おだやかな夜の裏は、荒

おだやかな夜の裏は、荒

 彼はいつも、ひるがえるカーテンの傍にいた。

 開け放たれた窓からは風が容赦なく入り、ぼろぼろになったベージュのカーテンと、ぼさぼさの彼の頭を見事に弄んでいた。夜明け前のまだ暗い時間、私は街灯から漏れるわずかな明かりを頼りにしながら、その光景を布団から眺めた。

 会話はほとんどなかった。

 腐りかけた畳のにおいと、それを掻き混ぜる風の感触、それからときどき通りを走る車の気配。息の詰まる四畳半の箱が、これほど静かで穏やかに感じられたのは、この時間がはじめてだった。


「痛そうだな」

 隣の部屋から母の寝息が聞こえるようになってようやく息をついた私は、しばらく布団の上にうずくまってぼうっとしていた。そこに、彼から声がかかった。

 痛そう?

 口には出さなかった。ただ、そう訊ねてくる彼が不思議だった。私の身体には傷なんてひとつもなかったから。

 彼。名前は知らない。母はいつも、ねえ、とか、ちょっと、とかと呼ぶ。たぶん、一週間くらい前から出入りしている。期間があやふやなのは、彼が来るといつも静かになるから。誰かが来ていたんだって、気づくまでに時間が要った。

 私が何も言わずに彼を見つめていると、彼は何度か瞬きしてから、おもむろに窓のほうへと向かった。そして、からから、と音をたてながら、しかしひどく丁寧に窓を開けた。

 何をするのかと私はしばらく息を潜めて待ったけれど、彼は特に何をするでもなく、じっとそこに座り込んで外を眺めるだけだった。

 やがて私は布団に潜った。まだ冷たい夜風に乗って届く彼のにおいに、酒の臭いもたばこの臭いも混じっていなかったのを憶えている。

 それから一ヶ月ほど、彼はほとんど毎日訪ねてきた。そして母が寝静まった明け方、私の部屋の窓を開けた。私が中学三年になる春だった。


 ある日。はげしい嵐の夜。がたがたと年季の入った窓が暴れるなか、彼はやはり明け方、私の部屋に入ってきて、迷いのない足取りで窓に手をかけた。

「待って」私は声をあげた。

 布団に横たわっていた私を、眠っていたと思ったのだろう、彼はすこしだけ驚いた素振りで振り返った。

「今日はだめ。畳が濡れたら、私が怒られる」

 抑えた声でそう言うと、彼は、ああ、と息をこぼすみたいに掠れた声を出した。それからしばしあたりに視線を漂わせて、結局いつもの場所に座り込んだ。やはり視線の先は外だった。

 雨が打ちつける音。窓を閉めているにもかかわらず、土の匂いがかすかに届いていた。

 私は、彼が窓を開けるのを阻止するために一睡もせず起きていたのに、不思議と目が冴えていた。

「嵐の晩は、安心だった」

 思い出すように彼はつぶやいた。それがただのひとりごとなのか、私に向けられた言葉なのか、測りかねていると、彼はのそりと振り返った。

「多少の音は、雨風がごまかしてくれるから」

 彼と、はじめてまともに視線が交わった気がした。長い前髪の間から垣間見える目元は、暗い隈に縁取られていた。その不健康な容貌が、私にはとても弱々しく見えて、それがとても安心だった。

「あなたは、お母さんの彼氏?」

 このときどうして話しかけることができたのか、私にはいまでもわからない。でも、彼が、話そうよ、と合図を出しているように思えた。他人と関わるのがとにかく恐怖だったこのころの私が、はじめて自分から関わりに行った瞬間だった。

 彼はすこし悩むように頬を掻いてから、そうだなあ、そういうことになるのかなあ、とつぶやいた。

「どうして、お母さん?」

 訊くと、彼は面食らったような顔をしてから、苦笑した。

「この部屋、昔の家にそっくりなんだ。君のお母さんも、母親にそっくりでさ。なんだか懐かしくって。気づいたら、ここまでふらふらついて来ちゃったわけ」

 へえ、と、私は言った。本当は、お母さんがどういうひとか、ちゃんとわかってる? と訊きたかった。いまでも訊いてみたい。けれど、このころの私にそんな度胸はない。

 代わりに、私は彼をじっと観察していた。その行動はきっと、野生動物がはじめて見たものを警戒して様子を窺うのと同じ原理だったのだと思う。

 そんな私に気づいた彼は、「君は昔の俺そっくり」と悲しそうに笑った。

 その微笑みに、私は、彼のとてもやわらかい部分を無条件に覗かせてもらった気がして、戸惑ったのと同時に、すこし嬉しくなった。

「お兄さん、歳はいくつ?」

 はじめて彼を見たとき、彼が母とずいぶん歳が離れているように見えた。話してみて、それは確信に近くなっていた。

「二十三、だったかな」

 やっぱり、と思うのと同時に、どうして、という疑問が湧いた。表情に出ないように気をつけていたけれど、私の窺うような視線で、彼は勝手に察してしまった。

「片親で育つと年上を好きになりやすいって言うけど、あれほんとなのかなあ。俺自身、結構ショックだよ」

 彼は頬を掻きながら苦笑した。癖なのだな、と思う。

 たばこの臭いが染みついた布団とか、カビ臭い畳とか、空き缶で覆われた床とか――憎んでたくらいなのになあ、と彼。その目は、風の絶えた夜の海みたいに暗く静かだった。

 がたがたと鳴る窓は、今夜は閉め切られている。カーテンは揺れない。隙間から覗く窓の表面では、雨粒が忙しく打ちつけては流れてを繰り返していた。嵐の音は、ずっと身近なのに、とても遠く聞こえた。

