第32話 再会

 亜紀は奈良の伯父さんの家に帰って来た。順序にこだわりを持つあの人にしてみれば今日は突然過ぎて空振りだったのは当たり前だった。昔のままでほっとする反面それでも都合をつけてくれれば、とちょっと我が儘過ぎたかしら、と思えるほど空白の日々が長くて辛かった。あたしを探しに城崎から来たあの女の子は、真っ先に澤木の事務所に行った。それほど手広く仁科さんはあたしを探していたからだった。お陰で波多野さんとの伝言を受け取れた。

 明日逢ったら何を言おうか、とあれこれ考えたが、愚痴ばかり出てきた。これがあたしの本心なのかと気が動転した。そんなことはない、五年も待たして愚痴の一つぐらいは、あいつの頭にぶっつけてどこが悪いと居直った。

 元気に伯父さんと遊んでもらってる美咲を見てふと笑いがこみ上げた。その美咲の顔を見ているとすべてが霧のように霞んでいった。 

 ママ、と云う呼びかけに、稜線に掛かる霧は吹っ飛んだ。その道は脇が急斜面になり、この道しか歩けなかった。登るまではいろんなルートがあっても、登り切れば後はどこまでも続くこの稜線しかなかった。先を行く美咲はまだ危なかっしいかった。

 伯父は美咲のために、テレビの子供番組を流しているが、関心がなさそうだった。無理もないか、あんな何もない過疎地で本ばかり読む癖が付いたからだろう。悪くはないが子供らしくないところが、伯父には歯がゆかったかもしれない。

 美咲を寝かしつけてから亜紀は伯父夫妻に明日について聞かれた。

 伯父の妻はしきりと美咲ちゃんも連れて行きなさい、と説教じみるほどやかましく言っている。伯父は全くのその反対意見で、久しぶりの対面は二人だけで水入らずでいいと主張して平行線になった。長く連れ添った夫婦でも、美咲のことになると意見は真っ二つに割れてしまった。

 伯父は波多野さんは、子供の存在は知っていてもそれは頭の中だけの話で、まずは今は君の面影をなぞってゆくのが背一杯で、今はまだ心に受け入れる余裕がないから、次にしなさいと言った。それに反して妻は、ここが一番肝心な時よ、と言われた。

「あの時はおまえのお腹の中で全く影も形もなかった。そりゃあ少しでも面影をたどれば別だが、まずはお前との思い出に浸ってからの話だと思うがどうだろう」

 話を振られた妻の方は聞きながらも、反論を整えていたのか、鋭い口調で直ぐに切り出した。

「あなた、それは男の考えであって女は別です。ましてお腹に抱えていれば尚更ですよ」

 心に刻みつけた人と、体に生命として宿しているものの違いです。それが愛の重さそのものではないかしら、女にとって愛はそんなに軽くはないんですよ」

 そう決めつけられて伯父は、全くのその答えを導くのに四苦八苦しだした。

「考えても見ろだいいち五年も待たされるなんてどうかしてる」

「波多野さんはあの旅館の現場を見て五年で立て直すと、それで旅館の経営者から是非にと自分は認められて結納まで交わしてくれた娘さんに添え遂げると、そこまで心に決めながらあたしの愛に応えてくれるのなら、あたしは待ちたい。晴れて添えられるならと決めたものですから」

「なら尚更ですよ、美咲ちゃんは連れて行くべきよ」

「いや待て、もっと深読みしろ更に仁科さんのお陰で半年延ばされた波多野さんの気持ちに寄り添ってみろ、まずは亜紀一人で行くべきだろう」

「あなたまだそんなことを言ってるんですか、それは身軽な男の言い分ですよ女は十月十日何があってもお腹の子のために待たにゃあならないんですからねそれをはっきりとした形で見せるべきですよ」

