揺蕩う懸念

 障子の隙間から注ぎ込む紫銀の光は夜空に浮かぶ月から降りているものだろう。

 深い闇から意識を引き上げた小幸は、纏わりつくような若干の気怠さと全身を包む優しいぬくもりを感じ、ゆっくりと瞼を開けた。

 視線だけを巡らせ、辺りを見回す。見知った室内は、屋敷の離れにある小幸の自室だ。布団に仰向けで眠っていたらしい彼女は、隣で寄り添い寝息を立てる鴛花に気付き、小さく目を瞠った。


「……びっくりした。私も裸だ」


 掛布を捲る。小幸も鴛花も服を着ておらず、柔らかそうな白の肌を晒していた。

 齢七の頃よりこの屋敷で育てられた小幸は、当時から酷く体調を崩したときに、こうして彼女の体温で温められながら養生していたものだ。

 とは言え、此処数年は滅多になかった。

 懐かしい記憶に微笑を浮かべ、だが全裸であることに少しの気恥ずかしさを覚えた小幸は、枕元に置かれていた襦袢を手に取り、適当に羽織る。

 のぼせたときのようなもやが頭の中にかかっているような感覚があった。どれほど眠っていたのだろう。直近の記憶を探るが、どうにも曖昧で上手く思い出せない。

 深い眠りに陥っているらしい鴛花を起こすのは気が引けたので、取り敢えず下女を呼びつけようと自室を出る。

 けれど、小幸が障子に手をかけるより早く、それはひとりでに開かれた。

 ――否、部屋を訪れた者が、自らの手で開けたのだ。

 現れた男の姿を見つめて、小幸は束の間、硬直した。


「……衛正、様」

「目が覚めたようだな、小幸。どうだ、身体に異変はあるか」

「え、あ、いいえ……何も異常はございません」

「それは重畳だ。お前の服を持ってきた。まずはそれに着替えなさい」


 言われ、ハッと気付く。

 自らを見下ろす。薄い襦袢一枚を羽織っただけの格好は、裸同然と言っていい程にあられもない姿であった。

 咄嗟に前を合わせて裸体を隠す。赤くなる頬を逸らしながら、小幸は声を詰まらせた。


「これっ、は、あのっ……たっ、大変お見苦しいものを……!」

「良い。その、私も不粋だった」


 若干の気まずさを含ませ、衛正は言った。

 流石の彼と言えど、年若い少女の肢体を見て平常心は保てないようであった。

 控えさせていた下女から着物の入った箱を受け取り、慌てて室内に戻る。

 靖央には、裸を見られようが減るものではないと言ったが、あれは幼い頃より付き合いのある彼が相手だからだ。一緒に暮らしているとは言え、年の離れた衛正に見られるのとは話が違う。

 少々乱暴に着物を身に着け、帯を結ぶ。

 そうして廊下へ出ると、少し離れた場所で衛正が待っていた。


「申し訳ございません。お待たせいたしました」

「あぁ。……その、今一度謝る。先程はすまなかった」


 そう告げて、衛正は静かに瞼を閉じた。

 気まずい沈黙が二人の間を縫う。

 無意識に着物の合わせ目をきゅっと握った小幸だが、彼女としては触れられればそれだけ羞恥を煽られるだけなので、無理矢理に気持ちを切り替えることにした。


「その! ……先日は、ご迷惑をお掛けしました。鴛花様にも、労苦をお掛けしてしまったようで……」


 今も床で眠りについている女性を思い、瞳を伏せる。

 自分がどれほど眠っていたのか分からないが、彼女はずっとああして寄り添ってくれていたのだろう。


「良い。あいつが進んでやったことだ。お前が気にする必要はない」


 衛正も、鴛花の面倒見の良さを知っているため、彼女が眠っている部屋の方を見て嘆息する。

 そしておもむろに小幸へと向き直った男は、硬派な顔立ちに真剣な色合いを含ませ、言った。


「先の一件のことで話がある。付いてきなさい」


 身を翻し広間へと向かう衛正に、小幸は小さく頷いた。




 下女が卓上に湯呑を置くのを待ってから、衛正は早速話を切り出した。


「それで、小幸。まず聞くが、お前はどこまで覚えている? 自分の身に何があったか記憶にあるか?」


 訊ねられ、少女は改めて自らの記憶を探る。

 深く意識を潜らせると、朧げにだが徐々に思い出す。

 あの日は確か、鴛花に付き添われて街へ出たのだ。全ての買い物を済ませ、日が落ちない内に屋敷へ帰るべく人気の無い路地を抜けようとした矢先、蛮刀を持った三人の賊に襲われたところまでは覚えている。

