月下艶めく

 皇国の空に浮かぶ月が紫銀の光を帯びているのは、神々が列島の地下深くに縫い付けた聖獣の加護が関係しているからだと言われている。

 神の力を孕んだ月光はハワグの地に生きる者を護り、反して邪悪なる存在を皇国から排除する効力を持つ。そんな誰しも知っている言い伝えを思い出しながら真円に程近い月を見上げた燎祗は、優しげな目に僅かな胡乱の色を乗せて言った。


「この国には、あれを神の獣の写し身と信じる者もいるらしいが……お前はどうだ。その妄言を信じるか?」


 細められた燎祗の双眸、その視線の先には一人の男が地に倒れ付していた。濃緑の着物は血を吸い込んでか更に深い色へと染まり、ところどころ切り裂かれたかのように破れている。息はあるようで、俯せに倒れるその背中は微かにではあるが不規則に上下していた。

 先程と同様、別段返答は求めていなかった様子で、全身に鮮紅の紋を刻む男は自身の言葉の後にすぐ続けた。


「あぁそうとも、所詮は妄言だ。神などと言う尋常でない存在が寄り添うこの国の人間は、誰しもが夢を見ている。身勝手な思い込みを重ねるのは自由だが、あるいはその夢から醒めている者たちが彼らを見たらどう思うだろうか」


 燎祗の言葉は衛正に向けて発されているようで、その実、不特定の何者かに対して告げられているかのようだった。


「ではこのハワグに於いて、夢から醒めている唯一の者たちとは誰を指している?」


 柔らかく細められた男の目が僅かに小幸へと向けられた、その瞬間。

 暗がりに紛れる形で燎祗へと肉薄した黒装束の男が、手にした短刀を素早く突き出す。完全なる死角から狙ったその急襲は、狙い通り燎祗の細い首筋へと真っ直ぐ吸い込まれかけて―――

 ガキンッ、と。皮膚を突き破るはずの切っ先は、まるで鋼の板に阻まれたかのような音を伴い、首の皮を貫く寸前でピタリと止まった。

 驚愕の声はない。ただ代わりに、不意討ちを掛けた側であるはずの黒装束の口許から大量の血が吐き出された。


「そう、神の側女である巫の少女たちだ」


 男は何事もなかったかのように言葉を続ける。

 だが彼の膚に走る鬼の紋が一際強く脈打ったかと思えば、それが無形の圧力となって黒装束の身体を打ち据えた。刹那のうちに数百もの斬撃を浴びせられたかの如く、その全身に裂傷が迸り、尋常でない量の鮮血が吹き出た。


「あの者たちは背負うことを望んでもいない自身の宿命に苛まれ続けている。その苦痛が、彼女たちを神が見せる夢から醒めさせるのだ」


 燎祗の右足がトン、と地面を軽く叩く。

 直後、荒れ地の各所に散乱する大小様々な石がふわりと浮遊し、霞むほどの速度を伴って放たれる。その全ての直撃を受けた黒衣の男は、辺りに血を撒き散らしながら大きく吹き飛んだ。まるで燎祗へと刃を向けた無謀を思い知らされたかのように。


「神の巫が抱える心因の闇を、お前たちは奥底まで想像したことがあるか?」


 鮮紅の和彫りに囲われた双眸は、最初から変わらず衛正を見下ろしている。

 その視線は優しい。が、それはさながら本意を包む薄膜だ。差し向けられる視線は決して揺れることなく、ただ真っ直ぐに目の前で倒れ伏す男へと注がれていた。


「否、想像したところで意味はない。想像したところで、巫の苦しみを理解することなど僅かも出来るはずがない。ただ奇跡に縋るしか能のない、浅ましい性根のお前たちにはな」


 燎祗が歩む。緩慢な足取りで、衛正の元へと静かに近付く。

 そうして浅い呼吸だけを繰り返す男の着物を掴み、眼前にまで持ち上げれば、額から血を流す衛正の目と燎祗のそれが重なった。


「いい加減に自立するべきだ」


 滔々と話す燎祗の前で、意識朦朧としている衛正が力無く垂れた右腕を懸命に動かす。彼の懐に護身用の脇差しが仕舞われていることを知覚している燎祗は、そんな衛正の行動を冷めた目付きで一瞥する。


「神々やその巫、そんな都合の良い存在などいなかったときのように……人間が自らの非力さや現実の厳しさに躍起になりながら、それでも日々を懸命に生きていた頃のように」


 言葉を切る。

 それと同時、燎祗の手が不可視の速度で閃く。

 静謐が場を満たす中に数瞬の空戟があった。遅れて鮮血が飛散する。懐に隠していた脇差しを抜きかけた衛正の右腕が、いとも容易く切断されたが故だった。


「ッ―――!?」

「神とは蠱毒そのものだ。神がいるから人の心は脆弱で情けないものに堕ちる。そうは思わないか?」


 斬り飛ばされた衛正の右腕が地面に落ちるより早く、彼の着物を掴んでいた燎祗がその手を軽々と振るう。まるでそこいらの小石のように中空を舞った衛正は、そのまま敷地の端に建つ廃屋まで吹き飛び、その外壁に身体を打ち付けた。

 腕を切断された痛みよりもまず、全身を強打したその衝撃に衛正は苦悶の息を漏らす。


「が、あ……」


 再び地に崩れ落ちた衛正は瞬く間に血溜まりに囲われる。

 既に先の戦闘で決して少なくない血を流していた彼は、己の右の肩口から流れ出る大量の血をどこか冷めた目付きで眺め、だがどうしようもなく全身が冷えて没する感覚に陥った。

 下駄を擦りながら衛正に歩み寄る燎祗は、変わらぬ声音で言葉を続けた。


「お前たちハワグの民が持つ浅薄さも、それによって神巫の心に生まれる苦痛も。全ては神がいるからこそ生じるこの世のひずみだ」


 少しずつ、燎祗の声から温度というものが消えてゆく。


「歪みは正さなければならない。それがこの世の条理だと私は思う。そしてその是正がこそ、神を喰らう鬼の呪を受けた私の役目なのだろう」


 衛正の傍で歩みを止めた鬼は、そうして虚の瞳で以て死に体の男を見下ろす。つぅ、と持ち上げられた右手が衛正へと掲げられ、その指先に仄暗い光が集束する。


「故にまずは、巫の少女へ縋りを得んとするお前たちを排斥しなければならない。己の領分を超える奇跡に手を伸ばした傲岸さが生んだ罰だと思えば、少しは真摯に受け止める気にもなるだろう」


