握手④

 ミサリィは淡々とした口調で話し続けた。


「私が初めて先生の小説を読んだのは高校二年生のときでした。あの頃は『この現実』で生きていくのが本当に嫌になっていた時期で、自分が死ぬべき理由を毎日探していたんです。元々はWEB小説を読んでいなかったのですが、[自殺 小説]で検索したところ、先生の書かれた『最終幻影戦記』がまとめサイトの一番下に紹介されていて、なんとなく読んでみたんです」


 彼女の言動に混乱していた僕はひとまず、ミサリィの物語の読者になろうと考えた。

 僕の物語を読んでくれた彼女に対して、そうすることが最低限の礼儀だと思ったからだ。


「冒頭の一文で衝撃を受けました。[お前、なんで生きてんの?]って、いきなり突きつけられて。主人公の少年が死神に『生きる意味』を尋ねられて、それに答えられないシーンが胸に刺さりました。『あぁ、これは自分のために書かれた小説なんだなぁ』と」


 『最終幻想戦記』は、僕が『死にたくても死ねなかった想い』を封じた作品だった。そんな鬱蒼とした樹海を放浪するかのような物語を真正面から真剣に読んでくれたのは、この世界でミサリィ一人だけだろう。


「それから半日で一気に読みきったときの読後感は、他の小説を読んだあとの感覚とは全く異質のものでした。汗と涙と鼻水を垂らしてTシャツを水浸しにしたまま、何時間も呆然としてました。『自分の悩みをわかってくれる人が世界にいたんだ』って、心の底から思えたんです」


 ある時、何の気なしに投稿した小説のコメント欄を見てみると、大学の課題レポートかよと思うような長文のレビューが載せられていた。

 僕は何度もそのレビューを読んで、挙句の果てにはそのレビュー文のスクリーンショットをA4の紙に印刷して、ついこの間まで部屋の壁に飾っていた。


「今日まで千以上の小説を読んできましたが、あの日に受けた衝撃を超える作品にはとうとう巡り会えませんでした。先生は私にとって、唯一の小説家さんなんです。だから決めました。いつか先生にお会いして、精一杯の感謝を伝えようって。高校生のとき、先生が埼玉に住んでいることをDMで教えてくださいましたよね?」

「うん」


 たしかに三年前、ミサリィは僕のTwisterアカウントにDMを送ってきた。

 それは高校生の彼女が、わざわざ徳島からやってくるという主旨のメッセージだった。


 [一度、箱庭創先生にお会いしたいのですが。ご迷惑でしょうか?]


 僕はそれを断ってしまったが、あとでそのことを後悔した。百万円の当たりくじを交換し損ねた人のように、毎日後悔した。


「それもあって埼玉の大学に進学することにしました。先生のお顔を初めて拝見したのは二年前の春です。先生がTwister上に定期的に写真をアップしてらした喫茶店を特定して、そこに毎日朝から晩まで張り込んでみたら先生を見つけました。だから私、先生の家の住所は知ってたんです。そこからバイト先に向かって夜八時まで働いてから、このアパートに戻ってくるまでを尾行したこともあるので」


 一年前から隣の部屋に住んでいたことの衝撃が強すぎて、尾行されたことには何の感情も湧いてこなかった。

 この家賃四万円台のアパートの壁は、ベニヤ板一枚で仕切られているんじゃないかと疑ってしまうくらいに薄い。

 一年間の隣人生活を通して、何から何まで知られてしまっているのか、全く想像もつかなかった。


「大学の春休み中は、ずっと先生の背中を見ていました。喫茶店で猫背になりながら、テキストエディタで小説をお書きになっているお姿を。でも、自分からは声をかけられませんでした。そのままお店に通い続けるのも良かったのですが、前に下宿していたアパートからここまで片道三十分ほどかかったので、思い切って引っ越すことにしました。隣の部屋に住み始めたのは昨年の八月です」


