有閑マダム

 三月三十日 火曜日 十時三十五分――


「真琴」


 染倉邸の玄関に向かう途中で、安賀多は真琴を小突く。

「どういうつもりだよ、なにが先生だ」

「だって、九ちゃんが表に立つお約束でしょ?」

「だからって悪ふざけは止めろ。あんま目立ちたくないんだよ、俺は」

「はあい」

「いつも通り、スマホでこっそり指示出せばいいんだよ」


 安賀多の言葉に「はあい」と、真琴は生返事を繰り返した。


「それにしても」

「なんだよ」

「九ちゃん、ここでヘビ見つけたら、本当にペット探偵になっちゃうね」

「ばあか、誰のせいだよ」

「私のせいかねー?」

 真琴はどこか嬉しそうに微笑んだ。


「それでは、お履物はこちらで」

 恵里の案内で玄関から応接間へと通される。外観が和風の作りであったから、てっきり中もお屋敷然としているものだと思われたが、住人の高齢化に伴いバリアフリーにフルリフォームされているようで、応接間もソファであった。

 クリーム色の毛足の長いカーペットに、金華山織きんかざんおり張りのソファ、けやきの一枚板のテーブル。どれもが長く使われてきた、よいものであった。そして、応接間の壁際に空っぽの飼育ケースがあった。ここに花ちゃんが飼われていたのだろう。


「どうぞ」

 寛子、玲子、真琴、安賀多、それぞれの前にコーヒーとフィナンシェが置かれる。カップも長く使われているであろうアンティークものであった。真琴がカップを持ち上げながら小さく呟いた。

「リサが好きそう」

 安賀多は返事こそしなかったものの、眩しそうにカップを眺めて口角を上げた。


「改めて、お呼びしておいて……庭先へ案内させてしまって申し訳ございません。実は、町内で空き巣被害が増えていまして、用心を、と」

 寛子の申し訳なさそうな言葉に、安賀多の目の端がキラッと光る。

「空き巣――ああ、そういえば元職場の同僚が同じようなことを言っていました」

 安賀多はサンドイッチ好きの元同僚とカレーライス好きのその部下のことを言っているようだった。安賀多の言葉に、寛子が食いつく。

「元同僚の方ですか?」

「ええ、刑事部の捜査三課の人間で――」

「まあ、警察の?」

 寛子の声色がまた一段階高くなる。それに合わせるように玲子も隣から、安賀多に話しかける。

「えっ! 安賀多さんって元刑事なんですか」

 すごーいとキャピキャピ盛り上がる寛子と玲子を見ながら、安賀多は、真琴の刺すような視線を痛いほどに感じていた。その目は「目立ちたがり屋が」と言っているようであった。


 寛子は音もなく両の掌を合わせる。

「では、花ちゃんの捜索と空き巣事件の解決もしていただけたら、こんなに嬉しいことはありませんわ」

 そう言って寛子は、応接間にある空っぽの飼育ケースを見やった。

「いえいえ、私なんか現役を退いてもうだいぶ経ちますから」

「あらいやですわ、先生。ご謙遜を」

 おほほ、と寛子は笑う。

「でも先生、本当に。警察だけでは不安ですから、もしその気になったら恵里さんから話を聞いてみてくださいな」

「立花さんからですか?」

「ええ、彼女って人気者でしょう? 私が紹介したんですのよ。町内のお宅に何件も派遣されていて、みんなの家政婦さんみたいになってしまっているんですけれど、運悪く、恵里さんが通われているところも被害に遭っているようで」

「ほう」

「どなただったかしら」

 寛子が応接間の入口に控える恵里に聞く。恵里は残念そうに答える。

「猪瀬さん、立川さん、あと井口さんのお宅ですね」

「そう! 三軒も」

 寛子はその言葉を繋げるように安賀多を見る。

「怖いでしょう? 先生。宅もいつ被害に遭うか分かったものじゃありませんわ。優梨愛さんにもちゃんと用心するように伝えておいてくださいね」

 ふと思い出したように寛子はそのまま、玲子に向き直った。玲子は深く頷いた。

「はい、伝えておきます」


「それと……はまだ来ているのかしら、飯島さんのお宅に」

 寛子の含みのある言い方に、玲子は思わず前のめりになる。

「あの車、と申しますと?」

「近所の奥様方から聞いたんだけれど、真っ赤なコンバーチブルに乗ったイケメンが毎日十四時になると優梨愛さんを迎えに来て、十七時に連れて戻って来るって」

「あ……」

 玲子は思い当たったことがあるように、言葉を短く止め、仲の良い優梨愛のことを思ってから口を噤んだ。しかし、この行為を寛子は、肯定だと受け止めたようだった。

「そう、来ているのね」

 寛子は右頬を撫でながら小さくため息を吐く。

「困ったものね。町内で、浮気騒動とか起こされると、噂だけでも風紀が乱れてしまうし。それに優梨愛さんのところはお子さんも小さいでしょう? アイトくんだったかしら?」

「マナトくんです」

「そう読むの? 年賀状をいただくけれど、読めなくて。若い人の感性についていくのは本当に困難だわ」

「……」

「お子さんも小さいのに、本当にかわいそうに」


 どこか重々しい空気の中、寛子のハキハキした声に素直に頷く人間はいなかった。

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