第2話 花畑

 店内に響いた電子音に、いらっしゃいませとおざなりに返しながらチルド食品を補充する。アラーム音に似た無機質な音は、自動ドアが開閉したことを知らせる合図だ。

 いくつも並ぶ同じパッケージを数えていた円佳は、軽い眩暈を感じて眉間を押さえた。眠気が完全には取れていない朝の品出しは、遠近感がおかしくなるのだ。ただでさえ苦手なそれに、昨晩の寝不足が拍車をかけて朝4時の円佳の脳を襲っていた。

 すみません、という声と共に軽いベルの音が一つ鳴る。店員を待つ客がいることを示すその音に慌ててレジへと向かうと、私服姿の青年が笑顔で煙草のケースに手を伸ばしているところだった。


「木村さんありがと、休憩中にごめんね」

「別にいいよ、渕上さんもお疲れ様ね」


 煙草ひと箱を手に出ていった客を見送った後、円佳が片手を立てながら礼を言えば、制服のシャツに袖を通しながらひらひらと返された。深夜から早朝にかけてのシフトを担当することが多い木村は円佳よりも一つ年上だったが、出勤が被ることが多い上に4年近い付き合いなので敬語を使う機会はめっきり減っている。


「今日なんか疲れてるっぽいけど、どしたの。言っていいのかわからんけど、隈も出来てるし」

「あー、やっぱり隈になってるかあ。昨日あんまりちゃんと寝れてないんだけど、大学生ってそんなすぐ顔に出る?」

「俺らみたいな生活してたら若さとかあんま当てになんないよー。寝不足、課題かなんか忙しかったりしたの」

「そういうんじゃないけど……」


 大学生の寝不足理由としては、やはりレポートだったり試験勉強だったりが理由として一番最初に浮かぶだろう。実際、木村には試験前の円佳が欠伸をしながら作業をしているところを何度も見られてしまっている。

 しっかり眠れていない原因―――昔馴染が突然訪ねてきた挙句ぶっ倒れたなどというのを言い当てる人間がいたら、それはそれでどうかしているだろう。しかし、柚莉が自分を訪ねてきた理由をまだ彼女から聞けていなかったために他人に話してよいものか判断がつかず、円佳は言葉に詰まってしまった。

 歯切れの悪い円佳の表情から何か察するものがあったのか、木村はいつもへらへらと軽薄な笑みを浮かべている口元を軽く結んだ。


「寝てない理由は実際どうでもいいし、課題が終わんなくてやばいのは俺の方なんだけどさ。なんか面倒臭いことになってんじゃないよね」

「別に、そこまでじゃないよ」

「ならいーけど」


 それ以上話を拡げようとすることはなく、木村は手首をくるくると回す。そのまま話を遮るかのように、授業どうしよ、と独り言にしては大きな声でぼやいた。

 彼の態度に、別段後ろ暗いことがあるわけではないにしろ、円佳はなんとなく胸を撫で下ろしたいような気持ちになった。

 木村はこれまでも円佳が不安だったり困っていたりすることがあると、勝手にそれを察して話を振ってくれることがあった。それでいて、無理に事情を聞き出そうとしてくるわけではない。ただ一度話を振ってくれているため、その後で円佳が彼に相談をしやすい空気を作ってくれるのだ。このコンビニでアルバイトを始めてから今までの4年間、木村のこうした立ち回りに円佳が助けられたのは一度や二度の話ではない。

サークルで役者をしているという話を聞いたことがある。もしかしたらそれが関係しているのかもしれないが、彼のような人間を人の機微に敏いというのかもしれない。


 被りのシフトが明けるまでの2時間、円佳と木村は彼が困っている大学の課題についてだとか、ぎりぎり間に合わせた前期授業料のことだとか、とりとめのない話をしながら徐々に増えてくる利用客の相手をして過ごした。木村の大学は円佳が通うものとそんなに離れていないが、偏差値はかなり離れている。その院ということもあって彼が抱えている課題はかなり難解そうで、こんなところでバイトをしている場合ではないのではないかと余計な心配をすれば、軽く額を小突かれた。


「さっきの話さ。マジでやばいことになる前に教えてくれていいからね」


 6時を回り、出勤してきた店長から廃棄の弁当を手渡されながら、木村は視線を円佳に投げつつ零す。それに軽く頭を下げれば、もらったばかりの弁当をゆらゆらと揺らしながら木村は店を出ていった。何の話、と食いつく店長の言葉を遮るように、冴えないアラーム音の鳴りそこないのような音がぽわんと響いた。

 木村から遅れること3時間。

 消費期限の切れたエビフライ弁当を手に、円佳は小走りに店を出ていった。



◇◇◇



「ただいま」


 普段誰もいなくても口にするようにしている挨拶は、今日も口から勝手に出てきた。

 今日も普段通り、それに返る応えはない。つっかけた靴を乱暴に脱いで部屋の奥のベッドに視線を送ると、そこには人間一人分のふくらみが6時間前と変わらずあった。

 寝息は相変わらず穏やかで、夜中のような高熱が戻っていないことに一旦安堵する。様子のおかしかった人間を独り置いたまま部屋を離れていたことは、円佳が思っていた以上に緊張に繋がっていたようだった。ずっと入りっぱなしだった肩の力が抜け、崩れ落ちるようにベッドの傍らに座り込む。

