Ε 三位一体の神話 Trinity 1948,5,3(MON)

Ⅰ地獄の門 Balal


憂の国に行かんとするものはわれを潜れ。永劫の呵責にあわんとするものはわれをくぐれ。破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。 

正義は高き主を動かし、神威は、最上智、原初の愛は、われを作る。

わが前に創られし物なし、ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ                    ダンテ『神曲 地獄篇』


「此処が死陰谷村」

 空には暗雲が立ち込め、どんよりと翳り始めた。ひょうッと風が啼き、虎落る。ばさりと一匹の鳥が岩田達の頭上を掠め飛ぶ。此処には季節外れの日差しはもう無い。日入りにはまだ少し時間があるはずだ。僅かの時間でこれほど天候は変わってしまうのか。それともこの辺りだけ太陽は避けているのか。

 岩田は辺りを見渡した。あるのは鬱蒼とした山々。静かにじッと此方を窺うのみ。

 山頂から裾野に目を向けると青々とした葉をつける葡萄畑が傾斜をなした一帯の土地に広がっている。山々は猫の額ほどの小さな土地を囲繞して擂鉢状の盆地をつくる。

 岩田は改めて擂鉢の底を見る。僅かな平野には寄せ合うようにぎゅうッぎゅうッと農家屋が軒を並べて犇き合っていた。

「向こうの端にある城塞の様な建物が久流水家です」

 久流水教司神父が言った。

 農家屋の犇めく村には場違いな建物がそこにあった。

 中世ヨーロッパに迷込んだように錯覚させるゴチック様式の大聖堂。この国の黒幕であり世紀の預言者の最後の咆哮。終幕の藝術。

 周囲を真円形の城壁で囲み、幾数か点在している。壮麗な装飾を成した石建築。冥府と地続きとなった墓地。ゴルコダの丘の様な塙。白色の十字架も聳え立つ。城壁の中心に十字架の形を見せて位置しているのは聖堂だろうか。其処に現実感はなかった。あるのは神を信じる者の神聖な情熱と不信心者の不気味さ。

「鬼が出るか、蛇が出るか、果たしてそれとも神なのか」

 御堂周一郎が言った。男は女の様に肩まで伸ばした真っ黒な髪を風に任せて棚引かせていた。

「見給え、道祖神だ。道祖神は村と外の境界線の証」

 村に続く一本の道、村の入り口には三尺ほどの一〇数体の石像が道の両側に並んでいた。その石像はそれぞれ異なった道具を持っていた。右側の列の像は蛇を出した杯を持つ像、Ⅹ型十字架を持つ像、砧を持つ像、巻尺を持つ像、鉾槍を持つ像、剣を持ちながら、隣の像と巻物を持ち合う像……。

「ゼペタイの子ヨハネ、アンデレ、小ヤコブ、疑いのトマス、マッテヤ、パウロ。パウロから巻物を渡されているのはシラス。一二使徒と聖人の道祖神か」

御堂は黒眼鏡越しに岩田を見た。

「ここからは異界。何が起こるか解らない。裾を絡ろよ」

「ああ、判っている」

「よし、じゃあ、行くか」


狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

                    マタイ傳福音書第七章一三―一四節



Ⅱ凶兆 Antichreston


天は

神の書として汝の前にある

其処に神の奇しき業を読み、そして

彼の季節、時、月、年を知るために                         ミルトン『失楽園』


 人間が月と星の散る天空の美しさに魅入られてからどれ程の時間を経たのだろう。人はその天に神を感じて無限を知り、生命を見つけた。次第に人はその宇宙に少しでも近付こうと思った。少しでも高く、高く。バベルの塔のような高慢の過ちを犯しながらもほんの少しでも近付こうとした。天をより近くで見たい。天空を仰いだ者は、そこに世界のすべてを見出そうとした。

 ゴチック建築は人間の天空志向から生まれたものだ。ゴチックの特徴である高い尖塔はその最も顕著なる表れだ。初期ゴチック建築の礼拝所。天空に憧れたどこかの建築家が始めた様式、それがゴチック。聖堂は天空を貫かんと上に伸びて、その頂点には橙色の十字架が飾っていた。十字架の少し下には一二に区切られた圓華窓が、聖堂を支える柱頭には月桂樹の葉の形状をした彫刻がなされていた。正面入口の上部には弟子の前でイエスが岩を叩いている場面と共に『我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が敎會を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべし』という文言が描かれていた。

 阿見光治は白の背広を纏って聖堂の装飾や荘厳さを横目に中に入っていった。阿見の足音はコツッコツッと乾いた音を立てた。聖堂内は薄暗く、ひんやりとした冷風が吹くようであった。

 聖堂の床には石を叩くモーセの円い画を『視よ我そこにて汝の前にあたりてホレブの磐に立ん汝磐を撃つべし然せば其より水出でん民これを飮むべしモーセすなはちイスラエルの長老等の前にて斯おこなへり』の聖句が縁取り、それを取り囲むように迷宮図が描かれていた。聖堂内部側面の壁面には悲しみの道(Via Dolorosa)といわれるキリスト最後の一四場面を模した彫刻が埋めてある。天井は蝙蝠が羽を伸ばしたようなアーチを造って高みを目指していた。正面にはロザリオの一五玄義図が描かれ、その下にはパイプオルガンが配してあった。ほんの数時間前まで遺体が横たわっていたが、遺体は既に警察に引き取られ、僅かに供えられた真ッ赤な薔薇がそれを物語っていた。壊された西側の扉が風で音を立てる。

