とうに失われたもの

 艶めいた眼差しを月へと向ける少女を、靖央は呆然とした表情で眺めていた。

 視線の先には、幼い頃から共に時間を過ごしてきた一人の幼馴染がぽつりと立っている。だが、そこに佇むのは己の知る少女ではないのだと、靖央は先に見た光景で否が応でも理解した。

 水面のように揺らめく瞳が月から外れ、ゆっくりと此方へ向けられる。宝玉の如き紅眼が靖央へと向けられるより数瞬早く、視界の端で地に跪く影があった。

 衛正である。片膝を立てて深く頭を垂れた青年は、けれど何を言う事もなく、少女が発する言葉を待っているように思えた。

 不用意に喋ってはいけない空気を感じ取り、靖央もまた衛正に習い、理由は分からずとも地に膝を付けようと屈みかける。けれど不意に投げられた小幸の声が、その動作を阻害した。


「鬼退治は無事に終わりました。お二人とも、もう何も心配はありませんよ」


 改めて聞いても、普段の小幸とは何処か違う声音であると靖央は判じた。

 鈴を転がした時のような澄んだ声音。思わず聞き惚れてしまうその声に無意識な硬直を強いられた靖央を余所に、傅いたままの衛正が控えめに口を開いた。


「お手を煩わせてしまい、誠に申し訳ございません。加えて命を救って頂いたこと、伏して感謝申し上げます」

「ふふっ、そのように畏まらずとも良いですよ。わたくしと衛正様の仲ではありませんか」


 あどけない仕草で首を傾げる少女は、けれど直後に嫣然とした微笑みを収め。

 先ほどまで鬼の男が伏臥していた場所を見下ろしながら落ち着いた声音で続けた。


「それに、此度はこうして事なきを得ましたが……あの一党が次にまた同様の凶行に及んだ際は、今回のようにお守りすることが出来ないかも知れませんから」

「……え、」


 小幸の言葉に、衛正は僅かに瞠目した。


「……燎一族の長、燎祗は……死して消えた筈では?」

「そうであれば良かったのですけれど。衛正様もご存知でしょう? あの肉体は謂わば借り物……燎儀という男の身体に、燎祗様の意識が憑いていただけに過ぎないことを。恐らくは肉体が切り刻まれる直前、依代から自身の身体に退避したのでしょう。最後の瞬間、術を通して触れたのは全く別の者の意識でした」


 自らの細く長い指を見下ろしながら、小幸はその瞳に何故か哀憐の色を仄めかせた。


「……鬼と言うよりも、まるで蜥蜴のようですね。燎祗様が《神魂憑みたまつき》の術を行使出来る以上、彼の呪紋を刻まれた者全てを屠らねば、どこまで行けど逃げられ続けてしまうでしょうね」

「……神魂憑?」


 小幸の口にした不可解な単語に、衛正は眉根を顰めた。


「神魂憑と言うのは、己の呪が込められた特殊な紋を持つ者に自らの意識を憑依させる御業を指します。燎祗様は一族の者が皆その身に刻んでいる鮮紅の和彫りを媒介に術を使役しているのでしょう。……本来であれば常世の者に扱える筈もない、彼岸世の民にしか使役出来ない神術の一つです」

「……それは一体、どういう…………」


 衛正の言葉を受け取った小幸は、頭上の月を――――否、その更なる天上に存在する何者かを見据えて続けた。


「恐らく燎祗様は、二〇の神々の内の一柱から何かしらの形で力を借り受けているのでしょう。さもなくば、あのように人の範疇を超えた力を行使出来る筈もございません」

「ッ……神を奉じぬ鬼の血族に、皇国の神が奇跡を授けていると言うのですか……?」


 燎祗の持つ力が尋常のそれでないことは、衛正も分かっていた。

 斬り飛ばされた筈の腕を刹那の後に甦生させる所業は間違いなく人の手には及ばない奇跡の類だ。だが燎祗を筆頭とする燎の家系は神を喰らうとされる咎の一族。故にあの男が行使していた力の出所は、神とは別種の上位存在であると衛正は推測していたのだが――


