【魔女の世界――始まり】

【魔女の世界――始まり】

「……え? うそ……」

 303号室の扉を開けた小夜は驚いた。扉の先は部屋ではなく、どこかの店の中に繋がっている。

 小夜は扉のドアノブを持ったまま自分の周りを見るが、横や後ろは無機質な隔離棟の白い廊下だ。ということは本当に、この303号室の先が店になっているのだ。

「あら。いらっしゃい」

 と、カウンターの内側に座っている女性がこちらを向いて言った。黒いセーラー服を着た美人だ。学生にしては大人おとなびているという印象を小夜は受ける。

「入るなら入ってちょうだい。寒いわ」

 と、女性が言った。

「……」

 小夜はひとまず銃を下ろしながら、店の中に足を踏み入れた。後ろで扉が閉まる。

「あの、ここは……」

「ここは小さな喫茶店よ。コーヒーを淹れるから、空いてるお席にどうぞ」

 女性はにこやかにそう促す。

「……」

 この女性を脅威きょういではないと判断した小夜は銃の安全装置をかけ、ホルスターの中にしまう。そして店の中を進み、カウンターの前にあるテーブルに席を決めた。椅子を引いて腰かける。

「ここ、隔離棟の中ですよね? 他の部屋もこうなっているんですか?」

「まさか。おかしなのはここだけよ。他の部屋は普通だわ」

 と、二つのマグカップを用意しながら女性が返す。そんな女性の横では火にかけられたコーヒーポットがカタカタと揺れている。

「あなたもしかして、ここに入ったことがないの? 初めて見る顔だけど」

「ええ、そうですね……隔離棟には初めて入りました」

 店の中を見回しながら小夜は言う。隔離棟どころか棟の中にすら入ったことがない小夜には、何もかもが初めてだった。こんな所があるなんてことも知らなかった。

 女性が言った通り、ここは喫茶店のようだった。出入り口の近くには年代を感じさせるレジ台と蓄音機なんかもある。どこかレトロ調ちょうな雰囲気を感じさせる店だ。

 女性は火を止め、用意したマグカップに沸かしたお湯を入れる。

「はい、どうぞ。れたてで熱いから気をつけてね」

「ありがとうございます」

 ことりとマグカップが自分の前に置かれた。小夜は礼を言い、一口飲む。

「それで、かなめくんでしょう?」

 湯気の立つマグカップを持って、小夜の向かいに座りながら女性が言った。

「……要君、ここにいるんですか?」

「ええ、いるわよ」

 女性は頷く。どうやら、あの少年が言っていたことは本当だったらしい。小夜は心の中でほっと息を吐く。あの口の悪い少年にあれだけの金額を渡した価値はあったということだ。

「どこにいるとか……分かりますか?」

「さあ。ここのどこかにはいると思うけれど」

 と、女性は窓の外を見た。小夜もつられてそちらに目を向ける。

 外は昼に近い時間だろう。明るく、太陽が見える。それにしても、大通りには年代を感じさせる車が何台か停まっているだけで歩いている人は一人もいない。路面電車も、止まってはいるが動いている様子はない。なんだか不気味ぶきみな光景だった。

