさを増していった。岩田にはそれがセントエルモの火のように見えた。

 岩田が次第に大きさを増す炎を慄いて眺めていると、マリヤは胸に掛けた太陽の首飾りをギュッと握り締めると口を開いた。


「誰かこちらに近付いて来ます。先に失礼します」

 そう言うと、マリヤは岩田に寄り添って、ソッと接吻をした。マリヤの唇は柔らかだった。永くて短い接吻だった。岩田がすべての事情を理解した時にはもう唇は離れていた。

「これは私と貴方の秘める証。それでは明日の闇夜に、愛しき貴方よ」

 マリヤは立ち上がり、すっと岩田から離れていった。桜桃の堤燈と、

『mon péché』の薫りを残して。

 岩田がマリヤとのロマンスに呆然としている間もセントエルモの火は益々近付いてきた。灯りは存在感、現実感を増して岩田の数尺先まで遣って来た。岩田は意を結して強い口調で、暗中の灯の持主に声を掛けた。

「誰だ!そこにいるのは!」

「その声は? お前、岩田か! 俺だ。御堂だ」

 闇からの返答の声それはまさしく御堂の声だった。御堂は岩田の存在を確認すると歩を急いで駆け寄って来た。闇の中から現れた姿は黒眼鏡に長髪、赤い支那服の男御堂周一郎だった。

「ああ、御堂。驚かすなよ」

「莫迦か? こっちの科白だ。真夜中に目を覚ますと、寝台にお前はいない。『小便か?』と思っていると、窓の外になにやら小さな光が見えるではないか。しかもその方向は墓場だ。鬼火か? 人魂か? 義人の幽霊が出たのかと思ったぞ」

「久流水義人が現れるわけないだろ」

 静かな闇が二人を覆った。

「……まあいい。もう帰るぞ。夜も遅い」

 御堂はそう言うなり踵を返した。岩田は慌てて地面に置いていた桜桃の堤燈を拾い上げて後を追いかけた。

「久流水マリヤとでも会っているのか?」

 墓地から少しばかり歩いていると御堂が徐に岩田に質問を投げ掛けた。岩田は吃驚して思わず隣の御堂の顔を見上げた。マリヤは御堂に見付らないように岩田と別れたはずだ。岩田がマリヤと会合している事を知り得るはずがない。毎夜部屋を抜け出しているのだから誰かと会っていることぐらいは察しが付くだろう。だがその相手がマリヤであることまで解るはずがない。

「お前が持っている堤燈の飾りの桜桃が物語っている。アンドレア・デル・ヴェロッキオの『聖母子』にも描かれているように桜桃は『処女性』の象徴記号だ。象徴学的にはお前の逢引相手は女だということになる。それにお前から僅かに薫ってくる『mon péché』は、最近発表された石川淳の『処女懐胎』の中に出てくる香水だ。つまりお前の会っていた人物は女であり、『処女懐胎』に相応しい人物だと物語っている。そして久流水家で『処女懐胎』に相応しいのは誰かと考えると、久流水マリヤだと推測が付く」

 御堂が一気に推量を話した。

「いい加減な推理だな。ただの当てずっぽうじゃあないか」

 当てずっぽうとは言ったものの、よく考えてみれば、香水を付けていることから相手は女だと推せられる。久流水家で女といえば、マリヤ、百合子、直弓、清枝の四人だ。その中で香水を使って、真夜中に岩田と逢引する人物といえば、清枝は論外だし、直弓も強めの性格的にあり得ないだろう。すると百合子とマリヤになる。百合子は穂邑の良き妻であろうと心掛けているようだし、未だに義人を愛している。すると夫を亡くしたマリヤが残る。そもそも二日目の朝、御堂は岩田がマリヤに惹かれていることを見破っている。相手がマリヤであることは推量ができる。

「あはは。だがな莫迦にするモノではないさ。特にこの久流水の世界ではな。ほォら、思い出してみろ。益田老人の杖は葡萄の蔓と幹だったろ。蔓は教徒、幹はイエスの象徴だ。桐人の座っていた椅子が扁桃形だったのも、扁桃が神の恩寵というシンボルだからだ。特に昨日の義人の墓が薔薇で囲まれていたのは面白かったね。薔薇はダンテの『神曲』で天国の形態とされているように精神的愛の象徴だからね。百合子さんの義人への未だに続く愛を物語っている様で可笑しかったね。この他にもこの久流水家連続殺人事件には色々なシンボリックなものが溢れているぞ」