「……決して不思議なことでは、ないのかも知れませんね」


 不意に耳朶へ届いたそんな声に、青年は思わず小幸を見上げる。

 天へと向けられている紅眼には炯々とした煌めきがあった。何処までも透き通った美しさを湛える少女は皇国の全てを俯瞰するように目を細め、何処か後悔にも似た愁いをその貌に滲ませていた。


「四百年前、帝の行いを発端として、神の怒りに触れたハワグは滅びの末路を辿りかけました。その怒りを古巫わたくしが己の身を捧げる事で鎮め、それによって皇国は現在も連綿と歴史を紡ぐ事が出来ているのですけれど……」


 鮮紅の瞳が、まるで水面のように揺らめいた。


「―――そうして下された選択に異を唱える神が、かつて一柱だけ存在したのです」


 少女の視線が落ちる。宝玉を思わす双眸が影を帯びる。

 地に伸びる自身の陰翳を見下ろした小幸は、その漆黒に皇国が持つ濃密な闇を見ているかの如く、霊妙な色をその貌に浮かべて語りを続けた。


「その神は帝の成した行いを決して許さず、そして古巫わたくしの意を尊重して受け入れて下さった他の神々をも、いつしか憎悪の対象として見始めました。……愚かな人間を王に統べる国に加護を与える必要などない。同じような悲劇がこれからも続くのならば、やはり国を一度滅ぼさなければならない……そんな妄執に駆られていた神が、常世に降り立ち国の崩壊を望んでいたとしても、何らおかしくはないでしょう」

「………、」

「神の抱く妄念は人の精神を容易に破綻させます。憎悪の心を抱いた神………ここでは仮に《禍津神》と呼称しますが、の神がいつの頃から燎祗様に接触していたのかは存じませんけれど、とうに彼の心は禍津神の忿怨に侵食されているのでしょうね。でなければ、曲がりなりにも神聖皇国の民である彼があれほど神を敵視する道理が存在しません。一個人の衝動が国へ歯向かうまでに大きくなるほど、ハワグに植え付けられた信仰心と加護は小さくありませんから」


 小幸の言葉に衛正は思案を巡らせる。

 確かに、燎祗が皇国の人間に対して抱く厭悪の念は理不尽と思えるほど巨大なもののように思えた。衛正達ハワグの民は神巫の少女たちに縋って無様に奇跡を得ようとする愚者であると、そう断じて排斥しようと策謀していたが、それも全て禍津神の悪心によるものだと考えれば納得出来る部分もある。

 だが、燎祗を始めとする燎の血族が神を喰らう鬼の一族として皇国中に名を馳せ始めたのは、衛正が生まれるよりも遥か以前の話だ。それを思えば、禍津神が己の妄念を晴らす為とは言え、どれほど昔から謀略を積み重ねてきたのか、少し考えただけでも悪寒が走った。

 衛正の脳裏に、燎祗が口にした言葉が過ぎる。


 ――神の巫が抱える心因の闇を、お前たちは奥底まで想像したことがあるか?

 ――神とは蠱毒そのものだ。神がいるから人の心は脆弱で情けないものに堕ちる。

 ――お前たちハワグの民が持つ浅薄さも、それによって神巫の心に生まれる苦痛も。全ては神がいるからこそ生じるこの世の歪みだ。

 ――歪みは正さなければならない。それがこの世の条理だと私は思う。そしてその是正がこそ、神を喰らう鬼の呪を受けた私の役目なのだろう。


 あれらの言葉は全て、かつて人間の果てない傲慢を許した神々と、それによって生まれた神巫に縋り続ける皇国の民に対して向けられたものだったのかも知れない。そう考えると、まるで己の所業を責め立てられているかのような罪悪感が衛正の胸中に湧いた。

