セカンドライツ

露木ろき

第1話 駆け込み寺

 枯れ木が転がっているのかと見紛うほどに、蹲っていたそれは萎びていた。

 濡れそぼった髪からは雫が、自身の手にした傘の先端と同じようにぽたりぽたりと滴って、安っぽい素材の廊下に水溜まりを作っていた。


「―――あの」


 肩を掴んで揺さぶろうとして、反射的に手を放してしまった。

 まるで骨をそのまま鷲掴みにしたかのように、手のひらに触れた感触が硬かったからだ。


「大丈夫ですか、ここ私の家だけど」


 意を決してその背に手を伸ばし、軽く弾ませた。呼びかけながら顔を覗き込めば、それに呼応してふらふらと、視線が自分を探すように彷徨った。

 よかった。生きている。至極当然のことに何故か安堵した。


「もしもーし」

「―――ま、どか」

「え?」


 色を失った唇が弱々しく紡いだ単語に、思わず聞き返してしまう。

 聞き間違いでなければ、彼女が口にしたのは自分の名前だ。だけど心当たりがない。こんな知り合い、いただろうか。


「まどか、あた、し。ゆずり―――」

「ちょっと、大丈夫?」


 縋るように、しがみつくように腕を伸ばしてきた女性は、そのまま力尽きたように崩れ落ちた。腕の中にびしょ濡れの痩躯が倒れ掛かってきてひどく冷たい―――否。


「え、なにこれ、あっつ」


 抱え込んだ体は濡れ鼠で冷え切っているのに、体の奥から異常なほどの熱がじんじんと伝わってきた。慌てて彼女の肩を掴んで揺さぶるが、反応はない。

 頭を抱えたくなる。疲れ切った自分の体を早く休ませてやりたかったのに、どう考えても厄介事が帰宅早々待ち受けているなんて。溜息をつきたくてたまらなかったが、今はまずこの濡れた雑巾みたいな人をなんとかしなくてはならない。

本当なら、すぐに救急車を呼んで後を任せてしまうのが賢明な判断というやつなのだろう。

しかし、彼女が口にした名前が、どうしても引っかかった。

ユズリ。その名前を聞いて心当たるのはたった一人。中学の途中で家族ごと何処かへ消えてしまって、そのまま連絡が取れなくなった親友。

濡れた髪をかき上げて顔を覗き込めば、確かに当時の面影を残しているような気もする。だが一体、あれから7年以上が過ぎた今になって、何故自分の前に彼女が姿を現したのだろう。

堪えきれなかった溜息をひとつ落として、円佳はずぶ濡れの左腕を肩に担ぎ上げた。『渕上』とネームプレートの掲げられたドアをなんとか開いて、自身よりも上背のある体を隙間から押し込む。

持ち上げた身体は、人間のものとは思えないほどに軽かった。



1.駆け込み寺




「―――疲れた」


 8時間前に電気を落として出ていったアパートのワンルーム。そこにぽつんと置かれたこたつの隣に腰を下ろして、円佳は胸に溜まった息を全部吐き出した。

 間もなく日付の変わりそうな時分でも、窓の外に一切の光がないわけではない。ぽつりぽつりと突っ立った電灯の光を、無数の小さな流れ星が突っ切っている。今日は一日中分厚い雲が空を覆っていたから、この時間でなくとも窓の外は似たような景色だっただろうが。

 つい、と目先30センチも離れていないベッドに横たわる女性の顔に視線を移す。汚れた顔を洗って髪を乾かしてやれば、確かに彼女は自身の記憶にある柚莉本人で間違いないようだった。覚えている彼女の顔よりも、かなり肉は削げ落ちているようだったが。

 すう、と穏やかな呼吸音が聞こえてくることに安堵して、もう一度深く息をつく。

 家の前で意識を失った彼女を部屋に運び入れて、円佳が最初に困ったことは、柚莉の体をどうあたためてやるかということだった。金銭的に余裕のない円佳の住むアパートの風呂はユニットバスで、溜めたお湯はしばらくすると冷え切ってしまうから、あたたかな湯に長く浸けてやることは難しかった。

 円佳は早々に湯であたためることを諦めた。シャワーで彼女の髪と体を洗ってやるだけに留め、髪が乾くや否やありったけの布団を集めたベッドの中に柚莉を放り込んだ。電子レンジで加熱した湯たんぽを抱えさせて、もこもこの毛布の中に彼女を横たえる。カラーボックスの隙間に残っていた冷感パッドの最後の一枚を額にあてがい、解熱剤を飲ませ終える頃には、円佳が柚莉を発見してから1時間半が過ぎていた。

 これが適切な処置であるのかはわからないが、こんな訪ね方をしてくるような人間を、まっとうな機関にかからせて良いのかも判断が付かない。円佳自身が熱を出しているときと同じように対応したので、どうにかこれでなんとかなってくれることを祈るしかない。


 静かな寝息だけを聞けば、ただ眠っているだけにしか見えない柚莉の横顔を見つめる。

 自分と同い年とは思えないほどにその頬はこけて、ハリを失っていた。それでも鼻梁はすらりと整って、今は閉ざされている瞼の幅も広い。中学の頃から綺麗な顔立ちをしていたから、それはそのままに成長したのだろう。

