【魔女の世界――交差する賭け、選ぶべきもの】②

「……ん」

 京谷要は、目を開けた。どうやら、少しの間眠りに落ちてしまっていたらしい。寄りかかっていた柵から体を起こす。

 要はとある二階建て木造もくぞうアパート……その外階段の一番下に座っていた。アパートの壁はところどころがひび割れ、階段部分にもさびが浮いている。てられてから、軽く三十年は過ぎているだろう。

「……」

 見ていたのは昔の夢だ。自分がまだ制服を着て学校に通っていた頃。自分がまだ……こうなる前の記憶。結局あの猫は、どうしたのだったか。

「……」

 いや、今はそんな過去より……現実だ。要は顔を上げる。周りを見渡して、

「……ああ、そっか」

 と、自分が今いる場所を再確認した。要の姿が、ジジ、ジジジ、と激しくぶれる。激しくぶれたあと、ノイズは安定するようにおさまっていき、やがて完全に消えた。

 要は立ち上がりざま、横に立てかけてあった散弾銃を手に取った。そして銃に異常がないかを手際よく確かめていく。腰のポーチを開けた時、要はため息をついた。

「ナイフ……取られたな」

 ポーチの中には予備の弾や、簡単な傷の手当てができる道具が入っている。散弾銃が使えなくなった時にそなえてシースに入ったナイフも入れておいたのだが、それはいくら探しても見当たらなかった。

「……」

 もう一度深いため息を吐き出す。ナイフは他の道具に隠すようにしてポーチの一番下に入れておいたのだ。自分が落としたとは考えにくい。ということは、あの『魔女』だ。何度目かの「今日」か、自分が干渉できない間に取られたのだろう。要はポーチのチャックを閉めた。