 地面に視線を落とすと同時に、燎祗から語られたハワグの真なる史実を思い起こす。彼の口にした歴史はもはや疑うべくもない。皇国が決して清廉な行いの下に形作られた神秘の列島ではないと分かり、青年はその整った貌を僅かに歪ませる。かつて極大の不条理に見舞われた末に、けれど国の民を想う心を捨てる事なく在り続けた少女。その存在を継ぐ巫を盗むように見上げれば、嫣然とした佇まいを見せる彼女は衛正を見る事もなくおもむろに口を開いた。


「貴方が自責に駆られる必要はございませんよ、衛正様」


 その声は、全てを包むぬくもりに満ちていた。


「例えハワグが人間の弱さや愚かさを発端に成り立っているとしても、この国の民は皆、日々を懸命に生きているのです。奇跡に縋る事は決して忌避するような行為ではありません。奇跡に縋り、それによって人々が苦しみから解放されるのであれば、神々は常世の者に万象の神秘を授けるでしょう」


 その声は、全てを赦す慈しみに溢れていた。


「―――何故ならば、此処は神聖皇国ハワグ。神の加護に守られし奇跡の在処なのですから」


 謳うように流れる言が旋律となって衛正の耳朶に触れる。小幸から滲む楚々とした清潔な情調の中にあって、炯々と煌めく紅の双眸は無二の美しさを持ち、それでいてどこか爛れた欲を思わせる妖しさを孕んで見えた。

 その深紅に、神としての威が静かに蠢く。


「なればこそ、その不文律を脅かす者がいるのなら、すなわちそれはわたくしにとっての忌敵です。神同士の諍いに、貴方たち常世の民を巻き込むつもりなど毛頭ありません」


 人であるが故の慈愛と、神であるが故の傲然。

 それらを同居させて紡がれた言葉は、衛正の膚を薄く粟立たせた。けれどそれは怖気から来るものではなく、目の前の少女に対して心の底から畏敬の念を抱いているからこその推尊だ。

 瞼を伏せ、頭を垂れる。

 己の心に従って随順の姿勢を見せる衛正を小幸は薄やかな笑みで以て見下ろした。そうして僅かな沈黙を挟み、艶めく唇を開く。


「……ですから、衛正様。わたくしから一つ、聞き入れて頂きたいお願い事がございます」


 そう言われ、青年は緩やかに顔を上げる。

 燦然と降り注ぐ月光を背に佇む少女が口にした言葉は――


 衛正にとって、苦渋の決断を強いられるものであった。



     ◆ ◇ ◆ ◇



 小幸と衛正が何やら言葉を交わしているが、離れた場所に立つ靖央には会話の内容は聞き取れない。

 ――このまま立ち去ってしまおうかと思った。

 自分は小幸を裏切って危険な目に遭わせた。大切な両親を守る為とは言えど、彼女の身を燎一族の者に売り渡したのだ。それは決して許されるような行為ではない筈である。

 なのに。

 小幸は自分を見捨てなかった。昔から変わらぬ清廉で澄み切った瞳を変わらず向けてくれた。その情に報いたくて一度は燎祗に刃を向けたが、結局何も成すことは出来ず、衛正と、そして何より小幸自身に救われてしまった。

 自らに対する不甲斐なさと憐憫が次から次へと胸中から湧き上がってくる。どろりと粘性を帯びた負の感情は、容赦なく靖央に己の惨めさを痛感させた。思わず涙が零れそうになって、けれどここで泣くのは自己満足以外の何物でもないと思い、歯を食い縛って落涙を堪える。その代わりに顔を俯かせ、視界から無理矢理に小幸の姿を消し去った。

