【魔女の世界――交差する賭け、選ぶべきもの】

【魔女の世界――交差する賭け、選ぶべきもの】①

「こいつ殺したら、もう終わりにしてやるよ」

 声がした。うつぶせにされたぼくは、砂のついた床から首を持ち上げて前を見る。

 ぼやけた視界の中で、ぼくの目の前に一人の男子生徒が膝を折ってニヤついていた。そいつは右手に何か白いものを持っている。白くて小さなそれは、必死に手足をばたつかせて鳴き声をあげている。

 ぼやけた視界の焦点を合わせると、それが白い毛の小さな猫だということが分かった。さっきこいつらに殴られた時メガネが吹き飛んだせいで、それ以外の細かいところは分からない。

 首根っこを掴まれた子猫は手足をばたつかせながら鳴き声を上げている。その声が、この古びた体育倉庫の中に響いている。

 ぼくを除き、ここには他に三人の人間がいる。一人はぼくの前にいる奴と、跳び箱の上に座って雑誌を読んでいる奴と、うつ伏せにしたぼくの上に乗っている奴だ。三人目は拘束するようにぼくの両腕を後ろに回して掴み、ぼくの背中に片膝を立てている。無理な体勢にされて両肩が痛んだ。背中から膝で肺を押し潰され、まともに呼吸ができなくて苦しい。まるで背中に大きな石を乗せられているかのようだった。

 ぼく以外の三人はありえないぐらいに髪を派手な色に染め、ピアスやネックレスをジャラジャラと付けている。ぼくには一生関わりのないような奴らだったのに、何の因果いんがか、いつの間にかぼくは毎日のようにこいつらと顔を合わせることになっていた。空き教室や屋上、この古い体育倉庫に連れてこられ、一方的なリンチやはずかしめを受ける。これがいつから始まったのか……もうおぼえていない。

 体育倉庫の埃のにおいと、こいつらの香水のにおいが混じって吐きそうになる。いっそ吐いたら楽になるだろうか。……そう思うが、すでに胃の中は空っぽなことに気がついた。もう吐く物は空気とよだれぐらいしかない。こいつらに蹴られた腹がズキズキと痛み、吐きすぎて傷ついた喉がひりひりしている。殴られた頬が熱く、れたまぶたで視界が潰れている。

 息の奥では鉄の匂いが充満していて、口の中には血の味が広がっていた。殴られた時、砕けて暴れまわった歯のかけらで口内を切ったのだろう。血と涎が混ざってねばついた液体を、ごくりと喉を鳴らしてなんとか飲み込む。

 ぼくは目を動かした。ぼやけた視界で確認する。遠くの床の上にはぶちまけられたぼくの弁当。レンズが粉々になったぼくのメガネ。飛び散った弁当の中身にはすでに、黒くて気持ちの悪い虫が何匹かたかり始めている。

 弁当は今日の朝、早起きしたおじいちゃんがぼくのために作ってくれたものだ。そのおかずの一品いっぴんやごはんの一粒すらぼくの口に入ることなく、虫たちのえさになりかけている。

 メガネも先週こいつらに壊されて買い直したばっかりだっていうのに、買ってから一週間も経たずにもう使えなくなった。殴られた拍子に吹き飛んだものを、こいつらは構うこともなく上履きで踏み潰していったんだ。そうやって壊されたのはこれで何個目なのか……もう数えていない。

 そこで突然、子猫を掴んでいる奴が舌打ちをした。それと同時、その小さな音で僕の心臓はちぢこまる。そいつのイラついたような雰囲気を察し、ぼくの心臓はバクバクと鼓動を早め、まるで体から魂が抜けていくような感覚がぼくをおそう。そいつがふいにやった舌打ちは、「いじめられっ子」のぼくを委縮いしゅくさせるのに十分な威力いりょくを持っていた。

 子猫を持っている奴が言った。

「……こいつ、うるせえな。くせえし。焼却しょうきゃくにでも放り込むか?」

「それより線路に投げたほうが面白くね?」

「せっかく捕まえたんだからよ、もうちょっと面白いことしようぜ。花火をくくり付けるとか」

「いいな、それ。校舎の裏にあと三匹ぐらいいたから、そいつらも捕まえようぜ」

 三人は口々くちぐちに恐ろしいことを言ってゲラゲラ笑っている。

「その前にさ、こいつにやらせようぜ」

 ぼくの前に何かが放り投げられた。それは皮製の入れ物……小さなシースだった。その中には一本のナイフが入っている。鞄の一番下に入れておいたものを、こいつらは目ざとく見つけて取り上げたんだ。