 なくなった物は仕方がない。要は意識を切り替える。振り返って、階段を上がっていく。

 あの『魔女』とした賭け……この世界にいるもう一人を殺すことは、このアパートの303号室に行けば終わる。そこに行って中にいる人間を殺せば、それで終わりだ。

 と、要が階段の半分あたりまで上った時。

「……か、要君」

 後ろから聞きなれた声が聞こえた。要は顔だけを向けて振り向く。そこにはいつかと同じく、異能力事件専門捜査室の捜査官、泉小路小夜が膝に手をついて息を切らせていた。

「小夜ちゃん?」

 ここにいるはずのない人間の出現に、要は目を見開く。本当に驚いていた。

「……なんで、ここにいるの?」

 体を向け直しながら、要が聞く。彼の姿がジジジ、と大きくぶれる。

「それはこっちの台詞せりふです! あなたね、いい加減にしてくださいよ。訳の分からないメッセージを残すぐらいなら、どこにいるかって場所も言っておいてくださいよ!」

 こちらに歩み寄りながら、小夜はいきなりそんな言葉を要にぶつけた。要にはなんのことか一切分からない。

「……は? あのさ、何の話……?」

「まったくもう! ここにいるならそうだって、最初から言っておいてくださいよ! そうしたら、私だって最短距離でここに来られたのに!」

 小夜は一人でぷんすか怒っている。

「ちょっと待ってよ、本当になんの話?」

 要は問い返す。本当になんのことか分からないし、そんな覚えもない。

「とぼける気ですか? そこまでいくと、もう俳優にでもなったらどうですかね。しらじらしい嘘も、そこまでいくとイライラしてきますよ」

「嘘? 嘘なんかついてない。“僕がついてる嘘は”――」

 要の声が、ザザというノイズを挟んで切り替わった。成人男性にしては少し高くて柔らかい声が、十代の少年のような声になる。

 要ははっとして、慌てて自分の喉を押さえる。

「“ちょっと、待っ”――待ってよ。ねえ、本当に何の話……?」

 ザザ、というノイズを挟んで声が戻る。戻った声は、いつもの『京谷要』のものだった。

「あなたが私を呼んだんでしょう? 『負けた』って……」

「なにそれ……。僕が……?」

 意味が分からない。要は眉をひそめる。負けたにしても「いつ」負けたのか。それをなぜ彼女に報告するのか。負けたことをわざわざ彼女に報告する理由などない。

「……あなたがここにいることは、アカリ君に聞きました。だから私はここに来たんです」

「……確かに僕はここに来る前、アカリ君にも会ったよ。でも、なんで小夜ちゃんを……」

「それはこっちの台詞せりふですよ。どうして私を……」

 話が噛み合っていないことを察した二人は、黙った。沈黙が、要と小夜の間を流れる。

「……」

 要は一つ、息を吐いた。小夜に意識を集中させる。

「……ちょっと見るね。見たほうが早い」

「え?」

 小夜が聞き返す。その声を無視し、要は軽く目を閉じる。自身の対価を小夜に向け、要は小夜の記憶の中に飛び込んだ。

 頭の中に彼女の記憶と、その時に思った感情が流れ込んでくる。その波にのまれないよう自我じがたもちながら、要は必要な情報だけを選別せんべつしていく。

『……え? うそ……』

『あら。いらっしゃい。入るなら入ってちょうだい。寒いわ』

 これはここに来た時だ。見たいのはこれじゃない。要はさらに小夜の記憶をさかのぼっていく。

『これ、確実に私だってバレたら殺されちゃうよね……』

 彼女の視点で要は物を見ている。廊下を歩いている小夜の手には、バールが握られている。

 小夜は捜査室の扉を開け、机が固まって置かれている横を通り過ぎ、一つだけ置かれている机のほうへとまっすぐに向かっていく。その机はここの室長のデスクだ。小夜はその内側に回り込んで足を止め、バールの先端を二番目の引き出しの隙間に引っかけた。

『誰か来る前に急がなきゃ……よいしょ!』

 バキ、という音と共に、てこの原理げんりで引き出しが破壊された。バールを床に置いた小夜は壊した引き出しの中からストラップケースに入ったカードを取り出した。それを上着のポケットに突っ込む。

 そこで要は、ズキリと刺すような頭痛を感じた。しかし求めていた情報にはまだ辿り着けていない。痛みをこらえながら、要は小夜の記憶へもう少し深くもぐっていく。

『……なんだいたのか。チビだから見えなかった』

 目の前に立つ長身の男が小夜に言う。小夜の視点になって彼女の記憶を追体験ついたいけんしている要には、その男はまるで大きな壁のように見えた。男の身長は百八十五センチ以上はあるだろう。その男を見上げながら、またこの人かと小夜は思っている。首が痛いから早くどこかへ行ってくれないかなとも思っている。よく見ると、男の後ろにはアカリもいた。

 これは彼女が机を破壊する三十分ほど前の出来事だ。目の前に立つその男の情報が、小夜の記憶と共に頭の中へ流れ込んでくる。その男がその時何を思ったか、何をしてからここに来たのか。それらも頭に流れ込んでくる。

 一気に増えた情報量に、頭痛が激しくなるのを要は感じた。脳の情報処理能力が追いつかなくなってきているのだ。そろそろ他人の記憶から出なければ、流れ込んできたそれらに飲み込まれ、動けなくなってしまう。

『あ、そうだ。隔離棟の京谷要って、最近見かけましたか?』

『見てないのだ。要はしばらくお休みなのだ』

『そうですか……』

 また違う人物が増える。その人物の名前、身長、基本的なプロフィールから、その時に何を思ったか、死者ならどんな死因か。どういう風な最期さいごを迎えたのか。本名を知られていない相手ならば、『知りすぎてしまう』対価は問答もんどう無用むようでそれらを頭の中に流し込んでくる。

 要は耐え切れず、そこで小夜の記憶から出た。思ったよりも雑音ざつおんが多く、探そうとした、小夜がなぜここに来たかの記憶には辿りつけなかった。

 目を開けた要は、少しよろける。倒れそうになる直前、階段の手すりに掴まってなんとか体を支える。

「だ、大丈夫ですか?」

「……」

 小夜の声に、要は小さく何度も頷いた。階段を上がって近寄ってくる小夜を、大丈夫だから、という風に手でせいする。他人の記憶に一気に潜りすぎた。足がふらつき、脳がズキズキと痛む。

 ジジジ、とノイズを纏わせて『京谷要』としての姿を維持いじし、頭痛と吐き気と眩暈めまいを抑えながら、要は考える。

 さっき彼女は、「あなたが私を呼んだ」と言った。自分にはそんな記憶はない。『記憶が消える』という対価も考えたが、そもそも咲子さんには本名を知られているから『嘘』の能力も効かない。

 それに彼女が言っていた『負けた』ということ。つまり自分は……この世界の「いつか」で咲子さんに負け、小夜ちゃんをここに呼んだってことか。それなら納得はできるけど……小夜ちゃんを呼んでも、あの人には絶対に――

