神の力


 泣くのはやめた。

 涙を流すのは、甘えに浸かった幼子のすることだからだ。


 死ぬのは怖くない。

 死を恐れるのは、覚悟のない未熟者のすることだからだ。


 自らの宿命を受け入れて、自分ではない誰かの幸せを呼び寄せるために。

 ひたすらに、どこまでも。

 誠実を貫き、純粋に、無垢に。

 そうして清く澄んだ心を持ち続けなければ、誰かの望んだ奇跡は現実にならない。


 だから小幸は、自分の内側から目を逸らして。

 自分ではない誰かの幸せのために、身を捧げなければならない。


 本当は、やりたくなかったのに。

 全部投げ出して、逃げてしまいたかったのに。


 ――そんなことを思っていたから、靖央はあんな目にあったのだろうか


 表面上では自分の定めを受け入れて、でもその裏では、葛藤と忌避を続けていて。

 神巫はどこまでも健気で在らなければならない。だと言うのに、いつまでも惨めに、まるで駄々をこねる赤子のように首を横に振り続けていて。

 衛正から何かにつけて問われてきた覚悟は、けれど。

 そうやって自分の気持ちを騙してばかりだったせいで、ちっとも出来ていなかったのだ。

 だからこそ、大切な幼馴染の少年を、むやみに傷つけてしまったのだろう。


 ――母もまた、こんなに苦悩したのだろうか


 小幸は自らの母の姿を思い起こす。

 巫としての慈しみと、親としてのぬくもり。その二つをまったく同じだけ持っているような人だった。

 神供となる素質を持ちながら、自らの御役目を果たすより先に恋をし、小幸を生んだことで巫の力と資質を失った小幸の母。

 そんな母を、小幸の祖母をはじめとする周囲の人間は酷く叱責した。当然だろう。神供となるのはこのハワグに於いて何よりも尊ばれること。それを小幸の母は自ら放棄したのだから。