 ぎぎぎぎッ。

 そこに一人、ぽつんッと佇む筋肉質の男がいた。平戸警部だ。

「阿見君だったか、こんな所に呼び出して何の用だね。君は警察が到着する前にここの家人に、不躾に事情聴取をしたそうだね。今、警察が聴取をやっているが、君のお陰で聴取に拒否反応を起こしている。捜査は警察で行なうから引っ込んでくれないか」

 平戸は憮然とした態度で阿見を嗜めようとした。阿見は静かに見返して平然と言った。

「ははは、僕のせいではありませんよ。僕はただ彼らに雄人氏はどんな人柄だったのか、この中で犯人がいれば誰だと思う、と聞いただけですよ。彼らこそ本質的に他者に協力的でないですネ」

「誰だって気を害すだろ」

「まあ、そんなクダラナイことはどうだっていいのです。結局は機械仕掛けの殺人ですからアリバイは問題にはならないしネ。『死人是即善人』というのは世事ですネ。ところで平戸さん、警察の方は桐人氏に会いましたか?」

 平戸は顔を顰めて吐き出す様に言った。

「否、会わせてくれないね。桐人がどこにいるかすら口に出さない!」

「あはは、これだから警察は。だからこそ僕のような探偵が必要なのですよ。僕は桐人がどこにいるか判りましたよ。ちょっと考えれば類推できる。穂邑氏に鎌を掛けたら、あッという間に確証が取れましたよ。あの中では彼が不信心ですからネ」

 阿見はそう言うと、金の十字架の嵌め込まれた祭壇の少し前の床をこんッとつま先で叩いた。そこには棕櫚の枝を杖にした一人の巨人の絵が描かれた三尺四方に区切られた石盤があった。

「聖クリストポルス、俗名はレプロブス。ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』に登場する伝説の聖人ですネ。巨人が幼子を担いで川を渡っていると、段々と幼子の重みが増していくというやつです。平戸さんも芥川龍之介の『きりしとほろ上人伝』くらいは読んだことがあるでしょう。あの原典ですよ」

「それより桐人はどこだ?」

 阿見は平戸を眺めてシニカルな微笑を湛えて言った。

「全く無学なものですネ。まあいいです。その重くなっていく幼子というのは、実はイエスが姿を変えたものです。絵画的にクリストポルスを描くときは、幼子と巨人は対になっていなければいけません。イエスが描かれていなければ、これは聖クリストポルスではない。怪力男レプロブスのままじゃあないですか。こんな普通の人を聖堂に描くと思います? けれど僕らの目の前にある現実の絵画にはイエスが描かれていない。ということは、描かれてはないが、イエスが近くにあると考えるべきでしょう? このクリストポルスの下、地下にいるのですよ。イエスの再来と謳われた久流水桐人は」

 クリストポルスの下には漆黒の闇がぽッかりと口を空けていた。闇の底には薄らと灯りが見える。誰かが闇の底に息衝いているらしい。阿見と平戸は闇の底へと降りて行った。

 地下には数本の燭台の灯りが照らすばかりで眼を凝らさなければ辺りを見渡すことができなかった。次第に眼が慣れるにつれて辺りの様子が掴めた。地下聖堂。 コリント式の柱が幾本も見えた。コツコツと硬い音を響かせる床には画を取り囲む様にした迷宮図が描かれていた。地下聖堂の闇の奥に薄らと天蓋付きの銀の台座に金箔のアカシヤ材の柱のある寝台が見えた。阿見と平戸はソッと寝台に近付き、絹の天蓋の中を覗いた。

ケルビムの意匠を配した青、紫、緋色の毛糸と、亜麻のより糸の幕の天蓋の中には一人の少年が母胎の赤子のように丸まって寝息を立てて眠っていた。だがこの少年の容姿の異様さ、奇妙さはどうだろう。揺籃期の少年には不似合いな髪の色は何だろう。まるで老人のように真っ白ではないか。髪と同じく肌は雪のように白かった。これがイエスの再来、久流水桐人なのか。

 もぞ、ももぞ、もぞぞ。

 少年が動き出した。真っ白い目蓋がゆっくり開く。ゆっくりと瞳が露わになる。露になると次第にその瞳の不思議さに気付かされた。その少年の瞳は燃えるような赤色をしていた。少年の虹彩は本来あるべき黒色が消え失せた赤色の輝きだった。

 次第に覚醒してきたのか、少年の眼は焦点が定まり始め、阿見たちの存在に気付き始めた。桐人は阿見の存在を確り認識すると急に怯えたような表情をした。

 阿見は少年に話し掛けた。

「桐人君だネ。はじめまして。探偵小説家であり、探偵でもある阿見光治だよ。貴方の父親である雄人氏が亡くなったことはご存知でしょうネ。ちょうど貴方の頭の上で」

すると桐人が突然叫んだ。

「Noli me tangere(汝、我に触れんと欲するなかれ)」

「何を言っているのです。、事件解決のためにさっさと話してくれませんかネ。何故君は事件が続くと思ったのですかネ」

 阿見が桐人を尋問していると、燭台の光の当たらない闇から低い男のような声がした。

「無礼者!」

 声の主が闇から次第に姿を現す。黒い底の厚い革靴、長い脚、ローマンカラーの詰襟、波打った髪を油で纏めた頭。現れたのは三〇代半ばの男の顔だった。

「ああ、阿紀良さんではないですか。いやネ、貴方達がなかなか桐人君に会わせてくれないのでこちらから会いに行ったという訳ですよ。ホラ、そんなに怖い顔しないでください」

