第3話 誰のための愛情表現



酔い醒ましもそこそこに家に帰ると、白い肌が溶け出して小さくなったアオイが待っていた。


彼女の座るフローリングの床の上に少し粘度のある乳白色の液体がいびつな形を作っている。アオイは何も言わない、いや何も言えないのかもしれない。黒目がちの瞳が俺をじっと見つめている。その視線に批難の色がないことにホッとした。


遅くなってごめん、と謝って溶けた肌の表面に触れる。すると水に近かったテクスチャーがクリーム状になり、やがてなめらかな曲線を描き出した。手を当てる位置をずらしながら繰り返す。時々軟骨が少しむき出した耳元で「好きだよ」と囁きながら。単純作業のような、流れ作業のようなそれを、飽きることなく繰り返す。



アオイが”死ぬ”と口にした数日後、はじめて溶け出す彼女を見た。付き合って一年の記念日に慌てて購入したお揃いのリングを嵌めた右手が、端の方から溶け出して崩れ落ちそうになっていて戦慄した。


けれどアオイは少しも焦る様子を見せずに「ごめんね」というので、恐々触れるとみるみるうちにもとに戻った。その時、悟った。



「ありがとう。ハルト、アイスあるけど食べる? オレンジのやつ」


体がすっかりもとに戻ると、アオイは冷凍庫から棒アイスを二本取り出してきた。袋から出して口に含むと、酔い醒ましに丁度いい冷たさが喉を通って胃に落ちていく。クーラーの効いた快適な部屋ではアイスも溶けずに食べ終われる。手が汚れるのはいつだって煩わしい。


しかしアオイは棒状のアイスを舐めあげるようにして食べるのでオレンジ色の甘い雫が指を伝い、記念日に贈った薬指のリングにまで届いていた。まるで体が溶けたみたいな色味に、溶けてるよと注意するが、後で手洗うから大丈夫、と返される。


前はこんな些細なことでもケンカをしていた気がする。今になってみればこんなくだらない会話のどこに言い争う原因が隠れていたのかさえわからない。



真壁も、いい加減気がつけばいい。


長続きの秘訣は”愛情表現”だと言った。しかしお前は勘違いをしている。



アオイは真壁が言う、女の子らしすぎる子だった。記念日にはケーキを買って、飲み会で遅くなる日には寂しいと連絡をしてくる、甘すぎる砂糖の香りがする女の子。


彼女はよく言っていた。「どうして分かってくれないの」と。彼女は誰よりも俺からの”可愛い”を欲する女の子だった。それが男の俺にはわからなくて、面倒くさくて、嫌になって、目が溶けるんじゃないかってくらいにアオイを泣かせた。


しかし文字通り”溶ける”ようになってから、彼女の「愛されたい」が俺にも見えるようになった。不安になったとき、俺を疑っているとき、言葉ではなく体でそれを伝えてくる。人の体が崩れだすという視覚的な怖さはあったが、不思議と精神的には楽になった。


アオイは俺がいないと生きていけない。逃げ場がないとわかれば覚悟は自然とついてくる。


愛情表現は相手のためだけじゃない。


お互いに楽になった。以前は言葉で、泣き顔で必死に訴えていたものが、表現の仕方を変えただけ。ちょっと変わっているかもしれないけれど、アオイはアオイだ。


手をベトベトに汚しながら食べ終わったアイスの棒に「あ、当たりだって」と彼女がつぶやく。首を伸ばしてみようとすると、見えやすいように差し出してくれる。この距離感が、ビールばかり飲んだ夜の麦茶のように心地が良い。まるで連れ添う過程をすっ飛ばした熟年夫婦のようで。いや、これは単なるツーカーとでも呼ぶべきかもしれないけれど。



少し眠くなってきてベッドに横になる。心地よいアルコールの回り具合にまぶたが閉じかけて、アオイを姿を見失ってしまった。ベットサイドにいるはずだと思うのに、睡魔で手を伸ばすことすら億劫だった。


そういえば溶けた皮膚に触る以外に、彼女に手を伸ばしたのはいつが最後だったろう。わからない、もうねむい。


ふつうにしあわせだよ、おれは。



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