 しかし母は、自身の選択を微塵も悔いていないように思えた。

 そして小幸もまた、そんな選択をした母を羨ましいと思った。

 幼い頃から神巫としての在り方について、まるで子守唄のように小幸に聞かせてくれた母は、しかし一度として小幸に巫の宿命を強いたことはなかったように覚えている。

 それは、このハワグで御役目に就いてきた多くの神巫を思えば、異質と言えるだろう。

 奇跡の体現者として、常世に神を呼び降ろす為の神供として。

 巫の資質を持つ者はそうして己が身を、他者の願いを叶えるべく贄として差し出すのが何よりの誉れであり、決して背いてはならない不文律である筈なのに。


 ――どうして


 そう問いながら、小幸は自らを囲う泥濘の闇に視線を注いだ。

 許されるのであれば、自分も母と同じように、この暗闇から抜け出したい。

 街ですれ違う女の子と同じように、何にも縛られることなく。

 無邪気に外を走り回って。

 友達と笑い合って。

 人並みの恋をして。

 いつしか自分だけの幸せと言うものを得てみたい。


 だが、そんな当たり前の願いすら、巫である以上は叶えられない。

 自らがどれだけ悲劇に見舞われようとも、いつだって誰かの幸せを想い、胸中に渦巻く苦悩に蓋をして。

 その末に自分ではない誰かの為に、命すらも捧げて。


 だからこそ小幸は、心の内で祈った。

 自分のことはもういい。だからせめて、この先、同じように自身の宿命に苛まれる数え切れないほど多くの少女たちの為に。

 少しでもいいから、自分だけの幸せを掴めますように、と。


 膝を抱えて、己に纏わりつく闇に身を委ねる。

 この闇は神の孤独だ。そしてこの孤独は酷く冷たい。

 闇に触れ、そうして冷えてゆく身体は、小幸の心に落ちてゆくような侘しさを与えた。

 涙が流れそうになる。

 けれど、いま泣いてしまっては、これから終わりのない孤絶の中で生きる内にいつか枯れてしまうだろう。


 だから小幸は、泣かない。

 抱え込んだ膝に顔を埋めて、たった一人の世界で殻に閉じこもる。そうすればきっと穏やかな眠りにつけるだろうから。


 ゆっくりと瞼を閉じて、微睡みの中に意識を横たえようとした、その時。

 小幸の白い膚に、ふと、懐かしいぬくもりが触れた。

 幼い頃、いつも傍らで己を抱きしめてくれていた母の腕を思わす、そんなぬくもりだった。


 ――なんだろう


 薄めていた瞼を開き、再び周囲の暗闇を見渡す。

 刹那。

 視界の片隅に紫銀の光が煌めいたような気がして、小幸は無意識に手を伸ばしていた。



     ◆ ◇ ◆ ◇



 淡い銀光を纏い、少女はそこに悠然と立っていた。

 ひたり、ひたりと。

 やがてその足で優しく地を踏みながら、静かに歩み寄ってくる。見る者に根源的な恐怖を植え付ける燎祗の威とは異なり、彼女のそれは何もかもを温かく覆うような、そんな形容し難いぬくもりを孕んでいるかのように感じた。

 ――と。

 少女の姿に半ば見惚れていた衛正は、だが不意に、己の身体から何やら白い霧のようなものが湧き出ていることに気付いた。

 それは雪の結晶のようにも、夜空に浮かぶ幾万の星の煌めきのようにも見える。

 視線の向きを変えて靖央を見るが、彼の身には何も異変が起きていなかった。衛正の体内から漏出した白の霞は何かに導かれる形で中空を漂い、やがて粛然と歩む一人の少女の周囲を踊るように舞い始める。途端、衛正は腕を喪った右の肩口に僅かな痛みが戻ってきたのを意識の片隅で感じた。

 己を囲うように滞留する霧を、少女は薄く閉ざしていた瞼をやんわりと開いてから、細めた双眸で見上げる。清冽を帯びた美しき貌に笑みが混じる。

 忌まわしくも艶冶な色を秘めたその微笑は、衛正のよく知る少女のものではなかった。

 ――否、それだけではない。小幸が持つもう一つの人格を衛正はこれまでに数度ほど見たことがあったが、いま目の前に佇む少女は、そのときの彼女ともまた違うように感じる。

 むやみに息を吐くことすら烏滸がましいとさえ思えてしまうほどの、無意識に恭順を訴える圧倒的な威。全ての中心でおもむろに立ち止まったその少女は、何を言うこともなく、ただひたすらの静謐を伴って其処にいる。

 停滞した時の中で最初に動いたのは、感情の読めぬ貌を浮かべる鬼の長であった。


「相も変わらぬ、清らかで澄んだその美しさ。見事と言う他ない」


 そうしておもむろに一歩を踏み出し、紫銀の光を纏う小幸へと近付く。


「初めに、このような品を欠いた装いでまみえる不遜を許してほしい、巫の始祖よ。本来であれば贅の限りを尽くした晩餐を用意して、席を共にしたかったのだがな」


 声音に圧はない。穏やかな口調でそう言う燎祗は、少女の立つ位置からおおよそ三間ほどの距離を空けて立ち止まった。

 対する小幸はけれど燎祗を向くこともなく、何処か茫洋とした様子で―――まるで長い眠りから目覚めたかのように、細めた紅眼を揺らめかせている。その瞳はやはり男を惑わす女のそれにも、穢れを知らない無邪気な幼子のそれにも見えた。

 相反する魅を持つ少女の双眸に、衛正と、そして離れた場所で呆然と立ち尽くす靖央は揃って息を呑んだ。


「祖よ」


 その中でも、燎祗は変わらぬ物腰で相対する。


「生憎とこの場には、汝の尊顔を拝するには相応しくない輩がいる。汝の依代を贄に奇跡を得ようと目論んでいた者達だ。望むのであれば即刻排除し、早急に私と汝だけの場を用意することも出来るが、如何か?」

「なっ……」


 男の告げた言葉に衛正は思わず言葉を詰まらせ、反射的に刀の柄を握り込んだ。

 燎祗に向けていた視線を小幸へと転じる。投げられた問いかけに少女は無言を返すばかりで、口を開かない。濡れて艶めく唇は薄く閉じられ、静かに息が吐かれているのが分かった。