 柚莉にはサイズの合わない円佳のTシャツ。大きく開いた襟元からは彼女の細い首筋と濁った黄色が覗いていた。

 視界に飛び込んできたそれから目を背けるように瞼を伏せる。このことも含め、柚莉が目を覚ましたら聞かなければならないことは山のようにあった。


「―――まどか」


 耳に届いた音に驚いて、逸らしていた視線が弾かれたようにベッドに戻った。

 へたってぺたんこになった枕に乗った長い髪が顔の上を流れ落ちて、淡い光の揺らめく柚莉の瞳と円佳の目が交錯する。その目を見とめると、自分の置かれている状況をきちんと記憶していたらしい柚莉は眉を下げて申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめん、迷惑かけた」

「柚莉、だよね。湊川柚莉」

「うん。ほんとに、ひさしぶりなのにごめん。急に来て、迷惑かけて、ほんとにごめん」

「とりあえず今はいい。体は大丈夫?病院連れてっていいのかわからなくて、自己流でいろいろやったからさ」

「ここ来る前と比べられないくらい楽になった。ありがと」


 言葉とは裏腹に、ひとしきり話すと柚莉は疲れの滲んだ息を漏らした。昨日の夜彼女が出していた高熱は、円佳が数年に一度お目にかかるかどうかといった度合いのものだ。彼女の『体』を見るに、これまでの疲労も大きくたたっているであろうことが容易に想像できた。

 体調も万全でなく、きっと精神的にもかなり消耗していることが考えられる柚莉に、負担の大きそうな話を振るのは円佳としても気が進むものではない。しかし、この部屋に柚莉を泊める以上、円佳はある程度の現状把握をしておかなければならなかった。


「しんどいとこ申し訳ないけど、いろいろ聞いていいかな」

「もちろん」


 起き上がろうとする柚莉の背中を支えながら、ベッドの半分を片手で起こす。狭い部屋に椅子とベッドを同時に置く気にもなれず、円佳の部屋のベッドは安く大して寝心地の良くないソファベッドだった。これが、こんなところで役に立つとは。

 背もたれとの間に枕を挟んで柚莉をもたれかからせれば、正面で柚莉と円佳の目が合った。やっと目線が同じ高さに並んだことを、なんだか少し奇妙に感じた。


「柚莉さ、なんでうち来たの。その前に、どこで私の家知ったの」


 一番の疑問を円佳は最初に切り出した。

 そもそも円佳が柚莉を最後に見たのは、もう7年も前の話だ。当時はお互いに携帯すら持っていなかったから、連絡先も学校の連絡網に載っている固定電話の番号しか知らない。誰にも何も言わず、夜逃げ同然に街を出ていった柚莉の居場所を知る術は円佳にはなかった。

 何度も彼女を探そうとして、結局一度も柚莉の行方を知っている人には出会えなかった。高校も2年に上がる頃には、円佳も柚莉を探すことを諦めて、彼女のことを考える時間もほとんどなくなってしまったほどだったのに。

 今ここにいるということは、少なくとも柚莉は円佳の居場所に行きついたことになる。誰に責められているわけでもないのに、改めて聞いてみるとなんだか自分の努力不足を突き付けられたような心持ちになった。

 言葉にそれが滲んでいたのか、それとも円佳のことを調べるにあたって後ろ暗い部分があったのか。柚莉の視線は円佳の座り込んだ足元に落ちた。


「今、東京にいて。行き場所がなくなって、5000円握ってネットカフェにいたときに、円佳のことを思い出したんだ。このまま死んじゃうなら、円佳が今何してるのか知りたいなって。あれから何年も経つけど、あたしの友達は円佳だけだったから」

「うん」


 不穏な単語に物申したいのを呑み込んで堪える。

 ぽつりぽつりとゆっくり言葉を選んで紡ぐ柚莉の目は、さっきよりも少し大きくなった気がした。


「検索で、円佳の名前入れてさ。円佳の名前、めちゃくちゃ珍しいわけじゃなかったけど、たくさんいる人でもなかったから、何かわからないかなって思って。でもほとんど何も見つからなかった。高校のことも、大学のことも出てこなかった」


 頷きながら、自分の来歴に思いを馳せた。高校時代も大学への進学費用と生活費を貯めるためにろくに部活もしていなかったし、大学生になった今もバイトばかりでサークルのひとつにも入っていない円佳の人生が、どこかに記録を残すようなことはまずないだろう。勉学に割く時間もあまりなかったから、成績だって特筆すべきようなものはない。当たり前のことではあったが、どこにも何も残っていない自分の人生を突然寂しく感じた。


