【少女の正義】③

 捜査室がある警視庁を出た小夜は、異能力者登録組合の居住棟を進んでいた。目的地はその先の一軒の家である。

 到着した小夜は家の前で足を止め、まずは壁にかかっている札を見る。そこには、

『起きてます。対価支払い中』

 と書かれている。小夜は胸の上に手を置き、一旦深呼吸をして心臓を落ち着かせる。

「お邪魔します」

 玄関の引き戸を開け、中に向けて挨拶をする。

「東條さん、いらっしゃいますか?」

「ああ、小夜ちゃん。こっちだよ。書斎だ」

 呼びかけると声が返ってきた。小夜は靴を脱ぎ、廊下を進んで書斎へ向かう。

 書斎を覗くと、相変わらず「紳士」という言葉がぴったりの男性が車椅子に座っていた。

「おはようございます、東條さん」

「うん。おはよう、小夜ちゃん」

 男性……東條要一がにこやかに挨拶を返す。

「居住棟に入る許可を下さり、ありがとうございます。私だけではここに入れないので大変助かりました」

「いやいや。助けを必要としている人を助けるのは、当たり前のことだよ」

 東條は謙遜けんそんする。

 本来捜査官が隔離棟や居住棟に入る際は、それぞれが持つIDカードが必要なのである。小夜はもちろん現場に出る捜査官ではない上に一番下っ端のため、そのカードを持つことさえ許されていない。

 しかしこうして居住棟内にいる人物が許可してくれれば、カードを持たない小夜でも中に入ることができるのである。

 先月ここへ来た時は組合が閉まっている時間と緊急時ということもあって、夜間担当の能力者に居住棟へ入れてもらったのだ。その人物にお礼を言いたいが、あまり組合に来たことのない小夜はその時案内してくれた人物の名前すら知らない。

「電話で『彼と連絡がつかない』と言っていたけれど、まずは仕事の話をしようか。それからでも大丈夫かな?」

「はい。大丈夫です」

「うん。じゃあ、そこのソファにどうぞ」

 東條が目の前のソファを指さす。小夜は頷き、そこに腰を下ろした。

「まず、来週から始まる面談の日程表を持ってきました。確認をお願いします」

 小夜は鞄から透明なファイルを取り出し、その中に挟んでいる紙を抜いて東條に手渡す。

「もうそんな時期か。時間が経つのは早いね」

 紙を受け取った東條は、それに目を通し始める。

 この人は居住棟の管理責任者の立場でもある。先月のことといい、優しくて頼りになる人だと小夜は思う。

「来週ということは、二十四日かな?」

 東條は、卓上カレンダーを手に取る。

「はい。ご都合が悪いようでしたら、別日に変更できますが……」

「いや。日程はこれで大丈夫だよ。一緒に面談するのは僕と……捜査官の人が空欄くうらんになっているけれど、これは?」

「それは前日に打ち合わせをして改めて決めると室長が。今のところは、射撃訓練場の管理を担当している天木あまぎ捜査官になりそうです」

「ああ、あの人か。あの人なら新しくここに入る人の面接もやっているからね」

 と言って東條は、卓上カレンダーを元の位置に戻す。

「他の職員さんに配る分も、空欄になっているんだろう? つまり面談で来る捜査官が誰なのか、当日まで秘密っていうことだね」

「そういうことですね」

 東條は右手の人差し指を口に当てて言った。目が合った小夜も思わず笑う。

「この日程表、会長さんには?」

「もう送ってあります。『そっちの都合に合わせる』とお返事をいただきました」

「そうか。ということは、当日は会長さんも来るのかな」

「こっそり見学だけ、とおっしゃっていました。自分が行って他の人たちを緊張させては悪いと」

「なるほど。じゃあ、それも秘密にしておこうかな。会長さんは滅多めったにここへ来られないからね。当日の、みんなのびっくりする顔が楽しみだ」

 東條はいたずらを仕込んだ子供のような表情を浮かべ、目を通した日程表を机に置いた。

「他の職員さんたちの分は明日にでも持ってきますね」

「うん。よろしくね」

 一つ目の伝達でんたつ事項じこうが終わり、小夜は手に持っていた透明のファイルを鞄にしまう。次に、メモ帳とペンを取り出す。

「それともう一つ。室長から東條さんの対価の残り時間を聞いてきてと言われました。能力が使えるようになるのは、あと何時間後くらいでしょうか」

「そうだな……」

 あごに手を当てて、東條が考える素振りをする。

「二日前に二回ほど使ったから、完全に復活するのは明後日あさってぐらいかな。面談の日までは極力使わないようにするけれど、何かあったら連絡してくださいと伝えておいてくれ」

