最終話 傷のないリング



どうしたら「愛されたい」を分かってもらえるんだろう。



探していた正解がこれなのかと問われれば、たぶん違うと答えるだろう。眠ってしまったハルトの横に座ってその肌に触れると、自分がまだ彼のことを好きなのだと自覚させられる。


毎日のように泣いて、怒鳴って、縋っていた頃、この気持ちがより深刻さを増してハルトに伝わったら良いのにと思っていた。言葉はどうしても不確かすぎて、自分が口にした「愛して」も、ハルトが苦々しく口にする「愛してる」も、空気に触れた瞬間に風船のように軽くなってしまうから。


そう考え続けていたら、いつの間にか”こう”なっていた。死ぬっていうよりは穏やかで、泣くよりは神経を逆撫でしない。彼の額を撫でる右手を見ると、爛れるように溶けかけている。いけない。慌てて手を離したが小指の欠片が一滴だけ玉のようになって肌に乗っていた。



眠っているのに気づいてすぐに部屋の電気を消したが、閉じたカーテンの隙間から細く街灯が覗いていて、天使の梯子のようなその筋がキラリと雫を輝かせた。違う、こんなに美しいものじゃない。


彼が起きないように指で掬うと、粘度のある液体がすり潰されて纏わりつく。やはり綺麗に見えたのは幻想だった。



はじめは良かったけれど、代償として失ったものがあることにすぐ気がついた。楽しかった思い出の遊園地も、ハルトが連れて行ってくれたちょっと背伸びしたレストランも、好きだって言ったら買ってくれたぬいぐるみも、今は綺麗な思い出として閉まってある。これ以上色褪せないように、青春の甘い一ページとして汚さないように。


愛は本能だって言うくせに、言葉を失えば途端に虚しくなるのはなぜなんだろう。恋人らしい何かを失ったことに、ハルトは気がついているだろうか。何もかもすっ飛ばしてまで、わたしはハルトと家族になりたいわけではなかった。


彼が好きだって言ってた長い髪を切ったら少しだけスッキリしたけど、なんとも思っていない素振りの彼を見たら傷が少しだけ疼いた。しかしそれもすでに古傷だ。表層を撫でる彼の手の暖かさが、まだちゃんと好きだった頃の気持ちを思い出させるだけ。


わたしが”溶けた”ことで彼の愛は変質してしまった。愛情は明確な同情に、そして諦めへと移行する。慈愛にも似たその目が、わたしを日に日に虚しくさせる。ねぇ、あなたが優しく撫でるわたしの表面はどんな形をしてる? もうずっとわたしがハルトに触れてないってこと、気がついてる?



「ごめんね」



ふせられたまつ毛が柔らかく震える。ハルトは優しいね。



台所へ行ってもう一本アイスを食べた。ハルトと一緒に食べたオレンジ色に舌が飽きたと主張するけど、お構いなしに食べ続ける。徐々に木の棒が湿り気を帯びてきて、雫が垂れ落ちてきた。彼はこの食べ方を嫌がってるって知ってるけど、やめればまた心が彼を好きだと自覚してしまうから続けている。



不安になって、癒やされて、また不安になって、結局お互いの輪郭は捉えられないまま。



ハルトは知らない。わたしが右手につけているリングの正体を。彼が記念日にくれたものはあまりにもわたしに似合わなくて、他の思い出たちと一緒に鍵付きの机の奥の方へ閉まってある。ハルトにはよく似合う、嫌な飾り気のないシンプルなシルバーの指輪。


早く自分の足で歩いていけるようになりたい。そのときはきっと、傷もなく綺麗なまま閉まったリングはあなたに返すからね。



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愛情に輪郭を。 七屋 糸 @stringsichiya

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