倖せに縋る


 ――少し刻を遡る。


 自室の床で目を覚ました衛正は、覚醒したのがいつもより遅い時間であることを、差し込む朝日の色合いによって理解した。

 屋敷の主である衛正の自室は、だが下女や小幸のそれと基本的には同じ間取りである。隅には衣装箪笥と質素な文机が並び、その傍に置かれた棚には飾り気のない文箱が一つ、ぽつりと置かれていた。

 乱れた着物を直しながら床を出る。障子を少し開けば、僅かに質量を増した朝日が衛正の視界を明るく染めた。

 彼は基本的に朝は強い方である。毎日ほぼ同じ時刻に目が覚めるにも拘わらず、僅かとはいえ遅く起床してしまったのは、やはり神儀の日が近づいているせいか。

 無意識の領域における緊張は、当人に自覚をもたらさない。

 己のうちに目を向け、そうして自分の心が微かに強張っていることを理解した彼は、面白がるように苦笑した。


「未熟だな、私もまだ」


《衛》の家に長子として生まれた彼は、常に泰然自若とした姿勢を心掛けるよう教育され、如何なる状況においても平静を保つために強靭な精神力を養われ続けてきた。

 成人し、家督を継ぐという大義を投げ捨てて今の暮らしに移ってからも、その観念は何ら変わっていない。

 ……いや。

 それもそうか、と思う。衛正が長きに渡り夢想し続けてきた神の招聘は、決して彼一人の悲願ではないのだから。誰よりも愛し、何よりも大切にすると誓った女の為にも、神儀を心配する訳にはいかない。

 改めてそう決意すると共に高揚しかけた意識を、息を吐くことで何とか自制し、気を落ち着かせた。

 朝日の差し込む障子を閉め、そうして床を振り返った衛正は、軽く瞠目した。

 彼の隣で布団の中に身を横たえていた女が、その瞼をうっすらを開き、薄い微笑みで衛正を見上げていた為であった。


「……すまない、起こしてしまったか」

「気にしないでくださいな」


 普段より幾ばくか口調が砕けた様子の鴛花は、陶然とした笑みを口許に湛えたまま、緩やかな動作で身を起こす。寝着の類は身に着けておらず、剥き出しのままの肩や背中の曲線が露わになるのを見詰めた衛正は、己の中に昨晩と同じ熱が灯りかけるが何とか我慢した。

 彼女の傍に戻り、しっとりと柔らかい躰を抱きしめてから自然な動作で唇を重ね合わせる。離れるぬくもりに僅かな淋しさを覚えつつも艶やかな黒髪を撫でてやると、鴛花は蕩けそうな表情で笑んだ。


「まだ寝ていればいい。特に仕事もなかろう」

「そういう訳にはまいりません。あなた様のお傍にいることが、わたくしの仕事ですもの」

「ならば私も、今日は少しは怠けることにするさ」


 そう優しく告げてから、衛正は再び女の肢体を抱き寄せた。

 鴛花が熱く甘やかな吐息を零し、衛正の首筋をくすぐる。豊かなふたつの乳房が男の胸板に押し付けられ、そうして湧き上がる熱に誘われて衛正はまた抱き締める腕に力を込めた。

 くすり、と鴛花が笑う。


「珍しい。今日は甘えんぼさんですね。如何なさいました?」

「別に良いだろう。今日はそういう気分なのだ」


 衛正が、いつもは厳しい貌を気まずさげに顰めると、不意に鴛花が彼の首に腕を回し、そのまま寝床へと転がった。

 引っ張られるように倒れ込んだ男は、咄嗟に手をつき、愛しい女に圧し掛かってしまうのを何とか防ぐ。

 何をする、そう衛正が苦言を呈するよりも早く、均整の取れた裸体を惜しげもなく晒す女は、言を発した。


「では、たまにはわたくしも、我が儘を申しても宜しいでしょうか」

「……何だ」

「今日一日、気が済むまで、わたくしのことを愛してくださいな」


 愛らしくも艶冶な懇願に、衛正は僅かに目を瞠る。

 だが次の瞬間には淡い微笑みを滲ませた彼は、そっと女の躰に覆い被さりながら、囁くように応じる。


「厭らしい女だ、お前は本当に」

「そのようなわたくしはお嫌いですか?」

「聞くな」


 衛正の言葉を受け、鴛花はふわりと相好を崩す。

 その笑みがまた美しく、男は無意識の内に女の肢体を掻き抱き、軽く口付ける。

 すべらかな首筋に口許を寄せ、陶器のように白い肌へ唇を這わせてやると、女は身を震わせ、揺らぐ息を零した。


「……えいせい、様」


 紡がれる名に、男は身体の内に灯る苛烈な熱を自覚した。




 腕の中で眠る愛しい人を見詰め、艶やかな髪をそっと撫でる。

 いつもは毅然と振る舞う彼女も、衛正に抱かれている時だけは一人の愛らしい女でいてくれる。そのことが嬉しくて、衛正はまた、彼女を抱く腕に力を込めた。

 すると静かな寝息を立てていた鴛花が僅かに身を捩じらせ、薄く瞼を開ける。

 まだ微睡の中に意識はあるようだ。焦点の定まらぬ瞳を上げ、自分が衛正の腕に抱かれているのを理解すると、安心したようにまた瞑目した。

 寝物語を紡ぐように、艶やかな唇が震える。


「罰が……当たってしまいますね」

「どうしてだ?」


 不意に発せられた言葉に、衛正は眉根を寄せる。


「だって、わたくしたちが幸せとなるために、小幸様は贄となられるのでしょう? 人ひとりの生と引き換えに得られる幸福はとても苦い。今も充分に幸せなのだから、それはなおさらですわ」