 阿紀良は肩を怒らして阿見に言った。

「桐人様のお姿を御覧になれるのは限られた人だけです。信者の中には未だに桐人様と拝顔したことすらない者だっているのですよ。否、村人だけではない。久流水家の人間も殆ど顔を合わせることがない。マリヤが常に桐人様に使えているだけ。今、マリヤは聴取を受けているはずだから地下へのクリストフォスの扉が開いている儘は奇異しいと思って入ってみると貴方達が桐人様を脅かしている。何ということだ!」

 阿紀良の剣幕に平戸は謝ると訊いた。

「ですが警察としましても、なぜ『事件が連続していく』と仰られたのか興味があります。しかも『ダニエル書』とかいう書物の呪の言葉か書かれた晩にですよね。その時分は落書き以外は何も起こっていないのですよ。何故そのようなことを?」

「平戸さん、そんなことを聞いても無駄だよ。どうせ『神がそうさせたのです』なんてことを言うに決まっているだからネ。だからこそ言った本人に直接当たったのだよ」

「尋ねられたところで桐人様は何も仰りませんよ。桐人様には因果律という概念は存在しないのですから。しかし桐人様でなくても、私も雄人氏の事件の起こる前から予兆を感じていました」

「予兆ですって! ほおッ、それは何ですかネ?」

「星ですよ、漆黒の宇宙に瞬く星々。天がすべてを物語っている」

「占星術ですか? 宇宙に神の意思なんて存在しない。貴方にはエピクロスを見習って貰いたいですね。ああ、どうせあれでしょう。ラジオで持て囃されている数日後の日蝕のせいですかネ。いいですか、日蝕は世界の何処でもいつも観られる現象なのですよ。ただ同じ地点で再び見るには何一〇年と掛かるから懼れられ、ありがたがっているに過ぎないのですよ」

「宇宙界(Macrocosmos)と地上界(Microcosmos)は照応する。古くはプラトンの『共和国』やモンテーニュの『レモン・スボンの弁疎』のように、天体と人間は照応関係にあるのです。宇宙の意思を無碍にはできない。トレドのヨハネによる書簡が一一八六年には全惑星が天秤宮に集まって大災害が起こると告げると英国カンタベリー大司教が全国に贖罪の為に断食を命じたように」

「その断食のために被害が起こらずに済んだとでも? ハッ、莫迦らしいですネ。予言が外れれば、それは神や聖人が危機を回避させたと神性を高めて、予言が当たれば、それもまた神性が高まる。先の久流水哲幹もこの少年も アポロ(Apollo)ではなく、アポルオン(Apollyon)ですネ!」

 阿見が桐人を指して言うと、阿紀良は唇を噛んで猛然と応えた。

「無礼者!」

「一八七七年の『諷刺痛快雑録集』でしたっけネェ。『自分が神か特別な存在だと信じるのは、よくある狂気の症例である。イエスは多分この種の狂人だったのだろう』とありましたネェ。この少年が事件は続くと預言したのも、狂気の業か、それともこの桐人が殺しているかだ!」

「何ということを! 今年は火星が逆行した年なのですよ。火星が通常とは違う動きをしている。どのようなことが世界に起こっても奇異しくない!」

「あの災いの星ですか? そいつはコカビエルの遺産だ」

「神の意思の表れ。 『それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは、造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ、彼ら言ひ遁るる術なし。神を知りつつも尚これを神として崇めず、感謝せず、その念は虚しく、その愚かなる心は暗くなれり』。 愚か者よ!」

 その時、先程まで母の乳を待つ赤子の様に不安げに様子を窺っていた久流水桐人が悲鳴を上げた。

「あ、あ、あ、ああ、ああああ」

「桐人様ッ、申し訳ありません。お気を患わせることを!」

 阿紀良が狼狽して桐人に手を掛けようとすると桐人はその手を振り払った。桐人は先程の赤子のような態度を一変させた。その表情は能面のように動きがなく、燭台の明かりの揺らめきで、憤怒に、悲哀に、歓喜に次々と姿を変えた。

 桐人は静かな囁く様な声で言った。

「誠に汝らに告ぐ、此處に一つの石も崩されずしては石の上に遺らじ」



Ⅲ毛皮の万里雄と長崎県の傴僂男 faith in mystery


みかけの美しさで、人をほめるな 外見によって 人をきらうな                          シラ書第一一章二節


「お待ちしていました」

 警官に見張られた久流水家の正面口である美麗門を潜ると、二人の男が岩田らを出迎えた。彼らは教司神父に労いの言葉を掛けると岩田と御堂に紹介するように頼んだ。

「岩田さん、御堂さん、ご紹介します。こちらが万里雄さん、久流水家の葡萄酒の対外的なことを取り仕切っています。こっちは帥彦。久流水家の下男をしています」

 奇怪な幻想小説の中に紛れ込んだのか。岩田は目の前の二人の奇怪さに慄いた。教司が紹介した二人、万里雄と帥彦はそれぞれ奇怪な容姿をしていた。全身多毛症と傴僂男! これが万里雄と帥彦の容姿であった。

全身多毛症。全身の皮膚という皮膚に、ありとあらゆる個所に毛が生える病。 かのチャールズ・ダーウィンがヒトとサルの中間の段階と看做して進化論の裏打ちと考えた多毛症。柳田國男の『妖怪談義』に『狒々』としてその記述があり、『和漢三才図会』にもその記述がある多毛症。

