刻み付く残酷

 脳裏に響く鈍い痛みが、小幸の意識を引き上げた。

 気怠い倦怠感を全身に覚えつつも、ゆっくりと瞼を開く。どうやら無造作に地面へと転がされていたようで、頬に土の感触があった。


「……ここは、」


 ほんやりとした意識のまま、視線だけを周囲に巡らせる。

 廃屋ばかりが立ち並ぶ薄暗い場所。明かりとなるようなものは一切無く、絶えず降り注ぐ月光だけが視界を照らしてくれていた。

 微かな喧騒すら聞こえてこないことから、街の中心部からはかなり離れた場所のようである。

 取り敢えず立ち上がろうと上体を起こした小幸は、だが直後、自らの両手首が後ろ手に縛られていることに気付き、細い眉をしかめる。


「……なんかもう、穏やかじゃないなぁ」


 唐突な非常事態に、思わず素の口調が零れてしまう。

 靖央と街の路地を歩いている最中、何者かに背後から襲われたのははっきりと覚えている。殴られた箇所は未だ痛むが、出血はしていないようである。

 小幸を気絶させ、ここにこうして運んでくるのが目的だったのなら、襲撃犯の目星もおおよそつく。

 何より、街の有権者である衛生の屋敷に住む小幸は、江鷹の人々からは丁重な扱いを受けている。間違っても彼女を殴り気絶させるような乱暴を働く者は、この江鷹にはいない。

 であるならば、必然的に襲撃者は街の外から来た者に限られるだろう。


「この間の報復とかじゃないよね……? 靖央も無事だといいんだけど」


 見渡せる範囲に幼馴染の姿はない。

 襲撃される直前、錯乱した状態に陥っていた彼のことが心配だが、ひとまずはこの現状をどうにかしなければならないだろう。

 両手を縛られて不自由な身体を何とか動かし、苦労して上体を起こしていると、思わず溜息が漏れる。


「まったく……こういうときこそ "あっちの私" と代われたらいいのに。自分の意思じゃ代われないのが何ともなぁ」


 僅かな皮肉を込めて小幸は言う。

 神の巫としての意識は、小幸が何らかの危機的状況に陥った場合にのみ顕在化する。現状を鑑みれば今も危険な立場なのであろうが、何故か意識が切り替わる様子はない。

 これまで一度として小幸が自らの意思で "もう一人の自分" と入れ替われたことなどなく、彼女はその原因についてずっと考えてはいるものの、未だ答えは出ていない。


「って、今はそんなことよりも、これからどうするかを考えなきゃ……」


 余計な思考を振り払い、改めて周囲を見回す。

 四方を廃屋に囲まれており、それぞれの母屋の中へ入らなければ敷地外へは逃げられないような構造になっている。

 この場所が街からどれほど離れているのかは定かではないが、このままここにいては安全とは言い難い。とにかく手近な母屋に入って身を隠そうと考えた、その瞬間。

 小幸の正面に建つ廃屋の扉が、乱雑に開かれた。


「……あ? なんだよもう起きちまったのか。怪我させちゃいけねぇっつっても手加減しすぎだっつーの」


 そうして母屋の中から歩み出てきたのは、長身痩躯の男だった。

 一見すれば瘦せぎすと思うが、適当に着流した着物の袖口からは鍛えられた逞しい腕が覗く。加えて腰には一振りの刀を佩いており、武人の類であることが伺えた。

 だが、何よりもまず。

 小幸は男の "ある部分" に思わず目を引かれた。

 それは、彼女を剣呑な目つきで睨む男の、左の目元。

 まるで血を注入したかのような鮮烈な赤い筋が幾重にも走り、顔の左側面を半ば覆っている。また、その真紅の筋はまるで血管であるかの如くドクンドクンと脈打っているのだ。


「鮮紅の、和彫り……」


 明らかに尋常の代物ではないそれを、小幸は実際に見たことはないものの、話には何度か聞いた覚えがあった。

 うっすらと走る根源的な恐怖を噛み締めながら、小幸は現れた男を鋭く見つめ返す。


「北の、燎の一族……!」

「なんだよ、見ても怯えねぇたぁ嬢ちゃん胆力あるなァ」


 小幸の言葉を柳に風と受け流し、にやりと嗤う男。

 彼はそのまま歩みを進め、小幸の傍までやってくると、おもむろにしゃがみ込んで地面に座り込む小幸と視線を合わせた。


「嬢ちゃん、名は?」

「…………、」

「おいおい、初対面の相手に自己紹介は基本だろーが。自分の名前を相手に教えるのは最低限の礼儀ってやつだぞ?」

「……礼儀と言うのならば、私を背後から襲い、こうして縄で拘束している点はどうお考えで?」


 小幸が気丈に切り返すと、男は何かを考える素振りを見せた後、僅かに生えている顎髭を撫でながら苦笑した。


「いやなに、ガキん頃から大切に大切に育てられたっつーから、どんな気弱な嬢ちゃんなのかと思ったが、なかなかに気が強ぇ」

「ッ、それは……」

「ま、自分から名乗るのも礼儀の一つだわな。……俺は燎儀りょうぎ、お前さんの言う通り《燎》のモンだ。よろしくな、嬢ちゃん……いや、小幸ちゃん・ ・ ・ ・


 名を呼ばれた瞬間、小幸は奥歯を強く噛み締めた。

 燎の人間が小幸の名を知っており、またこうして襲撃して人気のない場所に攫ったのだとすれば、状況は思った以上に不味い。少なくとも彼らは小幸が神巫であるという、秘匿されている筈の事実を何らかの手段で以て把握していたと言うことになる。

