【少女の正義】②

「……」

 女子トイレの洗面台に手をかけ、小夜はため息をつく。正面の鏡には、濡れた顔でうつむく自分が映っている。

 小夜はもう一度ため息をついた。持ってきたハンカチで顔をき、鏡を見つめる。ひどい顔だ。まるでお化け屋敷から出てきた直後の客のように、青白く、引きつっている。上司が顔を洗ってこいというのも無理はない。

 小夜は蛇口をひねって水を出し、もう一度顔を洗う。冷水が少しみるが、蛇口を閉めて鏡を見ると、幾分いくぶんかはマシな顔色になった。

「……まんいちそなえ、危険だと判断した能力者を無力化むりょくかさせるため……」

 鏡を見つめ、小夜は呟く。頭ではその理屈りくつは分かっている。その行動が必要なことだということも。だが、小夜の心にその言葉は重くのしかかっていた。

「……」

 ジャケットのボタンを外し、脇に提げているホルスターから支給しきゅうされているハンドガンを抜く。マガジンに入っているのは八発の弾。室長と現場に出る捜査官たちは普段からこの倍の弾丸をマガジンに装填し、持ち歩いている。一発でも当てれば人を殺せる道具を、彼らは普段から装備しているのだ。

 銃はずしりと重く、持っているだけで右手が痺れる。それにこの道具は自分の手にはあまっていた。

「……」

 自分がほんのわずか人差し指に力を入れただけで、相手の命を奪える。モデルガンなどとは比べ物にならないほど簡単に。たった数グラムの弾丸で、相手を絶命ぜつめいさせることができる。

 そんな道具を現場に出る捜査官たちは軽々かるがると扱い、相手に向けて構え、流れるように引き金を引いているのだろう。上司が言っていた「その時」に。

『その時に引き金を引けるか、その判断ができるか、その覚悟があるかだ』

 上司に言われたことを思い返す。どういう意味なのかは、よく分からない。

 覚悟とは、なんだろう。小夜は考える。そんなことを考える前に話し合えばいいのに、と小夜は思う。


 昔、捜査室に来たばかりの頃。銃を使う時が来るんですかと、上司である父と先輩の流鏑馬君に聞いたことがあった。

「銃を使うのであれば非致死性ひちしせいのゴムだんのほうがいいと思いますが……。それならば死人も出ずに済みますし、鎮圧ちんあつも可能です」

 そう言うと二人は「今の聞いたか?」とでも言うようにお互い顔を見合わせ、次の瞬間、二人同時に吹き出した。

 下を向き、肩を震わせて笑っている桃太郎の代わりに、照良が答える。

「あのなあ小夜ちゃん、そういう台詞せりふは、最低でも一人を殺せるようになってから言うもんだぜえ。何もしてねえどころか銃の重さも知らねえ奴が、最初からえらそうなこと言うんじゃねえ。そう言うならまず、敵の手足でも吹っ飛ばしてからだなあ」

「……」

「確かに、殺さずに済むならそれにしたことはねえ。だけど、銃を向けるってことには変わらねえんだ。分かるか?」

「分かりません」

 小夜は即答する。桃太郎が吹きだし、照良が困ったように頭をがしがし掻く。

殺傷力さっしょうりょくのある弾丸とゴム弾は全然違うと思います。無力化するならばそちらのほうがいいと思います」

「あのな、それでもたりどころが悪けりゃ死ぬんだぞ。分かってんのか?」

「それは……銃を持つ人の技術がないだけで……」

「おいおい。下手糞へたくそは銃を使うなって言うのかよ。俺たちに丸腰で行けってかあ」

「そ、そういうことは言ってません」

「じゃあたとえば、相手が一般人の子供でも人質に取っていた時、お前は相手の頭や心臓じゃなく、そのゴム弾とやらで相手の腕を狙うのか? それとも足か? それとも銃を捨てて『やめましょう』とか言うつもりか?」

「はい。そのつもりです」

 照良の横にいる桃太郎が、小夜の言葉にまた吹き出した。

「室長、俺たち全員殺されますよ、この新人に」

 桃太郎が照良に冗談を言う。その冗談の意味は、小夜には分からない。

「つまりお前は、仲間の誰かが死ぬ状況でも銃を抜かねえって言うのか? 仲間が死んでも、話し合いで解決したらそれで終わりにするのか? おいおい、死んだ奴はぞんだなあ」