「分かりました」

 小夜は、言われたことをメモに取る。これでひとまず、この人に伝える仕事のことは終わった。仕事の話を先にすると、あの男と連絡を取れなかったことに対して心が落ち着いて冷静になってきた。

「仕事の話はもうないかな?」

「はい。大丈夫です」

「うん。じゃあ電話で言っていたことを聞かせてくれる? 彼と連絡がつかないとか」

「はい……」

 小夜はメモ帳とペンを鞄にしまいながら答える。

「おかしいな。一番に君に連絡を入れたと思っていたのに……」

「東條さん、なんのことですか?」

「いやいや、こっちの話だ。一応聞くけれど、室長さんが怖くて逃げたっていう可能性は?」

「それはあり得ますが……。特別捜査官になって意外にもちゃんと仕事をしていたので、それは可能性としては低いかと……いえ、どうでしょうかね……」

 小夜は上司の顔を頭に浮かべる。こういう時、「それはないです」と言えないのが少し複雑な気持ちになる。確かにあんな恐ろしい人物が直属ちょくぞくの上司ならば、逃げたくなってもおかしくだろう。

「彼が職場から逃げたとしても、あの室長が簡単に逃走を許すとは思えません。そうだったら今頃彼は、とっくに救急車で運ばれています」

「ふむ。それもそうだね」

 真顔で言う小夜に、東條も真顔で頷いた。

「彼、真面目まじめでいい子だからね。無断で仕事を休むなんてことは、しないと思うけど……」

「彼が真面目? そんな風にはとても……」

「見えないかい? はは、それは仕方ないね。小夜ちゃんは彼と出会ってまだ日があさい。これから知ればいいさ。ゆっくりとね」

「……はい」

 小夜は頷く。「嘘つき」を自称する彼のそんな顔を知る時が来るのだろうかと、小夜は思った。あの男の顔を思い浮かべ、彼はただの嘘つきなのに、と思う。

「てっきり室長さんを怒らせてクビになったと思っていたけど、ここへ戻ってこないことを考えると、そっちでも上手くやっているようだね」

「そうですね。たまに室長と一緒にいる所を見かけますが、意外にもちゃんとやっていました」

「そうか。それを聞いて安心したよ」

 と、東條は笑った。それはまるで、息子の出世しゅっせを喜ぶ父のようだった。あるいは東條は、彼のことを本当の息子にでも思っているのかもしれない。

「連絡がつかなくなる前、何か変わったことはあった? 変な録音メッセージとか」

「メッセージ……ありました。負けたって言うのと、賭けを……」

「ストップ。その先はだめだよ」

 言いかけた小夜を東條が止めた。両手で軽く耳をふさいでいる。

「僕と勝負がしたいならいいけどね。その場合は、賭けるものを決めなきゃいけなくなるよ」

 東條の言葉に、小夜ははっとする。軽く耳をふさいでいる東條に、慌てて謝罪をする。

「すみません。軽率けいそつでした……」

「いや。いいんだよ。小夜ちゃんは滅多に僕らに会わないんだ。僕らとの関係は、これから覚えていけばいいさ」

 耳から手をのけながら、東條が優しくフォローする。

 軽々しくその言葉を言ってしまいそうになった自分に、小夜は心の中で苛立ちかける。同時、頭の中に浮かぶのはあの「嘘つき」がおこなっていた先月の勝負のこと。彼らが命すらも賭けてしまうその言葉の重みを、自分はまだ分かっていなかったようだ。