 万里雄は豪放磊落に笑った。

「驚かせてしまったかな。ナニ、そんなに遠慮することはありません。こんな顔くらい幾らでもジックリと見てくださいな」

 万里雄の顔の剛毛の黒色が落ちかけんとする太陽に照らされてテラテラと輝いていていた。

 その隣に小さく蹲るように佇んでいるのが下男の帥彦であった。傴僂。先天的、若しくは幼少の三三の脊髄への衝撃によって骨が変形して背中に瘤を抱えたように背を折り曲げて頭を突き出すような姿態である傴僂男。岩田はユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』のノートルダム寺院の鐘搗き男カジモドを思い出した。同じユゴーの『リゴレット』にも傴僂が出てきていなかったか。

 何という奇怪な組み合わせだろう。

 帥彦は卑屈な笑みを浮かべ、岩田や御堂の荷物を受け取った。

「わざわざ万里雄さんがお迎えに上がるとは思いませんでした」

 万里雄は現在の久流水家の中で大きな地位を占めているはずである。村内の村人を纏めていた雄人が亡くなった後、その責務を継ぐのは村外の交渉を行なっている万里雄の可能性が高い。久流水家の経済的な支柱となっている万里雄が教司の言うよう出迎えの役を担うことは意外だろう。

 万里雄は教司の驚きに対して闊達に応えた。 

「なにね、先程から阿見という奴が五月蠅くて適わん。出迎えを理由に逃げ出したわけさ。それにその阿見に対抗する人物とくれば尚更ね。御堂周一郎さんでしたね。どうぞ宜しくお願いします。おやッ、こちらは?」

 岩田の存在に万里雄はやや怪訝そうな顔をした。当初の予定では御堂だけの訪問だ。

「御堂の助手をやっています岩田梅吉です。探偵小説家を生業としております」

 御堂が「莫迦か? 勝手に付いてきただけだろ」と野次った。万里雄は暫く岩田と御堂の顔を交互に覗き込んでいたがやがて納得したような顔をした。

「まあいい、まあいい。この久流水家のために働いていただけるならば、拒む理由はありませんからな。『旅人の接待を忘れるな、ある人これに由り、知らずして御使を舍したり』。フィロセクニアは『ヘブル書』も認めるところ。さあ、我々の家屋、黄水館に案内しましょう」

 万里雄はそう言うと、背を向けて帥彦を従えて真直ぐに歩みを進めた。教司神父と岩田と御堂はその後に従って付いて行った。

 美麗門より真っ直ぐ北に向かった先には村を俯瞰したときに窺えた十字架の聖堂が見えた。美麗門より周囲を見渡すと入って左手の方に黒色の建物が見え、少し行くと右手に墓地、時計台を臨んで歩いた。敷地の所々には警官と思しき人が幾人か窺えた。岩田が周囲の様子を見ながら万里雄たちに案内されて歩みを進めると、岩田の視界に怪訝そうな御堂の顔が見えた。

「おい、御堂。どうかしたのか? 冴えない顔をして」

 御堂は岩田の方に顔を向け、眉を顰めて言った。

「奇異なことに気付かないか。この城砦を俯瞰したときにも奇異に思ったが、実際に此処に踏み込んでその思いは強まった。この城壁内にある建築物の配置が奇異しいのだよ。真円形の城壁をなしているのなら円全体に建築物が疎らに配置させているか、対称に配置しているべきだろ? だが此処では円の南側一部に偏っている」

「それが一体何だというのだ? そんなに奇異しいことか?」

 岩田の問いに、御堂は眉間に皺を寄せて応えた。

「九世紀のサンクト・ガレンの修道院の図面を見たことあるか? あらゆる修道院の設計の手本となったものだ。この修道院の特徴は敷地内の建築物が左右対称であることだ。歴史を知らない自称前衛建築家、実は無自覚な露出狂が設計した修道院ならともかく、大抵の修道院は左右対称なのだよ。ここはそれに近い機能を持った所だぞ。奇異しいだろ?」

 御堂が思案しながら北へ脚を進めていると、「さあ、此処です。ここが黄水館です」と教司の声が聞こえた。岩田と御堂は思案を止めて声の方を見た。

 教司に案内された館は何とも不可思議なものであった。正面中央の半円形ポーチには六本の柱が立っており、その柱頭飾は欧羅巴のコリント式であった。外壁は黒色石造りで窓枠等は黄色で縁取られた何とも奇妙な館であった。

 岩田が何より奇異に感じたのはその扉だった。六尺ほどの扉一面に水銀製の硝子鏡が張り付いていたのであった。中世基督教は鏡の中にイエス、マリヤ、聖人、ヱホバを見ることがあったという。ルネッサンス期を迎えるとアレクサンダー・バークレ翻案の『愚者の鏡』のように人間の愚行を映すものとしての役割を担っていた。哲幹は鏡に神を迎えようとしたのか、悪魔を迎えようとしたのか。

 御堂は眉宇間にはいっそう疑惑の相が浮かんでいた。

 岩田らが連れられて館内に入ると正面には約六尺四方の絵画が岩田らを迎えた。絵画には『目を、天に向け、手には正常の書物を持ち、唇には真理の律法が書かれ、背後にはこの世があった。彼は人々を説きつけるかの様に立ち、黄金の冠が頭の上にかかっていた』という構図の人物画が描かれてあった。御堂はその絵画をじッと見ると、静かに哂った。

「バニヤンの『天路歴程』の秘密の部屋にある絵画と同じ構図か」

 御堂の発言に万里雄が応えた。

「気付かれましたか。義父はこのような洒落も行ったのですよ」と言い、「旅の疲れもあるでしょう。さあ、帥彦に客間にご案内させましょう」と続けた。

 絵画を囲い込むように馬蹄状の二八段の階段が始まっていた。岩田らが教司と万里雄と別れて帥彦に案内されるままに階段を上って二階の客間に向おうとした時だった。先程入ってきた鏡の扉から二人の男が入ってきた。

