偽りに笑んで

 禊を済ませた小幸は、自室で神儒舞の稽古をしていた。とは言え、あの白装束は身に着けていない。

 衛正に言われた通り、昨晩の時点で鴛花に預けてしまったからだ。恐らく、儀に際してより相応しい装飾を施してくれるのだろう。

 深い青を基調とした着物を身に纏い、先端に幾つもの小さな鈴が付いた扇を手に淑やかな足取りで舞を踏むその姿は、見る者の意識を否応なく誘引する魅力を醸している。

 細められた瞳が流れる度、薄く開かれた唇が息を零す度、畏怖と淫靡を感じさせる静かな威が周囲に放たれ、静謐の間を張り詰めた緊張で満たす。

 始まりの "壱乃舞" から終りの "拾乃舞" までを、半刻ほどかけて休みなく舞って見せた小幸は、僅かに上気した気分を落ち着かせるように、ふぅ、と深呼吸した。


「……あつ。後でお風呂入りなおそ」


 シャン、と鈴の音を鳴らしながら扇を閉じ、傍の文机に置く。

 白い首筋にうっすらと浮かんだ汗の玉が不快で、背中に流れる黒髪を帯に差しておいた簪で適当に結い上げる。

 そうして他の誰にも見られぬようにと閉めておいた障子を開け放ち、入り込んでくる清涼な空気を全身で感じた。

 まだ昇る最中にある陽を見上げながら、僅かに聞こえる虫の音に意識を浸らせる。そうすることで、余計な不安や惧れを外に追いやる。

 瞼を閉じる。暗闇の中、仄かな旋律に身を委ねる小幸は、まるで自らの身体が宙に浮くような嫌な浮遊感を味わった。


(……なにを興奮してるの。落ち着け、私)


 ぎゅっと唇を引き結び、自制するように呼吸を止める。

 自らの身体が強張っているのが嫌というほど分かった。そしてその緊張が神儀を間近に控えたことによるものだと言うことも。

 余計な焦燥や怖れは容赦なく精神をかき乱す。

 それらの情念は神を呼び降ろすうえではあまり好ましくないとされており、故に、彼女は幼いころから衛正に、神巫としての覚悟と矜持を持ち続けるようにと教えられてきたのだ。

 その言い付けを完全には守れていなかったのだと、今になって理解した小幸は、淡く微笑む。

 けれど湧き上がった一抹の不安は、まだ心の成熟していない少女に拠り所を求める欲をもたらしてしまう。

 ――誰かに縋りたい。

 ――縋って、甘えて、自分の願望を遠慮なく吐き出したい。

 そんな、齢十七の少女が抱くには余りに当たり前で、普遍的な望みは、だが彼女の神巫という御役目によって拒まれ続けてきたのだ。

 心の内に吹き溜まり、積もり続けている暗影をずっと自覚してきた小幸は、着物の上から自らの胸にそっと手を置く。


「……お母様も、子供のころは、こんな気持ちだったのかな」


 今の彼女と同じく神巫の資質を持ちながら、だが結局、神儀の機が訪れるより早く小幸を生んだことで巫の力を喪った為に、神巫の御役目を果たせなかった母のことを考える。

 何事にも動じない強い心根を持ち、だが万人に深い優しさを注ぐことの出来る、美しい女性であった。

 彼女もまた、かつては今の小幸と同じような様々な憂いを胸に秘めていたのだと思う。それでも確かに母は神巫であったことに誇りを抱いていた筈であり、巫の素質を受け継いだ娘の小幸に、神への捧げもので在ることの有難さを説くことも多かった。


 そう。

 此処は、神秘の在処である神聖皇国ハワグ。

 神の恩寵と聖獣の加護に守られし、邪を退ける神の国。


 其処に於いて、神々への供物として彼らに情を捧げることの出来る神巫の御役目は、何よりも重宝すべき大切なもの。

 故に、小幸が自らの運命に負の感情を抱くことは、神々に対する背信行為にも捉えられるのだ。

 頭を振って思考を排除する。

 救いは要らない。縋るものも求めない。

 人として生まれた自分は、そうして巫として生き、最期は神の傍女として死ぬ。

 そこに、逃れる余地など無い。

 ただ粛々と、己の定めを受け入れんと決意する。


 やがて其処には、我が儘を言うだけの子供ではない、燦然と佇む美しき一人の少女だけが在った。


 彼女の頬を伝う一筋の涙に気づく者は、もう、誰もいなかった――




 沐浴をして汗を流したり儀の工程や使う道具の確認などをしていたら、あっという間に昼下がりとなった。

 儀式の前日ゆえに何も口に出来ない小幸は、下女に申し付けて持ってきてもらった果実水だけを飲み、僅かに感じつつある空腹感を紛らわせていた。

 香油を付けていつもより艶めいて見える黒髪を片手間に梳っていると、ふと外に何らかの気配を感じた。鮮やかな意匠の施された櫛を置いて障子を開ける。だが見渡す限り人の姿は無かった。

