第2話 普通の幸せ
「可愛いって言い続けたら本当に可愛くなるなんて、嘘くさいよな」
口の端にビールの泡をつけながら真壁が言った。
嘘くさいってか、そんなの女が作った迷信だろ、と機嫌悪そうに続ける。アルコールが入ると真壁はいつもこうだ。「今カノが元カノになったから慰めてくれ」なんてしおらしくしていたのが嘘のように、明らかに気が大きくなっている。
「男から褒められるための策略だよ、あんなの。面倒くせぇ」
「”華ちゃんはそういう面倒くさいところが可愛い”って、一ヶ月前くらいにのろけてなかったっけ」
俺の言葉を無視して真壁は五杯目のビールを頼む。使い古してささくれ立った居酒屋のテーブルに、冷えた酒が垂れ流す水滴が水たまりを作っていた。真壁のピッチが早いから釣られて胃に流し込んでしまったけれど、今日は家に帰れば彼女が待っている。あからさまな赤ら顔を作るわけにはいかない。中ジョッキに残った液体から生まれ出る泡がはじけるのを眺めながらちびちびと唇を濡らす。
「そもそも合わなかったんだよ、俺には。いかにも女の子らしくてふわふわした、お嬢様みたいな子」
「華ちゃんって隣のお嬢様学校の子だったっけ?」
「いんや、隣駅の短大。合コンで捕まえた」
そういえば一度この居酒屋を友達と尋ねてきた”華ちゃん”は、茶髪にショートカットの今どきな女の子だった。普通にカシオレにパーティープレートを注文して盛り上がっていた気がする。お嬢様が聞いて呆れる、と言いかけたけどどうせ無視されるのでやめた。
「そういえばハルトのところはどうなの。最近全然グチらないじゃん。前は束縛激しすぎてしんどいとか言ってなかったっけ」
「そこまで言ってないよ。確かにケンカは多かったけど今は落ち着いてる」
「ふうん。じゃあ普通に幸せなんだ」
つまんねーと言っていつの間にか運ばれてきていた五杯目のアルコールを煽った。別に合わせるつもりもないのに、俺も同じように煽ってジョッキの中身を空にしていた。枝豆を食べてベタついた手にグラスの水滴が混じって気持ち悪い。おしぼりで拭いても取れた気がしなくて「ちょっとトイレ」と言って席を立った。
”普通に幸せ”なんだろう、きっと。
付き合い始めの彼女は、アオイはよく怒ったしよく泣いていた。俺がサークルの飲み会で遅くなったとき、待ち合わせに遅刻したとき、記念日を忘れたとき。どの記憶にも謝る自分の背中があって、時々うまく泣きやめずに過呼吸になりかける彼女がいた。
一番恐ろしかったのは、付き合って一年ほどになる秋口の出来事。記念日を忘れていたわけじゃないけれど、俺もアオイも講義にバイトに忙しくてスルーしたままになっていた。バイト先の先輩と飲み歩いて帰ってきたある明け方、目を真っ赤に腫らした彼女が玄関先で待っていた。
どんな酷い言葉を交わしあったのかは正直よく覚えていない。ケンカの最後にアオイが漏らした「別れるくらいなら死ぬから」という一言が衝撃的すぎて、すべての前後関係がどうでも良くなってしまったのだ。
それが昨年の冬くらいからパタリと途絶えている。アオイが長かった髪を半分ほど切った頃だった。溶けた体が髪についたら嫌だから、と苦笑いするボブカットの彼女の大人っぽい表情が意味ありげで怖かったけれど、穏やかな日々を送るうちに思い出すことも減ってきた。
時々は煩わしいこともある。しかしあの頃に比べたら幾分もマシだ。
何倍にも希釈したような薄すぎるハンドソープで手を洗い、席に戻ると真壁がじっとスマホを見ていた。何が写っているかはわかってる。
「なぁ、長続きの秘訣ってなんだと思う」
「お前が面倒くさいって言った愛情表現じゃないの」
「やっぱりそうなのかぁ」
裏返して置かれたスマホには、きっと”華ちゃん”がいるんだろう。熱烈にアプローチして、付き合って、面倒くさくなって、ケンカになって別れる。そして悪態を付きながらも後悔するまでが真壁のパターン。男としては好感を持てるやつだが、女の子にとっても同じとは限らないのが辛いところだった。だから真壁がフラれるたびに飲みに付き合ってしまう。
「なんで女って言葉ばっかり欲しがるんだかなぁ。好きでも可愛くもないやつとなんて、一緒にいるはずないのに」
「そう言えばいいじゃん」
「言えねーよ、恥ずかしい!」
ぐちぐちと並べる言い訳を聞き流しながら時計を確認するとすでに午後十一時を回っていた。いつもなら焦るような時間ではないが、今日はアオイが待っている。
「それにさ、男からばっかり愛情表現するなんて、なんかずるくね?」
俺だって愛されたいんだよ~と甘えた声を出すから、飲みすぎだと言ってアルコールを引き剥がし、代わりに半分以上氷の入った水を差し出す。ずるいって、なんだよ。そんなの早く忘れた方がいい。
声を潜めて言ったけど、酒に弱いくせに水も飲まなかった真壁の寝ぼけ眼がうなずくように閉じただけだった。
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