「御堂君に小猿君ではないか。僕の活躍を見学に来たのかネ?」

 声の主は白の背広に油で輝いた頭の男、阿見光治だった。自己顕示欲の塊によりによって到着早々に出会うとは。

「莫迦か? お前の尻拭いに狩り出されたのだよ!」

 御堂は不機嫌そうに唸った。

「ははは、面白い冗談ですネ。まあいいです。観客は多い方がいいですからネ。僕はもう既に現人神桐人に御目通りが叶ったからネ。君より百歩も進んでいるよ。教司神父から聞いたかネ? 雄人氏の殺人事件解決の鮮やかさを。凡人には無理だったろうネ」

 阿見は一方的に捲し立てると、岩田らより階段を上って去った。

 阿見とともに入場してきたもう一人の男は阿見をやる方なさそうに視線を送っていたが、直ぐに岩田と御堂に振り返った。

「お前さんが探偵さんだな。家の者から聞きましたよ。捜査員は充分足りているよ。素人が邪魔をせんで下さい。あの阿見君で素人は辟易しているのでね」

 齢は岩田らと同じ三〇代前半だろう。がっしりとした多血質の体付きをしていた。男は険しい眼で岩田らを見ていた。男は長崎県警の警部、平戸正義と名乗った。御堂はその名を聞くなり怪訝そうな顔をしたが、何か思い当たった様子を見せた。

「ひょっとしてお前は満州にいた平戸ではないのか?」

 御堂が黒眼鏡をすっと外して訊ねると、平戸も怪訝な表情をして御堂の顔を凝視していたが、ハッと驚いた様子をみせた。

「御堂少佐ではありませんか!」

「少佐は通称だ。階級なんてイヤらしいものは、未だかつて持ったことはない」

 平戸は態度を一変させて背筋をピンと伸ばした。後に聞くと、間諜であった御堂がある任務で大陸に渡った際に、同じく大陸にいた平戸を知り会ったらしい。

 御堂は顔に含みのある笑みをして平戸の背中を軽く叩いた。

「宜しく頼むよ、平戸君!」


われ汝らに告ぐ、この人は、かの人よりも義とせられて、己が家に下り住けり。おほよそ己を高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり

                       ルカ傳福音書第一八章十四節



Ⅳ最後の晩餐  Last supper


蛇婦に言ひけるは汝等必ず死ぬる事あらじ 神汝等が之を食う日には汝等の眼開け汝等神の如くなりて善惡を知るに至るを知り給ふなりと

                          創世記第三章四―五節


 岩田と御堂が客室で荷を解いて寛いでいると、帥彦が夕食の準備が調ったとして聖餐の間に来るよう呼びに来た。岩田と御堂は黄水館一階の聖餐の間に向かった。聖餐の間は二〇畳以上もある大広間で今の時代には現在には似つかわしくない燭台による蝋燭によるものであった。硬質の壁や床を明明と照らし、見慣れぬ者にある種の薄気味悪さを演出していた。

 上座の壁にはキリストの最後の晩餐の場面が一点透視法で描かれており、キリストと使徒たちの虚構の食卓が現実の部屋と地続きになっているような錯覚を起させる。キリストの顔は物悲しくも無償の愛を窺い知れるものであった。キリストを取り囲む一二人の使徒は一様に吃驚した顔をしていた。三〇枚の銀貨を手にしたユダを除いて。

 二〇人前後は同時に使用できる卓子には真白なクロスが掛けられており、既に殆どの久流水家の人々が座していた。平戸警部も警察を代表してか、本人が無理やり頼んだのか、晩餐の末席に座していた。阿見光治も座しており、ちょうど岩田の右側に座していた。岩田の左隣が御堂なので、岩田は探偵役二人に挟まれた格好になった。

 この晩餐を持って久流水家で起こった雄人氏の殺人事件の関係者がすべて揃う。岩田は周囲に注意を向けた。万里雄や教司神父、村人が当番制で行っている料理人とそれを何かしら手伝っている傴僂の帥彦の他の人々に目を向けた。

 始めに眼に入ったのは若い一組の男女であった。男は喪に服した格好をしているもその着こなしが独特であった。翳りのあるべき黒服を少しばかり崩して着ることで華やかさを演出していた。男は隣にいる女性を何やら揄っているらしく、女の困った表情を見て卑下た笑い声を上げたり、女の反応の鈍さに憤慨した顔をしたりしていた。年格好からして百合子の婿となった穂邑氏なのであろう。岩田は穂邑を見た瞬間に誰かに似ていると思った。それが誰なのか思い出せず岩田はもどかしかった。

 穂邑の隣にいる相手となっている女性はその百合子なのであろう。岩田はその百合子を始めてみた時、ハッとさせられた。彼女も黒のカートルのような喪服を着ているのであるが、その翳りが返って彼女を美しくしていたのは明らかであった。喪服の王妃エリザベートはおそらく今の百合子のような者であったろうと夢想できる。薄いヴェールから窺える瓜実顔は柔らかな上品さを湛えていた。