「それで、そのメッセージには他にどんなことが?」

 東條が聞く。小夜は言いかけた部分を省略し、説明する。

「他には『君が来ないほうに賭ける』と言っていました。けれど、どこで待っているのか、誰に負けたのかは言っていなくて……」

「ふむ……」

 と、東條はあごを一撫でする。そしてにこやかに、小夜に言った。

「無理に探す必要はないんじゃないかな。彼が戻ってくるまで、待ってみてはどうだい?」

「ですが……」

「きっと誰かと間違えて君にメッセージを送ってしまったんだろう。彼が一人でどこかに行くのはいつものことだし、そのうち帰ってくるよ」

「……」

 遠まわしに「これ以上関わるな」と言われているような言い方に、小夜は思わず黙る。まるでこの人との間に見えない壁が立ちふさがったような、そんな錯覚を感じた。

「君へ残したメッセージは、嘘かもしれないよ。それでも彼を追いかけるかい?」

「……はい」

 小夜は頷く。きっとこのまま捜査室に戻っても、気になりすぎて仕事が手につかなるだろうと思う。

「たとえ嘘や間違いであっても、彼は私にメッセージを残しました。だったらそれを無視するわけにはいきません」

「だから彼を探すと? 優しいね」

 東條は笑いかける。褒めているようでいて、取って付けたような言葉だ。

「……彼がそう思っても、君は行くんだろうね。その素直な心と、正義というものを胸に」

「え?」

「なんでもないよ」

 ぼそりと言った東條に聞き返そうとしたが、彼はそう返した。東條がどういう意味で独り言を言ったのか、小夜には分からない。

「そこまで思っているのなら、アカリ君という子に会ってみたらいいよ。あの子も彼と同じ隔離棟の子だからね。アカリ君も、彼がどこかへ行くか聞いているはずだから」

 その名前は今日の朝、会議を終えた捜査官たちが話していた名前だ。

「アカリ君は今……風見亭にいるんじゃないかな。そこにいなかったら、受付に行って隔離棟から呼び出してもらえばいいよ。風見亭の場所は分かる?」

「はい。そちらに行ってみます」

 鞄を肩に引っ掛けた小夜は、ソファから立ち上がる。書斎から出ようとした小夜に、東條が言う。

「あのね、小夜ちゃん。連絡がつかない彼を探しに行く、と思うその気持ちはすごく大事だよ。だけど君自身の手を見てごらん。君の手は二つ。銃を握るにしても片手では握れない。君が思う正義と現実は違うということだ。何かを守るためには、その反対にあるものが犠牲になる。時につらい選択をしなくちゃならない時もあるってことだ。

 守るものと守りたいもの、その両方を選べるほど、君は力を持っていないだろう?」

「……」

 小夜は何も答えられない。どころか、東條の話の半分も分かっていなかった。上司と同じようなことを言われ、小夜は勝手に落ち込んでいた。

「二つの選択を前にしても、必ずどちらかは諦めなければならないんだ。だから僕らは今こうしてここに生きている。二回目の人生をね」

「……」

「おっと、おしゃべりしすぎてしまったね。気をつけて行ってくるんだよ」

「はい……」

 言われずとも感じる。この人との間に、まるで見えない壁があるようだった。その壁がなんなのか……自分には分からない。

「君のそのまっすぐさはゆずれない『正義』でもあり、『信念』でもあるのかな。けれどね、正義も信念も、それにともなう決意と覚悟が必要だ」

 東條は小夜に微笑みかける。

「それが分かるといいね。行ってらっしゃい、小夜ちゃん」

 それを聞いて、小夜は部屋をあとにした。

 

 東條の家を出た小夜は竹林をくだり、言われた通り、両方の棟のちょうど真ん中に建てられたレストラン・風見亭かざみていを訪れてみた。

 初めて来る場所だが、外観は一般的なファミリーレストランに似ていると小夜は思う。この中に「アカリ」という人物がいるらしい。どんな人物なのだろうか。

 出入り口前の段差をのぼって、小夜が店の扉を開けた瞬間、

「準備中だクソボケ。帰んな」

 ウェイターの格好をした店員らしき人物に、そんな言葉を浴びせられた。

「は、え? は……?」

 小夜は一瞬何を言われたのか理解できず、そんな間抜けな単語を漏らす。

 目の前に立つ少年の年のころは十代じゅうだいなかばぐらいだろうか。銀色と灰色の中間ちゅうかんのような、そんな珍しい色をした髪を後ろで小さく一つに結んでいる。片手に持っているのはチョコレートパフェが乗ったトレー。もう片方の手には長いスプーン。制服を着ていることからホールスタッフの一人なのは分かるが、とても店員がするような接客態度ではないことは明らかだ。

「じゅ、準備中ですか。では時間を改めてまた来ま……あれ?」

「……ん?」

 小夜はこの少年の顔をどこかで見たような気がした。少年も小夜に気づく。

「……なんだよ。ここには、あのウソツキはいねえぞ」

 と、少年は薄いグレーの目で小夜の顔を見つめる。

 この少年は先月、受付で見たことのある人物だった。その時はあの「嘘つき」の名前を受付で出すなと言われたのだ。

「あなたが……アカリ君ですか?」

「だったらなんだよ」

 少年……アカリは粗暴そぼうな口調でそう返す。今日の朝他の捜査官が話していた通り、口も態度も悪い子だなと小夜は思った。

 と、キッチンの中から声が飛んできた。

「おいアカリ! お前、なにのんきにデザートなんか食ってるのだ! しかもそれ、お客さんが頼んだやつじゃないか! 勝手に食うな! お客さんが来たならちゃんと案内しろ! 給料減らすぞ!」