 男の声はどこまでも平淡で冷めきっていた。

 熱のない言葉と瞳を、大量の血溜まりに没しながら衛正は薄まりつつある意識の中で見つめていた。球体に形を成してゆく光に、だが満身創痍の身体は僅かも動かない。

 夜空の月を背景に仄めく光は、どこか歪な神秘の色を孕んでおり。

 それは何処か、これまでの歴史で人間が積み重ねてきた傲慢そのもののように思えた。


「大人しく逝け。それがあの娘にとっても救いとなる」


 投げ捨てられた言葉。

 慈悲と無慈悲を纏って地に落ちたその宣告は、衛正の命を刈り取る合図となり、集束した光が無音のなかに放たれ――


「………て、たよ……」


 不意に聞こえたその声に、燎祗の手はピタリと止まった。

 それと同時、己の身体に微かな重みが加わるのを男は感じた。見れば、いつの間にか彼の足許に蹲っていた何者かが、着物の裾を小さな力で握り締めている。

 その者の姿を見止めた燎祗は、僅かに瞠目した。


「驚いた。まだ息があったのか。私に何か用か、小僧?」


 血に濡れた手で燎祗の着物を掴む靖央は、だが降ってきた問いに答えることなく、何かをうわ言のようにぶつぶつと呟いている。

 その様子に燎祗は少しの煩わしさを覚え、まるで路傍の石を扱うかのように、少年の小さな体躯を軽く蹴飛ばした。だがそれでも靖央は絶えず呟きを繰り返しているようで、地面を転がった後もよろよろと立ち上がりながら、その唇を震わせていた。


(……不可解だ)


 燎祗はふと、片眉を潜めた。


(あの小僧は、我が従僕によって胸を貫かれたはず。その傷がふさがりかけているだと?)


 微かに目を細め、少年の身体の状態を視る。燎儀によって胸の中心を刀で貫かれていたにも拘わらず、今はその箇所に完全な止血の跡が見られる。衛正の部下による治療は間に合わなかった筈なのにだ。

 そこまで考えたところで、燎祗の眼が靖央の体内に巡る不可思議な力の残留を捉えた。僅かに輝いて見えるその力が靖央の身を致命傷から守っていることに燎祗は気付き、そして同時に、その本質が神性を帯びた代物であることを無意識の内に察知する。

 ボロボロの様相を呈しながらも、なお立ち上がろうとする靖央にほんの少し興味が湧いた燎祗。指先の光を霧散させ、少年と正面から向かい合う。

 そこで何かを思い出したらしい男は、「そういえば」と言って薄く笑んだ。


「小僧。お前は私の命令に従い、確かに神巫の少女を見つけたのだったな。ならば当初の約定通り、お前の両親は解放してやろう」


 言いながら、軽い足取りで靖央へと近付く。


「我が従僕とは違い、私は約束を果たす男だ。お前の働きに免じてお前の両親が犯した罪の全てを洗い流してやる。喜べ、お前はまた、以前のように幸せな暮らしを家族と送ることが出来るのだ」


 そうして靖央のすぐ目の前で立ち止まった燎祗は、優しげな手付きで少年の頭を撫でた。小柄な体躯を見下ろす瞳も穏やかなものへと戻っている。


「であれば、お前の次なる役目は家族の帰郷を待つことだ。家で大人しく待っていれば、数日も経たぬ内に両親と再会できるだろう。さぁ、早く自らの家へかえ――」


 ひし、と。

 またも靖央が着物を掴んできたせいで、言葉が途切れる。

 燎祗の目線からは少年の表情は窺えない。変わらず俯いたまま、やはり何事かを呟き続けている彼に、燎祗は再度、一抹の苛立ちを覚える。

 そこでようやく、靖央の呟きが明瞭な言葉となって燎祗の耳に触れた。


「……わらって、いた、よ」


 発せられた否定の言の意味が分からず、燎祗は僅かに目を細めた。


「なんだと?」

「……こゆき、ちゃんは……いつだって笑って、いたよ……」


 靖央の顔が上げられる。血と土にまみれた顔は、だがその両目から流れる涙によって濡れていた。


「僕の前じゃ、小幸ちゃんはいつも笑ってた……苦しい顔なんて全然見せなくて、どんなときだってかっこよくて……」


 着物の裾を掴んだまま、靖央は燎祗の身体へともたれかかった。

 更に強く手を握り締めながら、涙に顔を濡らしながら、少年の言葉は続けられる。


「いつも笑ってた……苦しんでなんかいなかった! 自分のせいで誰かが死んだら、それこそ小幸ちゃんが苦しむことになる。だから、小幸ちゃんのためだって言うなら、誰も殺しちゃダメなんだよ……!」


 放たれた切なる言葉に、燎祗は彼の頭から優しく手を退きつつ、けれど先程とは一転して底冷えするような声音を吐いた。


「憐れだな」


 ドクン、と。鬼の全身に刻まれた紋様が禍々しく脈打つ。


「本心を曝け出さず、取り繕うのが人というものだ。あの娘が笑っていたというのなら、それは能面の笑み……心因の苦痛を堪えながら、それでもお前に心配はかけたくないという気丈で洗練された心が作り出した偽りのそれだ」

「違う!」


 威を孕む鬼の言に、靖央は正面から対峙する。


「偽りなんかじゃない! 小幸ちゃんが無理して笑ってたなら、僕だって気付く……だって僕たちはずっと昔から一緒にいたんだから! 昔も、今も……小幸ちゃんが浮かべてたのは、いつだって本心からの笑顔だった!」