 ――神の力を孕んだその息は、行き過ぎた力を統御するための枷だ。


 彼女の周囲を揺蕩う白霧が霧散する。美しさと儚さを伴い音もなく消えたそれを見送ってから、小幸はそこでようやく瞳を動かした。

 血よりも深い赤の双眸が、同色の紋を持つ男へと差し向けられる。

 やがて、唇が開かれた。


 

「見縊らないでくださいな、鬼の長よ」



 嫣然とした声があった。

 直後。

 見惚れる仕草で、つぅ、と持ち上げられた指が弾かれ、その先から銀の光が撃ち出された。刹那の後に燎祗へと迫ったその光条は、僅かの間も置くことなく男の左腕を吹き飛ばす。


「ッ……!!」

「あら、思っていたよりも脆いのですね」


 そう言いながら小幸は着物の袖を摘み、口許を隠して無邪気な貌で微笑んだ。

 子供のようでありながら艶めいた色をも持つ笑みの先で、燎祗は腕を喪った衝撃からか思わずと言った風に後退る。突然の出来事に目を瞠って驚愕していた男は、だがすぐ様右手に仄暗い光を集束させ、先に衛正によって斬られた腕を直した時のように抉れた肩口へと宛がう。

 けれど欠損した部位は一向に血を垂れ流したままであり、傷の修復が叶わないようであった。


「……それはそうと、あなたは何か勘違いをされているのかも知れないですね」


 初めて狼狽した姿を見せる鬼に向けて、小幸は小さく首を傾いで見せた。


「此処にいる方々の中で、もっとも場にそぐわないのはあなたです。あまり自惚れたようなことを仰るのであれば――――二度と口が聞けぬよう、少しだけ痛い目を見てもらいましょう」


 残酷を平然のものとして突き付ける言葉は、果たして現実となった。

 一切の挙動もなく。

 ただ淑やかな笑みを浮かべる小幸の紅眼が、何かを見据えてすぅ、と細められる。次の瞬間、不可視の力に圧搾された燎祗の左脚が、ぐしゃりと無惨に潰れた。鮮血どころか肉片すらも圧搾される。文字通り跡形も無くなった左の脚部を見下ろした燎祗がその場に倒れ込む姿を見て、少女はまたくすくすと笑った。


「祖、よ……」

「おやめなさい」


 苦悶を露わにして見上げてくる男へと、小幸は冷然を帯びる声を返した。


「その呼び名も、古きに於ける名も……どちらも ″この娘″ の本当の名ではございません。この子には小幸と言う、一人の少女としての名が確かにあるのです。その点も、ゆめゆめ勘違いなされぬよう」


 傲岸の色すら宿さず、ただ純然な物腰でそう告げた小幸の躰は、月の光をため込んでうっすら光って見えた。聖獣の写し身とされる月の淡めきすら己が物として纏いながら、無垢なる美を備えた神は唄うように続ける。


「畏れ深きまつろわぬ者よ。あなたは自らの隷下を動かし、この娘を捕えようと画策していたようですけれど……その不遜はどう贖って頂けるのでございましょうね」


 言葉と同時、少女の身体がふわりと浮いた。

 周囲に滞留する白の煌めきを棚引かせながら無音の中で中空を渡った少女は、そうして地面に蹲る燎祗の傍にやんわりと降り立つ。肢を喪い流れ出る血の溜まりに身を没する男を、小幸は嫋やかに膝を折って細めた眼で見下ろした。


「あなたが彼岸世の住民を常世に呼び降ろし、成そうとしていた愚行とは一体なんですか?」

「ッ……」

「お答えして下されば、お怪我を治して差し上げますよ。わたくしとて、むやみに血を見たくはありませんもの」


 ふふっ、と。

 小幸はそこだけ、世の害悪を知らぬ無知な少女のように笑って、続けた。


「あなたに仕える男は、一族の名と力を大陸へ広めるために神々を手にかけると仰っていましたが、それがあなたの本意なのでございますか? そんな野蛮で程度の知れた小さな願望を抱くほど、矮小な御方でもないとわたくしは思うのですけれど」