「こんなもん持ってきてよ、まさか、おれらを刺す気だったのか?」

 ぼくの上に乗っている奴が言った。

「できねえよ、こいつには」

 雑誌を読んでいる奴が、見開きのページから顔を上げずに言った。他の二人も頷いて、またゲラゲラ笑いだした。まるでぼくのことなんか見えていないみたいだ。

 いや、こいつらにとってはそうなのだろう。ぼくはその程度の存在なんだ。だったら最初からぼくを完全に無視してくれていたら。視界に入っていても「いない存在」だと扱っていてくれていたら。ぼくはこうして使われていない体育倉庫の……ほこりまみれの床にへばりつくこともなかっただろうに。毎日毎日殴られて黒いあざになった目の周りを、階段で転んだと家族に言い訳しなくてもよかっただろうに。汚れ、ぼろぼろになった制服の言い訳を考えなくてもよかっただろうに。靴を隠され、上履きで家に帰らなくてもよかっただろうに。

 そこでじわりと、ぼやけた視界に水があふれてきた。涙だ。やめろ! 止まれ! 心の中で必死に言うが、涙は止まらない。また泣きだしたぼくを見て、奴らはゲラゲラ笑っている。跳び箱の上に座っていた奴が、雑誌をしまってスマートフォンを構え始めた。ちくしょう……。心の中でしかその言葉を言えない自分に怒りが湧いてくる。けれども湧いた怒りを奴らにぶつける勇気もない。そんなことをすれば、たちまち奴らはぼくを押さえつけてもっとひどいことをするだろう。持ち物を捨てられたり、目の前で燃やされたりだけじゃ済まないかもしれない。今の何倍も顔や腕に青あざを刻まれることになるかもしれない。想像するだけで体が凍り付いた。

 ちくしょう……。ぼくはもう一度心の中で言った。どうしてぼくばっかりこんな目に合わなきゃいけないんだ。なんでぼくが……。ぼくが何をしたって言うんだ……。

 ……分かっている。ぼくが今こうしてこいつらに囲まれていることにそれらしい理由なんてない。こいつらにとっては、ぼくなんてその子猫と同じだ。ただ道を歩いていたら面白そうなものを見つけただけのこと。暇潰ひまつぶしに使えそうなものを見つけただけのこと。だからぼくは今ここにいる。

「ていうかこれ、なんだ? 見た事ねえナイフだな」

 子猫を持っている奴が、空いた左手で床のシースから器用に中身を抜いた。中にしまわれていたナイフが姿を現した。それを自分の顔の前に持っていき、まるで検分けんぶんするように見回す。取り出されたそのナイフは刃先が少し上側うえがわかえり、その近くにもフックのようになった刃がついている。

「か、返せ……」

 ぼくは声を絞り出した。そのナイフはお守りとしてぼくが持っていた物だ。ぼくが世界で一番尊敬している人から貰った、ぼくの一番大切な物。こいつらみたいな人間がけがしていい物じゃない。

 これを鞄に入れているだけで、毎日降りかかるこいつらからの仕打ちに耐えられた。これを一振ひとふりするだけでこいつらに勝てると、こいつら三人のうちの、誰か一人の腹に差し込むだけでいいんだと言い聞かせて、ぼくは今まで耐え抜いてきた。結局シースに入ったそのナイフを、トイレの個室の中で眺めるだけだったけれど。

 ぼくの目の前にいる奴がにやにやする。

「ほら、返してやるよ」

 雑にナイフをぼくの前へと放り捨てる。ナイフが床にぶつかり、小さな金属音が上がる。

「その前に……やることは分かってんだろうな」

 持っている子猫を見せつける。ここからが本番だ、とでも言いたげな顔と声だった。

「持ってきてるんなら、できるんだよな?」

 スマートフォンを構えている奴がにやにやしながら聞いてきた。ぼくはもちろん返事なんてできない。頷くことも、首を横に振ることさえも。ぼくはただそのナイフを……持ってきていただけなのだから。