 頬を伝い流れ落ちた涙が、地面に染みを作った。


「……いつも綺麗に笑ってくれる小幸ちゃんが、僕は好きだったし、憧れてた……これからも隣で、ずっと綺麗な笑顔を見続けたいって……そう思ってたんだ」


 少しずつ、声音が弱まってゆく。


「……小幸ちゃんが僕に何か隠し事をしてるのは何となく気付いてた。でも、それを打ち明けられなくたって僕は良かったんだ……いつまでも隣で綺麗に笑ってくれてたらいいんだって……それだけをただ願って……」


 でも、と。

 再び俯いた靖央は静かに続ける。


「もう僕にはそんな資格なんてない……自分のことばかり考えて、簡単に小幸ちゃんを裏切って、たくさん傷付けて……なのに小幸ちゃんは僕を許してくれて、助けてくれて……」


 いつの間にか独り言のようになっている言葉を、鬼の長は何も言わず無情の貌で聞いている。揺らめく鏡面のような双眸が差し向けられるなか、非力な少年の言葉が放たれる。


「だから………今度は僕が、小幸ちゃんを守らなきゃいけないんだ!」


 密着していた両者の身体が、僅かに離れる。生じた空隙のなかで即座に自らの懐へと手を差し込んだ靖央は、服の内側に隠し持っていたものを抜き放つ。

 本来であれば投擲にのみ適しているであろう、革製の柄を持つ極小の短刀。

 よく磨かれた小振りな刃は、衛正の部下である黒装束の一人が使っていたものだ。戦闘の最中で地面に転がっていたものを、隙を見て靖央が回収していたのである。

 逆手に握るそれを、燎祗の纏う着物の胸元、禍々しい鬼の紋が覗くその中心へと真っ直ぐに振り下ろす。

 二人の間に空いていた距離は、およそ半歩ほどの間。ろくに本物の刀を降ったことがない靖央であろうと、簡単に身体が触れ合うその距離においては、必中とも言える間合いであった。

 ………だが、靖央は知らなかった。

 同じように短刀を用いて燎祗へと奇襲を仕掛けた者が、どのような目に遭ったのかを。どれだけ不意を突こうとも、鬼の皮膚には一切の傷がつけられないのだということを。

 鋭利な切っ先が燎祗の胸部を狙って真っ直ぐ吸い込まれていき―――だが、やはり。ガキンッ、と硬質な音が響き、短刀は標的の皮膚すら突き破ることなく止まった。

 有り得ない現象に靖央は目を瞠る。しかし数瞬の間を置いて更に強く短刀の柄を握ると、歯を食い縛りながら無理やりに短刀を押し込もうと力を込めた。


「ぐ、うぅ……!」


 だが所詮は力のない子供の為すこと。どれだけ全力を振り絞ったところで、鬼の膚に傷を付けることは叶わない。

 ギリギリと音を立てて軋む短刀を、燎祗は冷めた目付きで見下ろす。そしてその蛮行に及んだ少年へとゆっくりと視線を移し、薄く息を吐いた。


 ―――棚引く吐息が衝撃へと転化したのは、刹那の出来事だった。


 不可視の圧力が靖央の小さな体躯を襲う。全ての気力を傾けて刃を突き立て続けていた彼は、まるで突風を受けた枯れ草であるかのように、容易く吹き飛んだ。凄まじい勢いで宙を舞い、何度も地面を跳ねて転がる。荒れ地の中心にまで派手に吹き飛ばされ、そこに立つ一本の朽木にぶつかってようやく止まった。

 薄く立ち上った土煙が両者の間を揺蕩う。燎祗が右足で軽く地面を叩けばその土煙は瞬く間に風で流された。明瞭になった視界の先で少年の姿を見止めた燎祗は、再び違和感を覚えて片眉を顰める。

 ボロボロの姿は何ら変わらず、受けた衝撃に何度も咳き込んで地面へと蹲る靖央の身体に、一切の傷が見受けられなかったからだ。

 手足の一本や臓器の一つくらいは潰すつもりで力を放ったにも関わらず、外傷はおろか身体の内部にも全くとして損傷が見られない。

 先程と同じ不可解な現象に眉根を潜めながら、燎祗は瞬時に視界を切り替えた。仄暗い光が揺らめく虚ろの瞳が、靖央の体内に滞留している力を捉える。

 どこか紫銀の色に見えるその力はしかし、靖央当人から湧出しているものではないと彼は判じた。であるならば、あの神性を帯びた白く煌めく力の出所は――――


 そこまで考えたところで、燎祗は鮮紅の紋が刻まれたその貌に、薄い笑みを浮かべた。

 彼の視線の先で靖央が辛うじて立ち上がる。負傷は見られないとは言え、衝撃までは防げていないのだろう。朽木にぶつけたらしい右肩を抑えながら、しかし瞳だけは真っ直ぐに燎祗を見据えたまま、短刀を低く構える。

 どれだけ返り討ちに遭おうとも何度となく立ち向かってくるであろう少年の姿勢に、男は小さく肩を竦めると、おもむろに口を開いた。


「………小僧。お前はあの娘のことを守ると言ったな。それがどれほど不遜な思い上がりであるのか、お前は理解しているのか?」

「っ………?」

「お前如き非力な人間に守られるほど、あの娘は弱くない。刀すらろくに振るえない童が、あまり自惚れたようなことを言うな。うっかり殺してしまいそうになる」


 穏やかな声音で以て唱えられた言葉は、どこまでも平淡でありながら、聞く者の心を底冷えさせる力を持っていた。

 真正面から放たれる鬼の圧が、虚を内包する瞳を通じて靖央の精神を少しずつ蝕み始める。隠そうともしない濃密な威を受けた彼はだが、ぎり、と強く歯を食い縛り、鬼と真っ向から相対する。


「小幸ちゃん、は……僕たちと何も変わらない、普通の女の子なんだ………神巫だとか、そんなの関係ない……! 小幸ちゃんを苦しめているのはあなた達の方だ! あなた達が小幸ちゃんに関わろうとさえしなかったら、小幸ちゃんは今まで通りに笑って過ごせてた筈なんだ……!」