 飛んできた声に、アカリは舌打ちをして首だけをキッチンに向ける。

「うるせえな! 客がいらねえつったんだから捨てるよりマシじゃねえか」

「お前が客に言わせたんだろうが! その代金、お前の給料から引いとくからな!」

 キッチンのほうからまた声が飛んでくる。

「まったく、毎回毎回クレーム処理するこっちの身にもなれっていうのだ……」

「それがてめえの仕事だろうが。ちゃんと働けよクソボケが」

「お前が言うな!」

 キッチンからひときわ大きな怒声が飛んでくる。アカリはそちらに中指を立て、小夜に向き直った。

 そしてパフェを食べながら、ようやく小夜に取って付けたような接客を開始する。

「で? 喫煙席か? 禁煙席か?」

「え?」

「煙草吸うのか、吸わねえのかって聞いてんだよ。耳がついてんなら返事しろクソボケ」

「……あ、禁煙席でお願いします……」

「じゃあ、あっちの窓側の席、適当に座ってろ」

 アカリが左手の親指で窓側の席を指さす。

「注文が決まったらテーブルのボタンを押すんだ。知ってるか?」

「そ、それぐらい知ってます」

「そうかよ。じゃあ騒がず暴れず、大人しく飯でも食ってろ」

 アカリが背を向けようとする。店員同士が言い合う光景といい、この少年の暴言といい、とても飲食店とは思えない。

 と、小夜は慌ててアカリを引き止める。

「ちょ、ちょっと待ってください、そうじゃありません」

「……なんだよ。トイレならあっちだ。漏らす前に行けよ」

「ち、違います。要君のことです」

「……」

 面倒くさそうに顔だけを向けていたアカリが、小夜に体を向ける。食べ終わったパフェの入れ物が乗ったトレーを、キッチンのカウンターに置く。

 アカリは言った。

「仕事の依頼なら最低額三百万からだ。情報料はおう相談そうだん。で、何の依頼だよ」

「仕事……? あの、一体何のことですか?」

 何のことか分からず、小夜は聞き返す。

「はぁ?」

 と、アカリも顔をしかめた。

「……アンタ、あのジジイに何も聞いてねえのかよ。ここに来てオレに会えって言われたのか?」

「はい……」

 アカリは頭をがりがり掻いて、ため息をついた。

「……アンタ、またあのジジイのオモチャにされたな」

「え?」

「あのウソツキならどっか行ったぞ。それだけならとっとと帰りやがれ」

 ため息交じりに、アカリが言う。

「そ、それだけですか? どこへ行ったとか……。東條さんは、アカリ君が知っていると……」

「知らねえよ。帰れよ」

「帰れません。知っているんでしょう? 教えてください」

 引き下がらない小夜に、アカリは大きく舌打ちをした。

ほうっとけよあんな奴。そのうち帰ってくるだろ。そもそも、なんでアンタが探してんだよ。捜査官っていうのは、そういうことはしねえだろうが」

「それは……」

 言いかけた言葉の先が出てこない。確かにあのメッセージを無視する選択もできる。けれどそうしなかったのは……自分の融通ゆうずうが利かない頑固がんこさゆえか。小夜は改めて自分の真面目さを自覚した。

「オレは安くねえんだよ。教えてやってもいいが、アンタはいくらくれるんだ? あのクソったれなウソツキのために、あんたはいくら出せるんだ? 最初からその気がねえくせに、いきなり来て『タダで教えてください』なんて通るわけねえだろうがクソボケ」

「……」

 その通りだ。小夜は思わず黙る。手ぶらで来ていきなり「教えてください」と言って求める情報を得ようとするなど、そんな話は虫がよすぎる。この少年が金銭で動くというのなら、それに見合った金額を渡さなければ教えてはくれないだろう。