 小夜は、窓の外から店内へと視線をやった。

「……ここ、他の店員さんや他の人はいないんですか?」

「ここには私しかいないわ。今はかなめくんがいるけれど……それ以外の時で動いているのは私だけよ」

 と言って女性は、マグカップを口に運んだ。答えたその声は恐ろしく静かで、平坦だった。

 マグカップをテーブルに置き、女性が言う。

「かなめくんの前に、まずはお互い自己紹介でもしましょうか。ここに来たのは初めてでしょう?」

「は、はい。そうですね。自己紹介が遅れてすみません。異能力事件専門捜査室所属、泉小路小夜です」

 小夜は慌てて名乗り、軽く頭を下げる。

「泉小路って言ったら、室長さんと同じ名字じゃない」

「はい。室長は父です。区別するために名前で呼んでいただけると助かります」

「そう。なら小夜ちゃんって呼ばせてもらうわね。ふふ、これでお友達が増えたわ。よろしくね、小夜ちゃん」

 女性は微笑みかける。ミステリアスな雰囲気を纏わせた、優しい笑顔だ。

「じゃあ次は私の番ね」

 ごほん、とわざとらしく咳払いをして、女性が自己紹介をする。

「隔離棟303号室の榎宮咲子よ。みんなからは『魔女』なんて呼ばれているわ。だから私を呼ぶ時は、大きな声で『魔女っ子☆サキちゃん』って呼んでちょうだいねっ!」

 そう言って女性……榎宮咲子は、女児向じょじむけアニメのキャラクターよろしくポーズを決めた。

「……」

 小夜はどう返していいか分からず、無言のまま固まってしまう。

 ポーズを決めたままの咲子と、そんな彼女の正面に座っている小夜。二人の間に微妙びみょうな空気が流れる。

「……榎宮咲子よ。よろしくね」

「あ、はい……よろしくお願いします」

 何事もなかったかのように、咲子は改めて簡潔に名乗った。

「それで、かなめくんね。いそうな場所は知っているけど、教えてほしい?」

「はい。教えてください」

「いいわよ。でも、ただ教えてあげるだけっていうのは、ちょっとつまらないじゃない?」

「はあ……」

 急に何を言い出すのだろうと、小夜は思った。

「私ね、勝負が大好きなの。だから、私に勝てたら、かなめくんがどこにいるか教えてあげてもいいわよ」

「……あの、何の話でしょうか」

 小夜が聞き返す。小夜は、あの言葉を察してすらいない。

「分からない? なら言ってあげるわ。私と一つ、賭けでもしない?」

「賭け、ですか……?」

 小夜が聞き返してきたことに、咲子の目がぴくりと反応した。

「……なるほどね」

 そしてぼそりと呟いた。

「あなた、彼にとっても信頼しんらいされているのね」

 咲子は柔らかく微笑みかけた。おもわぬかたちめられて、小夜は少しうれしくなる。ここに来たのは間違っていなかった。彼のメッセージを聞いて行動を起こしたのは、選択として合っていた。よかった、私、間違ってなかったんだ。小夜は、褒められて舞い上がる心を必死にさとられないようにする。

 あの嘘つきに振り回されてばかりだったが、なんだかんだ彼は私のことを信頼しんらいしていたんだ。小夜はそう思う。私にメッセージを残すほどに。私だけに……あんなメッセージを残すほどに。

「かなめくんはね、私と賭けをしている最中さいちゅうなの」

 と、咲子は言った。

「賭け……それでもしや、要君、負けたりしましたか?」

「ええそうよ。六月十五日にチェスを十五回ほどして、私が全部勝ったわね」

 録音メッセージに入っていた日付と一致する。ということは、彼はこの人に負けたのか。しかしさらに引っかかる点がある。

「六月十五日というと……一か月も前の日付ですよね。今日は確か、七月十七日だと思いますが……」

「いいえ。『今日』は六月よ。合ってるわ」

 咲子は言った。小夜にはどういうことか分からない。

「それを聞くっていうことは、私のこともこの世界のことも、何も知らないまま一人でここへ来たのね。とても勇気のある行動だわ。びっくりよ」

「それは、いったいどういう……」

「ねえ小夜ちゃん。トロッコ問題って知ってる?」

「い、いえ……」

 突然そんなことを聞かれて、小夜は首を横に振る。何の脈略もない質問だった。咲子は説明し始める。

「二つの線路の先に五人の人間と一人の人間がいて、今まさに列車がどちらかに突っ込もうとしている。あなたは分岐器を動かして、五人と一人どっちを助けるかっていう選択の問題よ。どちらを選んでも必ず一人は死ぬ。だから五人と一人、どっちの命を犠牲にするかっていうやつね。

 かなめくんと私がしている賭けは、そのトロッコ問題を元にしている勝負よ。この世界にいるもう一人を殺すことができたら、ここから出してあげるって言ったわ」

「そんな……」

 さらりと言った咲子に、小夜は言葉を失う。

「そんな賭け、どうして要君は……」

「私たちはそういうものよ。それが勝負なら断れない。だから別におかしなことなんてないわ」

「……」

 彼女の言っていることは分かる。能力者と呼ばれる人たちは全員そうだ。なぜか賭けに惹かれ、拒めない。それがどんなに理不尽で勝ち目のない勝負であろうとも、賭けをしないかと誘われてしまったら、彼らは断ることができないのだ。