「それは有り得ないな。何故ならば、仮に私があの娘を求めずとも最期は人間共によって神供として捧げられ、彼女はこの常世から姿を消すからだ。それは人間にとって見れば死と同義。そんな運命に立つ少女が、どうして日々を笑って過ごせるだろうか」


 揺るがない鬼の双眸が、少年の身体に恐怖と萎縮を強要する。

 並の人間であれば鬼の長である燎祗の威をこれほど至近から受ければ、精神が瓦解してもおかしくはない。だが脳裏に幾重にも焼き付けられている小幸との様々な記憶が、絶大なるその呪から彼を辛うじて守っていた。


「だったら……だったら僕が小幸ちゃんと一緒に逃げてやる! 小幸ちゃんが死ななくてもいいように、小幸ちゃんのことを求める人が誰もいないところまで! そうすれば小幸ちゃんはこれからもずっと生きられるはずだ!」

「ははっ、その場しのぎで考えただけの、甘さと弱さに満ちた薄っぺらな解決策だな。所詮は子供の考えること……その程度で、あの娘が抱える重荷をどうにか出来る筈もなかろう」


 熱のない声色に僅かな苛立ちの棘が混ざる。

 靖央はちらりと小幸の方を見やり、彼女が木に凭れかかった状態のまま無事でいることを確認する。少年の視線を追って燎祗もまた小幸の姿を見止め、そうして気を落ち着かせるように息を吐いてから、言葉を続けた。


「そもそもだ。私が何故あの娘に固執するのか、理解していないからそのような戯言を吐けるのだ」

「………?」


 その言葉に、少年は怪訝の色を表情に乗せる。


「私の知る限り、このハワグには現在、あの娘の他に四人の巫が存在している。宿す力は異なれど、彼岸世の住民を呼び降ろす神供としての役目は不変だ。故に、もしもただ神の降臨を望むのであれば、別段あの娘でなくとも構わない」


 抑揚のない声音が滔々と連なる。


「では、私があの娘にのみ固執している理由……あの娘だけに見出だせる唯一の価値とは何だ?」


 そう問われ、しかし靖央は当然答えられない。

 口を噤む少年を細めた目つきで見据える燎祗は、返答を待つことなく次の言葉を紡ごうとして―――おもむろに首を左に傾いだ。

 刹那の空隙を経て、直前まで燎祗の頭があった場所を鋭い刃が斬り裂いた。月光を受けて煌めいた一閃は仄めく光条を微かに残し、霞む速度で空を過ぎる。無音の中で行われた奇襲を泰然とした姿勢で回避した燎祗は、次の一刀が振るわれるより早く身を捻り、背後の者へと無造作な蹴りを放つ。

 人外の膂力が込められたそれを、襲撃者は左手に握る刀で以て受け止めた。だが衝撃までは殺せず、その者は地面を擦りながら靖央の傍まで吹き飛ばされた。

 唐突に現れた闖入者を見止めた少年は、その姿を見て目を瞠った。


「え、衛正様……!」


 喰らった衝撃に身体を震わせる衛正は、靖央の傍らで地に膝を付いてから、堰き止めていた荒い息を零す。少年の声に衛正の一瞥が応じる。だが言葉はなく、再び油断ない視線が燎祗へと差し向けられたところで、感心したような声が荒れ地に響いた。


「これは驚いた。己が願いのために容易く巫の命を切り捨てる醜い人欲の塊にさえ加護が宿るか……奇跡というのも廉くなったものだ」


 独り言のように紡がれたその言葉に、衛正は苛立ちに似た表情を浮かべる。

 青年の身を案じて駆け寄った靖央の視線が、風に吹かれて揺蕩う衛正の右袖を捉えた。そこにあるべき腕を喪ったままの彼は、だが特段、痛がる素振りを見せることもなく燎祗を見据えている。

 靖央の視線に気付いた衛正は、重い足取りで立ち上がりながら左手に提げている刀を握り直した。


「理由は知らん。が、目覚めたら傷の全てが塞がっていた。この際、神の奇跡でもなんでも良い……この場から生きて帰れるのならな」


 青年の鋭い双眸が向く先で、一切の挙動を見せない燎祗が薄く笑っていた。

 興味深そうに衛正と靖央を順繰りに見つめる鬼の目は、だが彼ら当人ではない何かを見据えているように思えた。数秒の静寂が三者の間を縫い付け、やがてその沈黙を破ったのは衛正だった。

 言葉はない。

 静謐の中で予備動作なく地を蹴った青年は、はじめて燎祗と相対した時よりも素早い足捌きで駆け、袈裟懸けに刃を振るった。奇襲時よりも僅かに速度の遅いひと振りは、だがやはり標的の膚を捉えることなく空振りに終わる。

 些細な体重移動のみで刃を躱した男は、愉快そうに微笑みながら、会話に興じる余裕すら見せる。


「せっかく死に体から舞い戻ったのだ。先の問答の続きといこう。あの娘が持つ唯一の価値……そしてハワグの民が知らぬ巫の ″本質″ とは何だと思う」

「そんなもの、知ったところで何の意味もないな!」


 並の人間であれば間違いなく命を絶っているであろう剣戟を息も吐かせぬ速度で繰り出しながら、衛正は吐き捨てるように言う。小さな動きで弄ぶように回避され、時には生身の腕で正面から刃を弾かれ、それでも衛正はやけに軽く感じる身体を最大限に使って鬼の急所を狙い続ける。

 そんな猛攻の中でも燎祗は表情を変えることなく言葉を続けた。


「神巫とは神の側女、現世における神の化身である……巫の正体を知る者は揃ってそう言うだろう。お前もそう認識しているのではないか?」


 気紛れな問いかけに、だが衛正は刃のみで応じる。

 地面から掬うように斬り上げられた刀身が燎祗の左足を捉える。だが返ってきたのは鋼を斬り付けたかの如き硬質な手応えであり、青年の口端から歯軋りの音が漏れた。

 生じた数瞬の膠着のなか、衛正の眼前に鮮紅の紋が接近する。


「それは正鵠とは言えない。あぁいや、それもそれで一つの本質なのであろうが、生憎とあの娘を言い表す上では不適切だ」


 紡がれる言葉は抑揚のない色を内包していた。

 気を抜けば無意識に耳を傾けてしまう不思議な誘因性を持つ声に、衛正は強靭な意思で以て抗う。至近に迫った鬼の貌を容赦なく斬り裂かんとして刀を横一文字に振るうが、刹那の間に音もなく後退した燎祗の前に、刃は虚しく空を裂く。

