第44話 ローウェン対ジルバ
「お前は……!」
ジルバが目を見開いて目の前の狼を見る。そこにいるのは、逃げたはずの、腰抜けの村長。唖然とするジルバを見て、ローウェンはくつくつと笑った。
「良いねぇその顔。ほら、念願の長の首だ。俺の首をとって、お前の大好きなセヴェリオ様に褒めてもらいな」
そう言ってローウェンが挑発するかのように喉元を晒す。彼の姿を見るジルバのこめかみに青筋が立った。次の瞬間には地面を駆った灰褐色の巨体がローウェンにおどりかかる。彼はそれをヒラリと交わすと、村の外──先程グレイルとは反対側の門へ向かって一目散に駆け出した。問答無用でジルバも後を追う。目の前にこの戦いを左右する存在がいるとあっては追いかけないわけにはいかないだろう。ジルバも風を切りながらローウェンを追いかけるが、彼も自慢の健脚で距離を縮めさせない。
そうこうしているうちに、二匹は村の外の森に出た。うまく外へ誘い出したローウェンが、足をとめてくるりと振り向く。
「ここでなら存分にやりあえるな。来いよ」
「お前のことだ。ここに連れ出すということは、何か策を練ってあるのだろう? その手にはのらん」
「んなもんねぇよ! ガチンコ勝負だ!」
そう言うと、ローウェンは間髪いれずにジルバに飛びかかった。ジルバも両方の前足でローウェンの足を受け止める。力の押し合いでは敵わないと判断したローウェンが咄嗟に後方へ跳躍した。ジルバが迷わずに正面から突っ込んで牙をたてようと口を開く。ローウェンもほぼ反射で交わしながら、爪でジルバの体に一撃を浴びせた。
「ちっ……すばしっこいやつめ」
「足が速いのが取り柄でね」
ジルバの腹の毛並みが血に染まる。流血しているが、深手は追わせられなかったようだ。現にジルバは、引っ掛かれた程度だと言わんばかりに涼しい顔をしている。
体勢を整えたジルバが飛びかかる。ローウェンも迎え撃つ。激しく揉み合い、争う二匹の咆哮に夜の森がざわめく。何度も組み合うが、双方なかなか決着がつかなかない。
お互いに一度距離をとり、前足を低くして跳躍の姿勢をとった。
呼吸もままならない程に荒い息をしながら、ローウェンは目の前のジルバを見た。体格の良い筋肉質な肉体。明晰な頭脳。彼はまさしく、この群れにとって強敵となる存在だった。
ジルバが飛びかかる。ローウェンが迎え撃つ。隙を狙って牙や爪を光らせるが、お互いにかすり傷を追わせるだけで勝負がつかない。だが、ローウェンはこの状況下に焦りを感じていた。
──まずいな。このままじゃ確実に負ける。
ローウェンは揉み合いながら、相手の分析をしていた。ジルバは間違いなく自分と同じ頭脳型だ。だが、自分との大きな違いはその体格にあった。ジルバは大きい。下手をすると、グレイルと同じくらいの体格がある。彼が人になった姿は見たことがないが、グレイル程に背は高く、体つきもがっしりしているとレティリエやクルスから聞いていた。対して自分は平均よりは少し大きいくらいの体格だ。このままでは、体力を削られ、弱った所に一撃を入れられて終わりだ。生まれもった肉体の差はどう頑張っても埋められない。
──冷静になれ。手がないわけじゃない。
心の中で自分を叱咤する。ここに来るまでに策を練り、万全の準備をしてきたはずだ。だが、やはり頭の片隅では弱気の虫が頭をもたげていた。
力の強さが全てとされる狼の社会。体力や力の強さでは、自分はグレイルに確実に劣っている。村長になりたかったいと思っていたのは、レベッカに求婚する為だと思っていたが、おそらく理由はそれだけではなかった。
憧れていた。グレイルに。群れを率いて雄々しく戦う力に。愛する人を守るために命を駆けられる精神力に。群れを率いたかったというのもあるが、やはり一番は、グレイルと並びたかったというのもあるのかもしれない。この場で気づく自分の本心に、ローウェンは自嘲気味に口角をあげた。
目の前のジルバの体が酷く大きく見える。やはり、群れの運命を左右する長は、体力も力もある狼が相応しかったのだろうか。自分のような、頭脳だけが取り柄の狼は、長としては役不足だったのだろうか。
一瞬の気の迷いが彼の勘を鈍らせたのだろうか。ジルバの爪が空を切るのが見えた。瞬時に避けようと身を翻すが、僅かに反応が遅れた体を、鋼鉄の爪が抉った。
「ぐっ!!」
腹に焼けつくような痛みが走る。筋骨粒々とした体躯に相応しい、重い一撃だ。怪我を負ったローウェンを見逃さず、ジルバが次の一撃を繰り出す。皮膚を切り裂こうと走る爪を身をよじってギリギリで交わす。だが、体勢を整える前に、ジルバの体がローウェンの体を弾き飛ばした。体当たりをされたのだ。空中で姿勢を整えることなくローウェンが地面に叩きつけられる。だが、呼吸を整える前にジルバがまた襲いかかってきた。なんとか身をよじって交わし、地面を転がるようにしてジルバから離れる。
防戦一方の戦い。だが、きちんと勝つ為の布石は打ってある。それまで時間さえ稼げれば自分の勝ちだ。
──本当に俺の勝ちなのか?