 小幸は自らに突き付けられた刃を見て、ただ身を竦ませていただけだ。

 何やら賊の一人と鴛花が言葉を交わしていたが、内容は思い出せない。彼女の記憶はその時点でぷつりと途絶えている。


「賊と遭遇して……それより先は記憶にございません」

「ふむ。では順を追って説明しよう。まずお前と鴛花を襲った賊だが、連中はやはり北夷の民……以前から街でも騒がれていた、女子供を狙って手にかけ金品を強奪する者達だ」

「彼等はいま何処に?」

「街の警邏隊に身柄を預けた。何か文句の一つでも言いたければ繋ぎを付けよう」

「いえ、そのようなことは特に……」


 衛正の窺いに少女はかぶりを振った。

 すると厳格な性格の男はそっと瞼を閉じ、続ける。


「まぁ、連中としてもお前と顔を合わせるのは御免被りたいのだろうがな。会えば恐らく、連中はお前を恐れて怯えてしまうだろう」

「……それは、どういう意味でしょうか?」


 彼の言葉の意味が分からず、怪訝な表情を浮かべる小幸。

 すると衛正は一つ息を吐き、ゆっくりと事実を語った。


「あの場を鎮静させたのは……小幸、お前だ」

「え、えぇ? 私、でございますか? しかし、そのような記憶は決して――」


 そこまで口にしてから、彼女はハッと気が付いた。

 硬直し、可憐な貌を強張らせる小幸に、衛正は緩やかに頷いて見せる。


「そう。お前の、神巫としての神性が表に出た。鴛花は何もしていない。あの場にいた三人の賊は、皆お前が捕えたのだ」


 重く告げられた事実に、小幸は言葉を無くした。

 ―――昔から、変わらぬ感覚だった。

 まるで何か醒めぬ夢を見ているような感覚。

 その微睡に没していけばいくほど、自らが孤独になっていくような寂寞とした感情が渦巻く夢。


 小幸が『もう一人の自分』の存在を知ったのは、齢十の頃だった。

 街の外れにある雑木林に迷い込んでしまい、運悪く野犬の群れに遭遇してしまったのだ。

 あまりの恐怖に泣き叫び、助けを乞うた幼い彼女は、だが気が付けば屋敷の自室で横たわっていた。

 ぽっかりと空いた記憶。

 決して思い出せぬ空白に何が起きたのか、彼女は衛正や鴛花に問い詰めた。

 そうして初めて、小幸は神巫が如何なる存在か、その本質についてを知ったのだ。


「……また、顕れたのですね。もう一人の私が」


 幼少期に初めて神巫としての自我に目覚めて以来、何か危険が及ぶ度に意識の層が変じてきたが、未だ自分が変わっている間のことは思い出せない。

 小幸の呟きに、男は神妙な面持ちで頷いた。


「だが、そのお陰で鴛花もお前自身も無事だった。そこは幸いというべきであろうな」

「……鴛花様にお怪我が無かったのなら、良かったです」


 顔を俯かせ、翳りのある笑みを浮かべて言う。

 巫の神性が顕現する都度、小幸は、まるで自分が人でなくなっていくような感覚を覚える。何の根拠もない錯覚だろうが、毎夜に見る孤独の夢を想起させて、どうにも憂鬱になってしまうのだ。