 滔々と語られるその言葉は、衛正の貌に翳りを生む。

 その葛藤は、神巫として小幸を育て始めた頃から常に付き纏ってきたものだ。

 彼らにとって神の招聘は何としても果たさなければならない願である。その為に彼は生家との一切の縁を立ち、鴛花はそんな彼の為に身をやつしてくれている。

 だが、小幸と言う一人の少女の生涯を、幸福を、永劫に奪ってしまうかも知れない事実から、目を背けたことは一度としてない。

 神への供物としての運命を粛々と受け入れ、己の御役目を全うしようとする彼女には、尊敬の念すら覚える。

 その裏で、彼女がどれだけ苦悩に苛まれているかを知りながら。

 それでも、


「……それでも私たちは、小幸に縋るしかないのだ」


 零れた言は、愛する者のために全てを投げ打ってきた男の覚悟を孕んでいた。

 鴛花の裸体を抱く手が震え、痛みを堪えるかのように唇が引き結ばれる。


「衛正様」

「私は……俺は、お前を幸福にしてやると誓った。お前が日々、娼館で泣きながら男に犯される姿を見た時から、俺はお前に、人より多くの幸せを与えてやりたいと思った。そしてその願を叶えるには、もう、神に祈るより他にないのだ……!」


 吐かれた情に、鴛花は心に刻まれた古い傷へと思いを馳せた。

 ――元は皇都の没落名家の令嬢だった彼女は、両親の死後、行く宛もなく幾つもの街を放浪した挙句に、とある妓館で身を売る仕事についた。当時何の伝手も持っていなかった彼女にとって仕事を選べる余裕など無かったのである。

 だが、その妓館があったのが周辺地域の中でも特に治安の悪い街と言うこともあり、館を訪れる男は粗野で暴力的な者ばかりだった。

 容姿の面で他の娼妓より優れていた鴛花は、当然、毎夜のように男の相手をさせられ、時には奴隷まがいの扱いや暴力じみた行為を強要させられていた。

 そんな折、十名ほどの男性客をまとめて一人で相手しなければならない夜があった。彼らは鴛花をいたく気に入り、存分の己の欲望をぶつけてきたのだ。

 休む暇も与えられず、時には三人から同時に犯され。

 そうしてやがて、鴛花の身体は壊れてしまった。

 乱暴な行為を強いられたのもあるが、どうやら行為の最中に、男たちの一人が鴛花に飲ませた薬が原因らしかった。

 その薬は快楽の程度を引き上げる副作用として、使い過ぎれば女としての機能を奪ってしまう危険性を持っていた。そしてそれを過度に服用させられた鴛花は、生涯、子を産めぬ身体となってしまったのだ。

 鴛花は絶望し、悲嘆の涙を流し続けた。

 しかしそれでも娼妓として生きる他に道は無く、毎夜泣きながら、男に犯され続けていた。

 そんな境遇に心を痛めた衛正が、妓館に花代を収め、彼女を買うまでは――。

 苦悩に顔を歪める衛正へと、鴛花は慈しむようにそっと手を差し出す。


「そんなに思い悩まないで下さい。わたくし、今でも十分に幸せなのですから」


 そうして白く細い指が、男の頬に触れる。


「こうして何にも代えがたい幸せをくれるあなた様のお傍にいるだけで、わたくしは報われております。これ以上の幸せを望むのは、強欲なのかも知れません」

「あぁ。だからこれは、半分は俺の自己満足だ」


 仄かなぬくもりが彼の強張りを解き解してくれる。

 愛する女の柔らかい膚の熱を全身に感じながら、衛正はそっと目を細めた。


「俺はお前との子が欲しい。家のしがらみや辛い過去、そんな様々な枷から解き放たれて、そうしてお前と幸せな家族を築きたいのだ。一生を添い遂げると誓ったお前と共に、変わらぬ幸福を得るためにな」

「……わたくしたち二人だけでは、"家族" になりませんか?」

「どうだろうな。どうやら俺は証を持ちたいようだ。俺とお前が決して離れられない関係であることの証を持ちたい。だからこそ俺たちの血を半分ずつ受け継いだ子が欲しいのだ。言葉の通り、酷い自己満足だろう?」

「いいえ、そのようなことは」


 自重するように笑う衛正に、だが鴛花は柔らかい声を投げた。


「いつの時代も、親と子から成る家族とは幸せの象徴ですから。遠い昔にその幸せを捨てなければならなかったわたくしにとって、あなた様の自己満足は、生きる希望そのものです」


 ですから、と女は続ける。


「衛正様が望んで下さるのならば、与えられる幸せの全てを頂戴いたします。――あなた様の願いがこそ、わたくしにとって、今生の倖せで御座います」


 陶然と囁くその声に、衛正は酩酊に似た気分を覚える。同時に、腕に抱く一人の女がどうしようもないほど愛しく思えた。

 確かに、自分たちは残酷な運命に立たされた少女の人生を代価に幸福を得ようとしているのかも知れない。

 何とも酷薄な話だろう。あの少女が感じている苦悩の一片すら衛正には想像出来ない。どれだけ恨まれても仕方がないのは分かっている。

 けれど。

 愛する女との幸せを願った彼は、あらゆる罪過も厭わない。そうしてこれまで生きてきたのだ。


 未だ己の中で燻る憂慮を振り払うように、衛正は艶やかに微笑む妻の肢体を、そこに宿る熱を欲するように優しく抱き締めた。

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