第九話

 9: 

「ここや。ここの二階に、おるそうやで」


 知らない町の、知らない駅から出て、知らないバスに乗って、知らない場所で知らないアパートに私の母親が……居るらしい。


 まるで他人事のようだ。


「ほれ、こっちや」


 兄に手を引かれるまま、アパートの階段を登る。

 二階。知らない二階。


「ここやな」


 二0四号。知らない二0四号。

 ドア一枚を隔てて、この奥に――


「呼ぶで」


 しんと静まり返って、龍之介が呼び出し鈴に指先を伸ばす。


「ほらあんたたち! 何をやってるのまったくもう――」


 ドアの向こうで聞こえてきた。

 途端に、頭の中が真っ白になる。


「あ……」


 目の前が、現実が歪んで、

 頭が揺れた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――


「居る見たいやな」


 龍之介が呼び鈴を鳴らそうとしたとき――

 その手を、燕の両手が抗うように押さえ込んだ。


 ドアの奥からはまだ、子供達を叱る母親の声が、遠くから聞こえてきている。


「燕……」


 龍之介の手を押さえ込んでいる燕。


「……つば、め」


 龍之介の表情がはっとなった。

 力なく燕の震える手。龍之介は押さえ込まれた手を、呼び鈴から離した。


 しんと静まり返ったアパートの廊下。


 扉の奥では、母親の叱り声と子供たちの楽しげな声が。

 突然、弾かれたように走り去る燕。


 燕の足音が遠くなっていく、薄く泥色がかった運動靴の足音が遠ざかっていく。

 呆然とする龍之介。表情を失った顔で、


 小さくなっていく足音を聞いていた。


「……………くそっ」


 馬鹿の馬鹿さ加減に呆れ切って、奥歯をかみ締めて、己を奮い立たせて――


 そうしてようやく、龍之介が燕の後を追いかけて走り出した。   

 

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