智略を巡らすのは得意だ。今回も、皆には戦力を削られないように、防戦をメインとした戦い方を指示した。群れを守るためであるなら最適解だろう。だが、今の自分はどうなのだ。時間を稼ぎ、逃げ回るだけ。それで本当に勝利したと言えるのだろうか。村長に恥じない戦いをしたと言えるのだろうか。
──群れを、レベッカを、子供を守ったと言えるのだろうか。
脳裏に赤毛の狼がよぎった瞬間、腹の底から力が沸いてくるのを感じた。
後方に跳躍し、四肢の体勢を整えた瞬間にジルバに飛びかかった。両方の爪で肩を掴み、首もとに牙を立てる。固い。鋼のような筋肉が、ローウェンの牙を通すことを許さない。
「くっ……貴様! どけ!」
ジルバがあらん限りの力でローウェンを振りほどき投げ飛ばした。
空中に投げ出される体、同時に地面を擦る感覚。慌てて起き上がろうとするも、地面に叩きつけられた衝撃でうまく動いてくれない。
ジルバが怒りで目を燃え上がらせながらローウェンにゆっくりと近づく。
「よくやった。村長に恥じない戦いだった。だが──死ね」
ジルバが動けないローウェンに飛びかかり、その首に牙を突き立てる。すんでの所で首を振った為か、その牙は首と肩の筋肉にズプリと突き刺さった。
「───!!」
酷く焼けつくような痛みがビリビリと全身を支配する。だが、ローウェンは、全身の力を振り絞って、自分を組敷くジルバの足の付け根に噛みついた。
ぐぅ、とジルバが唸る。ローウェンの肩を噛んだままだからか、くぐもった声しかしない。ローウェンも負けじと顎に力をこめる。
「貴様……! 何をする気だ! やめろ!」
ローウェンの意図を察したジルバが肩から口を離して吠える。だが、ローウェンは意に介さず思い切り牙を押し込んだ。
ぼきりと鈍い音が響き、ジルバの怒りの咆哮が闇夜に響き渡る。
間髪いれずにローウェンが拘束を振りほどき、ジルバに対峙する。首の肉には届かないだろうが、足の骨なら噛み砕けると思った自分の読みはあたった。案の定、ジルバの左前足は もう動かないようで、彼は三本の足で支えるように立っていた。
「貴様……! 許さん!!」
ジルバが怒りの形相でローウェンを睨み付ける。折れた前足はかなりの激痛をその肉体に与えているはずだが、ジルバはおくびにも出さない。だが、確実に攻撃力は削いだようで、彼の体は小刻みにフラフラと揺れていた。そんな彼の姿を、ローウェンも距離をとりながらしっかりと見つめた。
「お前は俺と違って村長じゃないんだ。命を落とす必要はない。ここで
「駄目だ……お前は確実に仕留める……セヴェリオの安寧のためにも……」
「やめろ! 今すぐに手当てをすればまだ治るかもしれない足だ! これ以上動くと、お前、狼として動けない体になるぞ!」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
ジルバが吠える。その凄まじい闘気に、彼もまた大切なものを守る為に戦っていることがわかった。殺したくはないが、これからも村の驚異になるには仕留めておかねばならない。ローウェンが半身を低く構え、跳躍の姿勢をとった時だった。
「ジルバ様! もうお止めくださいませ!」
鈴が鳴るようにか細い、けれどもよく響く声が聞こえた。同時に、一人の女性が駆け寄ってきて、ジルバに抱きつく。
「リリーネ……」
「ジルバ様! あなたの敗けです。もうこれ以上深手を追わないでくださいませ」
リリーネが涙を流しながらジルバにすがり付く。草を掻き分ける音がして、レベッカが姿を現した。不測の事態に混乱しているジルバが、鋭くローウェンを睨み付けた。
