第31話 早坂の調査報告

 亜紀さんは社長と女将さんからの、伝言を聞くまでは神妙だったが、茉莉から言われると様子が変わった。彼女は完全に心ここにあらずと、雲の上に居るように気持ちが浮いているのか、会話に乗ってこない。すぐに途切れて話題が続かないんだ。

 ケーキを散々食ってから、まだシュークリームを食べるから。あなた達のお腹はどうなってるの、と亜紀はぼやきながらも、やっばり茉莉の伝言に期待を弾ませていた。そうなるとこの二人は邪魔者扱いだった。亜紀はわざとらしく腕時計に目をやると、

「もうこんな時間になってしまって、早く帰らないと美咲が心配するわね」

 と自問して、紅茶のおかわりはこれでおしまい、と亜紀はサッサとテーブル端の伝票を取った。そのまま軽やかな足取りでレジで精算を済ませて。これから美容院へ行って髪をセットしてもらうから、と行っちゃった。

「波多野さんの伝言が間に合ってよかったわね」

 ラウンジの灯は颯爽と出て行く亜紀の後ろ姿を明るく照らしていた。二人は羨ましさも半分にして見送った。直ぐにホテルを出たが、外は仕事帰りの雑踏の中に亜紀は埋もれてしまった。二人は夕暮れが迫る御堂筋を北に向かって歩いた。

「亜紀さんにすれば今日の茉莉ちゃんは福の神だったわね」

「それはどうだろう、それを言うなら元気に送り出してくれた女将さんじゃあないだろうか、だって社長は二条駅であたいを待ってるときに亜紀さんから電話してきたからちょっと驚いていた」

 まさかとは思うが女将さんが亜紀さんに、連絡するわけはないだろうと思ったらしい。

「それが事実なら実に奇妙な定員過剰の三角関係が成立していたって云う訳か。それでそこから波多野さんのピュア論が始まったか、で、どんなことを言われたの」

「恋の相手の価値観が問題なのって、あたしには置き換えられる愛の価値観って何だろうと思ったけど……」

「茉利ちゃんが波多野さんから植え付けられた愛の価値観って何なの」

「歌の文句じゃないけれど『これも愛あれも愛たぶん愛きっと愛』なーんて片付けられないんじゃない」

「何それ」

「旅館のお泊まりのおじさんたちがカラオケでよく歌ってた。何でも五木寛之さんの作詞だそうよ、中でも印象的なのが五十代のちょっと色っぽい女の人がこれを歌ってた。きっと自分の愛の遍歴を重ねていたんでしょうね」

 冬の日本海に蟹と温泉を求めてやってくる、おじさんたちのうらびれた青春の愛の賛歌なのかも知れないけど。

「茉莉ちゃん、城崎ではそんな人達を相手に働いてるのか」

「でも最近は若いカップルも来るのよ、それが様々なの、女の尻に敷かれる男やらその逆に黙って差し出すコップに甲斐甲斐しくビールを注ぐ女もいるんだから愛の形は様々なのよでも別れはただ一つ憎しみだけ、なーんちゃってねー」