 ぼくの前にしゃがんでいた奴は立ち上がりざま、ぱっと子猫を掴んでいる右手を離した。急に手を離された子猫は足の先から床に落ちる。床をもぞもぞと這いながら、より一層助けを求めるように鳴き始める。まっすぐ伸びていた左の前足が、明らかに関節ではないところで変な方向に曲がっていた。

 同時に後ろ手にされているぼくの腕も解放され、ぼくの上に乗っていた奴も立ち上がった。ようやくぼくも自由じゆうになる。

 ぼくは体を起こしながら、目の前に転がされたナイフに手を伸ばした。黒い制服がこいつらの上履きの跡で真っ白に染まっていた。ぼくがナイフを持ったことに、「おっ」と誰かが声を漏らした。このあとどうするんだろうという、期待にちたワクワクした声。

 ぼくは震える両手でナイフのを握った。そうしないとまた殴られるかもしれないからだ。蹴りが飛んでくるかもしれないからだ。

 仮にぼくがナイフの切っ先をこいつらに向けても、こいつらはいとも簡単にぼくをして笑いながらもっとひどいことをするのだろう。スマートフォンを構えて動画を撮りながら。床に這いつくばったぼくを指さしてゲラゲラと笑いながら。もしかしたら、裸にいたぼくをサッカーボールみたいにばして遊ぶのかもしれない。分かってる。

 痛々しいまでに切り裂かれたぼくの上履き、鞄。落書きされたぼくの机。破かれたぼくの教科書。消し炭としたノート。ごうごうと稼働する焼却炉の前で、何度呆然と立ち尽くしただろうか。靴が、上履きがなくなった靴箱を見て、何度ため息をついただろうか。一番嘘をつきたくない人に、「大丈夫だよ」と何度嘘をついただろうか。

 ぼくがもう少し強ければ、いじめなんてされなかっただろうか。あるいはぼくがもう少し弱ければ、こいつらの遊びに負けてとっくに自殺していたのだろうか。

 ナイフの刀身とうしんにぼくの顔の下半分が反射する。鼻から下だけでもひどかった。口の端には青あざが浮き、鼻の周りに鼻水と固まった鼻血がこびりついていた。

「早くやれよ」

 いつの間にか三人は、見物するようにぼくの前にそろって座っていた。子猫を掴んでいた奴がにやにやしながら催促さいそくする。全員がスマートフォンをぼくに向けて構えている。録画開始の音が順番に三回分聞こえてきた。まるで見世物みせものだ。

 ぼくは、自分の顔の下半分が映ったナイフを見つめる。普通の物とは違うこのナイフはいのしし鹿しかの解体をするための物だから、こんな子猫なんかは力を入れずとも簡単に殺せる。

 よろけながら、子猫がぼくの足元へ近づいてくる。ぼくの足にぶつかると、小さな声で鳴いてぼくを見上げた。

 本当にこの猫を殺したら、ぼくは解放されるのだろうか。ふと、そんなことを思ってしまう。……やめろ! 考えるな、考えるな! 慌ててその考えを頭から消し去る。この小さな命を奪ってしまえば、この猫一匹を殺してしまえば、ぼくは解放されるんだ。そうだ。そうだろう⁉ たったそれだけで終わるんだ。そうだ。たったそれだけで……。

 ぼくはナイフを、ゆっくりと逆手さかてに持ち直した。

「こいつ、本気でやる気だぜ!」

 一人がテンションを上げて叫んだ。

「やれ、ぶっ殺せ!」

「殺せ! 刺しちまえ!」

「やれ! やれ!」

 三人が叫ぶ。

 そうだ、簡単だ。猪や鹿を殺すのと何も変わらないじゃないか。ぼくは自分に言い聞かせる。おじいちゃんが仕留めたけものたちにとどめを刺すのと変わらない。そうだろう⁉ たったそれだけのことだ! たったそれだけでいいんだ。そう、それだけで……。

 子猫がぼくを見上げる。その大きな瞳に、ナイフを持つぼくの姿が反射する。助けることと真逆の行動を取ろうとしている人間を、子猫はじっと見上げている。

 子猫がまばたきをした。小さく鳴いた。小さな体を動かして呼吸をしている。ぼくの足にすり寄ろうとしている。

「……っ!」

 ぼくはその子猫に向かって、ナイフを思いきり振り下ろした。

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