 此の苦労を男には解るかと、妻は亜紀を庇ってくれた。

「男の人は苦しみを何らかの形で負担を求めたい。あの苦しみを味わって欲しいものよ」

 出来るに超した事はないがそりゃあ男には無理だろう、と苦笑いをした。


 部屋の四隅を突いて白々と夜が明けだした。亜紀は二人の愛の形だから見て認めてもらうのに、美咲を連れて行くのに躊躇いはなかった。だがこれには早くも伯父夫婦の拒絶にあい結局一人で出かける羽目になった。

 美咲はけなげにも「大丈夫だよちゃんとお利口にお留守番してるからドジを踏まないように行ってよ」と見送られた。

 全くもってどこであんな言葉を覚えちゃったのかしら、と首を傾げながらも家を出た。


 奈良から近鉄電車でそのまま京都の地下鉄に乗り入れて松ヶ崎駅で降りた。そこからタクシーで四百メートル手前の一乗寺で降りた。そしてあぜ道に沿って曼珠沙華が真っ赤に咲く路を歩き、秋を思わす空の下で曼殊院の山門をくぐった。

 広い三和土たたきの土間には、学校の玄関にあるような下駄箱があった。季節外れの寺院には参拝客は少なかった。ぽつんと似たような懐かしい靴を見つけてホッとした。 

 通用門から庫裡くりを抜けると、大玄関にある竹の間、虎之間、孔雀の間などの襖絵が今いちど想い出を重ねさせた。そこから大書院に通じる傾斜のある長い廊下を歩いた。

 大書院の赤い毛氈の敷かれた縁側には、三人ほどが等間隔を保ってお庭を眺めていた。あの人は一番奥にある枯山水の庭園に面した大書院の縁側に座って庭を観賞していた。亜紀はそっと後ろから近づいて隣に座った。波多野がゆっくりとこちら側に首を回してきた。そこで昔のままの眼差しに包まれて、亜紀は苦労した年月としつきが一気に押し流された。

 亜紀は静かに久し振りねと言えば、すまなかったと優しく応えた。 

 あの時にあなたは、傾いた旅館を建て直して、先ずは迷いを断つ処から始めた。何故なら待てば二人は瓦解する。そこに信頼があればこそ速攻で迷いを断てた。俺が迷えば彼女たち二人も迷う。だからやるしかないし、此の二人は受け容れてくれると信じた。亜紀も信じて待った。嶋崎も約束を守って俺を見送ってくれた。

「久し振りですあなたを信じた甲斐が有りました」

 と短い言葉を交わして二人は、あの日のように達観の境地で庭を眺めていた。


 茉莉が城崎へ戻って、女将さんに伝言の経過を報告した。その後を追うように、仁科亮介は城崎の嶋崎旅館に宿泊した。

 温泉にゆっくりつかって部屋に戻ると、若い仲居さんが食卓に夕食の支度をした。

「君が茉莉ちゃんか、いゃあ話は聞いていたよ」と言葉を掛けた。

 仁科は加奈を通じて、澤木から情報を仕入れていた。それによると波多野が来てから宿泊が伸びて客室の稼働率が上がったそうだ。宿泊単価が改善したのが大きかった。

 それ以外にも社長は、従業員の意欲高揚に色んな催し物をやっていた。特にボーリング大会には豪華な景品を付けて張り切らせていた。

「なるほどそれで仕事も和気藹々わきあいあいとできれば能率も上がり客あしらいも良くなってお客が増えて商売繁盛ってわけか」

 話ながらも茉利は手際よく料理を並べ終わった処で、やって来た女将さんと入れ替わって彼女は下がった。当たり前だが女将さんの和服の着こなしが様になっていた。柳原亜紀さんの場合はどうだろう。残念ながら彼女の着物は、祇園の店以外でも見られなかった。が亜紀さんを見比べても遜色がない和服姿が思い浮かんだ。それほど女将さんと似た雰囲気を持った女性だとつくづくと見て思った。さっきの若い子もそうだが、確かに和服の着こなしは良かった。