 いつものように窓の外に視線を戻した彼に倣って、私も同じように窓の雨粒を眺めた。雨音は規則的に続き、ときどき雷の唸るような音も混じって、それが妙に落ち着いた。

「なあ、外行こうよ」

 突然そう言い出した彼に、冗談? と私はすこし呆れたように首を傾げた。けれど、彼はまったく真剣な表情をしていた。いいから行こうよ、と歯を見せて笑った彼は、戸惑う私を無理やり引っ張り出した。

 一応、気を遣ってくれたのだろう。彼は眠る母の隣をなるべく物音を立てないようにそろそろと通り、しかし玄関を出て階段を下まで降りると、私の手を引く力は一気に強まった。

 誰かに気づかれまいかと気が気ではなかった私に対して、彼は大声で笑いながらすこし離れた空き地まで突っ走った。

 深夜、傘もささない成人男性と少女、という誰かに見られたら誤解しか生まれそうにない状況にもかかわらず、彼は壊れたおもちゃみたいに笑い続けた。何がそんなにおかしいのかわからなかったけれど、その様子を見ていると、私もだんだん頬が緩んできて、込み上げてくるものを抑えようとした次の瞬間には吹き出していた。

 嵐のおかげで、叫びに近い声を出すことにあまり躊躇がなかった。だって、嵐のほうが何倍もうるさい。誰も私たちを叱る大人はいない。どれだけ声を出しても、誰にも聞こえない。

 いつからか笑いが涙に変わった。たぶん、彼も気づいていた。でも、何も言われなかった。このころから、私はときどき発作のように突然泣き出すことがある。特に悲しいことが直前にあったわけではなくても、ただ勝手に涙が流れてくる。きっと、普段から感情を抑えることが習慣になっていたから、それを決壊させる手段を知ってしまったこの日から、私の身体は定期的に溜まったものを吐き出そうとする。

 彼の笑い声にも、もしかしたら嗚咽が混ざっていたかもしれない。私と同じように涙を流すことに不慣れで、ただ、彼は私よりも大人だから、私よりもすこしだけ器用で、どうすれば泣けるのかを知っていたのかもしれない。そうだったらいい。どうせ、嵐が掻き消すんだから。

 涙は際限なく溢れてきたけれど、そろそろ戻らないと、母が起きてしまうかもしれない――そう思うと、嘘のように自然と泣き止んだ。

 呆然と空を見上げていた彼に近づいて、帰ろう、と服の裾を掴むと、彼は何秒か私を見つめてから、そうだね、とちいさく口を動かした。声は、雷鳴に掻き消されていた。

 帰り道、彼は私の冷たい手を握ってくれた。濡れて束になった前髪の間から、やわらかく微笑む不健康な瞳があった。私はまた涙が出そうになったけれど、家に戻ることを考えるたびに上手く引っ込めることができた。


 嵐は朝まで続き、太陽が戻ったのは昼になってからだった。

 その日は土曜日だったので、私は家にいた。夕方、支度をする母と、それを待つ彼。二人の気配を、息を殺して襖越しに追っていた私。

 音と気配から、そろそろ家を出るのだなと察したとき、背後で何かが擦れる音がした。見ると、襖の間を通して一枚の紙が寄越された。

『明け方、空き地で。ヘルメットは二つ。バイクで待つ。』

 開くと、見慣れない達筆な字でそう書かれていた。

 私が呆然と紙を見つめている間に、二人は玄関から出ていった。扉の閉まる音で我に返り、私は両手で紙を握りなおした。それから、顔を両の膝の間に埋め、ちいさく唸った。

 春の荒い風が、窓をかたかたと鳴らしていた。


 あれから五年が経った。

 おそらく差し伸べられたであろう救いの手を、私は取らなかった。

 彼は、いつものように私の部屋に訪れて、私を強引に連れ出すこともできた。でも、そうはしなかった。最後の最後で、選択権は私にあった。

 救いの手なんておそろしいもの、当時の私に取れるはずがなかった。そんなこと、彼もわかっていたんじゃないかと思う。だって、彼は私に自分を重ねていた。

 でも、だからこそ、私は彼が無理やりに連れ出すことを選ばなかった理由もよくわかる。

 私たちは、ともに臆病だった。

 あの日を境に、彼が窓を開けにくることはなくなった。数週間もしたら、家にも来なくなった。最後に見た彼は、襖の隙間から。表情を消して頬を掻いていた。母の声が春の風よりも荒れていた午後だった。

 シャワーから上がって、缶ビールを開ける。それからマルボロの箱とライターを握る。すこし離れたベランダまで裸足で歩き、窓を開け、夜風にひるがえるカーテンの傍に座り込む。

 この春、私は二十歳になった。

 はは、と薄く笑ってみるものの、涙が溢れて止まらなかった。

 途方に暮れた私は、右の頬をちいさく掻いていた。

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おだやかな夜の裏は、荒 @Wasurenagusa_iro

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