 自分よりも年下に見えるこの少年に正論せいろんを言われ、小夜は軽く落ち込む。

「ってことでこの話は終わりだ。じゃあな」

「ちょっと、まだ話は終わって……」

 またもや引き留めようとした小夜の後ろで、がちゃ、と出入り口の扉がひらいた音がした。

「すいません、一人なんですが喫煙席で……」

 そう言いながら、ぬっと入ってきたのは、小夜の先輩である桃太郎だった。

 桃太郎の姿を確認した瞬間、アカリは背中を見せて逃げ出そうとするが、あっけなく掴まってしまった。アカリの後ろ襟を掴み上げ、軽々と持ち上げる。

「……離せよデカブツ」

 持ち上げられたアカリが、首だけを振り向かせて文句を言う。桃太郎はそれを無視して、キッチンの中にいる人物に声をかける。

「すいません。捜査官の流鏑馬です。ちょっと、こいつ連れて行ってもいいですか」

 キッチンにいる人物が、無言で何度も頷いた。

「そいつ、お客さんの注文した料理を勝手に食ったりしてるので、こってりしぼってやってくださいなのだ」

 思わぬことを追加でバラされ、アカリが舌打ちをする。

「……分かりました」

 キッチンから聞こえた声に、桃太郎が低い声で返事をする。桃太郎の目に、より一層静かな怒りが浮かんだのが分かった。

 と、桃太郎がキッチンにいる人物に一つ尋ねた。

「あ、そうだ。隔離棟の京谷要って、最近見かけましたか?」

「見てないのだ。要はしばらくお休みなのだ」

「そうですか……」

 桃太郎はアカリを床におろし、後ろ襟を掴んでいた手を離す。アカリは何か言いたげな顔で桃太郎を見上げながら、襟まわりのしわを伸ばした。

「行くぞ」

 桃太郎がキッチンに背を向ける。逃げようとしても無駄だと悟ったのか、ポケットに手を突っ込んでアカリもついてくる。と、桃太郎はようやく小夜と目を合わせた。

「……なんだいたのか。チビだから見えなかった」

 嘘と悪意のある言い方である。小夜は店の扉の前にいたのだ。入ってきた時に視界に入っていないわけがない。頑張ってもどうにもできない身長のことを言われ、小夜の心にぐさりと突き刺さる。

「というか、お前なんでここにいるんだよ」

 小夜を見下ろしながら桃太郎が聞く。小夜は、彼を見上げながら正直に答える。

「アカリ君に……会いに来たんです」

「理由は?」

「少し気になることがあって……」

「ふうん。こいつ、金をもらわねえと人の話も聞かねえ奴だぞ。そんな奴に会いに来たのか?」

「え……」

 小夜の顔が固まる。親指の先で後ろにいるアカリを指さし、桃太郎は言った。

「こいつ、見合った金額でどんな仕事でも受けるんだ。それ相応の情報も売ったりな。それで勝手に商売してるんだよ」

「な、なるほど……」

 小夜は、アカリが金額を提示してきたことの理由を理解する。それにしても最低額三百万円からというのは、高すぎる気もするのだが。

「でも、どうしてそのことを私に教えてくれるんですか?」

 小夜は単純に思った疑問を聞く。てっきりこの人には完全に嫌われているかと思っていたが、案外優しいところもあるのかもしれない。

 一瞬だけ、小夜はそんなことを思う。しかしその考えは、桃太郎の次の一言によって見事みごとに打ち砕かれる。

「だってお前、貧乏びんぼうそうだし。こいつに何か依頼できるほど、金、持ってねえだろ」

 そう言いのけて、桃太郎は店の扉を開ける。アカリと一緒に出て行った。

「……」

 小夜だけが取り残される。開いた扉が静かに閉まる頃、

「あのう……何か食べますか? お食事なら席にご案内しますが……」

 別の店員にそう声をかけられるまで、小夜は顔を引きつらせてその場に突っ立っていた。

 

 ひとまず組合に出た小夜は駐車場に停めた自分の車の中で、もう一度要からのメッセージを再生させていた。

『賭けをしよう。僕は……君が来ないほうに賭けるから……』

 この声はとても演技には聞こえない。

『……待ってるから。ごめんね……』

 謝罪の言葉で締められ、三度目に再生された録音が終わる。

「……」

 運転席に座っている小夜は録音停止の画面を見つめたまま、どうするべきかを考えていた。

 東條やアカリに言われたことを頭に浮かべる。このメッセージを聞いた自分はどうするべきか。

 考え込んでいる小夜の前を、昼休みを迎えた職員たちが雑談しながら通っていく。考え込む小夜に、通りすぎる彼らは目もくれない。

 もしも上司にこのことを報告したら、何と言われるのだろう。このメッセージを聞いたのが自分ではなく、たとえば先輩の流鏑馬君ならどう判断するのだろう。小夜は一人、考える。

