第43話 レティリエとグレイル

 レティリエは走っていた。目指すは村の中に群生しているヤマモモの木だ。嫌でも目立つ銀髪をひとつに結わえ、なるべく目立たないように村の中を走り抜ける。ヤマモモの群生地にたどり着くと、レティリエは幹のこぶに足をかけ、勢いよく上に登っていった。木登りは慣れている。いつも木の上から皆の楽しげな様子をずっと見てきたから。グレイルに声をかけたくて、でもできなくて、木の上から毎朝彼が狩りの練習をする姿を眺めていたから。

 上りきると同時に枝に体を移し、葉を掻き分けて眼下を見る。視界に広がるのは、村中で争う狼の姿。木の上からは地上の喧騒がよく見えた。

 レティリエは注意深く目を凝らしながらセヴェリオを探す。周囲に彼の姿が見えないことを確認すると、レティリエはスルスルと木から降りて、また次の群生地まで走り出した。


「あの女……! 銀狼か!」


 背後から声がする。と同時にこちらへ向かって地面を駆る音が聞こえた。誰かが自分の姿を捉えたのだ。こちらに向かって猛スピードで走ってくる足音が近づいてくるが、レティリエは脇目もふらずに走り続ける。ヤマモモの群生地まであと数メートル。足音と荒い息づかいはもはや頭のすぐ後ろで聞こえてくるくらいに近づいていたが、構わずに足を動かし続ける。背後の狼が、地面を蹴る音がした。と同時に、レティリエも決死の覚悟で目の前のヤマモモの木に飛び付いた。木のこぶに足をかけ、上を目指して身軽に飛ぶと、数秒の遅れの後、飛びかかってきた狼の鋭利な牙が眼下のくうを貫いた。木の下で悔しそうに頭上を見上げる狼を尻目に、枝づたいにどんどんと場所を移動する。

 狼になれない自分は、足の速さではどうしても本物の狼に勝てない。だが、木に登ってしまえばこちらのものだ。仮に追ってきたとしても、姿レティリエと、狼から人へ変身をしなければならない彼らにはコンマ一秒ほどの遅れが生じる。その数刻の遅れは自分にとっては何よりも大事なアドバンテージなのだ。 


 レティリエはそうやって村の中の群生地づたいに場所を変えながら、セヴェリオの姿を探していた。もちろん、群生地から次の群生地までは地上を走らなければならない為に、どうしても身の危険は生じてしまう。だが、ここはレティリエが生まれ育った村だ。村のどこに群生地があるのか、そこから別の場所まではどれくらいの距離でどれくらいの時間が必要なのか、熟知している自分は、敵に比べて圧倒的に地の利がある。

 レティリエはまた、木の上に登りながら眼下を見回した。次の群生地は西の方角。距離と走るのにかかる時間を計算し、敵の狼が少ない頃合いを狙って木を滑り降りて全力で駆け出す。


 そうこうしているうちに、レティリエはとうとう見つけた。方々で争い合う狼達の中で四肢をしゃんと伸ばし、鋭く戦況を見つめている赤茶色の狼を。間違いない、セヴェリオだ。彼は今、仲間の狼に守られながら戦況を鋭く見やっていた。

 レティリエは太い枝の上に座りながら大きく深呼吸をした。心臓がバクバクと大きく鼓動を打っている。最後に愛しい彼の顔を思い浮かべると、レティリエは自身の腕に噛みついた。小さいが尖った牙が肌を貫き、鮮血が滴り落ちる。そのまま彼女は両手で枝にぶら下がると、体を揺らして一息に地上へと跳躍した。


 そのまま走ってセヴェリオの正面に姿を現す。距離は十分にたもったまま。それでも、視界のど真ん中に入るように。案の定、目の前に現れたレティリエの姿に、セヴェリオは目を見開いた。


「貴様……! ここにいたのか……!」


 彼の言葉に返事をせず、頭頂部で結わえた髪紐を一気にほどく。空を血のように染めながら沈んでいく太陽と、迎える闇の空に映えるがのごとく、ゆるやかな銀髪が煌めいた。風に揺られて銀の髪が天の川の様にふわりと広がる。左腕から流れ出る鮮血が地面に染みを作り、風と共に血の匂いを周囲へ広げていった。彼ならきっと、この匂いで気付くはずだ。

 セヴェリオが地面を蹴り、こちらに向かって駆けてくる姿が見える。あと数秒もすれば自分の命は彼の牙と爪を前に、またたくまに葬り去られるだろう。だが、レティリエは動かなかった。何があっても動くまいと思っていた。