 岩田に御堂が事件の性質を語りながら時計台の前に来たときだった。二人の遥か上方から奇妙な軋むような音が聞こえて来た。

 ぐぎぎ、ぐぎゅッ、ぐぎゅぎゅッ。

 岩田が音の聞こえる時計台を見上げた。上を向いた顔にぽとりと何か液体が落ちて来た。岩田が手で顔を拭って灯に照らした。

血! それは真ッ赤な血の一滴だった。岩田がその血を見て吃驚している、と上方から再び奇妙な音が聞こえて来た。   

 ひょんッ、ひょんッ、ひょひょん。

 岩田の眼前に上方から真ッ黒な玉のようなものが飛び込んできた。その落下物は岩田の足元に、とんッ、ととん、と転がった。

 岩田の足に転がった物は真ッ黒な人の首だった――。

 直弓の首ではないか! 岩田の足元に転がったのは直弓の首だった。直弓の首は真ッ黒な毛に覆われていながらも、その死の苦悶の表情は充分に窺えた。眼は眼窩から飛び出し、口からは舌根がはみ出さんばかりだった。頭と胴体を繋いでいた首の切断面は弾けた柘榴のようにぐちゅぐちゅに爛れていた。


イエス言ひ給ふ『なんぢらは神の國の奥義を知ることを許されたれど、他の者は譬にてせらる。彼らの見て見ず、聴きて悟らぬためなり』                      ルカ傳福音書第八章一〇節



Ⅱ世界の終り Eschatology


死者(独唱)

こんなひどい家をだれがたてた。

鋤から鋤で。

死霊たち【合唱】

教帷子の陰気なお客。

おまえさんには出来すぎだ。

死霊(独唱)

けちくさい広間の飾りはだれがした。

卓や椅子はどこにある。

死霊たち(合唱)

仮りの世は借りものばかり。

借金取りの多いこと。

                          ゲーテ『ファウスト』


「此の朽つるものは朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著んとき『死は勝に呑まれたり』と録されたる言は成就すべし。『死よ、なんぢの勝は何處にかある』……。久流水ヨセフ雄人と久流水パウロ教司は原罪から解放されて天国にて安らぎを覚えるであろう……」

 墓地では教司神父に代わり益田老人が警察から返された二人の遺体を弔っていた。墓地には久流水家の人間は勿論のこと、死陰谷村の信者も参列していた。二人の棺はこれから石室に安置されるのだろう。帥彦が墓守の役割を務めるのだろう。石室の鍵を持ってジッと使者を見詰めていた。

 遺体の解剖の結果、教司神父の死亡推定時間はおおよそ午前一〇時から前後一時間だったらしい。阿見は遺体発見の一三時に殺害殺害があったと推理した。御堂が血の乾きよりそれを否定したが、御堂の反論の方が確実に証明されたのだった。

 岩田は二人の弔いの様子を北側にある時計台から見下ろしていた。時計台は凡そ五階建てほどの高さの孔雀石造りで天を貫かんばかりであった。上方には緑色の文字盤を配した直径が一〇尺ほどの時計が付いていた。岩田は警官や御堂と共に時計の裏側の機械室にいた。機械室には大きな発条や歯車等、岩田には理解出来ない巧繰りがビッシリ並んでいた。それらの歯車も今はもう動かない。銅製の長針には直弓の乾いた血がこびり付いていた。直弓の首を刎ねた長針を調べるために止められているのだった。

 直弓は鈍器で撲殺された後に機械室と外の文字盤を繋ぐ直径三尺ほどの丸い小窓から顔を出されて長針が小窓の前を通り越す時に首が刎ねられたようだ。機械室側の小窓の下には首を切断された直弓の遺体が転がっていた。