「……本当に、何のことか分からないんですか?」

 小夜が聞いてきた。要は考え事から意識を現実に戻し、作った声で答える。

「そうだよ。何のことか分からない」

 深呼吸して脳の回復を待った要が、小夜に言う。

「……簡単にでいいから、ここに来るまでを教えてくれる?」

 小夜は戸惑とまどいながらも頷き、話し始めた。

「六月十五日の日付で、あなたからの録音メッセージが入っていたんです。それを聞いてまず事情を知っていそうな東條さんに聞き、アカリ君が知っていると教えられました」

「なるほどね……。メッセージにはなんて?」

「賭け……いえ、『負けた』というほかに、『僕は君が来るほうに賭ける』と」

「そう……」

 彼女の頭の中と言葉は一致いっちしている。嘘ではない。要は冷静に話を聞きながら、小夜の言葉が嘘かどうかと、それを裏付うらづける証拠を対価で探っていた。小夜が言おうとした先を察し、メッセージは最後のあたりだけを読み取った。

「……まさかそれだけで、ここに来たんじゃないよね?」

 小夜から話を聞いた要は、その一言を投げかけた。小夜は黙り込む。

「それが嘘やわなだって考えなかったの? 僕がどんな人に負けたのかも、どんな場所にいるのかも分かんないのに、そのまま一人でここに来たんじゃないよね?」

「……」

 小夜は答えられない。彼の言った通りだった。自分は彼がここにいると聞き、受付で303号室にいる人物の名前を聞き、そのままここに来たのだ。改めて振り返ると、小夜は自分が集めた情報がなんともうすっぺらいことに気がついた。再会して早々そうそう、要から心に刺さる言葉を言われ、小夜は落ち込む。

「なんで、来たの?」

 要が黒い目を向けて、小夜に問いかけた。その目は冷たい。まるで邪魔者を見るような視線だ。

「私はただ、あなたが助けを求めていると思って……」

「違う。なんで、それを信じたの?」

「……」

「なんでその時だけ、僕の言葉を信じたの? それを聞いてるんだよ」

「……」

 そう聞かれても、小夜は黙ってしまう。要は小夜に向けて続ける。

「……ねえ小夜ちゃん。君はずっと僕のことを『嘘つきだ』って疑っていたでしょう? 君が僕のことをどう思おうが、僕を疑おうが、それは別にどうでもいい。疑われるのは慣れてるし、しょうがないとも思ってるからね。でもさ、これは違うんじゃない?」

「……」

「君はさんざん僕を疑っていた。でも、そんな訳も分からないメッセージが自分あてに来たからって、小夜ちゃんはそれをあっさり信じたんだ。嘘や罠の可能性なんてちっとも考えずに。『嘘はつかない』って約束したから正直に言おう。そのことに、僕はちょっとだけ怒ってる。

 それに君が来たことで僕のやるべきことが増えたし、僕らがいる状況はより最悪になった」

 ジジ……と要の姿がぶれる。自分が来たことで、『見せている姿』と『聞かせている声』を調整させなくてはいけなくなったと、小夜は彼に言われなくても理解する。

「僕を疑っていたのなら、僕のことは『ただの嘘つき』って思っていてほしかった。僕のことが『分からない』と思っていたのなら、そのメッセージを無視したらよかったんだ。僕のことを信じているのなら……いや、それはないか」

 要は一人で言い、首を振って自分が言ったことを否定する。

「……」

 小夜は思う。そうだ。自分はこの男のことを最初から疑っていた。嘘しか言わない嘘つきだと、そう思っていた。出会った最初から、こうして彼が目の前に立っている今も……彼が「また嘘を言っているんじゃないか」と心のどこかで思っている。あのメッセージも彼の嘘で、自分は彼のいたずらに付き合わされているのではないかと。

 要から指摘してきされ、小夜はすっかり自信を失いかける。自分の選択は間違っていたのか、ここに来ることを決めたのは間違いだったのか。小夜は自分が決めたことに対し、揺らぎ始める。