「でもね、一個だけあったんだ。円佳に繋がるもの」


 今のところ、心当たるものが何一つない。しかし、今柚莉がここにいるということは、そのたった一つを辿って彼女が円佳に行きついた証だ。


「SNSのアカウント。円佳の本名で、円佳の顔写真があったから、本人だなってわかったの。そこで、今円佳が山梨にいるんだってことを知ったんだ」


 柚莉に言われて、脳内に検索をかける。円佳は普段SNSの類をほとんど使わないため、そんなものいつ作ったのだろうと記憶を手繰って―――思い出した。


「大学一年の頭だ」

「うん。それからほとんど触ってないでしょ」

「今言われるまで完全に忘れてたよ」


 大学に入って間もない頃、当時学科で最初に声をかけてくれた同期の付き合いで行くことになったサークル見学の時に、半ば強制されてアカウントを作ったのだ。その後結局サークルには入らなかったし、同期とも疎遠になってしまって友達というほどには至っていないが。作った当初は何回かそのアカウントにもログインしていたが、自分が投稿することはまずないだろうと思っていたので閲覧制限すらかけていなかった気がする。


「でも、投稿なかったでしょ」

「作るだけ作って放置って感じだったね。でも、いくつか投稿に反応した履歴があってさ」


 そこで、何かを言い澱むように柚莉は口をつぐんだ。


「何、確かに反応何回かくらいはした記憶あるよ」

「うん、でね。その中の一個に円佳のアパートの前で撮った写真があったんだ。円佳と知らない子が二人で写ってて、友達の家で飲み、って感じのやつ」


 一つ心当たる記憶がある。例の同期と一度だけ、部屋で酒を飲んだことがあった。当時は自分をメンションした投稿に、大して中身も確認せず反応していたのだが、今から考えれば未成年飲酒の証拠になりかねない。飲み、という単語だけでは飲酒扱いされないかもしれないが。あの同期が同じようなことをどこかでやらかして、痛い目を見ていないといいのだが。


「その写真がどうしたの、アパート写ってたって流石に特定は無理でしょ」

「それがね」


 言いづらそうに柚莉が続けたのを聞いて、彼女が口ごもっていた理由を察した。


「位置情報がね、写真に載ったまんまだったんだ」

「―――ああ」


 前言撤回だ。一回くらいどこかで痛い目を見てほしい。他人の個人情報を垂れ流しにするような写真を、誰でも見られるアカウントで上げるな。

 渋面を隠し切れなかった円佳を見て、柚莉は申し訳なさそうに眦を下げた。


「円佳の家を知ったとき、手の中にはまだ4000円以上あって。そのときに思ったんだ。どうせ死ぬなら円佳にもう一回会いたいって。住んでるところまでわかったのに、円佳に会えないまま死ぬなんて嫌だなって。だからそのままバスのチケットを買って、その足でアパートまで来ちゃったの。SNSに連絡入れてからくればよかったなって、今更気づいたんだけど……」

「もうアプリ消しちゃってるし、多分気づかなかったよ。もし連絡くれてて返事来なかったら、多分うちまで来なかったでしょ」

「……うん」


 円佳がアカウントを作るきっかけになった上、個人情報を駄々洩れにしてくれた同期のおかげで柚莉が円佳の元へ辿り着いてくれたと思うと、複雑な気持ちになった。彼女がそれまでどのような環境にいたかはこれから聞かなければわからないが、昨晩の柚莉の様子を考えれば、彼女がそのまま放置されていた場合どうなっていたかは想像に難くなかった。


「ごめんね、本当に急になっちゃって」

「それはもういいよ。私だって、もう一回柚莉に会いたかったし。死なないでくれて、こうやってまた会えてよかった」


 微笑みながら円佳は柚莉の頭を撫でた。乾いた長い髪が指に絡んで少し引っかかる。柚莉は顔をくしゃくしゃにして俯いた。


「長い話させた後で申し訳ないんだけど、もう一個、いいかな」

「うん」


 俯いた柚莉の首筋に浮かぶ、赤と黄色を混ぜたような色。

 それと同じようなもの、多少違った色をしたものを、昨日の夜円佳は無数に目に焼き付けていた。

 柚莉の全身で。


「体、どうしたの」


 柚莉が口を結んで黙り込む。

 シーツを握りしめた右手は、わずかに震えていた。


「何聞かされても怒らないし、柚莉の味方だって約束するから」


 教えて。

 そう言い含めるように、言葉と手を彼女の小さな拳に重ねた。その震えが鎮まることを願いながら。


「長くなるよ、話」

「いいよ」


 頭を垂れたまま、観念したように柚莉はもたれかかっていた半身を起こした。そのままTシャツから首を抜き、落とす。

 

 柚莉の全身は赤や青、紫、黄と、本来肌にあってはいけないような無数の濁った色に、まるで花畑のように彩られていて。

 前脇腹には、傷を乱暴に引っかき回したような、まだ乾ききっていない、生々しい傷跡があった。

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セカンドライツ 露木ろき @Tsuyuki_Sken

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