 それが、一体何を意味するのか……。


「……燎の……鬼の一族が、私のような小娘に一体どういった御用で?」

「ハッ、そう警戒すんなや。手荒な真似したのはわりぃと思っちゃいるが、何も俺たちゃ好き好んで嬢ちゃんを痛めつけたいとかそんなことは考えちゃいねぇよ」


 男、燎儀は歪んだ笑みを浮かべて手をひらひらと振る。そう言う割に縄を解く気はないようで、そのまま立ち上がり、傍に転がっていた木箱に腰かけた。

 そんな彼に、小幸は鋭い物腰は変えないままに問う。


「一つ教えなさい。靖央は……私と共にいた者は何処ですか。姿が見当たりませんが、危害を加えたりはしていないでしょうね……?」

「あン? あー、あのガキんちょか。心配しなくたってちゃんと丁重にもてなしてやってるぜ。なんつったって、あのガキがいねぇと俺たちは嬢ちゃんとこうして話せてねぇんだからなァ」

「……なんですって?」


 燎儀の言葉に不可解な違和感を覚えた小幸は、だがその違和感を問い質す直前に口を閉ざさざるを得なかった。

 刹那の間に再び小幸へと肉薄していた燎儀が、彼女の瞳を至近から覗き込んでいたからだ。


(……動きが、見えなかった)


 瞬きなどしていなかった筈だが、小幸には彼の挙動の一切を察知できなかった。

 気が付けば眼前にいた男は、真紅の線が脈打つ貌をぐいと近付け、小幸の澄んだ黒瞳を見据える。薄暗い、闇の泥濘を湛えたかのような虚ろの瞳だった。

 これが燎の者の目か、と生唾を飲み込んだ小幸に、燎儀は感情の窺えない声音で呟いた。


「――哀しいなぁ。ガキ同士の誓いなんざ、綻びやすいに決まってるのによ」

「……何を言っているのです」

「それが分からねぇのがガキだってことだ」


 そう応えて再び薄ら笑いを浮かべた彼は、おもむろに振り返り、先ほど自らが出てきた母屋に声を飛ばす。


「おい、李弩りど府岳ふがく! ガキを連れてこい!」


 その指示から僅かも間を置かずして、母屋の扉が開く。中からはまず体格の良い男が二人、姿を現した

 その者たちの顔には燎儀のような歪な紋様は刻まれておらず、名前からも分かる通り、燎の一族ではないようだ。

 そして、そんな彼らに引き連れられる形で母屋から出てきたのは、周りの二人と比べて小柄でひ弱そうな少年、靖央であった。


「靖央!」


 幼馴染が無事であると分かり、思わず名を呼ぶ。

 燎儀の言っていた通り、確かに怪我らしい怪我は負っていないようである。

 だが、決して正常とは言えなかった。尋常ではないほどの脂汗を掻き、何かに怯えるようにガタガタと全身を震わせていたからだ。

 そうして、小幸が名を呼んだ為に、靖央の視線が彼女の姿を捉える。

 その瞬間、彼は大きく瞠目し、言葉を失ったかのように硬直してしまった。


「……靖央?」


 そう、あれは小幸が燎儀たちに襲われる直前に陥っていた姿と同じだ。

 一体何が原因であのようになっているのか。やはり小幸には何ら見当もつかない。


「……あなた、靖央に何をしたの」

「おいおい、何でもかんでも人のせいにしようとすんじゃねェ。俺は自分の言葉に責任を持つ男だ。さっき言ったように、あのガキにゃ何もしてねぇよ」

「だったら……!」


 小幸が声を荒げて反論しようとした瞬間、再び無音の間に接近した燎儀が、彼女の耳元に口を寄せて言葉を遮った。


「だから言ったろ。ガキ同士の誓いは綻びやすいって。『ずっと一緒にいたから』だの『あなたのことなら何でも知っているから』だの、そんなちんけな理由だけで相手をとことんまで信じ切る。そんなだから、お前さんはガキなんだ」

「……なにを、いって」


 何故か、聞いてはならないと直感した。

 この先に続く燎儀の言葉から、耳を塞がねばと。

 だが、それは叶わず。

 燎儀の言葉は容赦なく、小幸に真実と言う名の残酷を伝えた。


「お前の存在を俺たちに教えたのはあのガキだ。要はお前、裏切られたんだよ」

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