 直弓が亡くなったのは遺体発見の少し前であったらしく岩田たちが発見した時より約一時間前といったところだったらしい。直弓の事件でアリバイがあったのは数時間も墓地で話し込んでいた岩田とマリヤの二人だけだった。岩田はマリヤとの密会が公になることは羞恥であったが、マリヤが容疑者の範囲外になったことに密かに快哉を挙げた。

「御堂さん、部下がこんな物を!」

 現場を仕切っていた平戸警部が部下から渡された白い手巾に包まれた一尺程の物を御堂に差し出した。御堂は壁に背を凭れ掛けさせていたが、それを受け取ると上に翳しながら観察した。これが直弓を気絶させた鈍器か。

「これは天秤じゃあないか!」

 岩田は御堂の手に渡ったものを見るなり言った。発見された鈍器は天秤だった。天秤は人の大腿骨ほどの長さで所々塗料の剥げた黒色をしていた。天秤の片端にある皿の部分には直弓の血が僅かに付いていた。

 御堂は険しそうな顔して眉宇間に懊悩を浮かべていたが、寄掛っていた壁から背を離した。

「完全に失念していた。早くに気付くべきだった。最初の雄人氏は白い矢、次の教司神父は赤い剣、そして黒い天秤……。矢、剣、天秤……。聖書における世界の終末の預言書『ヨハネの默示録』の見立てではないか!」

イエスの復活及び昇天から、その再臨と世界支配の確立に至る一連の世界の終わりの出来事が記された新約聖書の預言書。この久流水家の事件は世界の終末を模したものだったか。 岩田は御堂の余りにも突飛な言葉に仰天した。犯人は世界の終わりを久流水家に再現しようとしているのか。

 ヨハネの默示録によれば、世界の終末は次のように書かれている。天界の玉座にある七つの封印をイエスが解くと様様な災厄や死が世界に次々と降り掛かる。地上が未曾有の混乱と災厄に見舞われた時、七頭十角の龍、サタンが現れて天界の戦士ミカエルと戦う。サタンはミカエルに追い詰められて、地上に逃れて其処を支配する。地上に悪が爛熟しきった時、イエスと天使たちが地上に大地殻変動を起して滅ぼし、神の慈愛と至福に満ちた千年王国を創造する。千年王国の創造の時には殉教者と聖人のみが復活し楽園を謳歌する。併し、千年後には神に敗れて地獄に繋がれていたサタンは復活して再び地上を支配しようとする。神は最後の罰をサタンに下して、サタンは火と硫黄の池、地獄に落とされ未来永劫二度と復活出来ない様になる。その後、神は全ての人間を蘇らせて、永遠の命を与える者と地獄に落ちる者を振り分ける、最後の審判が行われる。究極に神は新たな天地創造を行う。

 久流水家の事件で見立てられているのは默示録の冒頭部分の七つの封印の箇所だ。この世にあらゆる災厄や死、闘争を興す七つの封印。これこそが久流水家で再現されている箇所なのだ。第一の封印を解くと弓矢を待った白い馬に乗る騎士が現れ、戦さを興す。第二の封印を解くと、赤い馬に乗る剣を持った騎士が現れて内戦を齎す。第三の封印を解くと黒い馬に跨った天秤を持った騎士が現れて飢饉を起こす――。

 雄人の矢、教司の剣、直弓の天秤。今までの事件の凶器はヨハネの默示録の封印の再現ではないか。

「第四の封印は何ですか。事件の予測が立つかもしれません」

 平戸警部が切羽詰ったような顔で御堂に問い詰めた。御堂は口重に警部の問いに応えた。

「第四の青の騎士が持つものは、剣や天秤の様な形あるものではない。彼が持つものは人類に死を与えることを『許された』ること、つまりは死への『権利』だ。人を殺すことを許す『権利』だ」

 窓から外を見下ろすと墓地では葬儀が終盤になろうとしていた。石室の鍵が開けられ、死体が石室の真ッ黒な口に飲み込まれた。死者は陰府に眠った。いつか蘇るその日まで。


第四の封印を解き給たれば、第四の活物の『來れ』と言ふを聞けり。われ見しに、視よ、靑ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府これに随う。かれらは地の四分の一を支配し、剣と饑饉と死と地の獸とをもて人を殺すことを許されたり。                 ヨハネの默示録第六章七―八節

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