 そう。自分はおとり。そして最大の目印でもある。


 金色の双眼を怒りで燃え上がらせながらセヴェリオが眼前に迫ってくる。鎧のような筋肉を身にまとい、何匹もの仲間を葬ってきた爪と牙が鈍く光る。


 しかし、レティリエは動かない。


 自分はよく知っている。


 ──この爪と牙が、絶対に自分に届かないことを。


 鋭い爪が、レティリエの喉を引き裂こうとした瞬間、突風のような一迅の黒い風が彼の体をレティリエの視界から追いやった。同時に微かに香る、愛しい人の匂い。慌てて振り向くと、視線の先で赤茶色の狼と、夜の闇に溶け込むかのような漆黒の狼が激しく争っていた。地面に引き倒したセヴェリオに馬乗りになり、止めをさそうとグレイルが首を狙って牙を震わせるが、激しく抵抗するセヴェリオの爪がグレイルの頬を切り裂いた。そのまま互いに互いを殺そうと、激しい爪と牙の応酬が続く。二匹そろって転がるように距離をとり、全身の毛を逆立てながら睨み合う。口の端から血を流しながら、セヴェリオが牙をむき出しにした。


「くそっ……! くそっ! くそっ! お前は絶対に殺す! この世から! 一筋の毛も残さないほどに無惨に殺してやる!」

「奇遇だな。俺も同感だ」


 猛り狂うセヴェリオに、グレイルも冷静に返す。漆黒の毛並みに包まれて見えにくいが、彼も先程の一撃で頬を切り裂かれ、鮮血が地面に流れ落ちていた。

 グレイルが再度彼に飛びかかろうとした時だった。セヴェリオの背後から複数の狼が現れ、グレイルに飛び付いた。爪と牙で四肢を押さえつけられ、その場で地面に組み敷かれる。グレイルも暴れながら抵抗するが、多勢に無勢でその包囲から逃れることができない。しかもセヴェリオ側の狼は一人一人が手練れだ。複数でかかられては勝ち目がない。

 歯噛みしながら金色の目で前方を睨み付けると、セヴェリオが口端くちはしに笑みを称えながらゆっくりと近づいてきた。


「よし。そのまま押さえておけ。こいつさえ殺せば、後は怖いものなぞないからな」


 だが、セヴェリオがグレイルに飛びかかろうと姿勢を低くしたその時だった。

 複数の足音が大地を震わせ、セヴェリオが反射で振り向く。次の瞬間には、村の奥から走ってきた仲間ローウェン側の狼達が一斉にセヴェリオへ襲いかかった。


「なんだ!? くっ……!」


 セヴェリオが後方へ跳躍してその襲撃を交わす。そのまま仲間達はグレイルを押さえつけていた狼達にも飛びかかり、瞬く間に追い払った。散り散りになる敵の狼達。おのおの再度グレイルに攻撃を仕掛けようと何度か跳躍するが、二匹一組になった仲間達が彼らを迎え撃ち、グレイルに近づけさせなかった。

 仲間の意図を察し、グレイルも意識を研ぎ澄ませる。彼らは、この戦いの命運を自分に託したのだ。見事な連携で仲間がセヴェリオ側の狼を押さえ、長を無防備にする。先程、セヴェリオはグレイルさえ殺せば良いと言っていたが、彼は本当に個体しか見ていないのだ。例え一人一人の力は弱くとも、組織での連携の力はそれを遥かに凌駕する。


 仲間達が切り拓いた血路を駆けて、グレイルがセヴェリオに飛びかかった。すんでの所で交わしたセヴェリオが、逆にグレイルの胴体に爪で一撃を入れる。空気の中の血の匂いが濃くなった。だが──いける。敵側の狼の勢いは、今や完全にローウェン側の狼に押さえられていた。無理もない。自分達は村を取り戻すと言う確固たる目的があるが、敵の狼は長を守りたいと言う強い意志も、村を守る目的もないのだから。

 グレイルの爪がセヴェリオの頬をかする。セヴェリオが憎々しげに顔を歪める。彼の表情から焦りが見てとれた。双方距離をとって睨み合う。グレイルが体勢を整えてもう一度飛びかかろうとした時だ。

 びりりと空気が振動し、本能が警鐘を鳴らす。振り向く前にグレイルが後方へ飛ぶと、セヴェリオとグレイルの間を、矢のように灰褐色の狼が飛び込んできた。


「ジルバ……!」

「お前の相手は私だ」


 ジルバがセヴェリオを背後に庇い、牙を鈍く光らせながらグレイルを威嚇する。筋肉質の巨体とその実力に相応しい鋭利な牙。セヴェリオを仕留めるには、彼とジルバを引き離さなくてはならない。だが、グレイル一人でこの二人を相手にするのは荷が重すぎる。グレイルは焦燥感と共にぐっと歯噛みした。

 