「無視する選択もあったはずだ。どうしてそれをしなかったの?」

「それは、あなたが私にメッセージを残したから……」

「だからって、散々さんざん疑っていた人間をあっさり信じたの? じゃあ今も、僕のことを『嘘つきだ』って思ってるんだよね?」

「……」

 小夜は黙り込み、下を向く。返す言葉が、出なくなる。彼のことをまだ「嘘つきだ」と思っている自分がいる。ならば自分はなぜ、ここに来たのか。

「……ま、いいけどさ。君にどう思われようが」

 そう言って要は頭をがりがり掻き、ため息を吐き出した。

「……仕方ない。咲子さんに小夜ちゃんだけでも帰してもらえるよう頼んでみるよ。その前に教えて。小夜ちゃんがここに来た日って、いつ?」

 要が聞いた。小夜は顔をあげながら答える。

「……七月十七日です。ここへ来たのは、つい一時間ぐらい前ですね」

「七月十七日か……。僕が来た二日後だね」

「ということはあなた、七月十五日にここへ来ていたんですか?」

「そうだよ。その日付はここへ来る前、携帯で確認したから確かなことだ」

 要は言う。だから今日の朝出勤してこなかったのかと、小夜は納得した。それにしても、二日前からいなかったのか。知らなかったし、気づかなかった。

「私にも、言ってくれたらよかったのに……」

 は、と要が馬鹿にするように笑った。

「馬鹿言わないでよ。なんで自分を疑っている人に、わざわざ『今日からしばらく出かけるね』って言わなきゃいけないんだよ。そもそも僕は室長さんの命令でここに来たし……いや、なんでもない。小夜ちゃんには関係ないよ。君が僕を追いかけてここへ来るのは、予想外だったけど」

「……」

「ただ……今日が何度目の『今日』なのかは分からないんだよね」

「何度目の?」

 小夜は尋ねるが、要はそれを無視した。小夜に背中を向けて、残りの階段を上がっていく。

「ひとまず、咲子さんとの賭けを終わらせなくちゃいけない。話はそれからだ。そのあとになんとか小夜ちゃんだけでも帰してもらえるよう言ってみるから、余計なことはしないでね」

 またその言葉だ。彼にもなぜそう言われたのか、小夜には分からない。

「余計なことはしないでって、そういうわけにはいきません。私はあなたを止めに来ました。今すぐ、咲子さんとの勝負をやめてください」

「それは無理だよ。一度受けちゃった勝負は、勝ち負けが決まるまで終われない。勝利条件か敗北条件が満たされない限り、一度受けた賭けは続くんだ」

 背中越しに要が言う。小夜も階段を上り、彼のあとを追いかける。

「そう言うってことは、僕がどんな賭けをしているのか、あの人から聞いたんだよね」

「そ、それは……」

「僕にかくごとはできないと思っておいたほうがいいよ。言わないなら勝手に頭の中を見るから」

 階段を上りきった要が、顔を後ろに向けて言い放つ。

「……」

 この男が他人の頭を覗けるのが嘘ではないということは、先月で分かっている。小夜は少し考えてから、素直に白状はくじょうした。

「咲子さんとは……ここにいるもう一人を殺そうとしているあなたを止めて、ここにいる全員を助けられるか、という賭けをしています。私が勝ったら、あなたが咲子さんから取り返しに来た物も渡してくれて、私とあなたをここから出すと言われました」

「……それ、本気で言ってるの? そんな勝負、本当に受けたの?」

 目を丸くさせた要が聞いた。小夜は頷く。

「……ちょっと、嘘でしょ……」

 要は額を押さえてため息をつき、信じられないとばかりに首を横に振った。

「本気でそんな勝負を受けたの? 僕らだったらまだ分かるよ。けど、君は断れるでしょう? ちょっと待ってよ、ほんとにそんな勝負……」

 顔はもう一度首を横に振る。心底呆れ果てた、というような反応だ。

「ここがどういう世界か分かってるの? あの人がどんな能力を持ってるか、東條さんやアカリ君に聞いてきた?」

「……」

「聞いてないでしょう? 聞いてたら、こんな馬鹿なことはしないはずだもんね」

 要が呆れる。なぜ彼がこんなにも呆れているのか、なぜ自分はこんなにも呆れられているのか、小夜には分からない。

「ねえ、僕がなんでこの銃を持ってここに来たか、知ってる?」

「誰かを殺すためですか。その前に、私があなたを止めますから」

「違う。違うよ。そうじゃない。どう言えばいいかな……」

 言いながら、要は歩き出した。五歩ほど進んだ先で足を止める。

「見て、小夜ちゃん」

 振り向いた要が言う。階段を上りきった先にいる小夜は、言われた通りそこに目を向ける。見ろと言われた先には、『303』と書かれた木製の扉がある。

「この扉の向こう……303号室の中に、咲子さん以外にこの世界で動く『もう一人』がいる。その人間を殺すことが、僕と咲子さんの賭け」

「そんなこと、絶対に……」

「止めるって? まあ、聞いて。お願いだから」

 要は静かに、話し始めた。

「僕がここに来たのは七月十五日。その二日後……つまり『今日』、七月十七日の一時間前、君はあの隔離棟の廊下から、変わらない日常のままここへ来たと思ってる。そうだよね?」