「……そういうわけではありません。ただ、話し合いで解決できることはそれで解決したほうがいいと……」

「人を殺せる道具を持ってんのに、か?」

「……」

「あのな、お前に支給したそれはおもちゃじゃねえんだ。それなのにお前は『話し合いで解決しましょう』なんて言いやがる。その意味を分からずにな」

「……銃を使うのは最終手段でしょう? 自分の身を守る道具として支給されていると聞きましたが」

「ああ、そうだ。自分の身を守る。死なないために、殺されないためにな。分かるか?」

 照良はジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本取り出す。

「……分かりません」

「だろうな。お前はただの『仕事の道具』として銃を持ってる。俺たちは『生きるため』に銃を持ってる。この違いだよ。銃の重さも知らねえ奴が『全員助ける』なんて言ってやがるんだ。

 誰も殺したくねえなら、まず生きてる人間に銃を向けてから言え」

「……」

 上司としての父を見たのは、その時が初めてだった。普段とは違う顔の父に、思わず小夜は黙り込む。

「一個教えてやる。そういうのは正義や信念しんねんなんて言わねえんだよ。お前が持ってる物はたかが数万円出したらポンと買えるおもちゃじゃねえってことを、もう一度よく考えろ。

 そのままだとお前、そのくだらねえ正義で大勢の人間を巻き込んで全員死なせるぞ。それをやっても、お前は気がつかねえだろうがな」

 照良はくわえていた煙草に火をつける。そして背を向ける。

「いい優しさなんだけどなあ、ここではいらねえ優しさだなあ。素直に育ってくれて喜ぶべきなのか、それとも上司として教育しなおすべきなのか。それとも別の仕事をすすめるべきなのか……複雑だなあ」

 ぶつぶつ言うと、照良はぶらりぶらりと歩いていく。桃太郎も照良の後ろについていき、二人は去って行った。


 そのときのことをふと、小夜は思い出した。父がどうしてあんなことを言ったのか、その言葉の意味は、今も分からない。

「……」

 小夜はもう一度冷たい水で顔を洗い、頬を軽く叩く。蛇口を閉め、ハンカチで顔を拭く。

「……よし」

 鏡に映る自分を見ながら、小夜は気合を入れる。いつまでもくよくよ考えていても仕方がない。まだ今日は始まったばかりだ。落ち込んでいる暇などない。

 気持ちを切り替え、女子トイレから出た小夜は、時間を確認しようとジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。

「ん?」

 と、小夜は画面を見て気がつく。『京谷 要』から着信があったようだ。録音メッセージが一件入っている。しかし、その時間を見て小夜は首をかしげる。

 着信があった日付と時間は『6月15日 19:13』。今日から一か月ほど前の日付だ。しかも夜。これは一体どういうことだろう。念のためスマートフォンを再起動してもみたのだが、要からきたメッセージの時間の表記はそのままだった。

「本体の不具合じゃないなら、ただのいたずら……? まったく、暇な人なんだから」

 小夜は言いながら、彼からのメッセージを人差し指でタップする。機械音声のあと、留守番電話サービスに残された彼の声が再生された。

『ごめん、負けた』

「……は?」

 女子トイレの前に立つ小夜は、思わずそんな声を漏らした。意味が分からない。

『賭けをしよう。僕は……君が来ないほうに賭けるから……。待ってるから。ごめんね……』

 最後に謝罪の言葉で締められ、それでメッセージは終わった。

 小夜は額に手を当ててため息を吐き出した。意味の分からないいたずらだ。暇な人だと、小夜はもう一度思う。

「……」

 しかし、たんなるいたずらで切り捨てるのもなんだか引っ掛かる。小夜はあごに手を当て、その場に突っ立って考え込む。

 こんな幼稚ようちないたずらをするならば、あの男は人を馬鹿にするような態度をとるはずだ。例を言うなら、先月の御門興行事務所……そこにいた能力者と賭けをした時のように。

 そしてもう一つ気になるのは、あの男が真面目に謝罪の言葉を口にしたということだ。あの男が素直に謝るなど滅多めったなことではない。謝るにしても、もっと適当に言うか、流すように言うはずなのに。

 小夜は画面をタップし、もう一度メッセージを再生させた。端末を耳に当ててよく聞いてみると、なんだか申し訳ないというような……苦渋の決断をしたような声に聞こえる。少なくとも、演技にしてはなんだかやりすぎなような気がした。

『……待ってるから。ごめんね』

 二度目に再生した録音が停止する。

「もう……!」

 小夜は耳に当てていた端末を離し、画面に表示されている『京谷 要』の名前をタップして電話をかける。ここで考えているより本人に直接聞いたほうが早い。

 しかしすぐに、『ただいま電話に出ることができません。ご用件の方はメッセージを……』という機械音声が聞こえてきた。小夜は苛立ちを顔に浮かばせてぶつりと電話を切る。

 あの男、どういうつもりだろうか。小夜は額に手を当て、再びうーんと考え込む。こんないたずらをしておいてわざと電話に出ない、という可能性もあるが、それはひとまず置いておこう。