 その近くにはもう二組の男女があった。こちらは穂邑と百合子とは違って年老いた男性と妙齢の女性の組み合わせだった。気は進まなかったが隣にいる阿見に訊くと、老人は哲幹の妻であった安和の兄、益田正武氏であり、妙齢の女性はその愛人、 若しくは介護人として老人に仕える大浦清枝であった。死陰谷村には久流水と益田しかないならば、清枝は生来からの死陰谷村の人間ではないのだろう。老人は四尺二寸ほどの小躯に髭に禿頭、五芒星と条飾を意匠したダルマティカを纏った隠者のような風体をしていた。清枝はこの久流水家の人間とは毛色が違い、やや太り肉の体型をしており、品の良さは少ないものの人の善さが漂ってきそうであった。益田老人は安和が久流水家に入る頃に同じく久流水家の住人となったらしい。哲幹は義兄に貧しいままの生活をさせているわけにはいかなかったのだろう。清枝は年老いて頑迷となった持て余し気味の老人に久流水家が充て付けたらしい。

 上座の近くに独りですッと背を伸ばした三〇代中頃の男がいた。年の按配から考えるとこれが阿紀良なのだろう。黒の背広に確りと撫で付けた長めの頭髪という整った身成りをしていた。背広の袖には月型の銀の釦が眩しく輝いていた。岩田は阿紀良を見た時ハッと目を奪われた。何よりもその年齢に似合わぬ美丈夫の風体であった。切れ長の眼にやや色白の肌、歌舞伎役者のような容姿であった。阿紀良は物静かに辺りの人々を気にせぬ風に涼しげな眼を遠くに投げ掛けていた。死陰谷村に来る途中で教司神父が説明したところでは阿紀良は久流水教の事務的なことを引き受けているそうだ。

「桐人様とマリヤさんは食事をここで取らないようです。桐人様に何かお気を害すことがおありになったそうで。マリヤさんは桐人様のそばに付き添うとのこと」

 聖餐の間入口から一人の女が桐人とマリヤの欠席を伝えながら入って来た。女その人物を女と看做したのはそのスカートという女の服装とその声の柔らかさからだろう。その女――おそらく直弓――は多毛症だった。

 髭のある女のことを聖女デラバ、厄介払いの意味の名を冠すことがある。また恋して死に別れた悲しみは女に髭を生やすことがあるという俗説がある。一瞬、岩田は直弓も良人の英良を亡くした悲しみで髭が生えたのだろうかと思った。だが直弓の父は万里雄なのだ。その資質が直弓に遺伝したのだろう。岩田が直弓への印象を反芻していると、その直弓が突然と声を上げた。

「あらッ!席が一三人分になっています。 最後の晩餐ではありませんか! こんな悪戯をしたユダは誰です?」

 帥彦や数人の村人が受け持っている給仕役の者に問い合わせたところ、決して彼らは一三人分の皿やフォークを用意していないと頑として否定した。このような児戯のために御厨に入って皿を失敬することは容易であり、誰にでもできることであった。

 夕食はこの小さな児戯のために、少しばかり不具合が生じたものの、その他は何も騒ぎもなく穏やかに終わろうとしていた。岩田にとって、コシェルに基づく夕食はやや物足りなかったものの、それなりの満足を得ることができた。その矢先、口火を切って雰囲気を台無しにした者があった。阿見光治だった。

「さて、皆さん。雄人氏の殺害事件の犯人をどう思われますかネ? この中の誰が犯人だと思いますか?」

 久流水家の全員、また御堂までもが表情を曇らせた。阿見の発言に曇らさずにいたのは職業的責務のある平戸だけであった。岩田も薄々気付いていたが、この久流水家の人々は雄人氏殺害事件について余り語りたがっていないのだ。教司神父が雄人氏について話した時も淡々と状況を述べただけで具体的な一人一人の家族の反応や雄人氏に抱く感情について殆ど語ってはいない。久流水家に着いた際に出会った万里雄や帥彦もそれがなかったように振舞っていた。言葉少ない帥彦はともかく万里雄氏は今日雄人氏が亡くなったのも関わらずに豪放に哂って見せていた。食前の各々の自由談義の様子を見ていても喪には服してはいたが、雄人氏のことには殆ど触れてはいないなかった。

 御堂もそれを察していたのか、家人に直接事情を訊かずに平戸を介して状況を訊き出していた。御堂は口が悪いが中身は繊細なのだ。依頼人に対して多少の気遣いを以て接する男だ。久流水家の人間の中に犯人がいるということである。「この中の誰が犯人か?」と聞かれ気分を害さない人間はいないだろう。自分に疑われる要素もなくとも自分の一族の中に犯人がいると指摘されているのである。聞き方にも時と術があるだろう。

「皆さん、誰が犯人と思います? それとも皆が皆、犯人ですかネ。基督教では皆が罪人だそうだからネ。それではアガサ・クリスティですネ」

 阿見は場の空気を益々重くした。肩を震わせていた直弓が突然席から立って阿見に反論した。

「貴方は真理に気付かない無知な者ですわ。すべてを罪人とする原罪の罪と、貴方の言わんとしている罪は別物です」

 直弓はヒステリックな声高で叫んだ。阿見は直弓の立居振舞いに一瞬たじろぐが、持前の強かさを持って直ぐに反駁した。

「肋骨にから生まれし罪人よ。それは申し訳ありませんネ。僕にとっては鰯の頭でも貴女にとっては御大層な教義ですからネ。だけどね、僕は嫌いなのですよ。罪人、罪人と。僕だけじゃあない。まるで自分が犯罪者になったようだ。冷たい牢獄に入れられた哀れな囚人のような気がする。国民総罪人! 罪人扱いはもう充分だ。 僕は罪なんか犯していない」

