最古の巫

 大通りに出ればそこかしこから聞こえてくる弦の音色も、街のやや外れに位置するこの屋敷にまでは届くわけもない。

 微かに漂う虫の声を耳に聞きながら、衛正は庭に面した縁側で一人、古惚けた帳面に視線を落としていた。

 そこに記されているのは神の巫に関する事柄だ。四百年前、このハワグの礎として神に捧げられたはじまりの巫。多くの書物において《古巫こふ》と呼ばれる最古の神巫が、どのように育てられ、どのような人柄を持ち、どのような力を使役していたのか。

 そういったことが事細かに書き記されていた。

 ――だが。


「……やはり、最古の巫にまつわる数少ない記録にも、神に捧げられたその後・ ・ ・のことは何も書かれていない、か」


 人間に招聘される対価として、神は巫の少女を己の側女として彼岸世ユグァラへと連れ帰る。

 住まう世界の一線を超えた神巫が如何なる末路を辿るのか。その記録の一切が存在しないことに、衛正は拭いきれない違和感を覚え続けていた。

 観測の術がないためだろうか。

 ふと浮かび上がらせた推測に、しかし衛正はすぐ様否を唱えた。

 ハワグに存在する神巫のなかには、彼岸世ユグァラとの交信が可能な巫も存在する。その巫は、神々のなかで最も人間と友好的とされる一柱と意思の疎通を計っているらしく、それならば過去に神供として捧げられた巫の行く末を知ることも出来るだろう。

 にも関わらず一切の記録がないとなれば、考えられることは決して多くはない。


「……記録が秘匿、あるいは抹消されているのか」


 神妙な面持ちで男は呟いた。

 口にした言葉はおそらく正しいのだという確証があった。だが、それならば一体誰が、何の目的で情報を統制しているのか。新たに不審の芽が出てくる。

 考えられるとすれば、聖獣の力を賜り皇国を統べる帝その人であろうが、虚の玉座に座す彼の王に、何の利益があろうか。


「まさかここまで難儀なことになろうとはな」


 実のところ、いま彼が調べていることは、神招聘の儀において何の意味もなさないものだ。ふとした気まぐれから疑問を抱き、文献を漁ろうと思い立ったのだが、どれだけ調べても尻尾すら掴めない謎に、さすがの衛正も嘆息を溢してしまう。


「……慣れないことはすべきではない、のだろうか」


 ぽつりと漏れた声は、宵闇に溶け入るように聞こえる虫の音に紛れて霞んでしまう。

 どうしても考えてしまうのは小幸のことだった。


 十年前にこの屋敷に連れてこられて以降、ずっと神巫として束縛された生活を強いられてきた少女。その "檻" を自分たちが作ってしまっていることに引け目を感じない日はなかった。

 常に気丈に振る舞う小幸の顔を見る度に、その罪悪感は増すばかりで。

 神秘の在処と謳われるハワグにおいて、神巫とは奇跡の象徴。ゆえに神へ捧げられるという行為は、何よりも光栄で尊ばれるものである。そんな観念が根強く植え付けられているのだ。


 ――だが裏を返せば、神巫とは己の意思とは無関係に、死へと追いやられる不幸な少女のことだ。


 巫の娘が浮かべる笑顔を、どうして本物のそれであると信じられようか。

 恐怖しないはずがない。どこまでも純粋で、無垢で。しかしだからこそ、当人の内側に湧き出てくる感情はひたすらに素直で。

 数年前までは毎夜の如く夜更けに涙を流していた少女の姿を思い出し、衛正はやり場のない気持ちに顔をしかめてしまう。

 そんな自分の気持ちをどうにかしたくて。

 せめて、少しでも小幸の不安を取り除くことが出来ればと思い、あらゆる文献や資料を漁ってはみたものの。


「……結局は自己満足なのだろうな」


 どれだけ少女のことを想おうとも、自らの願いを捨て去ることだけは絶対にしない。

 その時点で矛盾が生まれているのだ。

 本当に小幸の命を案じているのなら、そもそも彼女を神供として利用しようとはしないだろう。結局のところ自らの望みを叶える選択肢を最上に持ってきている以上、小幸に対するあらゆる心配や懸念は、全て自己満足へと成り下がる。