 要はまるで、子供にやさしく言い聞かせるように丁寧に噛み砕いて説明していく。小夜は頷き、要が続ける。

「でもね、ここはあの廊下と……つまり僕たちが普段暮らしている世界とは大きく時間がズレているんだ。

 この世界は確かに隔離棟の廊下と繋がってはいるけど、そうじゃない。今、僕らと咲子さんがいるここは……昭和五十六年、一九八一年の世界なんだよ。そして『今日』は、君が来た七月十七日じゃなくて、六月十五日だ。これはさっき、咲子さんが教えてくれた。あの人は日付のことでは嘘はつかないからね。

 風景やこのアパート、咲子さんがいたあの喫茶店だって、ちょっと古かったでしょう?」

 思い当たることがあり、要の言葉を聞いた小夜の顔が、だんだん青ざめていく。いつになく真剣な顔で、要はさらにこう続ける。

「それで咲子さんの持つ能力は……『死ぬたびに時間を巻き戻す』ことだ。そしてその対価が、『繰り返す世界から抜け出せない』こと。あの人は対価でここから出られないけど、『賭け』を使ってここに人をさそったり、入ってきた人を閉じ込めることができるんだ。だから咲子さんは、過去に戻れる能力から『永遠の魔女』なんて呼ばれてる。

 あの人は死んだ瞬間に能力が発動して時間を巻き戻せるけど、僕たちはそうじゃない。あの人が死ぬと、僕らは『今日』に取り残されたままになるんだ。そこから出るためには、僕たちは自分の意思で死ななきゃいけない。この意味が、分かるかな」

「……」

 要が言ったことに、小夜は息をむ。

「あの人は殺せないんだ。だから僕たちがこの世界から出るためには、あの人を殺さずに、あの人に勝つしかないんだよ。

 でも僕は、昔、咲子さんに負けて本名も知られちゃってる。それに僕は、あの人に賭けって言われたら断れない。僕がここから出る方法は、咲子さんとの賭けを終わらせるしかないんだよ。

 分かるかな、小夜ちゃん。ここは僕らがいる時代より四十年も前の世界だ。僕たちがここから出るためには、あの人との賭けを終わらせること……つまり確実に、咲子さん以外に動いている『もう一人』を殺して、あの人に勝たなきゃいけない。それしかないんだよ」

 要が言いきる。小夜は、自分が意気揚々いきようようとどんな世界に来てしまったのか、今さらながら理解した。


 その頃咲子は、誰もいない商店街の真ん中を一人、歩いていた。

 彼女の両脇にある店は、それぞれシャッターがいて品物が外に出ているが、呼び込みをする店員や品物を見る客などは一人もいない。

 そんな店の前を、咲子は特に気にする様子もなく通り過ぎていく。彼女の履いている黒いスカートが、歩くたびに小さく揺れる。

「今日もいつも通りね。いつもと同じ日だわ」

 魚屋の前を通り過ぎながら、咲子はそんなことを言った。氷を敷き詰めた発砲スチロールの上には、新鮮な魚が置かれて売られている。

 八百屋の前を通り過ぎる。袋詰めされた野菜たちが、棚に置かれて売られている。この店にも店員はいない。品物しか置いていない店は、まるで無人販売所のようである。

『裾上げ 洋服のお直し 本日に出すと3日後の6月18日に仕上がります』

 その隣にある、クリーニング店の看板の前を通り過ぎる。

 ふと、咲子は足を止めて壁を見た。彼女の視線の先には、花火の写真がでかでかとプリントされたポスターが貼られている。ポスターの下のほうにはこう書かれている。

『商店街夏祭り 開催日 1981年 7月20日』

 そのポスターを見つめる咲子の頭に、とある記憶が思い起こされた。


『夏祭りだって、咲ちゃん。来月になったら行ってみようか』

『そうね、あきひとさん。去年買った浴衣がそのままだから、それを着ていきましょうよ』

『うん、そうだね。そうしよう。久しぶりのデートだね』

『ええ。そうね』


「……ふ」

 と、咲子は口角を吊り上げ、かすかに笑った。結局そのデートの日を二人が迎えることはなかったし、これから先もきっとない。これを思い出すのは何度目だっただろう。咲子は思う。

 咲子はポスターから目を離すと、再び歩き出した。

「あの二人の賭けは、今日で終わるかしらね」

 と、歩きながら一人で言ってみる。彼女にこたえる声は何もない。

「たった一人の人間を殺すだけじゃない。それだけよ」

 と、咲子は一人でしゃべり続ける。何の声も返ってこない。

「ちょっと考えれば、誰にでも分かるのにね」

 咲子は呟く。その声には、何の感情も混じっていない。

 しゃべるのをやめた咲子は、一人、商店街の出口に向かって歩いていく。彼女の足音だけが、空っぽの商店街に響いていた。

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