 一番謎なのはメッセージの日付だが、まずは録音されていた内容から考えてみよう。

 負けた、という言葉からして誰かと勝負か何かをしていたのだろうか。あの男が負ける勝負となると……絶対に断れない“賭け”だ。残された彼のメッセージから小夜はそう推測すいそくする。

 それならば言っていた他の内容とも合致がっちするし、あの男が勝負に負けた理由も納得できる。

 だが、問題は「誰に負けた」のかということだ。「待っている」と言っていたが、場所の手がかりがないのでは探しようがない。

 本当に来てほしいのか、それとも来てほしくないのか、相変わらず意味の分からないことをする男だと小夜は思う。小夜はため息をつきながら、スマートフォンをジャケットのポケットにしまった。

「……」

 そしてどうするべきか、その場に突っ立ったまましばし考える。組合にいるあの人ならば知っているかもしれない。その前に、何か知っていそうな人物が一人いる。まずはその人に聞いてみよう。

 しばらく考えていた小夜は、ようやく女子トイレの前から動いた。


「……あの、室長。新しく捜査官になった彼……今朝けさから見ていませんが、どこで何をしているんですか? とっくに仕事が始まる時間をすぎていますよね」

 室長のデスクで椅子に座っている照良に、小夜は言う。照良は、パソコンの画面を見ながら言葉を返した。

「彼って? あれ、新しい捜査官なんか入ったっけ」

「……隔離棟の京谷要ですが。室長が捜査官にしたんでしょう?」

「きょうや……なに? 誰そいつ」

「京谷要です。隔離棟の」

「そんな奴いたっけ」

「先月に、室長が特別捜査官に任命した……」

「あー……ああ、いたなあ、そんな奴。うん。あいつね。覚えてる覚えてる」

 パソコンの画面を見ながら、照良はのんきな返事をする。完全に今思い出したというような反応だ。

「……その彼、今どこで何をしているんですか?」

「うーん……さあな。ま、生きてるだろ」

 他人事のように照良は答える。彼を捜査官と任命した張本人の言い方とは思えない。

 小夜は一つため息をつく。まともに答えてくれないのならば、もう一人を当たってみよう。今から会う人が許可を出してくれれば、したの自分でも居住棟に入れる。

 小夜は自分のデスクに戻り、鞄を肩に引っ掛けながら照良に言う。

「室長」

「ん?」

「今からちょっと組合に行ってきてもいいですか? 少し気になることがあって」

「おう。いいけど、気をつけてな。というか小夜ちゃんだけじゃ入れねえだろ?」

「東條さんに確認を取ってから、居住棟に入れてもらおうかと」

「あ、そう。それならカードがなくても入れるわな。東條さんに会うならついでに面談の日程表渡してきて。あと、ついでに対価の残り時間も聞いてきて」

「分かりました」

「なんかあったら連絡な。忘れんなよ。あと、面談は週明けからだから、それまでに各捜査官、職員への日程表を完成させておくように」

「はい」

 捜査室を出る前に、机の上を整理させておこう。机の上には作業途中の紙の束とホッチキスが散乱さんらんしていた。ひとまずその紙のたばを落ちないようクリップではさみ、『今週まで』と書いた付箋を貼って机の端に寄せる。そのことを忘れないよう、『面談日程表 仕分け 今週日曜まで』と書いた付箋をパソコンの画面にも貼り付ける。

「そうだ。行く前に、ちょっとこれに名前と判子よろしく」

 整頓を終えたと同時、上司から声をかけられた。小夜は鞄を肩に引っ掛けたまま照良のデスクに行き、渡された物に目を向ける。

「これな。俺の名前はもう書いてるから」

 それは一枚の紙だった。小夜はその紙を受け取りながら聞き返す。

「何の書類ですか? 私、自分でサインするような書類はないと思いますが……」

 受け取った紙の真ん中あたりに目やる。言われた通り、すでに上司の名前と判子が押されている。そのまま視線を紙の真ん中から一番上に向けると、そこには『経費使用申請書』と大きく書かれていた。

「経費申請書? 室長、私、経費で落とすようなものは必要ありませんが……」

「理由はもう書いてる。見てみろ」

 小夜は言われるがまま、申請しんせい理由りゆうの所に目を向ける。そこにはこう書かれていた。

『経費使用品とその理由:捜査官、泉小路小夜の大人用オムツ×30枚。理由は現場で漏らしてしまったから。これから先も必要になるかと思います。念のため』

 小夜はその紙を両手で持ち直すと、

「私には必要ありません」

 即座そくざにびりびりに破り捨てた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る