 それでも。大切なものを守るためには戦わねばならない時があるのだ。


 どこかの木の上から自分を見守っているであろうレティリエを感じながら、全身の毛を逆立てて自分を鼓舞する。

 仲間の狼二匹が揃ってジルバへ飛びかかるが、彼はアッサリとそれを交わし、逆に向かってきた狼の腹に噛みついた。

 悲鳴をあげながら崩れ落ちる狼に、コンビの片割れが慌てて襟首を咥えて引きずり、その場から転がるように逃れる。組織の連携を持ってしても、セヴェリオとジルバの鉄壁の布陣を壊すのは至難の技のようだ。


 グレイルはぐっと姿勢を低くして二人と対峙した。周囲では仲間達が敵の援護を阻んでいる。一瞬の沈黙の後、ジルバがグレイルに飛びかかった。グレイルはヒラリと交わし、ジルバには目もくれずに彼の背後にいるセヴェリオ目掛けて地面を蹴る。だが、セヴェリオに掴みかかろうとした瞬間に背後にジルバの息づかいを感じ、グレイルは軌道から外れて横へ飛んだ。

 狙うはセヴェリオの首、ただひとつのみ。だが、ジルバが邪魔をしてくることで攻撃を当てることすら叶わない。

 鉄壁の布陣。幼馴染みゆえの連携。

 だが、焦燥感に駆られたグレイルが歯を食いしばった時だった。


「グレイル」


 自分を呼ぶ声がグレイルの耳朶を震わせる。意識は二匹に向けたまま、耳だけで声のした位置を特定する。声が聞こえてくる方角は後方、頭上。その瞬間、彼は彼女の意図を理解した。

 二人に背を向け、一目散に後方へ走る。すかさずセヴェリオとジルバも後を追う。ヤマモモの木の近くまで来ると、グレイルはクルリと振り向いた。同時に、セヴェリオ目掛けて跳躍する。だが、セヴェリオと組み合う前にジルバが割り込むようにグレイルを迎え撃った。


「何度も言わせるな。お前の相手はこの私──」


 だが、皆まで言う前に何かの気配を感じてジルバの耳がピクリと動く。空気が動く感覚。ハッと上を見上げた瞬間には、彼の背中に何かがフワリと飛び乗った。


「いいえ。あなたの相手は私よ」

「お前は──!!」


 木の上から飛び降りたレティリエがジルバの背に着地し、その巨体にしがみつく。慌てたジルバがレティリエを振り落とそうともがくが、レティリエは首を抱えるように抱きつき、灰褐色の毛並みをしっかりと握って離さない。狼の背に乗るのは慣れていた。グレイルの背に乗って、何度も死線をかいくぐってきたのだから。


「くそっ! 離れろ!」


 ジルバが引き剥がそうと前足でレティリエを掴もうとするが、狼の姿では四肢をうまく使えない。対してレティリエは両の指でしっかりと毛並みを掴み、ジルバに覆い被さるようにしがみついていた。

 敵の狼が異変に気付き、レティリエに飛びかかろうとするが、ローウェン側の狼達が邪魔をし、近づけさせなかった。ジルバの動きが鈍くなった瞬間にグレイルが無防備になったセヴェリオ目掛けて飛びかかり、両者共に前足で相手を受けながら組み合う。レティリエが決死の覚悟で切り拓いてくれた好機チャンス。これを無駄にしてはならない。グレイルの肩の筋肉が盛り上がり、セヴェリオの体をじりじりと押す。そのまま爪を光らせると、セヴェリオの胸を勢いよく切り裂いた。


「ぐっ……!」

「セヴェリオ!」


 鮮血が宙を舞う。ジルバが声をあげ、二本の後ろ足で立ちながら凄まじい勢いで身を震わせる。レティリエも指を絡めて必死にしがみつくが、自分の体重を支える程の筋力はない。あっと思う間にジルバの体から手が離れ、レティリエは地面に勢いよく叩きつけられた。だが、すかさずローウェン側の狼がレティリエを囲み、彼女の守りに徹する。


 ジルバが組み合うセヴェリオとグレイル目指して走る。だが、ジルバがグレイル目掛けて跳躍の構えを見せた時だった。視界の目の前に現れる茶色の狼。不意をつかれたジルバはろくな抵抗もできずに真後に吹っ飛ぶ。

 さらに、ジルバがその場から消えたことで、ローウェン側の狼達がグレイルを援護する為にセヴェリオを包囲した。


「くそっ! こいつら邪魔だ!」


 セヴェリオがグレイルに攻撃しようと構える度に、仲間の狼がツーマンセルでそれを阻む。グレイルが追いたてるようにセヴェリオに飛びかかると、セヴェリオもチッと舌を鳴らしてそれを交わし、村の外へと走っていく。その後ろ姿を、グレイルも弾丸のように追った。


「セヴェリオ!」


 ジルバが追いかけようとするが、行く手を茶色の風に阻まれる。


「おっと、お前は俺とやりあってもらおうじゃねえの」


 強靭な四肢で大地に立つローウェンが、ニッとその口端を持ち上げた。

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