 上司に報告しても、

「ふうん。そっかあ」

 の一言だけで終わるだろう。たかがいち能力者がいなくなったとて、こんな不明瞭ふめいりょうなメッセージだけでは動きようもない。そもそも、たった一人のために捜査官がわざわざ探しに行くなんてことはない。アカリ君にも言われたことだ。そんなことのために、捜査官がいるわけではない。

「……」

 小夜は考え続ける。考えるばかりで動けない自分が、そこにいた。

『あのクソったれなウソツキのために、あんたはいくら出せるんだ?』

 小夜は、アカリに言われたことを思い返す。見合った金額さえ渡せば、あの少年は情報を教えてくれると言っていた。あの男を追いかけるならば、その方法が一番手っ取り早い。それは分かっている。だが、その方法を躊躇ためらう自分がいる。

『君へ残したメッセージは、嘘かもしれないよ』

 次に東條に言われたことを、思い返してみた。確かに、嘘なのかもしれない。けれど、聞いてしまった以上無視はできなかった。

『君のそのまっすぐさはゆずれない『正義』でもあり、『信念』でもあるのかな。けれどね、正義も信念も、それにともなう決意と覚悟が必要だ』

 ふと、そう言われたことも思い出す。上司にもそんなことを言われた。

 小夜は思う。そのための決意と覚悟は、自分にはあるのだろうか。譲れない正義や信念は、自分の中にあるのだろうか。

「……」

 小夜は脇のホルスターから銃を抜き、それを見つめる。

 先月の御門興行事務所に行った時でも、この銃はホルスターの中にあった。抜かなかったのは、完全にそのことが頭から消えていたからだ。銃を抜いて相手に向けるなど、あの時は微塵みじんも考えられなかった。

 小夜は、黒光りするその銃を見つめながら考える。今、自分の前には三つの選択肢がある。あのメッセージを「無視する」か、「一人で彼を探す」か、「他の捜査官に報告する」かだ。

「……」

 小夜は考える。自分はどうするべきか。捜査官として、どの行動が正しいか。

 一つ、選択を選んだ小夜は頷き、銃をホルスターの中にしまう。そして、車のエンジンをかける。

 ここから一番近い銀行の地図を頭に浮かべ、小夜は車を発進させた。


 警視庁地下六階でエレベーターを降り、捜査室へ戻っていると、ちょうど前から上司が歩いてきた。

「室長、お疲れ様です」

「おう。お疲れ」

 照良の少し後ろには先程の少年……アカリと、捜査官の桃太郎が脇を挟んでいる。ウェイター姿のままのアカリはさっき会った時よりげんなりしていて、見るからに元気がない。きっと室長と、この冷徹な男にこってりあぶらしぼられたのだろう。

「今から昼飯行くんだけど、一緒に行く?」

 照良が小夜に聞く。

「いえ、急いでいるので遠慮しておきます。また今度さそってください」

 この三人と一緒のテーブルなど食事どころじゃない。胃が痛くなって穴が空きそうだ。小夜は定型文をまじえて、上司からの誘いを断る。

「そっかあ。そりゃ残念。じゃ、また今度なあ」

 照良もそれ以上しつこくしようとはしなかった。しつこくしないのは、この上司の唯一ゆいいつのいい部分だ。

「少し……アカリ君を借りてもいいですか? お話したいことがありまして……」

 照良の後ろにいるアカリを覗きながら、小夜が言った。

「なに? デート? パパ感心かんしんしないなあ」

「違います」

 照良の冗談を、小夜はきっぱりと切り捨てる。

「いいけど、五分だけな。ここから外に連れ出すとかは、やめろよ?」

「そこの休憩所で少し話すだけです。よろしいでしょうか、アカリ君」

 ち、と舌打ちをして、アカリは背中を見せる。ついてこいという意味だろう。

「じゃ、俺らは煙草吸ってくるわ。終わったら喫煙所でよろしくう」

 そう言うと照良は、ぶらりぶらりと歩いていく。桃太郎は何か言いたげな目で小夜を見たが、照良のあとをついて行った。


「それで、なんだよ。またあのウソツキのことかよ。金は用意してきたのか?」

 椅子の背もたれを抱えるようにして座っているアカリが、近くに立つ小夜に言う。小夜の手には缶コーヒーがあり、アカリは紙パックのオレンジジュースを飲んでいる。両方とも小夜が買ったものだ。