 少女の問いに、鬼の長は顔を俯かせて無言を貫く。

 その様子を遠巻きに見ていた衛正は、そういえばと思考を巡らす。燎一族の長である燎祗は、衛正と対峙している最中も、皇国の歴史を語っている際も、一度として小幸を狙うその目的を口にしていない。巫の持つ神供としての価値を掠奪し、神を招聘する腹積もりなのであったならばそれまでだが、彼は神に背き神を喰らうとまで揶揄されている一族の長。それほどに強い背理の精神と矜持を持っているのであれば、例え招聘の儀を行う為であれ、僅かでも皇国の気風に染まるような行為を容認する筈がないだろう。

 怪訝の色を浮かべる衛正の視線の先で、地に顔を伏せていた燎祗が微かに身を震わせながら少女を見上げる。


「わ、私は……ただ……」

「えぇ、何でございましょう?」


 訥々と話す男へと、小幸はあどけなく小首を傾ぐ。

 愛らしくも神としての威を仄かに孕んだその仕草に、鬼は数瞬言い淀んでから続けた。


「私はただ……汝の尊顔をこの目で見たかっただけだ……。神の招聘などどうでもよい、古巫の存在を受け継ぐ汝と相見えることだけを……ただそれだけを、私は願って――――」

「あらあら、まぁまぁ」


 言葉が遮られ。

 燦然とした、それでいて欲を誘う忌まわしい笑みが男へと降る。

 ひらりと着物の袖を摘み、睥睨を当然のものとして男を見下ろす少女は、夜空より注ぐ月光を浴びてひときわ神々しく見えた。


「神をも喰らうと畏れられる御方が、まるで恋慕の情を抱く童子のような願いをお持ちでしたのね。そのようにいじらしいことを仰られては―――うっかり殺してしまいそうになります」


 先に燎祗が衛正に対して告げた冗句。

 だが先刻のそれとは異なり、神の吐息は言葉の全てを現実のものとする。


「ただ何にせよ……この娘わたくしの大切な者達を傷付けたその罪が消えることは、万に一つも無いのですけれど」


 澄んでけぶる紅眼を閉ざす。

 たったそれだけの挙措。女が己の胸中を覆い隠す為にあるその仕草は―――刹那の後に鬼の首を一息に捩じ切った。

 音はない。燎祗の口から噴き出た鮮血だけが、その有様を物語っていた。小幸を見上げたままにぐるりと首を捩じられた男は、少女から視線を離さないままに、けれど突如として自らの身に起こったことを理解していないかのように、大きく目を見開いていた。

 逸らされぬ両者の双眸。数瞬、小幸もまた無言を貫いた。やがて開かれた唇からは、目の前の男にではない、他の何者かに対する冷厳なる言が紡がれた。


「―――外道が。わたくしを狙うのならば、常世の者の身など借りず、己で動けばよいものを」


 少女の瞳には何故か、憐憫に似た色が宿っていた。そしてその眼差しは先の言葉から一転し、眼前に伏す一人の男に対して向けられているようであった。

 核心の見えない彼女の言葉を聞いた燎祗は、虚に染まるその双眸を僅かに揺らめかせた。そうして反転した視界に少女の姿を捉えたまま何かを口にしようとして―――だが、不意に翳された小幸の手が一切の発言を許さなかった。


「それと、嘘を吐くのであれば、もう少しまともな虚言を用意してくるのですね」


 白魚を思わす細い五指が風を撫でるように払われる。

 空より降る月光が彼女の力によって束ねられ、それはさながら水簾の如く中空を棚引く。流麗に漂うその光は少女の手に合わせて地に伏す燎祗の身を優しく撫で去り―――。

 直後、男の躯が幾万の肉塊へと変わり果てた。

 静謐の中に行われた断罪。地面を一切の血で汚す事もなく、無数の肉片と化したそれらは途端に黒灰へと変じ、風に乗って霧散した。

 大気に溶け入る鬼の成れの果てを、小幸は愁いを帯びた瞳で以て見送る。透徹した美を醸す少女は紫銀の光をその身に浴びながら、見上げる空の……その更に先に座す者へ向けるかのように、陶然と告げた。


「偽りの情愛が神の―――いえ、女の心を動かす筈もございませんのに」


 艶冶な呟き。

 男の情を乞う女が、夜空の月を眺めて零す独り言。

 言葉の後に満ちた静謐が、月夜に起きた一連の出来事が終結したことを、粛々と物語っているようであった。

   

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