 常人には目で追うのがやっとの攻防を、靖央は離れた位置から眺める事しか出来なかった。

 絶えず右手に握っている短刀が自然と震える。幼馴染の少女を守ると宣言しておきながら、二人の衝突を見て小さく足が竦んでいるのが分かった。その自覚が少年の心をさらに委縮させる。

 再び彼女の姿を視認する。彼女を安全な場所に退避させることが出来ないかと考えたところで、衛正の剣戟を躱した燎祗の姿が写り込んだ。

 少年の思惑を透かし見るかのように、鮮紅の和彫りを脈打たせる鬼は瞳を薄めてこちらを見据えてくる。


「……そちらの男はともかく、小僧。お前は知らないだろう」


 そうしておもむろに頭上を仰ぎ見たかと思えば、闇夜に浮かぶ紫銀の月を眩しそうに見つめながら、ぽつりとそう溢した。


「かつてこのハワグに二〇の神を呼び降ろす過程で贄となった、無垢なる少女がいたことを」


 そんな突然の問いは、荒野に静寂をもたらした。

 追撃をすべく一歩を踏み出しかけた衛正の足がぴたりと止まる。不意に告げられたその言葉に青年が怪訝そうな様子で眉を顰めた。

 その一方で、靖央は数瞬瞠目した。その貌に微かな陰影が落ちる。視線が地へと下がり、心の痛みを堪えるように表情が歪んだ。

 燎祗の口にした話を、つい数刻前に小幸から直接聞かされていたからだ。

 今から四百年前、この国が一人の少女の命を贄として神の恩寵を得たこと。そして以降、神聖皇国の建国を皮切りとして神々から奇跡の力を賜った神巫という少女の存在が認識され始めたということを。

 ――国に生きる殆どの民は、ハワグが神の御名に守られし神秘の在処となったその由縁を知らない。秘匿されているのではなく、ただ誰しも知ろうとしない為である。盲目的に神を信仰し奉る皇国の気風がそうさせているのだ。

 靖央もまた、真相を知らずに生きる大多数の内の一人である筈だった。にも拘わらず、幼馴染の少女によって全てを打ち明けられ、彼女自身の苦悩をも知ることとなった。

 一度に多くの事実に晒され、その全てを呑み込んで理解したわけではない。それでも小幸が明かしてくれたことだけは信じなければならないと判じて、混乱する頭を整理するかのように、無意識に振った。

 ――その瞬間。

 彼の脳裏を何かの記憶が掠める。


(……そういえば)


 今よりもずっと遠い過去の出来事。

 仲の良い少女と身を寄せ合って秘密の話をしていた大切な思い出だ。

 夕焼けに映えるその記憶のなかで少女は彼に言ったのだ。人が神を喚べば、その代償として清らかなる乙女を彼等に捧げなければならなくなるのだと。

 そしてその話の後に投げ掛けられた、真意の分からぬ一つの問いかけ。

 それを聞かされた当時、全ては御伽噺や妄想の類いであると疑って真に受けることをしなかった靖央は、だが今になってようやく、その意味を理解した。

 顔を顰め、頭を抑えて苦悶する少年を置き去りにするかのように、燎祗の語りが続けられる。


「ハワグに於いて全てのはじまりとされる、最初の贄となった少女は古巫と呼ばれていた。純粋で穢れのない心根を持つ彼女は、当時のハワグを治めていた帝の子であり………自国が滅びることを恐れた父によって神供となる運命を強いられた、哀れな娘だった」


 燎祗の視線は頭上の月に向けられていながら、どこか遠い記憶に思いを馳せているかのように、細く揺らめいていた。


「戦火に脅える民草を憂いていた古巫は、己の命ひとつで国が救えるならばと、父の言葉に素直に従い神へ捧げられる定めを受け入れた。そうして彼女はその身を贄として差し出し、その見返りに神々が与えた加護によってハワグは恒久的な平和を手に入れることが出来た―――」


 そこまでを口にした燎祗は僅かな沈黙を挟み、月へと差し向けていた双眸をゆっくりと降ろして衛正へと向き直った。


「それが、お前の知るハワグの史実であろう」

「……、」


 涼やかな面持ちで首を傾げる男に、だが衛正は鋭い瞳を返す。

 やはり相手の返答など求めていないらしい燎祗は再び視線を揺らめかせ、間を置かずして次の言を続けた。――その瞳に虚の如き感情の色を乗せて。


「だがな、それは欺瞞を孕んだ史実だ………皇国の闇を覆い隠すためのな」

「……闇?」


 ぽつりと反芻された青年の言葉は、まるで男の心に細波を立てるかのように不自然なほど鮮明な音として響いた。

 自らの発した声を発端として、正面に立つ鬼の威が僅かに膨張したのを衛正は感じた。膚の表面がふつふつと粟立ち、無意識に刀を取り落としそうになって咄嗟に柄を握り直す。漏れ出ただけの圧が、先ほど相対した時よりも濃密なものであることを否が応でも理解させられ、衛正は半ば本能的に全身の緊張を高めた。

 その場の全てを睥睨する鬼の長は、けれど対峙する青年など気にも留めていないかのような様子で、穏やかに言葉を紡ぐ。


「このハワグという国がどれほど醜い歴史の上に成り立っているのか、お前たちは知らないのだ。本当の意味で贄となった少女の、その苦痛と悲しみもな」


 刹那。

 標的を油断なく見据えていた衛正の眼前で、燎祗の姿が掻き消えた。

 突然の出来事に青年が目を瞠り―――だが直後には既に、彼の至近に鬼の姿があった。


「無知蒙昧なお前たちに教えてやる。知りたければ聞き終えるまで死なぬことだ」


 呟くように告げられた言葉。それを合図として燎祗の全身に巡る鬼の紋が強く脈打つ。空気を震わせ放たれた威は無形の圧へと転化し、避ける間もなく衛正の身体を打ち据えた。


「ぐぅ……っ!」


 まるで巨大な不可視の拳に殴られたかの如き衝撃に、青年の貌が歪む。並外れた反射神経によって咄嗟に後ろへ飛び退いたが、それでも受けた力は体内の臓器や骨に響くほど絶大なものであった。