「そのことですが」

 小夜は空いた手で、鞄の中から何かを取り出した。それは銀行名が印刷された封筒である。

「中に百万円入っています。これでなんとか、要君がどこに行ったのか教えていただけないでしょうか」

「……」

 アカリは飲み終わった紙パックをごみ箱に投げ入れると、見せられたそれを受け取ってすぐに中を覗く。

「アイツは隔離棟のどっかにいる。以上」

 と、それだけ言い放ち、椅子から立ち上がる。

「それだけですか? もっと何か……」

「馬鹿言うんじゃねえ。アンタ、一番下っ端だろうが。一人で隔離棟に入れねえくせに、『それだけ』なんて言うんじゃねえよ」

「そ、それでも金額と情報が見合っていない気がします……」

「じゃあこれ返すから、あとは自分で探すんだな」

「……」

 アカリが封筒をつき返そうとする。受け取らない小夜に、アカリは言う。

「できねえなら文句言うんじゃねえ、クソボケ」

「けれどもう少し、何か……」

 そこまで言うとアカリが、面倒くさそうにため息を吐き出した。そして、小夜を指さす。

「いいかよ。アンタのやることにオレは別に興味もねえ。あのウソツキを探すってんなら勝手にやりゃあいい。だがな、さっきも言ったがオレは安くねえんだ。文句つけるんなら自分で探せよ」

「……」

 そう言われ、小夜は黙ってしまう。大金を渡して情報は得られた。だが、アカリ君はまだ何かを知っている。だったら、ここでは引き下がれない。

 小夜は鞄から、小さなポーチを取り出した。中を開け、取り出した物をアカリに見せる。

「私の通帳と銀行のカードです。口座にまだ二百万円ほど入っているので、情報料として渡します。それで足りなければ、なんとかお金を作ります。要君がどこに行ったのか、教えてください」