 配膳のたびに立ち上がり、また座る時の裾捌きが絵になる。更に膳に手を伸ばしても袂が料理に触れないように、もう一方の手を袂に添えて料理を揃えて行く。それが自然過ぎて、加奈ちゃんから事前に聞いてい無ければ、バイトとは思えない板に付いた仲居さんだった。此処にも波多野の教育の一環が読み取れた。

 さっきの子はいい子だねぇと言う仁科に、女将さんは波多野が一番可愛がってた子ですから、と言われてホオーと感心していた。

「それが波多野がピュアな愛を説いた子ですか」

 女将さんに注いで貰ったビールを一口呑んで尋くと、

「何ですかそのピュアな愛って言うのは」

 と聞き返された。

「女将さんと柳原亜紀さんとのバトルを彼はそんな風に茉利ちゃんに語ったそうですよ」

「まあ内のバイトの子にあたし達のことを、それでなんて言ったんですか」

「キーポイントは二人の歳に五年の開きが有るのを彼は愛とすり換えて上手く利用した」

「利用しただなんて、そんな人聞きの悪い。波多野さんはそんな人じゃあ有りませんでしたよ」

「そこですよ女将さんから聞きたいのは、彼がどれほどよかったか、のろけ話でも構いませんから聞きたいもんですね」

素面しらふでは言えませんからあたしもお酒を頂いても良いですか」

「いゃあ、これは気が付きませんでしたあたしとしたことが女性に催促させるなんて無粋な男ですね」

「仁科さん、此処はスナックやバーでなく旅館ですから無粋も何もあったもんじゃありませんよう」

「ごもっともです、それじゃあどうでしょう」

「それを聞きたくてわざわざ城崎まで足を伸ばされたと聞きましたよ誰とは言いませんが」

 お節介なやつは一体誰だ。俺はただ柳原亜紀と波多野との恋の成り行きを知りたいだけだった。知っても大して変わらないが、俺はこういう女といつでも肩を並べて歩ける。その一点以外に還暦間近の男にはあるわけがなかった。そのせいか女将は何の疑念も持たずに話し始めてくれた。

「まあ知り会ったのは同じ時期かしら、なんせあたしの場合は親公認と云うか、親に勧められて付き合ううちに芽生えた恋ですが、柳原さんの場合はホテルで同じ宴会部門の上司と部下の関係から芽生えた恋でしたから、出だしは違ってもスタートラインは似たようなものです。でもあたしは毎日四六時中会うわけでもありませんけれど、向こうは同じ職場ですから毎日顔を合わす。そのうちに微妙に感情が揺れ始めた頃にはあたしは妊娠していました」

 ホォ~と仁科は一息付いた。

「それはどっちから誘ったんだね」

「気を惹こうとしたのは柳原さんのようだけどその前から波多野は気にしていたけれどあたしの手前ではそんな素振りは見せなかったようです。けれども毎日となるとそれを言っちゃあ悪いですけれど男って謂うものは一度釣り上げると関心が、度合いは別にして他へ移るそう何ですか?」

 これには仁科も返事に困った。

「まあそれはそれとして、そろそろあたしのお腹が目立ち始める頃に柳原さんにも告白されました。君と同じになってしまったって」

 ーーさあそこから修羅場と思いきや、波多野さんは約束通りあたしと一緒になるって言ってくれました。でもそれは亜紀が君と同じ歳になるまでだと言い聞かされました。

「仁科さんが本当に聞きたいのはその時のあたしの心境でしょう」

 そのためにここまやって来たと言う顔つきで身を乗り出した。

「どうしょうかと迷ってるうちに、さっさとあの人が決めちゃったの。それに直ぐに反論できないほどあの人の言葉に優しなりにも拘束力があった。長いと思ったけど幸せな時間は意外と短かったけど……、楽しかった」  

「しかし今、彼は柳原さんの元へ行ったけれど……」

 仁科はそれでも良いのかい、と云う語尾を呑み込んだ。

「でも五年尽くしてくれました。あの人を信じた甲斐が有りました」


( 完 )

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放牧された羊と消えた羊飼い 和之 @shoz7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