「法律的な罪と聖書の原罪の罪は別物ですわ」

「違いとやらを教示して下さいますかネ?」

 阿見は直弓に対して、口角を吊り上げてシニカルに言った。直弓はその挑発に乗ったのか、黒い顔から覗く眼をキッと奔らせた。他の者はその様子を静かに諦観していた。阿紀良は無関心といったように遠くを見詰めていたし、益田老人は瞑目し、その隣で清枝は気遣わしそうに見詰めていた。久流水家の中では唯一穂邑だけが興味深げにニヤニヤ笑っていた。

「罪と呼ばれるものは一つではありません。英語では罪を意味する単語には三つあります。CrimeとTransgression、それにSinの三つです。日本語はこれらの三つの単語を表すものは一つしかありません。そのために誤解が生まれるのです。Crimeはそちらの警察の方が扱う法律的な犯罪の意味、Transgressionは倫理的な非行、道徳的な罪のことです。妾達、聖書を読む者が唱えるのはSin。これこそが聖書的罪、妾達人類が皆に背負わされているもの」

 直弓はそこまで言うと、ふうっと一息吐いた。阿見はシニカルに構えて、大袈裟に足を組みながら言った。

「ほぉ、罪に三つの英単語があるとは知らなかった。次はアダムとその婦の話から始めるのですか? 面倒ですネ」

「アダムが神より創られてその肋骨から女が生まれた。二人は何不自由のない楽園で暮らしていた。楽園では飢えることはなく神の温かい恩恵を受けて生きていた。あるとき賢き蛇が女を誘惑して楽園の中心にある神に食すことを禁じられた生命の木、善悪の木の実を食べさせました。そういえばミルトンの『失楽園』ではあの蛇はサタンの姿の変えたものでしたわね。妾はあの小説は好きになれません。サタンが英雄的に書かれていて。禁じられて木の実を食べることは神への裏切り、人が善悪を知ることは神を疑うことになる。人間は神の怒りに触れ、楽園を追放されることになりました。原初の人間は神に叛いて最初の罪(The original sin)を犯した。その原罪はすべての人類に伝播していき、その罪に抗えぬ人々によりこの世は悪の満ちる時代となった。たった一つの果実(malus)を食べてしまっただけで、世界に無数の悪(malus)の満ちるてしまった。祖先の原罪から人間の堕罪の時代が始まったのですわ。

 世の中を見れば判りますわ。街には綺羅を纏った煌びやかな女達は春を売って肉鍋を煮る。殺人、強盗は当り前のように溢れる。飽くことのない戦争を始める。世界は悲劇、悲劇は最大の喜劇、神聖喜劇。笑えてしまいます。穢れを知らぬ純白の乙女は悪の蔓延る世界を見て泣き叫ぶ。『おお、神はいないのですか。神がいたならば、この様な悲劇は在り得ない』と。ですがそれが証明なのです。悲劇があるからこそ神がいる。 悲劇は人間を造った善なる神の作り出したものではありません。それこそが罪の所作です。善を離れたからこそ悪になる。人間が善なる神から離れたからこそ、この世に悪が満ち溢れているのですわ。アダムとその女による罪。罪は子から孫へと遺伝しました。そして妾達は有罪となったのです」


「ははは。罪が遺伝したですって! ロマ人への書にはそう書いてありますけどネ。罪なんかが遺伝して堪りますか。まあ、信じるか否かという話になる。人間は証拠を示せば、簡単に信じるのですよ。そうだなァ、悲劇を神の証明にするよりも、喜劇を神の証明にした方が信じると思うのですよ。例えばお花畑を、人の望む所にどこでも、海面や虚空なんかにポンッと出してやれば、大抵の人間は神を信じるでしょう。悲劇は神を怨みこそすれ、神を信じようとさせるものでしょうかネ。神なんてニーチェの『ルサンチマン』から生まれた慰み。『神が人間のしくじりにすぎないのか、神が人間のしくじりにすぎないのか』。ニーチェの言う様に所詮は神など人間の慰みものです」

「神から離れた人間の本性を神は性悪として捉えています。ノアの方舟の時の洪水を起した後に神は 『人の心の圖維るところ其幼少期よりして惡しかればなり』とお思いになったのです。人間に奇跡を見せたところでそれで良からぬことをしようと考えるものです。神は全能です。しかし人間か絶えず悪事を企む存在ならば奇跡を起そうにも起せるはずがありません。それは人間の堕落となるのですから」

「あはは。善からぬことを企むような自由意志を人間に与える隙を作ったのは、何よりその神自身ではないですか」

「その自由意志があるから、こうやって神の有無を話していられるのです。 神は自由意志を持った人間の愚考も悲しみながらもそれを許しているのです」

 直弓と阿見が攻防戦を続けていると、御堂が徐に口を開いた。

「阿見よ、それ位で切り上げ給え。それに本来の目的は三種類の罪についての説明だろう? いつの間にか神の存在論になっているではないか。話を戻して、三つの罪の説明を再び始めようではないか」

 御堂が言うと白熱していた二人も少しは落ち着いたらしく、沈黙した。岩田が周りを見ると、阿紀良や益田老人は相変わらず達観した態度を取っており、清枝や百合子は二人の白熱ぶりに怯えていた。穂邑だけは何やらこの議論が可笑しいらしく、笑いを噛殺したような表情をしていた。

 直弓が「申し訳ありませんでしたわね、話が脱線してしまいましたわ。罪についてどこから話し始めればいいでしょう」と誰ともなく訊くと、穂邑がそれに応えて、「Sinの話はいいから、後の二つの罪について続けてみればどうか」と言った。直弓は汗を手布で拭き取って続けた。