 僅かに空いた両者の距離を埋めるように燎祗が更なる一歩を踏み出す。再び至近の距離で瞳を突き合わせる形になり、衛正は歯噛みをしつつも半ば闇雲に刀を振るった。

 隻腕であれど相応の力が乗った一閃は、だが鋼を思わす燎祗の皮膚に弾かれたことで容易く逸れる。

 決して埋められぬ決定的な隙が生じる。中空へと惰性で流れた刀を衛正が無理矢理に引き戻すより早く、がら空きとなった彼の鳩尾へと燎祗の蹴りが叩き込まれた。


「がはっ……!」

「どこから話せばよいだろうか。お前たちにも分かりやすく語るならば……そうだな」


 気負いの全くない言葉の後、蹴りの衝撃に身を折った衛正の顎を最大限に手加減された拳が捉えた。視界に火花が散り、脳が揺れたことで意識が霞む。薄れかけた景色の中で燎祗がその細腕を振り上げるのが見え、衛正は反射的に横合いへと身を投げ出した。


「まずそもそもの話であるが……四百年前、神の招聘は "二度" 行われた」


 直後、青年の立っていた地面を不可視の力が大きく抉った。辛うじて直撃は回避したものの、生じた余波はだが圧倒的な衝撃を伴い、衛正の身体を容赦なく襲う。


「帝が己の娘を贄に神を呼んだその点は変わらない。だが一度目の招聘時―――常世に顕れた神々はな、供物として捧げられた古巫を神供として認めなかったのだ」


 何度も地面を跳ねながら転がる青年に向けて燎祗は指先に仄めく光を集束させて放つ。薄闇を引き裂いて飛来したそれらは宙を蛇行し、強引に立ち上がりかけていた衛正の周囲を覆うように着弾した。

 逃げ場のない空間で小規模の爆発が巻き起こり、それら全ての衝撃を受けた衛正はさらに吹き飛ばされた。


「何故なら当時の古巫はまだ齢十になったばかりの幼子であり、いくら穢れのない心を持っていようとも、神に見初められるには早すぎたからだ」


 絶え間ない攻めを続けながらも燎祗の声には僅かの揺らぎも生じない。ただ静かに、滔々と。自らの識る事実を詠み上げるかのように語る。

 派手に宙を舞いながらも優れた身体捌きで着地を果たした衛正は己の足が土を踏むと同時、即座に地を蹴り燎祗へと肉薄する。素早いその挙動は一切の負傷を感じさせない。

 やはり彼にも靖央と同じ現象が起きているのだと改めて認識しながらも、燎祗は自らを目掛けて振り下ろされる刀を穏やかな双眸で以て見据えた。

 胴を両断する一閃を小さく右に動いて避ける。眼前へと迫った青年に囁くように、唇を開く。


「しかしだ。幼いながらも清く澄んだ心を持っていた古巫を、神々は揃って気に入った」


 間髪入れず斬り上げられた刃が燎祗の前髪を僅かに掠る。

 確実に斬撃の速度を上げつつある青年へと薄やかな笑みを向け、応じるように右腕を振るう。生半可な刀であれば容易くへし折るであろうその細腕は、衛正の見事な反射神経で以て構えられた刀の腹を直撃し、青年の身体を再び押し飛ばした。


「そうして彼女に己の神力の破片を与えた上で、十年後―――つまりは少女が成人したときに再び姿を顕すとの約定を交わした。分かるか? 神が人と誓約を成したのだ。古巫がどれほど無垢で清澄な心根を持つ娘であったのか、お前にも理解出来よう」


 両者の間に生まれた距離を縫うかのように、ひと時の静寂が漂う。

 鬼の語る言葉を聞く青年は、だが明かされる真実に動揺の色を見せることもなく険しい表情を浮かべ続けている。

 

「そして、その古巫もまた、神と交わした約定を果たすときまで変わらず清らかで在り続けると誓った。その言葉を守り続けることだけが、神に対して向けるべき誠意であると判じてな」


 ――古巫と呼ばれた少女はどこまでも清らかで、そして正しき心を持っていた。

 人が神と共に在ろうとするならば、いつだって人は神に対して誠実を貫き、偽りのない澄んだ情念で以て向き合わなければならない。

 誰に言われた訳でもなく。

 ただ純粋にそう思ったが故に、古巫は自らに課した誓いを守り続けようと固く決めたのだ。

 そんな健気な御心を持つ少女だったからこそ、神々は十年という歳月を置いてまで、彼女のことを神供として迎えようと取り決めたのであろう。


「……だがな」


 途端、燎祗の声が一段低いものへと変じた。


「その誓いは果たされなかった。何故ならば、他でもない少女の父である愚帝の手によって破られたからだ」


 その言葉の後、男の体内から漏出するように立ち昇る威がゆらりと揺らめいたのを、衛正は見た。

 声音に感情が籠ったわけでもない。その貌に何か言い知れぬ胸中の蟠りが浮かんだわけでもない。それでも衛正は遠巻きに見据える男の姿に、一抹の変化を感じ取った。

 燎祗の視線は衛正から外れ、揺蕩うように中空へと向けられている。月の光さえ吸い込んで闇を纏う瞳は虚ろの中に茫洋とした色を孕んで見えた。


「神々によって神秘の力を与えられた古巫は、奇跡の象徴として人々から崇められるようになった。神の依り代だの神の稚児だのと……奇跡をこいねがう者どもによって、彼女は現人神のような存在へと祭り上げられたのだ」


