Ζ ゼロの焦点 Liber numerorum 1948,5,4(TUE)

兄弟よ! 星のきらめく天上に必ずや父なる神が住んでいる。


地にひざまずいたか? 創造主なる神を予感するか?


世界よ? 星のきらめく天上に創造主をもとめよ!


そこに必ず創造主は住んでいるのだ。

                フリードリヒ・フォン・シラー『歓喜の歌』


――ああ逝きぬ、いとしごゆきぬ、ふかきやみ 四方をつつめり……――

 聖堂では村人達が集まり、雄人に捧げた賛美歌を歌っていた。聖堂には数多くの老いた者も幼き者も男も女も、昨日亡くなった雄人を思って一心に声を発していた。

 岩田は聖堂の後方の壁に身を凭せ掛けながらその荘厳で且つ悲哀のある歌声を聞いていた。岩田は歌声を聞きながらも、隣の二人に絶えず注意を怠らなかった。岩田の隣では赤い支那服の御堂周一郎と白の背広の阿見光治の二人が並んでいた。ミサが始まってからずっと二人は互いに何も語り合うことなく、ともにぼんやりとした眼をして壁に身を凭せ掛けていた。

 賛美歌が終わらんとしたとき、御堂がぽつりと阿見に訊いた。

「阿見、お前は何をしに久流水家にやって来たのだ? 平戸君に訊いたが、警察にも訳を言っていないらしいな。雄人氏の事件が起こったときにはもうお前はここに来ていた。お前は何故事件の起こる前にここにいた?」

 阿見は髪油で固めた小鬢を掻きながら応えた。

「探偵が依頼内容を言うと思うのかネ?」

「言うさ。お前はそこまで依頼人に義理堅くはないだろう」

「言いますネェ……。まあいいでしょう。少しだけ教えて上げましょうか。実はある方からその叔父を探して欲しいという依頼があったのですネ。僕は普段このような低級な事件を受け持ったりはしないのですが、この久流水家が関わっていると聞いて話に乗ったというわけですよ。こんな不思議な空間はなかなかないですからネ」

「失踪?」

「ええ、失踪する最後の日も『久流水家に行く』と言っていたそうですネ。さて僕の話はここまでです。探偵が情報を渡したのです、対価を要求しましょうかネ、御堂君」

 二人の間には暫しの沈黙ができた。

 祭壇では教司神父の講話が始まっていた。昨日の雄人氏の思い出から今日五月四日がコンスタンティヌス帝の母堂へレナがゴルゴダの丘を発見してイエスと罪人を磔にした三本の十字架を発見した日であることから始まり、死についての講話をしていた。

「何を訊きたい?俺はお前よりもこの事件について何も知らんぞ」

「君に事件のことなんて訊かないさ。僕には敵わないのだからネ」

「だったら何だ? 今までの女の数なんて訊くつもりか」

「女性の数にしても君は僕に敵わないに決まっているのだから訊きはしないさ。君に訊きたいのはね……」

 阿見は少し間をおいて静かに言った。

「神とは何者?」

 暫し沈黙……。

「お前にしては随分と形而上学的だな」

「ただ君の考えを知りたいのだよ。僕にしてみればどうでもいいことだが、後ろ暗い過去をもつ君からの講説でも聞いてみようかとね。少しばかり神とやらを勉強でもしようとネ。君は神を何と定義付ける?」

 阿見がそう言うと、御堂は暫く黙考した。

「俺が思うに神はゼロだな」

「ゼロ? 数字の0ですかネ? NothingであるものをSomethingとして考えているということかネ? それでは僕と同じなんだネ」

「そうじゃあない。俺が言わんとするのはNothingがないとSomethingを語れないということさ。SomethingがThingであるためにはnot thingであるNothingがなくてはならないということだ。Nothingであるゼロは、数において(in nummero)、無数(innumero)の原点であり到達点だ」