「……」

 アカリはとりあえず、見せられた通帳を受け取って中を開いた。

「嘘じゃねえな」

 と、開いた通帳から目を上げて小夜を見る。

「アンタがここまでする理由ないだろうが。なんでここまでするんだよ」

「私は捜査官ですから。彼がどんな形であれ私を頼ったということは、私が行くべきだと判断したからです」

「だからってここまでするのか? はっきり言って馬鹿だな」

「……」

「頼られてる、なんて、おめでたい解釈かいしゃくだな。アイツはそういうつもりなんてねえかもよ」

「……それでも構いません。私は、彼を追いかけると決めましたから」

「そうかよ」

 アカリは、小夜の手にあるカードもかすめ取る。

「アイツは隔離棟の三号棟……303号室に行ったぞ。だがアンタ、下っ端なら入れねえだろうが」

「それは……考えています」

「そうかよ。もし手伝ってほしいなら、金を用意しな。用意できる金があるならな」

 アカリはにやりとして言った。

「もしあの部屋からあのウソツキと一緒に脱出できたら、オレのことをタダで教えてやるよ。ま、アンタには無理だろうがな。じゃあな。せいぜい頑張れよ」

 そう言うと、アカリは休憩所から去って行った。


 それから時は少し過ぎ、小夜はエンジンを止めた車から降りた。片手で操作したスマートフォンを耳に当て、小夜は歩き出す。

 耳に当てた端末から、呼び出し音が切れて通話が繋がる。それと同時に、小夜は相手に言った。

「室長。午後は捜査室に帰れそうにありません」

『なんだよ急に。どういうことだ』

「夕方までに帰らなかったら、今日から有給ゆうきゅう扱いにしてください」

『はぁ?』

 電話口で上司がとんきょうな声を上げる。それに混じって、店の喧騒や注文を取る音も小さく聞こえる。

『説明しろ。いや……戻ってから取調室でじっくり聞いてやる。とりあえず帰ってこい』

「いいえ。捜査室には戻りません」

 小夜は、はっきりとそう口にする。小夜の視線の先には、組合の入り口が見えている。

『お前、何を考えてる』

 何かを察した上司の口調が張り詰める。小夜は言った。

「自分がやるべきと思ったことを、やろうとしています」

 通話を切る。電源を落とした端末を上着のポケットに入れ、小夜は組合の自動扉をくぐった。


 その同時刻、遠く離れた警視庁地下六階。異能力事件専門捜査室では、こんな騒ぎが起きていた。

「これ、室長怒るよな……」

「ああ、絶対怒るな。怒るどころじゃないな。こんなことした奴を殺しちまうな」

「誰がやったんだこれ……」

「とんでもない命知いのちしらずだな……」

 数人のスーツを着た男たちが、照良のデスクに集まってひそひそ話している。

 と、そこへ眼鏡をかけた男が駆け込んできた。

「し、室長! 射撃訓練場から銃が一丁なくなっています! 弾も一発だけ……」

 話していた全員が、駆け込んできた男に顔を向ける。

「……み、みなさんどうしたんですか? 室長の机に集まって……」

 ん、と集まっているうちの一人がその男を手招きする。駆け込んできた男は息を整えながら、照良の机の内側に回る。

「うわ……」

 男は絶句ぜっくし、顔を真っ青にさせた。

 床に落ちているのはバールと何かの破片。そして照良の机……普段はIDカードを入れて施錠している二番目の引き出しが、無理やりこじ開けられたかのように破壊されていた。


「隔離棟の303号室に行きたい? それは構いませんが……許可は下りていますか?」

「カードがありますので、許可はなくても大丈夫です」

 小夜はストラップケースに入ったカードを、受付カウンターにいる職員に見せる。親指で上司の顔写真を隠し、名前も目で読めない一瞬だけ見せて、ポケットに戻す。

「ああ、そうですか。なら同行者はいりませんかね」

 職員は怪しむ素振りもなく言う。突然のことに多少驚いてはいたが、カードを見せたら納得したようだ。

「その部屋に住んでいる方の名前は分かりますか?」

「ええ。分かりますよ。303号室は咲子さんが住んでいますね。榎宮えのみや咲子さきこさんです。かなめさんがご存命ぞんめいの時からここにいらっしゃるみたいですね。よければ資料を印刷しましょうか?」

「いえ、扉越とびらごしに話すだけなので資料は結構です」

「そうですか。でも、あなた現場の捜査官ではなかったはずですよね。どうして急に隔離棟へ? 何かあったんですか? 何も聞いていませんが……」

「すみません。急いでいますので失礼します」

 ばやに聞いてくる職員に、小夜は一言だけ言い放ってカウンターの前から離れた。そのまま左の通路に向かい、早足に隔離棟へ入る扉を目指す。

 今頃携帯電話には鬼のように室長から着信が入っていることだろう。そのことはもう、考えても仕方がない。なおさら戻れない理由ができた。これであの「嘘つき」も見つけられずにのこのこ帰ったら、間違いなく拳骨げんこつを一発は落とされる。いや、間違いなくクビになる。

 小夜は分厚い自動扉の前で足を止める。上着のポケットから、先程受付の職員に見せたカードを取り出す。

 カードにはローマ字で上司の名前が書かれ、本人の顔写真が印刷されている。居住棟と隔離棟に入る職員と捜査官は、それぞれが必ずこのカードを持っている。一番下っ端の小夜は、もちろんこれを持つことなど許されていない。小夜が各棟に入る時は、中にいる人物に許可してもらうしかないのだ。

 まさか初めて触ったカードが、上司の机を壊して盗んだ物だなんて。自分の行動力の高さには、我ながら軽く恐ろしくもなる。自分がこんなことをする日が来るとは。

 小夜はそんなことを思いながら、扉の横にある端末にカードをかざす。ピ、という電子音と共に、分厚い自動扉がひらく。

 小夜は初めて、一人で隔離棟に足を踏み入れる。気合を入れ直すように拳を軽く握り、三号棟へ向かって歩き出す。小夜の後ろで、分厚い自動扉が閉まる音がした。


「榎宮さん。捜査室の者です。いらっしゃいましたら扉を開けていただきませんか?」

 303号室の扉をノックして、小夜は言ってみる。中から返事はない。

 小夜はもう一度ノックしてみる。

「こちらに隔離棟の京谷要が来ていると聞きました。榎宮さん、いらっしゃいますか?」

 返事はない。小夜はホルスターから銃を抜き、右手に構える。銃の重さが、ずしりと右手に響いてくる。ただでさえ重いこれが、さらに重さを増している気がした。それは弾を一発だけ入れているからなのか、緊張と不安からだろうか。小夜は、この一発の弾丸を使わないことを祈る。

 地下五階の、射撃訓練場の管理人をしている捜査官には悪いことをしたと思う。なにせ訓練がしたいですと言って中に入り、彼の目を盗んで弾を一発無断で持ち出してきたのだから。これでクビを言い渡されても仕方がない。

「……ここまでしてただの寝坊とか遅刻だったら、私、間違いなくクビにされるよね……」

 ふとそう言って、小夜はため息をつく。その時はあの「嘘つき」も道連みちづれにしてやる。自分だけがクビになって、あの「嘘つき」がのうのうと捜査官を続けるというのは、考えるだけでもなんだかイライラしてくる。

「……よし」

 小夜は頭の中を切り替え、ドアノブに手を伸ばす。扉の鍵は開いている。

 小夜は、左手でゆっくりと303号室の扉を開けた。

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