 そして、と言葉は続く。


「古巫の存在が国の民に与える影響を知った帝は、自らの娘を国のために有用出来ないか画策した。小国であったが故に戦争の面で非力だった当時のハワグに於いて、神の力を授かった古巫とは謂わば戦力差を覆すための大いなる一手……唐突に降って湧いた奇跡の具象だったのだろう」


 そう思ってしまう心は、衛正にも理解できた。

 現在の皇国は神の恩寵に守られているが故に、諸外国との抗争に巻き込まれることなく独立した立場を獲得している。だが四百年前、ハワグがただ人による武力しか持たない列島だった頃は、悲惨と言っても過言ではないほどの弱小国であったことを衛正は知っている。

 あまりの非力さに、辿る道は大国に傅く奴隷国家しかないだろうと揶揄されていたほどだ。

 皇国がその未来を辿らずに済んだのは、ひとえに当時の帝が神を招聘し、その加護を賜ったが故であるとされているが……。


「――その結果、帝は古巫の血を国中へとばらまく考えに至った」


 そう頭の片隅で考えた衛正の意識に滑り込むような、そんな男の声があった。

 静穏を纏って吐かれたその言葉の意味を、青年は数瞬、理解出来なかった。思考の空隙を埋めるかのように、燎祗は間を置かずして次の言葉を続けた。


「神の力を持つ古巫の血、それを継ぐ者が国中に広がれば、それだけ国としての力になる。そんな浅薄な考えの末――帝は期限までの十年間で、己の娘に出来るだけ多くの子を作らせるよう強要したのだ」

「っ……」

「国内から権益者の嫡男を十名選び、一年ずつ彼等の子を産ませてゆく。それがどれほど狂気に満ちた悍ましい所業であったのか、想像に難くはないだろう………まだ幼いながらに、望まぬ子を産み続けなければならなかった古巫の心労もな」


 燎祗の声に揺らぎはない。

 にも拘わらず、その言葉裏に秘された泥沼の如き苛烈な感情がありのまま衛正へと突き付けられているかのようだった。自然と背筋に悪寒が走る。けれど青年はそれを何処か他人事のように感じていた。目の前に立つ男より告げられた言葉が、戦慄を伴って彼の身体を支配していたからだ。

 静謐を纏い吐かれる語りの全てを、無条件に信じるつもりはない。それでも何故か燎祗が紡ぐ言葉は何もかもが真実であり、己は今、皇国が持つまことの歴史を聞かされているのだと、そんな不可解な確信があった。

 反して、何故この男がこれほどに皇国の真なる歴史を知っているのか。当然のように不審を抱くはずのその違和感を、衛正は気にも留めない。まるで作為的に意識から外されているかの如く、ただ男の語りに耳を傾けるばかり。

 既に燎祗の双眸が衛正のそれと交わることない。

 何かを追憶しているであろう虚の瞳は降り注ぐ月光の綺麗で儚い紫銀を浴びて、混濁した闇を内包する鏡面のように見えた。


「神が再び常世に顕れる十年の間に、古巫は帝の策謀通り十の子を産み………その全ての赤子は間も無く本来の家元へと返され、そうして次代の子を作り古巫の血をさらに国中へと広めるための元種として、蝶よ花よと育てられた」

「……、」

「今に至るまでの四百年という歴史の中で、古巫の子孫はさながら燎原の火の如く増え続け、中でも彼女の純真なる精神性を受け継いだ一部の少女に、偶発的に神の力が顕現するようになった。―――お前たちが無様に縋り続けている神の巫とは、そうして生まれたのだ」


 古巫の血は決して薄まることはなく。その神性は千差万別の色を宿し、無垢なる心根を持つ子孫の少女たちへと巫の素質という形で顕在化した。皇国が成って以降に巫として神力を得た娘たちの家系を微細を穿って調べることが出来れば、その全ての血筋はいずれかの時点で古巫と交わっているのだろう。

 無意識に喉を鳴らして生唾を嚥下した衛正は、燎祗から意識を外さぬままに、ちらりと小幸を見やった。己と愛する女のために贄としての運命を担ってくれていた彼女もまた、古巫の遠い子孫の一人なのだと認識しかけて―――だが不意に割り込んだ男の声が、思考を遮った。


「結論を急かすな。話はまだ終わりではない」


 青年の心内を見透かすかのように、けれどその視線は月へと向けたままに、燎祗は気怠そうに首を鳴らしてから言った。


「確かに神巫とは古巫の血を継いだが故に神力の破片を宿した者のことではあるが、あの娘………小幸は違う。言ったであろう、あの娘には他の巫には無い唯一の価値があるのだと」


 そこでようやく視線を下ろした鬼の長は、未だ無言で地面に座り込む小幸の姿を流し見てから、皇国が綴った歴史の続きを静かに語り始める。


「……古巫が成人し、神々が再び彼女の前に顕れたとき、変わり果てた少女の姿を見た彼等は怒り狂ったという。当然だ。神は孤独を極めた存在であり、その孤独を埋めるに相応しい素質を持った少女が自らの許へ来るのを、神々はみな心待ちにしていたのだから」


 ――だが蓋を開けてみれば、そこに在ったのは身も心も崩潰しかけた無惨な有り様を呈する一人の女で。

 清く在り続けなければならないという己に課した誓いと神への誠実を貫けなかった古巫は、止め処ない涙を流し続けていた。

「ごめんなさい」と、ただそれだけを何度も何度も口にしながら、ひたすらに喚き続けていた。


「古巫を穢した帝を神々は許さず、その命と共に国を丸ごと呑み込まんとした。二〇の神が抱いた怒りは国土を震撼させ、あらゆる生命に終焉を与えるほどの天災をもたらしかけた」


 ――けれど。


「他の誰でもない古巫が、それを望まなかった。誰も死なせたくない、誰かがその命を失わなければならないのであれば、自分がその命運を一手に背負う。故に、もしも自分にまだ神供としての資格があるのなら、この身一つで怒りを鎮めてほしいと……そう祈ったのだ」


 ――周囲の人間へと見境の無い悪意を殺意を向けていても、何らおかしくはない。

 それほどの悲惨な目に遭わされた少女は、だが内なる心根に変わらぬ健気さと美しさを持っていた。その揺らぎの無い純粋な精神は、神々にしてみても異常なものとして映っただろう。