 しかしその矛盾や自己満足は、決して取り除けないものであると衛正は思っていた。


 自らの願いのために、一人の少女を生贄に捧げる。

 四百年もの間、ただその事実だけが連綿と続いているからこそ、神聖皇国ハワグは神秘の在処と謳われている。

 その裏で、多くの人々が神巫の少女に向けて抱いていたであろう憐憫や罪悪感の類いは、神の下に綴られた歴史に覆い隠されているのだ。

 ゆえに、いま自らが感じている後ろめたさにも似た気持ちは、無理矢理にでも捨て去らなければならない。

 そう考え、彼は心を鎮めるために深く長い息をひとつ吐いた。


 


 ――不意に。

 あるひとつの違和感が脳裏を掠めたのは、それから幾ばくも経っていない頃合いであった。

 視線が膝元に置いていた帳面へと落ちる。最古の巫について記されたそれをぱらぱらと捲り、やがて彼女が有していた神力に関する記述の頁で手を止めた。


「……古巫。はじまりの巫、原初の神巫……か」


 記録によれば、古巫の少女が神力を発現したのは齢十の頃であったとされている。

 その点は今代の神巫と変わりない。ハワグに生きる巫は例外なく、十歳に至るか至らないかの時期に神秘の力を発現させているからだ。

 そしてその力は、決して重複することはないとされている。

 つまり、神巫一人一人が持つ神力はそれぞれが固有であり、類似したものはあれど、まったく同一の力が発現することはないのだという。

『神力とは、世の害悪から己の側女を護るために神が与えた力の破片である』。これは、神が常世に降臨した頃から現代に至るまで、変わらぬものとして伝えられてきた事実であるが、この定義に、衛正はひとつの疑問を抱いていた。


(――神が側女としての資質を持つ少女に己の神力を与えるようになったのは、彼等がはじめて常世に降り立った後のこと……つまりこの列島が神聖皇国と名を変えた後のことだったはずだ)


 帳面の紙端を片手間に撫でながら、思考に耽る。

 二〇もの神が初めて顕れた四百年前、神々の恩寵と聖獣の加護に守られている証としてハワグには神聖皇国という称が付けられた。その名は絶対的な力の証明ともなり、当時、周辺諸国で起きていた戦を鎮める抑止力となった。

 そして、この国が神の御名に守られるようになったのを皮切りに、神の力を授けられた少女の存在が各地で散見されるようになり。

 ゆえに巫は神に連なる超常の者として諸外国から見られるようになり、ハワグが独立した立場を確立させる礎にもなったのだ。


(もしもその史実が本当だとするならば……)


 神の降臨と、彼らの力を授けられた神巫という少女たちの出現。

 その二つの時点を照らし合わせることで生まれる疑問。

 やがて衛正は、ぽつりと言葉を溢した。



「――神が顕れる以前に存在していた古巫の少女は、なぜ、降臨以前の時点で神の力を有していたのだ……?」



 暦が神皇へ変わる以前に神が現世に降臨したという記録はない。

 それまで神々とはあくまで空想や信仰上の概念でしかなく、世界を隔てる常世や彼岸世という呼称も、神が実在すると証明されたことで生まれたものだ。

 ゆえに、古巫の少女が神の力を有していたという記録は、ハワグの史実から鑑みて明らかにおかしいことなのだ。


(……どういうことだ。我々はなにか、大きな勘違いをしているのか?)


 決して掴めぬ靄を追うような、そんな不快感を孕む疑惑に、衛正は険しい表情になる。

 深く考えれば考えるほど沼に沈み込んでいくような感覚に陥りかけたその瞬間、張りつめた静寂を破るかたちで何者かの足音が聞こえた。


「衛正様!」


 廊下の角から急ぎ足で姿を現したのは鴛花だった。

 いつもの穏やかな貌とは一変して、血相を変えた様子の彼女は、衛正の傍までやってくると彼の着物をひしと強く掴んだ。


「大変です、衛正様!」

「……どうした。何かあったか」

「大変です、小幸様が……!」


 そうして告げられた言葉は、衛正の身体に底無しの悪寒を走らせた。

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