 と茉莉は走り出すと急に止まって振り返った。

「加奈ちゃんっちは浮気の素行調査なんてやらないの」

「うちの所長の得意分野、なんせ金になるし修羅場の二人からは苦情も来ないし」

 当事者にすれば怒り心頭で、それどころじゃないから言い値で商売繁盛らしい。

「浮気の素行調査って定員オーバーの恋だからブザーが鳴れば矢っ張り気落ちした方が降りるんだろうね、そしてそのまま二人だけを乗せて昇天してゆくのか」

 何を言ってるのよと加奈は呆れてしまった。これが素行調査だけをする者と、旅館の現場で実見聞する者の違いだろうか。


 早坂が仁科亮介の自宅を訪ねた。応接間に通されて、そこで調査内容を聞かされた。その前に息子、仁科亮治の依頼には仕事とはいえ、尽力された苦労に報いたいと呼んだ。

「息子は行き当たりばったりでじっくりと先を見据える目がないから、君もあうだこうだと言われて苦労させられただろう」

 だが早坂はいたって平気な顔をしている。けして同情を買おうなんてこれぽっちも見せない。だから何を考えてるのか判らない。努めて依頼者には愛想笑いでも浮かべる者だ、と思うのは俺だけじゃないだろう。息子がどうしてこの男ばかりに頼むのか、卑屈なイメージがどうしても重なるが、けしてそんな男ではなかった。すべては仕事向きの貌だった。その顔から悔いてないのを察せられるのは、仁科亮介とその息子を除く近習ぐらいだろう。だから早坂は陰のように付き纏うから、彼は振り向いても自分の足下を見ない限り、己の存在が解らない男だった。まさにこう云う仕事には打ってつけでもあった。

「何事も仕事と割り切って接してますから仁科さんはお気になさらずようにして下さい」

 いかにも彼には似合わない慇懃な返答に仁科は笑いを堪えた。 

「いゃあ君のお陰で白旗を揚げた息子との確執が引き分け状態に持って行けたのだから感謝しているよ」

 引き分けで息子が自尊心を生むだろう。この自然の摂理に逆らわない生き方を仁科はモットーにしている。それに沿うように早坂が、息子を説得してくれた事に感謝した。

「ところで柳原亜紀さんの方はどうだろう」

「奈良の伯父さんの家で、波多野さんからの呼び出しに待機しています」

「その波多野だが詳しい経緯いきさつはどうなんだ」

 ーー波多野は五年で亜紀の元へ帰ると云う条件を、嶋崎が受け入れてあの旅館を引き受けた。そこには燃え残る線香花火の終末に似た愛が漂っていた。それと時差が生じた亜紀との求愛を差し引いたものだ。結納まで交わした相手は、城崎では老舗しにせ旅館で、彼女が後ろ指を差される破談だけは避けたかった。波多野にしても人格が関わる信頼関係だけに、完全に壊れるのも避けたかった。五年後に離婚すれば義理も立つし、老舗旅館としてのダメージも少なくする方法を模索していた。

「早坂さんの処では素行調査を扱う量が多いと思うが調査代を払ってまで調べる中では此の波多野の様な体面を重んじる人は稀じゃあないか、特に老舗旅館となればそれを彼は壊したくないだろう。愛は薄れても寄せてくれた想いには報いたい、その一心で取り組める人は稀だろうなあ」

「そうでしょうねぇ。私が調査した中ではごく稀な少数派でしょう。愛の破局と云うものは片方が未練を残すものですから、反感を増せば相手も恨みを増す、これがエスカレートして行くのが常ですから、このタイプは稀でまして捨てた女の立場まで考えてまで過去の愛に寄り添うのはいないでしょう。新旧の女性がお互いを思いやるのは波多野さんの人柄ですね」

「並の男には出来ない、がそれだけ似た心根の人を愛するからそんな行動が取れると言う事なんか」

「なかなかできんでしょうね」

「そうとは知らずに俺は亜紀さんに資産を預けたけど、そんなことはひとことも言わずに良く逃避行をやってくれたよ」

「どうやらそれで柳原亜紀さんから波多野さんへの再会を引き延ばしたらしいですが、それでも波多野さんは律儀にも城崎を予定通り離れられたこれは柳原さんには心強いでしょう」

「会ったのか」

「観察しました」

「波多野って男はそんなにも信義を貫く人なんか」

「傍目にはそんな意思の強さは見受けられなかったですね、でも彼に寄り添った二人の女性は見抜いたんでしょうね」

 それこそが愛の片鱗だと、この場の二人は読み取った。

「早坂さん、調査員の目から見て何処までも貫く人、例えば世間の風当たりでどうなるか判らない時に凜として動かぬ女は仕事柄、恐ろしいでしょう」

「どうでしょう、だから仁科さんは彼女に躊躇なく資産を預けられたんじゃないですか」

「言われてみればそうだが、あのときは何の躊躇ためらいもなく劇場の鑑賞券でも渡す気分だったなあ」

 仁科亮介は、そのときの光景を思い出したのか高笑いをした。


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