 とは言え、自分の都合で買い物に突き合わせてしまった鴛花が無事なのは、素直に嬉しかった。

 小さく安堵の息を漏らした小幸は、だが衛正が複雑な顔をしていることに気付く。


「どうかしましたか、衛正様?」

「……いや、これは言おうか迷ったのだが、誤魔化してもすぐに分かることだ。ならば隠さず告げよう」


 一拍の間を置き、男は続けた。


「鴛花に聞いた話だが、お前が神の巫として在る間に、運悪く彼と鉢合わせたそうだ」

「彼?」

「毎夜のように屋敷にやって来る彼のことだ」

「……え、もしかして、靖央のことですか!?」


 思わず身を乗り出して、小幸は声を上げた。

 しかしすぐに我へ返り、姿勢を正す。


「鉢合わせたと言うことは、つまり……」

「あぁ。巫としてのお前を見られた。まぁ、どうやらほんの少し違和感を抱かれる程度に済んだようだが」


 衛正の言葉に、小幸は再び声を詰まらせた。

 彼の言いつけで、幼い頃より神巫であることを伏せてきたからと言うのもあるが、小幸の懸念はまた別のところにあった。

 いつぞやに鴛花から聞かされたことがあったのだ。巫としての意識が表面化しているとき、小幸は普段のそれとは全く異なる性格に変じてしまうのだと。

 神が求める純真無垢な少女であるかのように、人の精神を犯す艶やかで美しい女であるかのように。

 巫としての小幸は、普段の彼女からは想像も出来ないほど、忌まわしい魅力を放つのだと言う。

 ……もしや記憶が無い間に、靖央に変な真似をしていないだろうか。仮にしていたら、どう言い訳をすればいいのだろうか。

 不意に襲ってきた不安に、少女は顔を青ざめさせた。

 小幸の顔色を窺った衛正が、すかさず補足する。


「とは言え心配は無用だ。鴛花がきちんと事情説明をした。無論、全てを包み隠さずと言う訳にはいかなかっただろうが、一応は納得して貰えたようだ」

「……あの、私からも彼に直接会って伝えておきたいのですが、宜しいでしょうか?」


 鴛花であれば要所を誤魔化した上で整合性のある説明をしてくれたのだろうが、やはりちゃんと会って話をしておきたい。

 そう思い立って窺いを立てた小幸に、けれど衛正は首を横に振った。


「悪いが、それを許す訳にはいかない」

「ど、どうして――」


 すかさず理由を訊ねようとした彼女は、突如割って入った下女の声に言葉を遮られることとなった。


「衛正様」

「入れ」


 短い応対を経て、障子が開けられる。

 廊下に膝をついていた下女は音も無く広間に入り、衛正の傍にまで歩み寄ると、手にしていた書類の束を彼に差し出した。

「助かる」書類を受け取り衛正がそう告げると、下女は静かに広間を去る。

 障子が閉まるのを待ってから、男は小幸の前にそれを置いた。

 そうして男は静かに言う。


「ここ数日の間、江鷹を含めた複数の街で賊による襲撃が相次いで報告されている。死人も多い。現在この街も、余所から派遣されてきた衛士隊による厳戒態勢が敷かれている」

「……え」

「詳しいことは調査書に書いてある。目を通しなさい」


 衛正の言葉に唖然とした小幸は、視線で促され、渡された書類に視線を落とす。

 そこには、江鷹とその近辺の街で起きたらしい事件の内情と大まかな場所、被害に遭った者の名などがずらりと列挙されていた。

 ふと被害者の名に見覚えを感じたが、それが各々の街の有権者だからであろうと即座に察する。

 殺された者は総じて六名。加えて幼子や女が十五名ほど行方不明となっており、それだけで事態の深刻さが窺えた。


「一連の事件は全て北夷の民による凶行だ。紗布で顔を隠した連中が各地で目撃されている」

「……何が目的なのでしょう」

「さぁな。賊の一人を捕獲し、尋問にかけようとしたらしいが、寸でのところで自害された」


 そこまで言ってから、衛正は湯飲みに口をつけた。

 厳格な面持ちのまま、「それはそうと」と続ける。


「鴛花に聞いた。北夷の民の正体は、土地を追われ都に移り住んだ近迦の者だと」

「そうなのですか?」

「他でもないお前の言葉だそうだ。恐らく真実だろう」

「……なるほど」


 小幸は重く頷く。

 彼の言葉は少し的を外れている。その事実を言明したのは今の小幸ではない。神の巫としての意識が表面化した際の小幸である。

 昔、衛正から意識の切り替わりについて詳しく聞いたことがあった。

 普段の彼女と巫としての彼女は別段、二重人格というわけではないらしい。どちらもれっきとした一人の小幸と言う少女であり、そこに人格の解離性は存在しないのだと言う。

