第30話 藪から棒へ ④

 見張りの兵が慌てふためいて将軍用のテントに転がり込んできた。ゲイジは驚いて持っていた本を落とした。

 ボストンの戦況は依然膠着。小競り合いはあるものの、植民地側の動きがはっきりとせず、ゲイジは憂鬱な日々を過ごしていた。

 その間、頭の中では幾度となく本国への帰還が頭をよぎった。彼にも家族がいるし、空気がとても恋しい。しかし、やはり同時に思いつくのは自分の失態だった。武器を回収するという簡単な仕事だったのにも関わらず、武器を発見できなかった上に、三百以上の死傷者まで出した。本国での扱いは、自分が思っている以上に厳しいものになっているに違いない。

 何かしなければ。戦況が停滞している数か月の間で、彼は功績を上げようと案を模索したが、比較的穏やかな環境に安堵を感じてしまったのだろうか、心身ともにうまく働かない。結局今の今まで何の行動も起こさず、ここにいたままだ。

 そんな中、慌てふためいた見張りの兵の登場ときた。ゲイジの心臓は大きく脈打った。

「な、何だね」

「とにかくきてください。自分の目で……」

 ゲイジは動き回る心臓を押さえつけながら外に出た。

 先ゆく兵の後を早歩きで追ったが、いつの間にか駆け足になっていく。

 家々の合間から見える光景を信じたくはなかった。地面に視線を移し、現実から目をそらす。

「こちらです」

 兵の声で、ゲイジは恐る恐る顔を上げた。

 ゲイジは地面に両膝をついた。驚きというよりは、後悔の念が彼を襲った。

「もっと、早くに……」

 ドーチェスター高地の危険性は、バンカーヒルの件によって明らかにされていた。だが、ゲイジはドーチェスターに軍を送らなかったのだ。遠征の危険を言い訳に。ゲイジは、兵隊の死傷と自分の損失とを、等号記号で結んでいた。つまり、臆病であったのだ。ドーチェスターの重要性を認識した上で、これ以上の失敗を恐れて動けなかった。

 ドーチェスターの小高い崖からは、物静かに黒い穴がこちらを覗いていた。数は六十くらいだろうか。大砲は今すぐにでも火を噴いてきそうな佇まいを醸し出していた。

 破壊されるボストン、朽ち果てる自分。ゲイジの体は小刻みに震えた。昨日まで何もなかったのだ。

 そうだ、昨日まであの高地には何もなかった。動きがあったらすぐに出陣できる用意はしていたのに、どうして奴らの動きに気がつけなかったのだ。要塞化する過程で必ず動きは出る。

 ゲイジははっとした。

 昨夜からずっと撃ち続けられていた大砲。無意味な攻撃だと思い、笑いながら眺めていた。しかし、意味があったとしたら。ドーチェスターに目を向けさせないための、おとりの役割が。

 やつらは、一晩でドーチェスターを要塞化したのか!

 俺が何もしていなかった数か月。彼らは準備していたのだ。今日、この朝のために。

 後悔の念に駆られているゲイジの元に、別の兵士が伝言を持ってやってきた。

「ゲイジ将軍」

「何だ」

「植民地軍の総司令官が会いたいと」

 ゲイジはうなだれた。

「いつだ」

「今すぐです、将軍。本人がきています」

「何?」

 ゲイジには何の準備もなかった。

 ボストンに通ずる唯一の陸路、ロクスベリーネック。ここは、長い間膠着が続いている最前線だ。転がった大砲と建造物の残骸、そして死体。荒廃さと緊張感の中心地である。

 そこに、青ざめた男が立っていた。病人かと思うほどやつれ、触れただけで折れてしまいそうな体。正装は着ているが、丈は余り、裾も袖もだらしなく垂れている。

 ゲイジが姿を見せると、男は満面の笑みを浮かべた。その笑顔がゲイジの背中を凍らせる。男の笑顔は冷徹だった。心の奥底にある悪が表情に染み出ている。

「ジョージ・ワシントンだ」

 男は名乗った。彼の乾いた声は、静けさの中で不気味に響いた。

「トーマス・ゲイジ」

 対するゲイジの声はみっともなく震えている。

 ワシントンは再び笑った。

「ハハハ……」

 その笑い声は長い。小さな笑い声を延々と続けられることほど居心地が悪いことはない。耐えきれずゲイジもその笑い声をまねて笑った。二人は長いこと笑い続けた。

 前触れもなくワシントンの笑い声は止む。焦ってすぐに自らも笑い声を止めたゲイジだったが、もうワシントンの顔は笑っていなかった。

「馬鹿だね、お前」

「え?」

「ほらぁ、一回で意味も理解できない」

 ワシントンは舌打ちをして、折り重なった人の死体に腰を下ろした。

「僕はオノが好きなんだ」

「何を要求しているんだ。さっさと言え」

 馬鹿呼ばわりされてプライドを傷つけられたゲイジ。強気に出る。だが、彼は無視して話し続けた。

「オノは子どもの頃から理由もなく好きだった。手触りかな。形かな。でもある日確信を得た。オノで人の頭をゴツンとやったときのことさ。オノがもっと好きになったよ。わかるかい? 感触、重み、振動、音。全てが俺を刺激したんだ。銃で撃ち殺すのとはわけが違う!」

 突然、ワシントンは歯をむき出して声を荒げた。だがすぐに元の口調に戻る。それだけで、ゲイジの心拍数は急上昇した。

「大人になった今でもオノが好きさ。ほら」

 ワシントンは懐から小さなオノを取り出した。

「しまいやすいだろう? おもちゃじゃない、切れる」

 ワシントンは死体の足にオノを落とした。不快な音と共に崩れ落ちる死体の足。悪臭が広がり、粉が舞った。

「でも生憎、御覧の通り僕は体が弱い。戦場に立てる力はないし、今は地位ある立場だ。オノを使う機会はめっきり減ったよ」

 ワシントンは地面にオノを置き、一呼吸した後、本題に入った。今まであえて軽い口調にしていたのだろうか。口調を変えたワシントン。気味の悪さが減少した代わりに、単純な威圧が増加した。

「君たちを見逃してやってもいい」

「な、何……?」

 ゲイジは部下を死なせたくなかったし、自分も死にたくなかった。一寸先は死。その状況で提示された、死を回避する提案は神々しく見えた。冷静に考えて、本国に戻っても殺されることはないだろうし、周りから嘲笑を買うことも、軽蔑の眼差しを向けられることも、ここで死なないからこそ経験できるものではないか。

「ただし」

 ワシントンがゲイジの楽観を遮る。

「条件が三つある」

 ゲイジは現実に戻され、生唾を呑み込んだ。

「一つ目、今から君自身が俺を宿舎の中に案内しろ。二つ目、三十分後、無傷で俺を宿舎から出せ。あぁ、ちなみに俺が宿舎の中に入っていくことは部下に伝えてある。三十分経っても出てこなかったら撃て、ともな。他にも……まぁいい、要は変な気を起こすなということだ」

 ゲイジは頷いた。これだけの条件で皆を逃してくれるなら文句はない。

「三つ目、君の部下を五人俺に差し出せ」

「え? な、何のために?」

「何のため? じゃあ逆に聞くが、俺は何のためにお前にオノの話をしたと思う?」  

 ゲイジの顔からみるみる血の気が引いた。ワシントンはオノを手に持ち、死体の脳天に振りかぶった。朽ち果てた死体の頭蓋骨は簡単に割れ、裂け目から異臭と粉が舞った。

「五人か、全員かだ」


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