 動物でも入り込んだのかな、と首を傾げながら自室に戻ろうとした少女は、けれど直後、「小幸ちゃん」と言う小さな呼び声を耳に聞いた。

 ハッと振り向く。すると少し離れたところにある茂みの陰から、小さな人影が飛び出してきたのだ。


「靖央!」


 思わず声を出してしまい、慌てて口を閉ざす小幸。

 何故か庭の一角に身を隠していたらしい幼馴染の少年は、こそこそと低い姿勢を保ったまま少女の傍まで走り寄ると、ほっと安堵の息を吐いた。


「良かったぁ。お屋敷の人に見つかんないかヒヤヒヤしたよ。ちょうど小幸ちゃんが外に出てきてくれて助かったよ」

「助かったよじゃないわよ! あなた、あんなところで何してたの。まさか勝手にお屋敷に忍び込んだとか言うんじゃ……」

「うん。塀が一番低いとこを探すのも苦労したよ」

「馬鹿じゃないの!? なんでそんな危ないことしたの!」


 小幸が叱責を飛ばすと、少年は一瞬きょとんとした後、首を傾げて苦笑を漏らした。


「いや、だって、普通に入ってこようとしてもお屋敷の人にやんわり門前払いされるんだもん。ちょっと小幸ちゃんとお話ししたいだけなんですって言っても、絶対会わせてくんないから。そうなったらもう勝手に忍び込むしかないよね」

「何を呑気に……見つかったら何て言われるか……」


 普段は大人しい幼馴染の思いがけない突飛な行動に、小幸は痛むこめかみを指で押さえる。

 昔からこういう少年なのだ。純粋でいつもにこやかな笑みを浮かべているが、時おり予想だにしない行動に及ぶことがあり、それ故にこの少年からは目が離せないのである。

 はぁ、と深い溜息を吐くと、頭痛の原因である当人は「まぁまぁ、見つからなかったんだから気にしても仕方ないよ」などと言う。

 思わず眉間に寄せてしまった皺を指でほぐしていると、靖央が靴を脱いで縁側に上がり込んできた。

 小幸の顔を間近から覗き込み、頷く。


「うん、元気そうだね。何ともなくて安心したよ。こないだ急に倒れちゃったときはびっくりしたんだからね」

「っ……そ、そう。心配かけてごめんなさい。もう、大丈夫だから」


 朗らかな笑みを向けられた小幸は、思わず言葉に詰まる。

 強引な方法を取ってまで小幸に会いに来た彼は、やはり先日のことを聞きに来たのだろうか。

 既に鴛花が説明をしたと言うし、目を覚ました後に小幸自身も手紙を送っている。だがそれでも、ちゃんと面と向かって聞きたいこともあるのだろう。

 当然、神巫のことに関して事実をありのまま明かす訳にはいかない。

 さて改めてどう説明したものかと少女が内心唸っていると、不意に靖央が小幸の両手を取った。

 突然感じた人肌のぬくもりに、小幸は思わずビクッと身体を震わせた。

 男の子らしくない小さくて柔らかい手で握ってくる靖央は、そうしてまた微笑むと、元気よく言った。


「ね、小幸ちゃん! もう元気になったんなら、外に遊びに行こうよ!」

「……外?」

「そ。どうせずっとお屋敷に籠ってたんでしょ? 街の空気吸わなきゃ、気も滅入っちゃうよ」

「そ、それはそうだけど……でも、明日はもう例祭だし、衛正様が絶対にお屋敷からは出ないようにって……」

「ほんのちょっとお散歩に行くだけだって。ちょっと歩いてすぐ戻ればバレないだろうし、問題ないでしょ?」

「い、いえ、そういう問題じゃあ……」


 靖央にしてはやけに強引なお誘いにちょっと身を引く小幸。

 無邪気だが基本的に大人しい彼がここまで強く誘ってくるのは珍しい。だが、よくよく考えてみれば靖央には五日もの間、心配を掛けてしまったのだ。

 そのお詫びに多少、二人の時間を取るくらいはすべきであろうと小幸は思った。

 一つ溜息を零す。

 だが直後に少女が浮かべた笑みは、弟の我が儘を聞く姉の困ったような苦笑でありながら、湧き上がる嬉しさが仄かに滲む年相応の少女の微笑でもあった。


「分かったわ、行きましょう。まったく、靖央ったら自分勝手なんだから」


 ふふ、と口許を押さえて笑む小幸に、幼馴染の少年は照れたように密やかな、だが何処かぎこちないと感じる薄い表情を見せるのであった。

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