 小夜の頭に浮かぶのは、一月前ひとつきまえのこと。あの男と、事務所にいた能力者との対峙たいじ。けれど彼が今しているというそんな内容の勝負は、あまりにも……。

「そんな賭け、間違ってます。誰かの命を犠牲に自分が助かるなんて……」

「じゃあ、そんな勝負をしているかなめくんを無視して、あなただけ帰ればいいじゃない。今ならまだ、あの扉から戻れるわよ」

 咲子が店の扉を指さす。小夜は首を後ろに向け、入ってきた扉を見る。

「……」

 けれどここで帰ってしまったら、何のためにここまで来たのか分からない。盗んできた一発の弾丸は、何のためにこの銃に込めてきたのか。

「そんな賭け……きっと他の方法があるはずです」

 顔を前に戻し、うつむいて小夜は言う。

「他の方法って?」

 咲子が聞いてくる。うつむいたまま、小夜は答える。

「分かりませんが、きっと他の方法があるはずです。殺すとかじゃなくて、賭けを終わらせる方法が……」

「そんなのないわ。私たちはそれが勝負なら断れないの。知っているでしょう?」

「それでもきっと、何かあるはずです。誰かの命を犠牲にするのではなく、ここから出る方法が」

「ないわ。そんな方法」

 と、咲子は静かに言い切った。

「……残念だけど。そんな方法はここにはないわ。その賭けを終わらせない限り、ここからは出られないわ」

 そう言ってもう一度、咲子は窓の外を見た。その目は景色を見ているようでいて、その奥の何かを見ているようだった。彼女が何を見ているのか、小夜には分からない。

 咲子は顔を前に戻し、小夜に言う。

「そんなに誰かの死体を見たくないっていうのなら、やってみなさい」

「え?」

「賭けをしましょうよ、小夜ちゃん。

 あなたは誰も死なせずに、殺させずに、この賭けを終わらせたい。でも、かなめくんはここから出るために一人の人間をぶち殺したい。

 あなたがそんな彼を止めて全員助けることができたら、二人ともここから出してあげる。あなたが嫌になったらそっちの負け。どうかしら。

 何度か繰り返していればいつか……奇跡なんてものが起こるかもしれないわよ。いつか気まぐれな神様が、いつか気まぐれに、奇跡を起こしてくれるかもしれないわよ」

 咲子は静かに言う。微笑みを浮かばせているようで平坦な、不思議な表情だった。

「この賭けを受けるか断るかは、あなた次第よ。あなたには『断る』という選択肢もあるんだから」

 咲子はマグカップを傾ける。小夜はもう一度首を後ろに向け、入ってきた扉を見やった。

「……」

 扉を数秒見つめ、顔を前に戻した小夜は、

「分かりました。その賭け、受けます」

 咲子の提案した勝負に、強く頷いた。

「そう。本当にいいのね」

「はい。ここまで聞いて、なおさら一人で帰るわけにはいきません。私は捜査官ですから」

「だから、ここにいる全員を助けようとするの?」

「はい。きっと全員、助けられるはずです」

「そう……」

 咲子は、空気の漏れのような返事をした。

「いいんじゃないかしら。あなたがそう思うなら。やってみればいいわ」

 と言って咲子は、店の裏口の扉を目で差した。

「彼を止めるつもりなら、急いだほうがいいかもね。彼、私の位置や心は読めないけれど、もう一人が今どこにいるのかは簡単に分かるはずだから。早くしないと、彼が先に私との賭けを終わらせちゃうわよ」

 咲子の言葉に、小夜は急いでカップに残ったコーヒーを飲み干し、ガタガタと椅子から立ち上がる。

「そこの扉を開けると裏口に出るわ。足跡が残っているだろうから、それを追えば会えるでしょう」

 小夜は言われた扉へ向かい、ドアノブを回した。隙間から外を見てみるが、やはりさっき見た光景と同じで、ここでも誰一人として咲子以外に人の姿は見当たらない。

「それともう一つ。かなめくんが殺そうとしている人……ここにいるもう一人の人間は、六月十五日になったら必ず死ぬわ。助けたいのなら、その日付にも注意することね。今日が何日かはかなめくんに聞きなさい」

「分かりました。ありがとうございます」

 小夜は礼を言って、店を出る。裏口の扉が閉まった時、くすりと咲子は小さく笑った。

「敵に礼を言う馬鹿はいないわよ。そういうなら……敵にアドバイスをする馬鹿もいないかしら」

 一人でそう言うと、咲子はカップを口に運ぶ。一口飲んで、ため息を吐くようにこう呟いた。

「……あの嘘つきもひどいことをするわ。よりにもよって『賭け』に左右さゆうされない一般人を呼ぶなんてね……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る