「人間が人間であるためには人間でないもの、しかも人間より特殊でなくてはならないものが必要ということですかネ。ゼロが原初であり、終わりであるように。ゼロは神かもしれないですネ。いかなる数を掛け合わせても、それを無効にする絶対的存在だ。『ヱホバの使者之にいひけるは我が名は不思議なり』。しかしニーチェが言う『神の死』のように数の世界ではどうかは知らないが、人間存在においてはNothingがなくとも、Somethingは存在できるようになったはずだ。現在及び未来には、もう神は必要ないのではないですかネ。意外ですネ。君が無神を否定しないとは」

 御堂は間を置いて続けた。

「……非ユークリッド幾何学」

 御堂の発言に阿見は怪訝そうな顔をした。

「非ユークリッド? 平行線を無限に延ばせば、交わるはずのない平行線でも無限の点で交わるかもしれないというヤツですかネ?」

 阿見が言うと、御堂はまた暫く間を置いて言った。

「その非ユークリッド幾何学だ。フランシス・ベーコンが『学問の進歩』でこう言っている。『僅かな、あるいは、浅はかな知識は、人間の精神を無神論者に傾かせるが、その道にもっと進めば、精神は再び宗教に立帰るのであって、このことは確実な真実であり、経験から得られる結論である』。非ユークリッド幾何学が提唱される前には平行線は無限に進んでも交わることはないとされていた。だが時を経てそこに疑問符が湧いてきた。線路の真ん中に立って何処までも続く線路を見ると二本の線路は寄り添っていくように見える。同じように幾何学での平行線もどこかで交わる点があるのではないか?」

「つまり、君は神を信じはじめたかと?」

「その過渡期というべきか。あるのではないか、あるかも知れない、あった方がいい。神を信じもしないし、信じてもいる」

「あはは、御堂君らしいネ。凡庸だネ」

 その時だった。集まった村人達のどよめきが聞こえた。

 岩田が祭壇の方へ目を向けると祭壇前の三尺四方の床にぽっかりと穴が開き、小さな車の付いた椅子に乗った少年とその椅子を後ろから押す女性が現れた。椅子は車椅子と呼べるものではなく、短い距離を移動する程度のものであり、後ろの女性は円滑に進まぬ椅子に苦労しているようだった。

 この二人こそが神の子久流水桐人と聖母マリヤ。 桐人は白い薄い布を纏い、椅子にも垂れ掛けるようにしていた。光を避けるためか頭には薄いヴェールをかけており、その下方から少年には似合わぬ雪の様な白髪が見えていた。桐人の座る椅子の背凭れが金色のアーモンド形を成しており、桐人に後光(aureola)が射しているように見えた。

 マリヤの方は赤い衣裳を着てその上から青のマントを掛けていた。ラファエロが描いた聖母マリヤと同じ服装だ。

 岩田は数時間前に出逢ったマリヤの顔が再びここで見ることができることを密かに喜んだ。亜里沙の死を知り途方にくれた夜に現れた秀麗なる女。

 彼女は岩田のつまらない話をただ静かに聴いてくれた。何も言うこともなく、ただ微笑んで。岩田は安らぎを覚えていた。やがて朝に近付いた頃、岩田はマリヤにすっかり心を奪われていた。『貴方は自分のことしか考えていないのね』と亜里沙が最後に言った言葉が痛かった。亜里沙の死を知ってから一日も経たない内に、心の拠り所をもう他の女性に求めている。岩田は自己を嫌悪しながらも、抗えぬ感情に従いつつあった。

「どうした、岩田? ジッと見て」

 御堂に指摘され、慌ててマリヤから視線を逸らした。御堂は暫く岩田とマリヤの顔を交互に見ながら言った。

「なるほど、お前、マリヤに懸想しているな。よく見ればマリヤは亜里沙に似ていなくもないな。お前の好みの容姿だ」

 子守唄は何だっていいのさ。僕が静かに眠れれば。


五月四日

……(略)……

――ああ、自分の苦情を言って平気でいられるなんて、人間て妙なものだ。

きみよ、僕は約束する、僕はもっといい人間になろう、

運命によって与えられたすこしばかりの不幸を、

これまでの様にくよくよ反芻することはやめよう、

現在をたのしもう、過ぎ去ったことは過ぎ去ったこととしよう。

                     ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

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