第8話 豊穣の女神号

 海面に浮かぶモンスターの巨体に掴まりながら、沈みゆく船を見送る時の絶望感たるや。傲慢ごうまんの騎士ギルベルトも、お騒がせ女騎士マリアも、その他数名の騎士や船乗りも誰しもが言葉を失うには十分だった。


 クラーケンいかだの上で眠れる幼女エリスの横で、おそらく希望を捨てずに水平線の向こう側を見つめていたのは、俺だけだったのだろう。


「船だ!」


 洋上に船影を見て叫んだ俺に、ギルベルトは疑念の目を向けてくる。


「なにを馬鹿なことを……」

「いいから、早くなんか合図送らないと行っちまうぞ!?」

「まさか」


 俺が指さす方向を見て目を細めるギルベルトが声を大きくする。


「まさか! この海域を進む船がいたとは!」

「え、ヤバい海域だったの?」

「王都への最短航路だ。強いモンスターが出るため普通は迂回するように海岸沿いを進む。我々は安全であるはずだったのだが……」

「全然安全じゃなかっただろうが」

「冒険者よ、今はそのようなことを話している場合ではない」

「そりゃそうだが。その変な自信のせいでクラーケンに襲われて、見事に船が沈んだんだから文句も言いたくなるわ」

「……しかし困った。狼煙のろしを上げようにも燃やせるものは海の底か」


 すっかり話題は『合図』に移ったようだ。俺はため息を吐きながらエリスを見る。ちびっ子は魔力を使い切り、休息モードに入っている。ぶかぶかの深碧しんぺき色のガウンはすっかり乾いて寝心地は良さそうだ。それに包まれて眠るエリスが目を覚ますまでには、まだ時間が掛かるだろう。


 すると頼れるのは女騎士だけか。


「マリア。お前、遠くの船からでも見える強い光かなにかを出せないか」

「……出せますけれど……」


 マリアの声は、か細く、泣いているようにも聞こえる。


「お断りいたします」

「なんでだよ!?」

「もうお父様に顔向けできません。わたくしは、ここで果てたいと思います。もし……万が一にも、あなたが王都に辿り着くことができたなら、わたくしの最期の言葉を伝えていただけませんか」

「いやいやいやいや」


 香ばしいクラーケンに顔を埋めながら訳の分からないことを言い続けるマリア。助けを求めようと、ギルベルトの方を見ると鼻の穴を若干広げながら緑玉色りょくぎょくしょくの瞳を潤ませている――もらい泣き!?


「マリア様、おいたわしや」

「もう一度言う。なんでだよ!?」

「黙れ! 冒険者風情が。貴様にマリア様の気持ちが分かるものか」

「分かりたくないけどな?」

「お父上から頂戴した聖騎士の剣を奪われ、破壊された挙句――マリア様を乗せるのならばと託されたエンティア王国騎士団最高の船『豊穣の女神アスタルテ号』を海に沈められてしまう始末」


 マリアが圧倒的な被害者であるように言われていることには不服しかないが、俺が口を挟む前にマリアが肩を震わせながらギルベルトの言葉を継ぐ。


「ええ……それだけでなく、幾度となくはずかしめを受けました。わたくしの純潔は奪われてしまったのです」

「そんな……!」

「どうか父には――」


 声を震わせながらマリアが続ける。


「マリアはティリア海の真珠となって王国の繁栄をお祈りしているとだけ」

「ううっ」


 マリアの言葉に、ギルベルトが堪えきれずに目頭を押さえる。


 本気か? 本気なのか。コイツら。


「……」


 なぜかマリアとギルベルトの異様なやり取りは、他の騎士や船乗りにまで伝染し、涙なしには語れない雰囲気になっている。なりふり構っている場合ではなさそうだ。


 俺は静かに空を仰いでから、目を閉じる。


「……それでいいのか、マリア」

「なんですって」

「それいいのかって聞いてるんだよ」


「貴様! マリア様をこれ以上侮辱する気か――!」

「馬鹿野郎!!!」


 空気を震わす俺の怒号は、人々に衝撃を与えたようだ。


「お前の父親は、海の神に捧げるために娘を育てたのかよ!」

「……っ!?」

「違うだろ。生きて帰って、父親に言ってやれよ! 『幾多の困難を乗り越え、仲間を窮地から救いました』と! 『すべての元凶である男を自分が王都まで引きって来ました』と!! 『父が誇れるような娘なんです』とな!!!」


 俺の言葉は青空に吸い込まれていったように思われたが、確実にマリアに届いたようだった。彼女が早口で何やらを呟いているのが聞こえる。


「深紅に染まりし慈愛と破滅と精霊サラマンダーたちよ、我がてのひらに不屈の炎を宿らせたまえ――」


 それは、港町バルクリの酒場で俺を焦がそうとした魔術の呪文だ。少しずつ熱の塊がマリアの右の掌に集まり、強烈な光球となっていく。


火炎ブレイズ!!!」


 マリアが天に掲げた掌から火柱が立ち上った。


「……お父様……待っていてください」


「マリア様……」


「……はは」


 もう乾いた笑いしか出ない。自らを差し出すような真似が正しかったのか……ティリア海の真珠とやらになるよりはマシだろう。そもそも、こんな猿芝居は二度とごめんだが――


 船影が少しずつ大きくなっていることを思えば、後悔の気持ちも薄らいだ。

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