迷ひ


「この国を救う為だ。どうか理解してほしい」


 切に告げられた言葉は、だが一人の少女の命を切り捨てた上での懇願でした。

 立派な大人が、地に額を擦り付け、ひたすらに伏臥し続ける。

 そんな異質とも滑稽とも思える姿を、わたくしはただ無感情に見下ろしていました。


 空には月が漂い、連綿と紡がれてきた人の営みを淡く照らし出しています。

 降り注ぐ紫銀の月光の、なんと美しいことか。

 陶然と息を吐くわたくしの足元で、再びあの人が縋るように言いました。


「お前の身一つで、多くの人々が……このハワグに生きる全ての民が救われるのだ。だからどうか、お前の美しい身体を、無垢なる性を、やがてきたる神に捧げておくれ」


 何とも酷い言葉でしょう。

 "彼" は沢山の人達から、誠実を絵に描いたような人であると認められてきた筈なのに。

 どうして一人の少女の命を切り捨てることを、容易く許すのでしょうか。


 ただ純粋に、美しく、清らかに。

 そう何度も言い聞かせて、まるで硝子で出来た小鳥を扱うように育ててくれたのは、あなただったでしょう。

 大切な一人娘だと言ってくれたあなたの口は、偽りに濡れているのですか。


 告げられた言葉を受け入れて、そうして言われるがままに生きてきたわたくしの末路がこれとは――



 この世は酷薄です。

 ですから、どうか。


 もしも、この先、数百年の時の先でわたくしと同じ運命に立たされた者がいたのなら――


 どうかあなたは、ご自分の幸せの為に、生きてください。




     ◆ ◇ ◆ ◇




 ふと、我に返る。

 微かに震えた身体が、湯船の中に湛えられた水を揺らす。

 天井から滴り落ちた雫が傷一つない滑らかな肩で弾け、飛沫を散らした。


「……寝ちゃってた?」


 小声で訊ねるが、当然、浴室には小幸一人の姿しかなかった。

 誰にともなく発せられた声は反響し、やがて行き場を失うかのように霧散する。

 ――四日間もの昏睡状態から覚めた、その翌日である。

 窓から差し込む陽光はうっすらと白の色を含んでいる。日が昇ってまだ間もないのだ。

 現在小幸は、昨日に衛生からの言い付けを守り、清水による禊を行っていた。一切の濁りの無い澄んだ水は神秘の力を蓄え、少女の身体にゆっくり浸透している。

 足を付けた当初は突き刺すような冷たさだった清水だが、すでに半刻ほど浸かり続けている少女の肢体は、お湯に入っているときと同じくらいの熱を帯びていた。

 冷水に入っている筈の小幸の膚が上気してほんのり桜色を帯びている姿は、何とも艶めかしく、それでいてどこまでも美しかった。

 耳元の髪から鎖骨に滴った水滴を指先で掬い上げて、ふと小幸は首を傾いだ。


(……さっきの夢、いつもとちょっと違った……)


 早くも薄れつつある微睡の中の光景。普段ならば、小幸にとって夢に出てくるのは自分一人だけであり、他にはただ無限の空虚が広がるのみだった。

 誰かの寂寥を思わせる絶対の孤。だから彼女は、昔から夢を見るのが嫌いだったのだ。

 だが先程見た夢は、常のそれとは異なり、全く初めて見る類のものであった。

 ……まるで自分が他の誰かの視点を借りていたかのような感覚。

 "彼女" の視線の先には、ひたすらに懇願を重ねる一人の男性。始終地面に額を擦り付けていた為、彼の顔は窺えなかったが、やけに豪奢な衣装に身を包んでいたことだけは覚えていた。


「誰だったんだろう、あの人。……それに」


 夢の最後。

 目覚める直前に語り掛けてきた、女性の美しい声音。

 伽の言を紡ぐかのような、己が信仰する神に祈るかのような、真摯な訴え。

 あれは一体誰に向けて告げられたものなのだろうと考え、けれどそこで外から掛けられた声が思考を塞いでしまった。


「小幸さま。禊はお済みになりましたか?」


 屋敷に使える下女の声だった。

 相変わらず無感情に統制された声による問いに、ハッと肩を震わせた少女は慌てて応じる。


「は、はい。もう大丈夫だと思います」

「では、こちらにお召し物を置いておきます。呼び付けて下されば、お身体もお拭き致しますので」

「それくらい自分で出来ますから。ありがとうございます」


 十七歳にもなって他人にそこまでされるのは流石に恥ずかしい。

 礼を述べると、「では」と言う言葉を残して下女の気配が消える。それを待ってから小幸は湯船から立ち上がり、浴室を出た。

 年頃の少女らしい滑らかな曲線を描く柔らかな裸体を、幾つもの水滴が筋となって滴り落ちる。水を帯びて重くなった黒髪を適当に結わえ上げ、傍の藤籠に入れておいた簪で留めてから、小幸は一つ息を吐いた。

 神儀の前日にあのような夢を見るのは、やはり精神的に不安定になっている証拠だろうか。

 ――幼い頃より神への贄として育てられた。だからいざその日が来ようとも、何の気持ちの変化もなく、儀を迎えられるだろうと思っていたのだ。

 だがそんな筈は無かった。

 満月の夜が近付けば近付くほどに、一抹の憂慮はやがて現世への未練へと変じる。自らの運命を粛々と受け入れていながら、しかしどこかでそんな運命と決別したいと思う自分もいる。神巫としての御役目以外に、生きる意義など無いと言うのに。

 濡れ髪の張り付く背を縮こまらせ、己の華奢な肩をそっと掻き抱く。

 浅く長い息を漏らしながら、小幸は誰にともなく呟いた。


「……私、何に縋ればいいのかな」


 小さな弱音を聞き止める者はおらず。

 先ほどまで人としてのぬくもりを灯していた吐息は、とうに温度を失い。

 吐かれる白息は空に棚引く帯となり、まるで胸中の不安を誘うかの如く、ゆらりゆらりと少女の周囲を揺蕩っていた。

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