「貴様……人質にするつもりで連れてきたのか?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。彼女がお前に会いたがった。だから連れてきた。それだけだ」
昨晩リリーネの元へ行き、ジルバを説得してくれるなら来てほしい、と伝えると彼女はしっかりと頷いた。リリーネには、戦いに参加できないレベッカと一緒にいてもらうことにしていたが、間に合うかは一種の賭けだった。セヴェリオとジルバが村のどこにいるかもわからず、また戦況によっては彼らを誘い出す方角も変わってくるからだ。きっとレベッカも、気が狂いそうな思いで村の周囲をぐるぐると歩き回っていたのだろう。
ジルバの首を抱くリリーネの腕に力がこもる。
「ジルバ様……あなたがセヴェリオのことを大切に思っているのも知っています。ですが、私もあなたが大切なのです。もう……これ以上闘うのはおやめになってください」
「ダメだ。リリーネ、私はセヴェリオのもとに行く。そこをどきなさい」
「嫌です。でしたら私も戦います。あなたはこれ以上動くことはできません。でしたら私がセヴェリオのもとへお連れします」
そう言って、リリーネも白い狼の姿になり、ジルバの巨体を持ち上げようと懐に入る。ジルバは戸惑ったようにリリーネを見つめ、そして目の前のローウェンを睨み付けた。
「リリーネ、ここは戦場だ。ここには敵しかいない。お前は早く逃げるんだ」
「いいえ。ジルバ様、私は決めました」
そう言ってリリーネがジルバの懐から身を起こし、その金色の双眼をしっかりと見つめる。
「私はあなたと一緒に生きたいのです。これからは、私もお側に置いてくださいませ」
リリーネの言葉に、ジルバは返事をしなかった。薄く開いた口からは、出す答えを迷っているように見えた。二人の姿を目にしたローウェンが、前に進み出る。
「俺達はもう行く。二人のことは、二人でしっかりと考えろ」
そう言って、ローウェンは森の中へ消えていき、レベッカも後に続いた。
残されたジルバは、人の姿に戻って、同じく人の姿に戻ったリリーネを不器用に抱き締める。久しぶりに抱く彼女の小さな体はとても温かかった。
彼女の体を抱きながら、かつての幼い記憶に思いを馳せる。自分達が生まれた貧しい大地。極寒の風と雪が吹き荒れる中を、村を出た二匹の狼は進んでいく。
──ジルバ。こんなくそみてぇな世界、俺がぶち壊してやるよ。
目の前を歩く赤茶の毛には、彼のものではない鮮血。自分の父が母を噛み殺し、その父を葬った少年が浴びた、返り血だ。
──どうやって?
──俺は強くなる。何もかもを従える力を手に入れて、すべてを手にしてやる。もうこんな惨めな思いは二度とさせるもんか。俺にも、お前にも。
──すべてが手に入る世界か……なんだかわくわくするね。
──ああ。それまで俺について来いよ? お前には特別に、俺の右腕になることを許してやる。
──うん、楽しみだよ。
呼び覚ます記憶はかつて貧しい地で喘いでいた少年達の声。食べるものがなく、自分の目の前で父が母を殺す世界で生きてきた自分は、地獄から這い上がろうとするセヴェリオの反骨精神に惹かれた。
貧しい土地。弱い群れ。弱い自分。生まれもった環境の差をはねのけ、群れを転々としながら着実に力をつけていった彼は自分の理想の姿だった。
自分はやはり、セヴェリオについていきたい気持ちは変わらない。だが、今は潔く敗けを認めるしかないだろう。それもまた、自然の摂理なのだから。
リリーネの温もりも感じなから、夜空の満月を仰ぎ見る。
「セヴェリオ……お前の無事を祈る」
呟くような彼の声は、夜の闇に消えていった。
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