 しかし。

 地面へと向けられた顔に、ふと、熱の無い指が触れた。


「っ……」


 唐突に感じた冷気が身体を反射的に震わせる。足許の砂利だけを見つめる視界に、少しだけ土で汚れた着物の裾が写り込んだ。

 靖央の頬に触れた冷たい指はやがて彼の顎に触れ、つぅ、と少年の顔を強引に仰のかせた。そうして眼前に佇んでいたのは紅眼を煌めかせる一人の少女であり、靖央の顔に触れたままの小幸はその貌に透徹の色を湛えて少年を見つめていた。


「……こゆき、ちゃん」


 そこに在るのは自分の知っている幼馴染の少女ではないと理解していながら、それでもその名を呼んだ。

 零れた呼び名に、何故か少女は淡い微笑みを見せる。ほんやりと纏う薄い燐光がまるで月へ還ってゆくかのように立ち昇る様を眺めながら、靖央は二の句が告げられずに硬直を続けた。何か言わなければならないと分かっているのに、自らの意思に反して唇は動かない。

 そんな少年の姿に慈しむような視線を注ぐ少女は、静かに口を開いた。


「冷たいでしょう、わたくしの手」

「えっ……?」


 言葉と同時、靖央の顔に触れる指先が膚の上を滑るように撫でる。ほんの僅かなくすぐったさと共に、まるで冬の寒風が過ぎ去ったかの如き冷感を覚えた。そしてその瞬間、それは間違いなく人が持つべきではない冷たさであると靖央は思った。

 一抹の驚きと共に小幸の双眸を見つめ返した少年へ、淑やかな言が続けられる。


「靖央がいま感じている冷たさは、この娘わたくしが人から外れたものである事の証。古きに於けるハワグの地で、古巫わたくしが神に我が儘を告げた事で得た力の代償。……隠していてごめんなさいね、靖央。〝彼女〟の事を責めないであげて頂戴」


 ふわり、と。

 少年の視界に着物の袖が舞い、すぐ後に細い腕が靖央の身体へと回された。

 着物越しでも分かる熱の無い冷えた肢体。静かに靖央の身を抱き締めた小幸は、密着した部分から伝わる熱を余す事なく感じられるように、ゆっくりと腕に力を込めた。人ならば誰であれ持つ生き物としてのぬくもり……だがそれは今の小幸にとって苛烈とも言うべき、だがどこまでも愛しいと思ってしまうほどの、そんな無二の代物であった。

 艶めく黒髪が夜風に靡き、仄かに漂った甘やかな香りが靖央の鼻孔に触れる。その香りに自然と心が溶けゆく感覚があった。何もかもを委ねたくなるような衝動が湧き上がり、靖央は思わず少女の肢体を抱き締め返してしまいそうになる。

 けれど数瞬早く、小幸の身が彼から離れた。


「……ありがとう、靖央。この娘わたくしにとって、貴方が変わらぬ日常の在処であったことが、とても嬉しかったわ。に交わした約束を違えないでいてくれて、とても嬉しかった」

「……小幸ちゃん?」

「貴方がいたから、この娘わたくしは神の巫でも何者でもない、ただの一人の女の子として生きられた。それは決して他のものには代えがたい、最上の喜びだったのだから」


 滔々と流れる言葉。

 爪弾かれる調べを思わす声音を聞きながら――靖央はふと、怪訝の色を表情へと浮かべた。淡い微笑みを湛える小幸の美しい貌に、いつの間にか一筋の汗が垂れていたから。

 それだけではない。輝き続けている真紅の双眸も心なしか宝玉の如き煌めきを失いつつあるように思えた。

 今一度、彼女の名を呼ぼうと口を開く。だが今度もまたそれは叶わなかった。何かを堪えて怜悧な瞳を細めた小幸が、悲痛を内包した呟きを溢したが故に。


「だから………本当にごめんなさい、靖央。最後までちゃんと、貴方を守ることが出来なくて」

「――え?」


 深い息を孕んだ声。

 失われたものを見送る瞳。

 紫銀を纏い佇む神の少女を見つめる少年は、直後―――


 己の身体から膨大な量の鮮血が迸る光景を、意識の刹那に垣間見た。

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