 だが神巫としての意識が表に出ている時、小幸はまるで長い夢を見ているかのような状態に陥っているため、そう言われても首を傾げてしまうばかりである。

 人としての小幸が知らないことを、巫としての小幸が知っている。その事実もまた、小幸に決して無視できない違和感を抱かせていた。


「既に各街の衛士隊や警邏隊には報告してある。近々、皇都の衛府にも話が回る」

「それで事が収まれば良いのですが……」

「分からんな。皇宮仕えの隊士が動けば賊も早く捕まるだろうが……それで全てが解決とはいかないだろう」

「……それは何故でしょう?」


 衛正の言葉を不審に思った小幸は眉を寄せる。間を置かず、答えはあった。


「北夷の民が皇都を根城にする賊と分かった以上、街の人間の不満は揃って其方を向く。もっと言えば都を統治する帝にだな。つまり、何故帝は賊の存在を野放しにし、今回のような事態が起きるのを看過したのか、と言うことだ」

「……、」

「座と冠さえあれば誰でも王にはなれる、とは今の帝が即位してから生まれた皮肉だが、もとより民を守護し統制する役目にある帝は、半ばその命を放棄している。……元々募っていた不満が今回の件で更に膨れ上がれば、遠くない内に都は崩れる」


 腕組みをしたまま淡々と語る男の顔に、変化はない。

 別段、衛正は今の帝に反意的な目を向けている訳ではない。ただ無感情に、今のハワグを見通しているだけだ。

 嘲弄も侮蔑も感じさせない声音は、間を置いて言い継がれる。


「案外、連中の目的はそこにあるのかも知れんな。何にしろ、神の座すこの皇国で、よくもそのような不遜を働けるものだ」


 神の奇跡を願い続けている男は、そうして一つ息を吐くと、卓の上の書類を懐へと収めた。

 静かな動作で立ち上がる。


「とまぁ、そう言う訳だ。今お前を不用意に外出させるわけにはいかない。事態が収束するまで、屋敷で大人しくしていなさい」

「……はい」


 小幸は言い淀む。

 話を聞く限りでは、どうにも外は厄介な状況であるのは間違いない。

 不用意に外へ出れば、同じように賊に襲われる可能性は、決して少なくないだろう。


(……でも)


 それでも。

 彼女としては、僅かな時間で良いから靖央に会っておきたかった。

 だが現在、街にそのような危険が潜んでいるとなれば、迂闊な行動は取れない。巫としての神性が表に出ているときならばともかく、普段の彼女は、何の力も持たぬひ弱な少女でしかないのだから。

 言葉に詰まり、顔を俯かせる彼女に、立ったままの男は言う。


「まぁ、どうしてもと言うのなら、ふみを書くといい。お前が心配で四日前から毎日門前に様子を訊ねに来る彼のことだ、お前が手紙を書けばそれだけで安心するだろう」

「はい。……え、四日前?」


 衛正の提案に頷いた小幸は、だが直後、ふと違和感を覚えて顔を上げた。


「私、四日も眠っていたのですか?」

「あぁ。昔から巫の意識が顕れた後は、必ず昏睡状態に陥る。大抵一日ほどだが、今回は力を使ったせいだろう」


 目覚めたときにかなりの倦怠感が身体を襲ったが、まさかそれほど意識を失っていたとは。

 納得すると同時、不意に気付く。

 四日間も昏睡していたと言うことは、神儀の日がかなり迫っているのではないだろうか。

 あの夜、靖央に聞いた言葉を思い出す。

 ――満月まで、あと七日くらいだね。

 あれから既に五日が経過している。つまり明後日にはもう、天嬬神を常世に呼び降ろす為の儀が執り行われると言うことだ。

 不意に襲った不安が背筋を撫で、小幸は思わず自らの腕を抱きしめた。

 彼女の顔色や仕草から胸中を察したのだろう。衛正は、だが普段通りの声音で口にした。


「……明日の昼から断食に入って貰う。朝と夜に母屋の浴室で禊を欠かさぬように。あと、鴛花が目を覚ましたら一度彼女に舞の衣装を預けなさい。良いね」


 いつものように、落ち着いた声。

 だがその内には何処か、無理矢理に余計な感情を切り離したかのような平坦さがあるように思えた。

 俯く小幸を数秒見止めて、だが衛正はそそくさを広間を出て行った。

 一人残された少女は、暫しの硬直から脱すると、ふと顔を上げる。

 高い位置に設けられた窓からは、このハワグの象徴とも言うべき月が垣間見え――


 淡い紫の色を湛えるそれは、靖央と見た時よりも、確かに真円へと近づいていた。

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