 中学生の頃、いつだって円佳の隣にいた横顔。

 全く同じではないものの、自身と似たような境遇に置かれて苦しんでいた柚莉の存在は、当時の円佳にとってかけがえのない心の支えだった。

 中学3年の冬休み前日、ほかの同級生たちのように未来の話ができない自分たちを面白がって笑い合ったあの日まで。

 翌日柚莉が登校してくることはなく、冬休みが明ける頃には彼女が家族と共に夜逃げしたという噂は、ほとんど確定事項として学年中に広まっていた。

 当時は携帯電話なんか持っていなかったから、連絡先もわからない。心のどこかでずっと彼女の存在が気にかかっていたものの、安否を確認する術はなく、その後円佳が柚莉と会うことは今日この日まで一度もなかった。

 それは柚莉も同じはずで、彼女にだって円佳が今どこで何をしているかを知る術はなかったはずだった。柚莉はどうやって円佳を見つけ出し、どんな気持ちで、何のためにここまでやってきたのだろう。それも、こんなにぼろぼろの状態で。

 手を伸ばし、閉ざされた柚莉の瞼をそっと撫ぜた。


「また会えたらって思ってたけどさ。こんな風に会いたかったわけじゃないんだよ」


 応えはない。

 柚莉の意識が戻るまでは起きていようと決めていたはずの意識はしかし、半日こなしてきたバイトの疲労に耐えきれずに少しずつ泥濘に沈んでいく。

 こたつに足を突っ込んだままで、柚莉に寄り添うように円佳は眠りに落ちた。安アパートの5畳半は少々手狭で、それでいて心地よかった。



◇◇◇



「中学出たら二人で暮らそうよ」


 校庭で声を張り上げる野球部員を見下ろしながら、ぽつりと柚莉は呟いた。


「そんなこと、できるかな」

「できるよ。高校で一人暮らしする子、たまにいるじゃん。高校生になったら働けるし、円佳はいなくなっても特に何も言われないし、あたしはなんとかして逃げるから」


 日が傾いてから落ちきるまでの時間は、近頃では随分と短くなっていた。ここで柚莉とふたり黄昏始めてから大した時間は立っていないはずなのに、柚莉の顔にはもうだいぶ影が落ちて、表情が読みにくくなっていた。

 しゃがみ込んで壁に背をつけていた円佳は立ち上がり、彼女と同じように窓辺へ凭れて外を見下ろした。

 部活動推薦で高校を決めているのであろう、明日への憂いなど微塵も感じていなさそうな晴れやかな顔をした同級生がひとり、バッターボックスで後輩たちに白球を飛ばしていた。


「柚莉がそうしたいなら、いーよ」

「そんな軽くていいの」

「うん」


 自分から提案してきたのにも関わらず、意外そうに聞き返してくる柚莉に、円佳はひとつ頷きを返した。

 今までだって、柚莉の言葉に異を唱えたことはほとんどない。そうしてはいけないような、なんとなくの予感があって、それは円佳にとってとても嫌なことだったからだ。

 柚莉の方へと顔を向ける。彼女もまた、ついと目線を円佳へよこしていた。


「いーよ。だからさ、ちゃんと約束してね」

「約束?」

「二人で暮らすって。それまで、勝手にいなくなったら嫌だよ」


 うん、と小さな声が耳朶に届き、視界の端でさらさらした長い髪が僅かに揺らめく。

 小さな首肯に満足した円佳は、再び校庭へと目を移した。


 柚莉が消息を絶ったのは、その翌日だった。



◇◇◇



 毎日同じ時間に設定しっぱなしになっている、耳障りなアラーム音が耳を打った。


「ゆめ、」


 懐かしい夢を見た。

 昨夜のごたごたも夢の一部であったのではないかとわずかに期待したけれど、静かな寝息を立てる柚莉の姿は変わらずそこにあったし、何よりも、フローリングで横になったせいで痛む腰が、これが夢ではないことを饒舌に物語っている。

 指を伸ばし、柚莉の額に触れた。熱はかなり引いているようで、平熱よりややあたたかい程度だろうか。最も、柚莉の平熱など円佳には知る由もないのだが。


「よかった……」


 人心地ついたことで、また息が一つ漏れた。救急車を呼ばないことを決めたのは自分であるとはいえ、ここでもし容体が悪化していたら取り返しがつかなかったかもしれない。

 適切だったかどうかはともかく、自分の処置は彼女の状態をどうにかしてくれたようだ。

 冷感パッドを張り替えようとして、昨夜使ったそれが最後の一枚であったことを思い出した。時計と柚莉の顔を何度か視線が往復する。


「置いて行っても、大丈夫かな」


 バイトの時間が迫っていた。

 まだ外は日も出ていないような早朝で、柚莉が目を覚ますことはないだろう。病人を独り置いて行くことに抵抗はあったが、コンビニの早朝シフトを直前に交代してくれるような物好きはなかなか見つかるものではない。

 念の為、戻りの時間を記したメモを枕元に置いて、円佳は最寄りのコンビニの制服に袖を通した。

 外はまだ薄暗かったが、昨日一日降りしきっていた雨は、もうすっかり上がっていた。

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