第4話 デイズ

 瞬きとともに崩れ去った世界は見覚えのある場所へと変化する。


 乾いた空気、容赦なく照りつける太陽、森の育む柔らかい土とは程遠いコンクリートの地面。それは階段状に円形を築き、俺のいる最上段にまで続いている。最上段は同じくコンクリートでできた手すりで囲まれ、頭上には日除けの天幕が張られている。この野外闘技場は、すべてが人の手によるものなのだと――長かった森での生活を経て改めて実感する。


 の暮らしが、すでに懐かしい。


 現実に戻り、ゆっくりと今の状況を観察し、理解しようとしていた俺の耳に入って来たのは涼し気な女の声だった。


「おやおや……これは意外ですね」


 そう意外そうでもない声音で話す白髪の女の目は相変わらず閉じられたままだ。


「誰でもなく、あなたが目覚めるとは」

「あの夢魔ナイトメアをけしかけたのはお前か?」


 女のまとう空気が変わる。白いレースから伸びた左手に握っている象牙の杖を微かに傾ける。杖の先につけられている金属の棒が揺れる。


 あの時、この女が『お手間は取らせません』だか言って杖で地面を突いたと同時に俺は森の中に立っていた。姿を現した時と夢魔に襲われた時、どちらの時にも聞こえた金属の音。あれがきっと、魔術の詠唱の代わりなのだろう。


 ――つまり、杖を鳴らされたら終わる。


「止めておけ」

 女は、閉じたまぶたをピクッと動かし、手に握られた杖を宙で静止させた。俺の言葉を促すように、ゆっくりと杖を下ろす。


夢魔ナイトメアを何度けしかけたところで、俺の心を喰うことはできん」

「どういうことでしょう?」

「ナイトメアは人間を眠らせて、夢を見せる。だが夢を見せるにも必要なものがあるんだ。好き勝手に悪夢を見せられるわけじゃない」


 そう言いながら、俺は周囲を見回す。右手前の豪奢な椅子、その前に崩れ落ちたままの姿で眠っている美少女エリス。左側の手すり部分に辛うじて引っかかって夢の世界にいる赤髪の少年アラン。そして、目の前に立っている、敵としか思えない白髪の女。


 ――絶望的な状況だな。


 自分の心臓が若干早めに鳴っているのを無視しながら、俺は腰に両手をあてる。


「憑りついた人間の記憶を学び、何に最も恐怖し、不安を覚えるのかを考えて悪夢を見せる。ナイトメアというのは意外と繊細なモンスターだよなあ?」

「……それで?」

「悪いが、俺は記憶喪失なんでな。ナイトメアが憑くには相性が最悪だということだ」


 これはイケメンモンスター学者の俺からすれば、半分本当だが半分嘘だ。記憶から学んだ悪夢を見せるのが、最も効率はいい。だが、人間が恐怖を感じる物事は普遍的だ。死や未知、なんらか不安を煽る夢を見せればいい。


 それなのに、俺が見たのは優しい夢。

 豊かな森でキノコ狩りして、水浴びして遊んだり、魚釣りしたり。日がな一日、特に何をするでもなく過ごすだけの穏やかな時間。焚き火を眺めて心安らかにしていただけの日々。


 ――もしくは、あれが俺の『悪夢』だったのか?


 どちらにせよ、今の俺があれに恐怖を感じなかったのは事実だ。


「だから、何度ナイトメアに俺を襲わせたところで無駄だってことだ」

「なるほど」

「『グウェン』」

「――っ」


 再び女の瞼がピクッと動いたかと思うと、眉間が寄っていく。

「何のことでしょうか」


「エリスが呼んだのは、お前の名前なんだな?」

「グウェン=デイズ……そう呼ばれていたこともありました」

「今は、『リャティースカの使者』か?」

「ふっ」


 白髪の女グウェンは鼻で軽く笑う。まったく面白くなさそうに。


「本当に……意外ですね。エリスやアランに比べたら、あなたが一番使えなさそうだったのに」

「失礼だな」

「それが、魔物――しかも境界に住まうものたちのことを熟知している。一体あなたは何者なんですか? ああ、すみません……記憶喪失なんでしたね」


 小馬鹿にしたように言うと、グウェンは左手をスッと持ち上げる。


 すごく自然な動きで左手の杖が地面を突く。


 チリン――


「……しまった……!?」


 俺は思わず身構えるが、森には飛ばさることはなかった。ナイトメアに襲われたわけではなさそうだ。


 グウェンは口角を上げて静かに言う。

「安心してください。あなたのお話はよく分かりました。確かに、あなたの心をナイトメアが侵すのは厳しいようです」

「……で?」

「ナイトメアに詳しいあなたなら分かるんじゃないですか。私がなにをしたのか」

「なに……?」


 ブォッ――


 ゾワッとした空気を感じて、俺は思わず右側に避ける。空を切る音を放ったダガーを構えていたのは、赤髪のアランであった。その目は、憎しみに溢れている。


「アラン!?」

「くそっ! 次は仕留める――っ!」


 アランは軽やかにダガーを振り、俺に襲い掛かって来る。


 ガッ――


 慌てて外した剣の鞘でそれを受け止める。中の剣身が折れていることを寸でのところで思い出して良かった。俺はもう一度、少年に呼びかける。


「アラン! 落ち着け!!」

「このっ……!!」


 アランは、さらに力をこめてくる。俺の声は届いているのか?


「無駄ですよ」


 どこか愉快そうにグウェンは言い、杖を愛でるように右手で撫でた。

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