「Sinについては話しましたわね。一人の罪によって神は人類皆有罪と宣告されました。原罪はSinを生み出しました。人間は業の深いものです。生きるだけで人を傷付けていく。自分の利益をほんの少しでも考えれば、必ず誰かを傷つける」

 阿見は先程の御堂の横槍でやる気をなくしたようで憮然としていた。岩田は誰も直弓の話を聞いていないことを少し可哀想に思い、御堂に代わって直弓に質問をした。

「Original SinがSinを産み、Sinがあるからこそ、世の中にはCrimeやTransgressionが蔓延っているということですか?」

「すべての人間が罪を背負っているのですよ。貴方のいうとおりならばすべての人間が犯罪者や非行者になっていることになります。また犯罪と非行を行っていないものは罪から逃れられていることになります。犯罪や非行でなくとも罪は逃れられません。妾はただ、CrimeやTransgressionがSinによるものと申し上げたい。阿見さんは仰いましたね。自分が犯罪者になったようで嫌だと。犯罪者の罪と、聖書の罪は別物です。罪人と呼ばれてもそれは犯罪者を指している訳ではありません」

「太宰治の『人間失格』という作品の中に罪のアントニムとシノニムが何かをという議論がありましたね。罪の反対は法律ではない。ならば一体何だという件です。貴女の解説で少し判ったような気がします。有難う御座いました」

 岩田はとりあえずここが潮時だろうと思った。その時、ずッとニヤニヤして聴いていた穂邑が「空気が悪くなった」と充分楽しんでいた割には理に合わぬことを言い、当惑している百合子に「何かヴァイオリンで曲を弾け」と命じた。

 百合子は帥彦にヴァイオリンを持って来させて弾いた。聖チェチリアタルティーニの『悪魔のトリル』を奏でた。


「しかし、牢屋にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」                         太宰治『人間失格』



ⅤAlloy 邂逅



月曜日 夕

あの人は明日たつ。

なつかしいジェローム、私は、いつも限りない愛情であなたを愛しています。

でも、もう決して、私の口からそれをあなたに言うことはできますまい。

わが目、くちびる、心に果たした束縛は、とうていたえきれぬものになりました。あなたとお別れすることが、私にとっては解放であり、苦しい満足であるほどに。                    アンドレ・ジイド『狭き門』


 聖餐の間での百合子のヴァイオリン演奏会や、座談といった安息の催しがあったものの、罪の三位一体論議の後だった故に何処か空々しいものであった。暫くは御座なりに時を過ごしていたが、得も言えぬ息苦しさから一人また一人と自室に去って行き自然と御開となった。

 岩田と御堂は聖餐の間から退いた後も客室で暫し苦々しい倦怠感を味わっていた。岩田は寝台に横たって、今朝からの事柄を反芻していた。

 真ッ赤な炎天の下、段だら坂を上り、御堂によって一〇年来探し求めた妻亜里沙が冥府に発ったことを知り、それを忘れるためにこの村に行ったものの、初日から信仰論議に巻き込まれることになった。一〇年間、亜里沙の微笑を胸に信じて生きて来たのに、その亜里沙は壮絶に死んでいた。一〇年に亘って信じて来たものが、既にこの世にはないと知った後に、神を信じる者と、信じない者の論議は岩田に退廃的な感覚を孕ませた。岩田はその怠惰な想念の渦から逃れることができずに寝台で悶々としていた。

 時は夜半を間もなく迎えようとしていた。岩田は寝台の上を転転としていたが、夜半を大分過ぎた頃、漸く自省する気になって、気分を変えようと起き上がり黄水館一階の北側にある浴室に向かった。

――亜里沙よ、お前は何故に逝ってしまったのだい?――

 浴室までの廊下を照らすものは所々に配置された蝋燭のみ。この闇の道がどこまでも果てることが無かったならば。岩田は夜の闇の冷たい空気を薄気味悪く感じた。岩田の想念に反して現実は目睫に光を見せた。浴室の扉の隙間から一条の光線が延びていた。

 おやッ、先客がいたのか。だが今は夜も深けている。今の時間に入浴しようとする者が他にいるのか。今日が終わり明日へと時間の連結が始まる頃だ。夜の帳が閉じて幾許か。他にも夜の暗渠に息付く者がいるのか。

 光を漏らした扉がすうッと開いた。中から一人の女が姿を現した。

 ――ああ、美しい――

 目睫に現れた女は感嘆するほどの美しさだった。 薄い柔らかな生地の白い服を纏って、眉目秀麗。何と美しい。純白のブーケと、太陽の首飾りが女の全体をいっそう優美にしていた。太陽の形をした首飾りが蝋燭の炎で輝き、岩田の瞳を眩ませた。 

 女は岩田の存在に気付いて、はッと顔色を変えた。

 岩田は女から眼を離すことができなかった。初めて会う女だった。岩田は女が何者か知りたくなり、女に訊ねた。

「貴女は、貴女は誰ですか?」

 女は怯えたような瞳をしていたが、存外、平常をもって応えた。

「私はマリヤ。マリヤです……」

 処女の香を未だ漂わせるすべてを包み込むような女だった。

 その時、岩田の胸中にある女の言葉が浮かび上がって来た。亜里沙の最後の言葉が岩田に重く圧し掛かった。

「貴方は自分のことしか考えていらっしゃらないのね」


たぐいないおかた、

光ゆたかなおかた、

お顔をいつくしみ深く私の幸福のほうに

かしげて、かしげてくださいまし! 

かつて恋したかたで

今はもう濁りのないかた、

あのかたがもどってまいります。

                          ゲーテ『ファウスト』

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