 ミサリィが語っている間、僕は何も言えずにいた。

 目の前で語られていることが、小説だったら良かったのにとさえ思った。

 彼女の行動は常軌を逸している。とても正気の人間がするようなことじゃない。


 でも悔しいことに、ミサリィの異常行動に対して、不快感が感じられなかった。心の奥底では、狂ったような悪魔の笑い声が響いていた。

 ズボンのポケットに入れていたスマホが振動したのに気付き、僕は我に返った。


「ここまでの事実を録音した音声ファイルをお送りしました。もし私との関係を切りたくなったら、それを証拠にして警察に届け出てください」


 待機画面に表示されていたTwisterの新着メッセージを開くと、たしかにミサリィからのDMが届いていた。音声ファイルもいくつか添付されている。

 僕はここまでの話の中で、唯一疑問に思ったことを聞いてみることにした。


「君はさぁ、僕に拒絶されるパターンを少しでも想像しなかったの? 僕に引かれたり嫌われたりするとか、計画が失敗することについて、何も考えなかったの?」

「想像はしました。でも、たとえ拒否されたとしても、それはそれで納得は出来るので。全ての可能性を試した結果だって」


「そっか……」

「私のこと、怖いと思いましたか?」


「うーん。怖いというより、僕の小説が誰かの人生を狂わせていたことへの驚きの方が大きかったかな。僕の小説に、そんな影響力があったとは思えないから」

「先生がご自身の小説を頑なに評価なさらないので、秘密兵器を持って参りました。どうぞご覧になってください」


 手渡されたのは、プラスチック性のクリアファイルが何枚も挾まった黒いバインダーだ。


「何これ?」

「先生が発表してきた全作品への、肯定的なコメントだけを集めた資料集です」


 中を開くと、作品ごとに仕切りの厚紙が挟んであり、いくつものスクリーンショットの切り抜きが、各ファイルに入っていた紙に整頓されて貼られていた。


「よく作ったね、こんなの」

「先生は知らなかっただけです。私だけではないですよ。先生が書いた小説の続きを待ってくれている読者は」


「ちゃんと読んでくれてるのは、ミサリィさんしかいないと思ってたよ」

「私が、先生を商業小説家にします。だから――」

 ミサリィから右手が差し出された。


「私たちのためにもう一度、小説を書いていただけませんか?」


 スクラップファイルをめくりながら頭に思い浮かんできたのは、過去の気苦労だった。

 長編小説を書くのは大変だ。何週間もテキストエディタを見つめて唸りながら、やっとの想いでプロットを作り上げる。そんなに苦労したって完成品の保証はなく、ほとんどは修正の嵐。自分の頭の悪さに気が滅入り、己の才能の無さを呪い続ける。


 [箱庭創先生の作品はスケール感が違います。]

 [冒頭のワクワク感がたまらんっ!!]

 [この展開は最初から計算されていたのか……恐ろしい。]


 設定破綻箇所を見つけるのは日常茶飯事だ。些細な辻褄合わせ程度なら数十文字変えるだけで対応できるが、大筋に関わる部分の破綻となると、今まで何ヶ月もかけて書き上げた部分の全修正が求められる。書き直しは辛い。書き出しの何百倍も筆が重くなる。


 [世界観の見せ方が上手くて、参考になります。]

 [設定の整合性がとれていて、ツッコミどころが少ない。]

 [このアイディアを思い付ける才能に嫉妬せざるを得ない。]


 所詮、物語は作り話。登場人物たちにそのときの気持ちを聞き出すことなんて出来ないから、各々の心情を想像して書き留めていくだけで一日が終わったりする。本文は一文字も進んでいないのに、ただただ時間だけが消えていく。自分の人生は何も動いていないのに、年齢欄に書く数値だけが増えていく。


 [登場人物たちが活き活きしていて、悪役も魅力的でした!]

 [物語のテーマがキャラクターのドラマに落とし込まれていて素敵。]

 [最後のシーンは泣きました。。早く続き書いてーーー!!]


 僕はファイルを閉じて、ミサリィの目を見て言った。


「一つだけ条件がある」

「何でしょう?」


 ミサリィは、プロポーズを受ける直前の女性のように潤んだ瞳で、僕を見つめてきた。


「僕は僕自身のために小説を書きたい。というより、自分自身のためにしか小説を書けないと思うんだ」


 もう小説を書くのも考えるのもウンザリしてたはずだろ? なんでそんなこと言うんだよ。約束できんのかよ。これから何十万文字も書いて、何万文字も消しては書き直して作品を完結させるって。あと何年費やせばいいんだよ。

 目線を上げると、僕の暗澹たる心情とは180度反対側にあるような、無邪気な笑顔が咲いていた。


「もちろんそのつもりです。先生はご自身が書きたいと心から思うような小説を書いてください。これから先、先生がどのような小説を書こうとも、私は最後まで先生の作品の読者で、編集者で、ファンですから」


 ミサリィの言葉は、他の数々の読者たちからの言葉と比べようがないほどに、僕の胸の中心に刺さった。刺さってしまった。

 チェックメイト、投了。

 仕方なく僕は右腕を上げて、彼女の右手を握り返した。


「はぁあ。またあの辛い目に遭う日々を送らなくちゃいけないんだと思うと、気が重いなぁ……」

「これからは私にも、その想いを半分背負わせてくださいね」


 ミサリィは、数百億ドル規模の企業買収を成功させたファンドマネジャーのようなニヤニヤ顔を向けながら、僕の手を強く握り返してきた。

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私のために小説を書いて 犬塊サチ @inukai_sachi

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