 たった一人の愚かで傲慢な王により、十年という歳月をかけてゆっくりと精神を削られ。

 見るも無残な姿へと変わり果てた少女は、しかし。

 それでも尚、顔も知らぬ数多くの民を思い、世の安寧を願った。

 一人の幼子が負うにはあまりに大きな理不尽を被り、その不条理に苛まれながら成長する中でさえ、清く美しい心を不変のものとして持ち続けた。

 そんな彼女の精神は言うなれば人として破綻を極めており、憎悪や害意と言った悪面を知らないのだと思えてしまうその異質な心根はけれど、神々には非常に眩しいものに見えたのかも知れない。

 ……だからこそ、


「だからこそ神々は古巫の願いを聞き届け、神の名の下、加護による恒久の平和をハワグへと与えた。お前たちの知る史実では、この国は帝が切に祈念したことで神の加護を賜ったのだろうが、そんなものは虚飾が過ぎる。傲慢からは程遠い人格者と謳われている筈の帝はその実、際限なき悪辣に塗れた愚王であり、その悪辣による理不尽を被った少女がこそ、国とそこに生きる民の寧静を願ったのだ」


 一人の少女が抱いた願いは、数百年の時を経ても尚、変わらず在り続けている。

 極大の不条理に見舞われようと悪面に堕ちることはなく。ただひたすらに神との間に繋いだ誠実を貫こうとした無垢なる少女を、やがて神は受け入れた。

 これほどの純真な心根を持つ神供は、今後、例え幾星霜の時が流れようとも現れるはずがないと断じたが故に。


「――その筈だった」


 ひと呼吸の間を置き、やがて男は言った。


「だが現れたのだ。古巫を彷彿とさせる純粋で健気な心を持つ少女がな」


 言葉と同時、燎祗がおもむろに衛正へと向き直った。動きはない。一定の距離を空けたままに対峙する二人の男は、無言による僅かな静寂の中で色の違う瞳を突き合わせた。


「……その少女と言うのは、もしや――」

「世の平和を祈念した後、古巫はもうひとつ、神に願いを告げた」


 衛正の訥々とした声は、不意に紡がれた男の脈絡ない言葉によって遮られた。

 向かい合っているにも拘わらず、やはり変わらぬ独り言を呟くかの如き平淡な言様が穏やかに流れる。


「もしもこの先、己と同じだけの純粋無垢な心を持ち、己と同じだけ苦悩や懊悩に苛まれ、それでも尚、誠実を貫き清らかで在り続けたいと切に願う少女が生まれたのなら……」


 ――その子が自身の宿命に押し潰されることなく、自らの幸福を追い、何ら変わらぬ一人の女の子として日々を生きられるように、救ってあげたい。

 その願いは謂わば、常に己以外の者のためを想って身を窶しながら生きてきた少女が今際の際に抱いた、最初で最後の ″我が儘″ だったのかも知れない。


「果たして神々は、その二つ目の願いをも聞き届け、彼らのもたらした奇跡の力によって古巫は常世から消えた。寿命という概念と生身の身体を喪い、そうして彼岸世の住民となったのだ。全ては己が発端としてこの先ハワグに生まれるであろう無垢なる少女を、永劫の歳月、見守り続ける為にな」


 衛正の脳裏に、まさか、と言う疑念があった。

 これまで聞かされてきた燎祗の言葉を全て統合すれば、否が応でも辿り着いてしまうその結論。

 神巫と言う少女たちの内に存在する本質。その血筋。そして自らが最もよく知る巫の少女が持つ、ある一つの不可解な特異点。

 その ″一面″ は、少女の身に危険が降りかかった時にのみ顕在化するのだと、青年は自身でそう判じていた。その裏面性が一体どこから生じているのか、その答えは遂に彼も明らかに出来なかったが。

 眉を顰め、その貌に陰影を落とす衛正を、燎祗は少しだけ優し気な双眸で見据えた。そして一抹の白々しさを孕んだ声音で首を傾げながらに続けた。


「あの娘は時おり意識の層が変じるのだろう。だが本来、神巫には人格の二面性などと言う不可解極まりない性質は存在しない。古今東西どこを探したところで、そのような特徴を持つ巫は彼女しか見つけられない」


 ――その時。

 その場にいた全ての者の視界にふと、紫銀の光が揺らめいた。

 月光と色を同じくするその発光は、だが頭上に広がる夜空からではなく衛正達とは少し離れた木陰から棚引いているように見えた。

 さながら男の意識を誘う女の細指を彷彿とさせる妖しげな光は衛正の、そして靖央の周囲をも穏やかに舞い始めた。


「……そしてお前たちは、おおよそ決定的な勘違いをしているのだろうな」


 螺旋を描いて中空を漂う月光の如き紫銀の煌めきに、燎祗は数瞬視線を配り。

 そうして虚の瞳を微かに揺らめかせ、薄く笑んだ。



 周囲を漂う空気の温度が幾許か下がったように思えた。

 だがそれは燎祗の威がもたらす底無しの怖気とは違い、どこか清冽で澄み切った気色を孕んでいた。


「加えてもう一つ……あの娘が持つ ″小幸″ という名は、偽りのそれだ」


 眩い銀光に目を細める衛正の耳に、燎祗の声がやけに鮮明な音となって滑り込んでくる。


「あの娘のまことの名とは―――。四百年前、初めて神に見初められた少女の血と力、そして存在の全てを受け継ぐ始祖の神巫」


 三者の視線が向く先、光の中心で一人の少女がゆらりと立ち上がる。艶のある黒髪は月光を纏って淡く輝き、それ自体が意思を持っているかの如く妖艶に揺らめいていた。

 音もなく、少女が静やかに振り返る。その瞳が燎祗の持つ鬼の紋と同じ深い赤に変じているのを見て、衛正の本能は戦慄を訴えた。


「とうに理解しただろう」


 続く声が、空気中を伝播して夜闇に響く。


「あの娘の正体は、神そのものだ」

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